河内谷(かわうちだに)
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京都府南丹市美山町河内谷 京都府北桑田郡美山町河内谷 京都府北桑田郡知井村河内谷 |
河内谷の概要《河内谷の概要》 中集落から府道369号(八原田上弓削線)を南ヘ入る由良川支流河内谷川流域の集落。 古代は弓削郷、鎌倉時代以降は知井庄。 河内谷村は、江戸期~明治22年の村。知井12ヵ村の1。慶長7年(1602)幕府領、寛文4年(1664)より篠山藩領、山林は享和2年(1802)より禁裏御料となり京都代官の支配を受けた。元禄13年(1700)丹波国郷帳、天保郷帳に村名の記載なく、中村に含まれていたと考えられる。しかし江戸末期には独立村となったらしいという。明治4年篠山県、豊岡県を経て京都府桑田郡、同12年北桑田郡に所属。同22年知井村の大字となる。 河内谷は、明治22年~現在の大字名。はじめ知井村、昭和30年からは美山町の大字。 《河内谷の人口・世帯数》 31・16 《河内谷の主な社寺など》 村内に神社はなく北の八幡神社の氏子。 曹洞宗円通山昌徳寺 寺伝に、天仁元年(1108)良忍が当地へ巡錫の際開いた寺という。もと天台宗であったが、鎌倉時代に道元の勧化によって曹洞宗に改宗。その後荒廃したらしく元禄15年摂津国尼崎の藩士徳瑞正が同寺の住職となり再興したという。亀山藩より寄進された大般若経600巻のほか、釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来・二十五菩薩絵像・涅槃像・十六善神・千手観音画像などがあるそう。
門坊寺跡:明智光秀に破壊された古刹 東隅の門坊寺山中腹の門坊寺遺跡。門坊寺は桓武天皇の勅願寺で、かつては七堂伽藍があったというが、天正年間に廃寺となり、現在は毘沙門堂を残すのみ、堂跡と伝える平坦地があるという。昌徳寺の裏山あたりのようだが、案内がないと行けそうにもない。。。文献だけ紹介すると、
「門坊寺を蘇らせる会」 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 河内谷の主な歴史記録河内谷の伝説御所ヶ谷 南方の山中の御所ケ谷には2間四方の岩窟があり、允恭天皇の皇子木梨軽皇子が罰せられて当地に流された際、この岩窟に住んだと伝えている。
河内谷の小字一覧河内谷(かわうちだに) 古坊(ふるぼう) 奥ノ田(おくのた) 寺ノ下(てらのした) 蔵ノ本(くらのもと) 下段(しただん) ヲガミ本(をがみもと) 段上(だんじょう) 反保(たんぼ) 小井根(こいね) 西山(にしやま) 梅ノ木(うめのき) 岩滝谷(いわたきだに) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『北桑田郡誌』 『美山町誌』各巻 その他たくさん |
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