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丹波の

宮脇(みやわき)
京都府南丹市美山町宮脇


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京都府南丹市美山町宮脇

京都府北桑田郡美山町宮脇

京都府北桑田郡宮島村宮脇

宮脇の概要




《宮脇の概要》
野々村庄33ヶ村の総氏神・道相神社が鎮座する集落。野々村庄のノノというのは当社のことであろうか。神職たちの祝詞がノノノノノと幼児たちには聞こえたのであろうか、神職をノノサマ、転じて神社もノノサマと言ったという。元々は幼児語か。コウコウと鳴くからコウノトリ、カーカー鳴くからカラス、ケンケン吠えるから犬、これは中国語、ビョウビュウとなくから猫。キャキャなくからキャットとか各言語共通か。
由良川とその支流原川の合流点付近に位置する。古代は弓削郷、中世は野々村庄。
「宮之脇之里」。戦国期、永禄4年卯月吉日付の北民部丞宛て河井右近範長神宮御師道者株沽券に「宮之脇之里」と見える(来田文書)という。
宮脇村は、宮島11ヵ村の1。江戸期~明治22年の村。慶長7年(1602)幕府領、元和5年(1619)より園部藩領。原川の下流には宮脇川尻堰があったが、灌漑が不十分だったため、天保2年藩主の援助を請い、数10間上流に堰を移築したという。明治4年園部県を経て京都府桑田郡、同12年北桑田郡に所属。同22年宮島村の大字となる。
宮脇は、明治22年~現在の大字名。はじめ宮島村、昭和30年からは美山町の大字。平成18年からは南丹市の大字。

野々村庄
鎌倉期~戦国期に見える荘園名。南丹市美山町の西部を荘域とした。荘名の初見は承久2年(1220)11月13日の草部末友譲状(鹿田文書)で、「三郎男友成分」として「野々村御庄御問」とある。野々村御庄とあることから、もとは皇室領であったと思われる。
その後は南北朝期の足利尊氏書状(古筆氏文書)に「野野村庄」とみえるが、つまびらかでない。わずかに応永17年(1410)の建仁寺領諸国注進目録(建仁寺旧記)に「野々村地頭職」がみえ、室町初期に建仁寺がこの地に権益をもっていたことが知られるのみという。
 当荘成立の時期・事情について2つの伝承がある。一つは允恭天皇の皇子木梨軽皇子が丹波国桑田郡河内谷に潜居後、由良川流域を順次開墾、野々村庄と名付け、六人の臣下に管理させた。それが平屋番(大内・上久保・荒倉・安掛・長尾・野添・深見・上平屋・下平屋)、丸岡番(原・板橋・宮脇・又林・下吉田)、和泉番(島・棚田・上司・和泉)、高野番(市場・中・今宮・栃原・砂木・棚)、大野番(萱野・大野・川谷・小笹尾・岩江上)、樫原(ルビ・かしわら)番(樫原・向山・肱谷・音海)で、野々村六番33ヵ村と称し、皇子はここを治め、晩年、河内国に移り没した。皇子の子孫は皇子の築城した大内村の紫磨城に住みこの地を治めた。武烈天皇二年、皇子の霊を軽野社に合祀し、道祖神社と称したというもの。二つは、菅原道真の弟という慶能が延喜の頃、桑田郡大野に潜居、のち野々村頼房と名乗った。道真の死後、頼房は桑田郡に20余地を与えられ、これを野々村庄と名付けたが天暦3年病没。遺言によって同荘を高野・和泉・大野・樫原・丸岡・平屋の六番に分け、その子孫に分配したと伝えるもの。これらの伝承は六番地域内の各村に広く伝わっている。大野には慶能塚があり、慶能の子孫と称する菅生氏などがいるが、史料的には実証できない。
荘域は未詳で、美山町南西部の由良川流域にかなり広大な荘域を有していたものかされる。道祖神社の氏子圏はかつては宮脇・板橋・下吉田・原・和泉・上司・長谷・島・萱野・深見・長尾・又林・下平屋・上平屋・安掛・野添・内久保・荒倉に及んでいた。この氏子圏が荘域にあたるものとも推測されている。江戸期には野々中村が別名野々村中村とも称し、大野村が野々村を冠称していた。この両村も野々村荘の荘域にあったものであろうかとされる。


《宮脇の人口・世帯数》 29・65


《宮脇の主な社寺など》
道相神社(どうそじんじゃ)

野々村庄33ヶ村の総氏神、祖神を祀る社。その祖神、氏神は具体的には木梨軽皇子あるいは丹波道主命とする。

明治35年改築の檜皮葺の四脚門。末社に三吉(みよし)神社・若宮神社がある。道祖神社1、500年祭の石碑が建てられている。本殿には安政5年に奉納された釣燈籠、寛政6年の奉納俳諧発句、明治27年の日置流雪荷流の奉納額がある。昭和28年に整備された神苑があり、記念碑も建てられている。

今の祭神は木梨軽皇子・神武天皇・五瀬命。旧郷社。社伝によれば、允恭天皇の皇子木梨軽皇子が、故あって10余年間河内谷(かわうちだに)に潜居、その後軽野(かるの)(大字大内)を経て宮脇に移ってここを永住の地と定め、一社を創建して軽野神社と名付け神武天皇と五瀬命を祀ったのに始まるといい、これは武烈天皇即位の2年のことという。のち郷民が皇子の遺徳を慕い、皇子を合祀して道相神社と改名したと伝える。応永15年(1408)火災に遭い社殿・古文書類ことことく焼失。そのため変遷はつまびらかでないが文政5年(1822)に改築したのが現在の社殿という。例祭は、旧暦9月9日であったが、近年は10月10日。氏子区域は宮島の原・板橋・宮脇・下吉田・島・棚田・沢田・和泉・上司、大野の萱野、平屋の上平屋・安掛・又林・長尾・野添・深見・下平屋・荒倉・大内・上久保の20ヵ村で野々村庄の大部分を占める。
本殿は西向き、神明造・檜皮葺、桁行梁間各三間。拝殿は草葺、間口二間・奥行三間、鏡天井。
丹後丹波勢と河内大和勢の境になる所なのか、川下側と川上側の境になるのか、祭神とする者の本拠地がえらく違っている。

文献を見てみよう。
『美山町誌』は、
道相神社祭礼
十月九日は、平屋、宮島地区の氏神、道相神社(一の宮さん)のお祭りである。古くから二十五年ごとに社殿の屋根を葺き替えることで、その間御神体を仮社殿に遷し、完成の時に行う「正遷宮祭」を大祭とした。毎年、平屋地区から雅楽が奉納されるが、大祭には、宮元四集落(原・板橋・宮脇・下吉田)から、神楽が奉納されて賑わっていた。神楽は、笛・小太鼓・鉦に合わせ、子供たちが曳山の大太鼓を身のこなしよく打ち鳴らす。続いて、おかめ・ひょっとこの道化芸。そして、伊勢音頭に合わせて恵比寿・大黒に導かれる、のぼりさしと俵振り。この構成で、原や板橋から出立し、道中それぞれの芸を披露して見せながら、時間どおり神社に練り込み奉納する(詳細は文化財の章参照)。
昭和四十四年に神輿が新調され、その後毎年神輿と稚児行列が御旅所の平屋神社(野添)へ向かい、氏子地区を一巡するようにたったが、今は大祭の時に巡行している。
昭和五十三年、本殿の屋根が銅板で葺き替えられ、正遷宮祭を行ったのを最後として大祭か変更され、平成元年から三年ごとに行うようになった。例祭の時、戦前は奉納角力があったが現在は小学生による剣道の奉納試合がある。平成四年の大祭からは神楽に天狗と獅子が復活した。

道相神社の境内
 道相神社文化財環境保全地区
 美山町字宮脇小字ヒノ谷
 平成十一年三月十九日指定
境内は、主要建物が位置する前段部と、その奥に続く山林によって特徴的な神社景観を構成し、その面積、約二・三〇㌶が保全地区として、文化財の周辺環境を保全する役割を果たすことになった。特に平成十年度に本殿と拝殿、更に奉納芸としての道相神楽が府の登録文化財となったことで、一層環境保全地区としての意義は大きい。本殿の背後に鎮座する榧森社の背後にあるカヤの木二本は町の指定をうけている。

道相神社の本殿、拝殿 二棟
  美山町字宮脇小字ヒノ谷四三ノニ
  平成十一年三月十九日指定
本殿は応永十五字(一四〇八)焼失後再建、更に文政五字(一八二二)に再建したのが現在の建物という。拝殿もほぼこの時期に建立されたものであろうといわれている。
本殿の建物は、三間社流造としては標準的な規模で、町内の北八幡神社や鶴ケ岡の諏訪神社とほぼ同じであるが、装飾は最もひかえめであって、一般的に文化・文政期の装飾過多の印象が、ここでは逆となっている。例えば妻飾りは単純な扠首組とした点、これは応永期の旧社殿に倣ったのかもしれないと、(『京都の社寺建築』より)
拝殿も本殿と同時期の建立と思われる。

道相神楽
道相神社の祭礼芸能、平成十一字三月十九日指定
古くから二五字ごとに大祭を執行し、その時に宮元四集落の氏子によって神楽が奉納されてきた。神楽は天狗と獅子、続いておかめ、ひょっとこ(ササラすり)による道化芸と、大太鼓が一体となった曳山、そして恵比寿、大黒に引かれて幟差と俵振りの構成となっている。笛、鉦の神楽囃子に合わせ。曳山に乗せた大太鼓を子供達か掛声も勇ましく囲り打つ、そり回りでおかめ、ひょっとこが滑稽な芸を演じる。神楽行列の最後は、勇壮な俵振りである。青年たちが小型の俵を手に「伊勢音頭」にあわせて勢いよく演技する。
いつの時代から神楽の奉納が始まったのか定かでない。
獅子舞いは平成四年に三和町の梅田神社のものを導入して芸能内容をより豊かにしたものである。」

『北桑田郡誌』は、
道相神社
宮島村大字宮脇にある郷社にして、木梨軽皇子神武天皇及び五瀬命を祀る。社傳にいふ、人皇第十九代允恭天皇の皇長子木梨軽皇子故ありて丹波國桑田郡北山の幽谷河内谷に徙り、こゝに潜居し給ふこと十餘年、更に軽野(今の平屋村大字内久保地内大内)に出でゝ土民を撫育し、更に板橋に遷りて永住の地と定めたまひ、茲に一祠を創建し 軽野神社といひ、神武天皇及び五瀬命を祀りたまへり。これ武烈天皇御即位二年の事なりと。平屋宮島地方の口碑傳説には之と相類似せる物語存ぜるも、未だ一も信を措くに足るべき證憑なきを遺憾とす。(この伝説はそれぞれ村誌の部に記載す。参照あれ)、後郷民皇子の遺徳を追懐し、皇子をもこの社に合せ祀り、名を道相神社と改む。後小松天皇の応永十五年火災に罹り社殿神宝悉く灰燼に帰せしかば、程なく再建せられしが、朽廃また甚だしくなりしを以て、文政五年(大正十一年より恰も百年前)更に改築せられしもの即ち今の社殿なり、例祭十月九日にして、氏子は宮島村大字原板橋、宮脇、下吉田、島、長谷、和泉、上司の八部落及び大野村大字萱野、平屋村全部落に亘り、本郡北部に於ける最大範囲の鎮守なり。
編者想ふに、上述の氏子地域は即ち古の野々村郷にして、道相神社は野々村の産土神として、野々村郷の開拓者を祀れるにはあらざるか、そが木梨軽皇子なりや否や俄に断言するを得ずと雖も、本社は初め必ずや野々村郷の鎮守なりしこと疑ふべからず。而して恐くは道祖神即ち塞神(さいのかみ)の信仰によりてこの社に名づけしものならん。後の学者を須ちて闡明するを得ん。
本殿西向桁行梁間各三間檜皮葺神明造、摂社に三吉神社若宮神社あり、拝殿草葺間口二間奥行三間鏡天井なり。神門は明治三十五年四月の改築仁かゝり槍皮葺の四脚門にして壮麗なり。」

『美山町誌』
丹波道主命
道祖神から来ているのだろうと名前の由来を推測されている道相神社は、明治期以前の史料で出会う名前は「道主大明神」「正一位道主大明神」または「一宮木梨軽大神」などで、「道相神社」と書いた史料はごく少ない。
道主大明神の「道主」は崇神天皇の四道将軍の派遣で丹波に派遣された「丹波道主命」に由来する。道主命は最後は野々村に住居して、ここで薨じ、ここに祀られた、と各種の道主大明神縁起には書かれている。この時期は崇神天皇十年、木梨軽皇子の時よりも、時間的にはもっともっと不確かではあるが、いちおう日本書紀に記された在位年数から計算すると紀元前八七年のことになる。もっとも崇神天皇は在位六八年、一一九歳まで生きたことになっている人であり、その前後の天皇は軒並み一〇〇歳を越えて生きられている。崇神天皇から允恭天皇まで八代、允恭天皇は仁徳天皇の子にあたるが、父の仁徳天皇は在位八七年、一四三歳の天寿をまっとうされているのである。信じる必要はない。ただ、ともかく丹波道主命から木梨軽皇子までの間に天皇が八代ほどの時間差があったことを理解すれば良いだけのことである。」
としている。


浄土宗和光山玉泉寺
公民館の向かいの山にあるようなのだが、道嶮しい様子なので行ってみるのはやめた。浄土宗とする書が多いが、北桑田郡誌は臨済宗とする。どちらが本当か不明。
『北桑田郡誌』には、「和光山玉泉寺 宮脇にあり。臨濟禪宗の佛刹たり。開基未詳、明治三十四年火を失して烏有に歸し今多聞庵に併合す。」とある。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》

木梨軽皇子
皇子は伊予で薨じたと伝えられている(記)。
『北桑田郡誌』は、
「木梨輕皇子 皇子は第十九代允恭天皇の皇長子に在ませしが、故ありて丹波國桑田郡北山の幽谷河内谷といふ所に潜居したまふ。(即今の知井村大字河内谷地内御所ヶ谷これなり。知井村伝説の項参照)この地に洞窟方二間ばかりなるを居宅に構へ、細やかなる生活を営みたまふこと十餘年の後、河内谷の下流なる野に出で、附近の土民を撫育し草莱を拓きて共に稼穡に從ひ給ふ。かくて大内村の名起り御宮居し給ひし所を紫磨とと呼べり。(平屋村字内久保地内大内なり。同村伝説の項参照)而して大内村の上部を上久保と命名したまひ五町餘の田地を開墾し、その墾田を輕野と名づけたまへり。その後皇子紫磨城にゐりて諸方の民を愛撫したまひしかば、土民皆その徳に服しその恩に感せざるはなかりき。やがて皇子は神樂坂海老坂などの嶮路をも開きて、此の野々村の郷に来たまひし時、板橋村の河畔風景すぐれて佳き處榎の大樹ある下に休憩したまひ、これぞ我が住むべき里なると喜ばせたまひしといふ。さればこの後大榎樹を神木と崇めたりしが年輕るま丶に枯れ果てたれば、天正十八庚寅年三月覗淵下野守親将その址に植ゑ繼ぎしもの現存の大樹なり。皇子創業以来七星霜野々村開拓の功全く成りしを以て、乃ち勝地を卜し一條田の森に就きて神武天皇及び五瀬命を祀るべき社殿を築造し厳かなる祭典を行はせたまひ、社を軽野神社と名づけられたり。今の道相神社は茲に起れるなり。かくて野々村郷を區劃して六番となし。開拓に功ありし六人の下臣に命じて之を領せしめらる。即ち平野番 後世平屋番と改む は大内、上久保、荒倉、安掛、長尾、野添、深見、上平屋、下平屋の地を含み、丸岡番は原、板橋、宮脇、亦林、下吉田の地に亘り、和泉番は島、棚田、上司、和泉の範圍を包み、高野番は市場、中、今宮、栃原、砂木、棚の地を掩ひ、大野番は萱野、大野、川谷、小笹尾、岩江戸に及び、樫原番は樫原、向山、谷、音海に跨る、之を野々村六番三十三ヶ村といひ、皇子はこの郷の尊長として政治祭祀の亊を掌りたまへり。然るに皇子は晩年居を河内國古市郡に移し、終にこ丶にて薨去し給ふ。御年七十三。皇子に御子一人在しましヽが、大内村紫磨城に在りて父皇子の道遺を繼がせたまへり。武烈天皇の二年に至り郷民故皇子の遺徳を追慕し、宮脇村の篠田に宮を營み、その靈を軽野社に合祀し、改めて道相神社と號し奉れり。編者惟ふに、この傳説は野々村郷開拓の状況とその範圍とを知るべき屈強の資料にして、同時に道相神社の氏子を窺知し得るは頗る興味あることヽいはざる可らず。後節平屋村の傳説項下に殆ど同一の記事を載せたり。就いて參照せば一層の興趣を感すべきなり。」

『美山町誌』には
「木梨軽皇子は允恭天皇の皇太子であったが、同母妹の衣通姫と許されぬ恋に落ちてしまったがために、衣通姫は伊予(愛媛県)に流され、群臣の信望は弟の穴穂皇子に移り、皇太子の地位を逐われる。軽皇子は物部大前宿禰の家に隠れるが、穴穂皇子の兵に包囲されて自殺して果てる。穴穂皇子は允恭天皇の跡を継ぐ。安康天皇である。この話は「日本書紀」の記述によるが、「古事記」では軽皇子は捕らえられ伊予の湯に流される。衣通姫はそのあとを追い、伊予で二人は心中したことになっている。
軽皇子は「容姿佳麗。見者自感」(日本書紀)誰もが、見た瞬間に息を飲むほどの美男だった。衣通姫は「其身之光自衣通出也」(古事記)衣からその身の輝く美しさが透けて見えて来るような美女である。
絶世の美男美女の、悲恋の、その主人公の木梨軽皇子が、実は北へ北へと逃げのびて、知井の河内谷にたどりつき、二間四方ほどの岩穴を住まいとして一〇余年暮らしかその谷を御所ヶ谷という。その後、下流へおりて平屋の大内に至り、この地を開墾した。住まいの所を紫磨城といい、開いた土地を軽野と名付けた。さらに板橋に移って永住の地とした。神楽坂・海老坂などの道も皇子は拓かれた。野々村郷を区画して六番に分け、野々村六番三三ヶ村の基を作られた。ここに一祠を創建し軽野神社と名付けて神武天皇と五瀬命を祀ったのが宮脇の道相神社の始まりで、軽皇子の没後、郷民が遺徳を偲んで皇子も合わせ祀った。野々村郷の開祖といった存在である。
木梨軽皇子の正確な生没年はわかっていないが、父親の允恭天皇は中国の史書「宗書」の中の「倭国伝」、いわゆる倭の五王、讃・珍・済・興・武の五代の王のうち「済」にあたるだろうと推測されている。その結果、允恭天皇の没年は西暦四五三年に当たることになり、天皇の死から間もなく木梨軽皇子は悲劇の時を迎えるわけで、軽皇子の野々村開拓の話は五世紀後半のこととなる。今から一五〇〇年以上も昔のことになるわけだが、道相神社のいわれはもっと古い。」



宮脇の主な歴史記録


『由良川子ども風土記』

ぼくらの村に見る交通の歴史
  美山町・宮島小 六年 小林秀樹 五年 山口 淳
          四年 山口 靖 中島由紀子 小林 聡
          二年 小林美由紀
私たちは、夏休みに中島繁次郎さんの家へ行って、昔の宮脇についていろいろ教えてもらいました。
次の地図は繁次郎おじいさんに聞いた昔の道を書いたものです。私たちはこの道を歩いてみようと思いたちましたが、行ってみると「かや」などがおいしげっていけませんでした。お宮さんの前に昔の道しるべがあると聞きましたので見に行きましたが解りません。後でお母さんや先生に聞き知ることができました。それは寺尾克己さんの家の庭木の中にありました。「右ちい」「左たなの、わち」と書いてありました。ここが、昔の道の分れ道になっていたのです。右へ行くと、平屋へ出て知井へ行き、さらに小浜にぬけるのです。左へ行くと下吉田をぬけて、静原、棚野村をぬけ高浜へ出ます。
昔は京都や園部の方から、日吉町殿田を通り、四ツ谷や佐々江から原や板橋をぬけて宮脇にたどりつきました。私たちの住む宮脇にたどりついたころには、日がくれてしまい、ここで泊りました。宮脇には宿屋が三軒ありました。今の家でいうと寺屋克己さん、中島倉之助さん、中島重一さんの家です。この三軒の宿がいっぱいになるほど繁じょうしたくらいですから、人もかなり通ったと考えられますし、三又路ですので、日がくれるというだけでなく、便利もよかったのだと思います。
また小浜や高浜の方からも、ここを通り、園部、京都方面へ行ったと思います。「越中富山のまんきんたん」といって富山の薬売りさんや、越前(福井県)から、クワ・カマなど売る人も通ったことでしょう。なんといっても、昔は米の他に薪や炭を作ったり、木材を切って運んだりして生活をしていました。殿田に鉄道の駅ができてから、なおいっそうの往来がさかんになり、美山の木材、薪、炭を馬、牛車にのせて殿田まで運んだそうです。今でこそ車で運びますが昔は大変苦労をしました。のどはカラカラになり、玉のような汗がボトボト落ちたといいます。
明治四四年一二月、新しい道(知井線)の工事がはじまり四五年に完成しました。大正二年に板橋と宮脇間の道巾を広めました。大正九年にはトラックが走り、翌年に乗合自動車も走りましたが、和泉の方へ行くには、お宮さんの前で降りて、人力車で行きました。「北桑田郡誌」という本には乗合自動車はこの時殿田~平屋間を一日一回走り、バスは片道四円で、大正十年一一月板橋~知井を乗合馬車が走ったとかかれているそうです。その後、道もよりよくなり、バスも通るようになりました。
しかし鉄道や京鶴線の道路の新設で裏道になりさびれました。最近になって見直され、改良され宮脇大橋と、バイパスができるなどしています。


いのちのみぞこ
   美山町・宮島小 五年 山内 進 菅井陽子
           四年 山内智博 武内幸代
           三年 山内啓史
           二年 山内美由起
私たちはこの夏休み、田んぼの水路について調べました。下吉田は昔から、飲み水や洗い水、田んぼの水に大変苦労してきたそうです。下吉田は周囲四方ともに山に囲まれていますが、山が浅く、川は下の方で、今でも水道のもとは、上流の宮脇の谷からです。だから昔の人々も宮脇から川をせきとめ水をひっぱっていました。
けれども水をひっぱるには、宮脇の土地にいねをつくらなければならないので、宮脇の人と相談して水をひかねばなりません。ところが水をせきとめると、大水の時、上の田に水がよどみ被害が出るので、その話しあいがうまくいかなくてこまったそうです。
そこで園部藩の役人がなかにはいって、この話をまとめたということです。その時のやくそくをした儀定書というものが現在区長さんの家にあります。天保二年卯月庄屋安左工門という人が代表で、その役人といっしょに話しあいをし、その書きつけをしています。
ところで水をひっぱる途中に、山から大岩が一面につきでていて、吉田の人々はその岩をけずり穴をあけるのに三年かかったそうです。私たちはこの休みにそこを見にいきましたがとてもこわいところで、下の川におちたら死ぬようなところでした。昔の人々は、毎日毎日、のみでくだいてこれをつくらはったそうですが、とてもえらいと思いました。
その後も、宮脇の方から問題があり、三回ほど儀定書が変っています。今あるのは昭和十四年のもので、いねの高さ、巾、とめ方などが書かれており、立会人に村長とかいてあります。
このように下吉田は、昔の人々のおかげて田んぼに水がはいるようになったのです。
このみぞこも昭和二十八年の水害でどてがくずれ、たくさんのお金をかけて、コンクリートで改修されました。下吉田のみぞこは、これがないと水はなにもないのですから、今でも一年に二回は、みんなでみぞこの日役をして修理や、草刈りをしています。これは、ずっと昔からやっているようです。
現在はそれに当番がきめてあって、一年中水のようすをみにいっているそうです。
私たちはこの「いね」を調べて、「いのちのみぞこ」と名づけました。

宮脇部落の圃場整備
  美山町・宮島小 六年 中島由紀子
今、私達の住む宮脇部落の圃場整備工事が着々と進められている。せまい、いろんな形の田では、コンバインなどの農業機械が使えないから、近代的な四角い広い田にしていくのである。
六月十七日、町長さん達や、部落の大勢の人が集まって、神主さんによるお払いと工事の安全と発展を祈願して、起工式が行なわれた。そして、しばらくしてから、本格的な工事に入ったのである。休耕していた田も、たくさんあったが、早期取入れを考えていた田も、工事に間に合わせるために、毎年より早く取入れを行なった。けれど、私の家は間に合わず、工事が始まってから、いねかり、いねこきをした。工事は毎日早いスピードで進められた。どんどん田がつぶれ、まっすぐな農道が作られる。家のいねかりもすんで、間もなくうちの田がつぶれる日がきた。ブルドーザーがあっという間に、先祖が苦労して積まはったという石がきを、ザーザーとくずしていった。そして黒い肥土が、けずりとられて別の所に大きくもりあげられていった。血がカーツとのぼっていった。
いっしょに見ていた父母が、
「由紀の家の田んぼや道が変わっていくぞ。先祖の人達が作った石がきや田んぼを、よく覚えとけ
よ」と言わはった。何か分からないが、くやしい気持ちでいっぱいだった。
妹たちと、おいかけっこをしてこけた。あのあぜ道。どろまんじゅうを作って遊んだあの田んぼ。レンゲの中を走りまわって、くびかざりを作った事も、全部なくなってしまった。日に日に変わっていく宮脇。小さい田んぼが、いくつも並んでいたなど、思いもつかないようになってしまった。
一日の仕事の時間が終わって、やっともとの静かな宮脇になると、川のせせらぎが前よりもよく聞こえる。新しくできた大きな四角い広い田を、ふんでみた。何か土が変わっている。「自然」とか「親しい」という言葉が私達から消え去ったようで不安な気持ちである。けれど「けっして、そんな事はない。いろいろな面で、役にたつ田作りが行なわれているんだ」と自分に言いきかせる。近所の人達も、新しい田んぼをながめながら
「この農道の草刈りが、これから困るなあ」
「長い高い岸の草刈りも大変やで」
と言ったはるが、個人の利害関係については、みんながそれぞれがまんしあって、この工事にふみきられたのだ。部落の人達の意見の一致がなければ、一人でも反対や抗議する人がいれば、圃場整備などというこんな大きな工事はとてもできない。
私の父は宮脇部落の区長で、この工事をするために、常会を、十五回以上はしたと言っている。「新農業構造改善事業という地域指定で、やらねばならぬ時代の要請やし、どうせやらんならんのなら早くしておこう」という意見で、まとまったようだ。
初めは、一つの田んぼを二反(二〇アール)にする計画だったが、一つを一反(一〇アール)にする事になり、資金は一〇アール当たり、約六十万円の工事で、負担金は、その二〇%(十二万円位)らしく、借入金をして年々返していくことになっている。新しい田の場所分けは、だいたい今までにあった辺りになっていて、他の地区では、従前地評価とか配分とかいろいろな問題があるようだが、この部落では、全部平等にという考えで、今までの田んぼの評価をしないで、理解しあって話し合いが進んだそうだ。
工事は、川上から進められたため、休耕した家も何げんかあり、来年の工事予定だったのが、急に五十四年施行となったので、米の足らない家もできたが、部落の中で融通し合う事になって、不自由しない様協力する事になった。
私は、このような話を父から聞いて、話し合う会の大切さや、お互いの協力や理解し合う事の尊さを知った。「田は四角にきちっとなるが、部落みんなは心を丸くして、円満にやっていこう」
という楽しい意見を持っている人がいるが、宮脇には、老人家庭が約半数もあり、次の世代のものが農業をするだろうかという不安もあるという。それに広くなった農道の草刈りなどの管理のことや、五年先に二五%の休耕転作をしなければならないが、転作では、何を作るか、休耕田の管理は、どうしていくかなどの問題もあるそうだ。こうした事をまとめていく区長の仕事は、とても大変だと思う。本当に、これから先の農業は、どうなるのだろう。この大きな田にコンバインやトラクターを入れる事になれば、忙しい農業も、短時間で作業ができるが、機械を入れる資金の事をどうするかという心配もある。今、冷たいような広い四角い田んぼに草が少しはえて寒そうに感じるが、来年は、どんな風景が見られるだろう。見わたす限り、黄金色のじゅうたんをしきつめたような田園風景が--と願う。新しい田で、新しい農業をと期待にみちあふれて整備された田である。毎年、米が作れて不安のない農業ができる事を、みんな願っている。
「工事は、八分通りに終わった」
と言われている。別の所に、大きくもられた肥土が大きい広い田に広げられ、新しい田んぼの形が整ってきた。新しい用水路も完成したようである。みんなが願っているようになってほしいと私は強く思っている。
宮脇部落は、今後、圃場整備を行なう他の地域のためにも新しい農業を発展させなければならない。」


宮脇の伝説






宮脇の小字一覧


宮脇(ミヤワキ)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『北桑田郡誌』
『美山町誌』各巻
その他たくさん



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