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盛郷(もりさと)
京都府南丹市美山町盛郷林・上吉田・田土・大及


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京都府南丹市美山町盛郷林・上吉田・田土

京都府北桑田郡美山町盛郷林・上吉田・田土

京都府北桑田郡鶴ヶ岡村盛郷林・上吉田・田土・大及

盛郷の概要




《盛郷の概要》
由良川支流棚野川の最上流域。北は福井県になる。川沿いに国道162号(若狭街道)が走り、沿道に林・上吉田・田土の集落がある。北の府境に堀越峠があり、その直下に大及の集落があったが、現在は廃村になっている。
盛郷村は、明治9~22年の村。林・上吉田・田土・大及の4か村が合併して成立した。はじめ桑田郡、明治12年からは北桑田郡に所属。同22年鶴ヶ岡村の大字となった。
盛郷は、明治22年~現在の大字名。はじめ鶴ヶ岡村、昭和30年からは美山町の大字、平成18年からは南丹市の大字。

-4集落-

田土(田戸)
田土村(たどむら)は、鶴ケ岡19ヵ村の1。棚野川流域、山森川との合流点で若狭街道沿いに開けた集落。上流は上吉田村、下流は殿村。古代は弓削郷。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが確証はない。
慶長7年(1602)幕府領、寛文4年(1664)より篠山藩領。河合の諏訪神社の氏子、上吉田の高野山真言宗総持院の檀家。明治9年、上吉田村・林村・大及村と合併して盛郷村となった。

上吉田
上吉田村(かみよしだむら)は、鶴ケ岡19ヵ村の1。棚野川と山森川が合流点、若狭街道沿いの集落。上流は林村、下流は田土村。古代は弓削郷。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となつたというが確証はない。
慶長7年(1602)幕府領、元和5年(1619)より園部藩領。河合の諏訪神社の氏子。寺院に高野山真言宗総持院。明治9年田土村・林村・大及村と合併、盛郷村となった。


林村(はやしむら)は、鶴ケ岡19ヵ村の1。棚野川流域の若狭街道沿いの集落。川の上流(北東)は大及村、下流は上吉田村・田土村。古代は弓削郷。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが確証はない。
慶長7年(1602)幕府領、元和5年(1619)より園部藩領。河合の諏訪神社の氏子、上吉田の高野山真言宗総持院の檀家。明治9年、田土村・上吉田村・大及村と合併して盛郷村となった。

大及(おぎゅう・おおぎゅう・おおきゅう)
大及村は、鶴ケ岡19ヵ村の1。棚野川の最上流に位置し、若狭街道に沿う。四方を山に囲まれ、北は堀越峠を越すと若狭の棚橋村(福井県遠敷郡名田庄村)。古代は弓削郷。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが確証はない。
慶長7年(1602)幕府領、元和5年(1619)より園部藩領。明治9年、田土村・上吉田村・林村と合併して盛郷村となったが、大及集落は昭和初期に廃村となった。幕末の家数4・人口17、牛1(園部御領古新高附)。当村は木地師の集落で、杓子などを作り若狭に持参して米と交換していたという(丹波志)。

若狭街道沿いといっても、旧道の方だろうが、下の山路を行けばあったのだろうか。

明治以降唯一の廃村・大及
 林区(佐野均氏所蔵)に残っている「地券御渡願」桑田郡第弐拾三区、大及村という簿冊によると、明治五年(一八七二)に戸数は四軒、田畑反別惣計二町六反一畝六歩、其高惣計二〇石四斗六升九合、内荒所分が壱町五反三畝二一歩で其高が一三石四斗一升六合となっている。
 もう少し詳しくみていくと、田の筆数は二九、畑は二八、それに加えて屋敷地が本来なら四筆あがるはずだけれど三筆しか計上されていない。屋敷の広さは一畝一二歩、一畝一八歩、二畝三歩であるから平均すると一二㍍四方前後であるので広いとはいえない。畑は割合広く五畝以上のものが二筆、三畝以上が四筆、狭いもので一畝までのものが二筆となっている。また田は三畝を最高にして大半が一畝代で、一畝に満たないものは九筆、田は水を必要とするので棚野川沿い又は谷川沿いに限られると、どうしても畝歩に限定されてくる。その点、畑は開墾していけば少々斜面であろうと耕作可能になるので筆数を増やすことも、一筆の面積を拡大することもできるわけである。今は山林に覆われているが、街道が南北に走り、東西も結構幅がある。総反別が二町六反とは現況からは、ちょっと想像できないがかなり広い。往時はもう少し戸数もあったに違いない。幕藩時代は近くの林村や上吉田村と同じく園部藩領であるが、元禄年中(一六一八八-一七〇四)の境界争議の文書には林村、上吉田村、それに田土村、殿村などか入り混じって出てくるが大及の出てくるものがない。萱場や草刈場にきゅうきゅうとする状態でなく、まさに別天地で山を自由に占有し、生活に困る状態でなかったためであろうか。
 大正二年(一九一三)十月七日に大及の佐野久蔵死去葬送により部落員(林区)一同一日依頼をうけ朝より手伝いに行く(「佐野日記」)という記録からみると、葬儀に必要な一定の人数を欠く状態になっていたと思われるので、このあと急速に廃村に追いこまれていったと考えられる。その証しとして大正十五年(一九二六)になると林区への大及からの村入りが二戸ある。古老の話によると積雪や子弟の教育などが直接の引金になったという。
 なお明治初期、それぞれの村に庄屋に代わって戸長が置かれたが大及村の場合、林村の戸長であった佐野猪平次が兼務している。このへんの事情についても実態はつかめなかった。
  『美山町誌』).


《盛郷の人口・世帯数》 100・47


《盛郷の主な社寺など》

高野山真言宗総寺院(上吉田)

集落のなかほど旧道ぞい、寺伝によると応安4年(1371)松尾にあった平等寺の大長大師の薬師堂といっしょに建立され、永禄2年(1559)覚仙が現在地に移築、文政4年(1821)孝順が再建したと伝える。
總持院 字盛郷の上吉田にあり。後光厳院の應安四年に、大長大師の薬師堂と共に建立せし所なりと傳ふ。その後永録二年に僧覺仙現地に移築し、文政四年孝順之を再建して今日に至る。真言宗の佛寺なり。  『北桑田郡誌』)

上げ松

棚野川と山森川の合流点河原にこんなヤグラが2つ。一つは子供用だそう。河岸は公園になっいて見学しやすいよう。案内板があるがハゲて全文が読めない。拾い読み
当日は盛郷総出で上げ松場の清掃、もじ、御神木起しの準備をする。昔は杉の木の大木を山から切り出し(山持より寄贈)周囲五尺余、長さ十二、三間のものを上げ松場まで運び、青年の手により準備を整え、盛郷全戸より出役し又木等で二時間余りを要してたてたものである。
昨今は機械力により又御神木は箱型に改造されてたてゝから適当な高さに心木を滑車で上げる仕組で短時間でたて終るようになった。午後八時頃から公民館より笛太鼓で囃しながら一同練込みを行い子供用大人用の二基の炬火投げ入れの競演が行われる(忌中者女人は禁場)もじに点火し御幣の落下があり火元当番がひろいあげ、もじの火が九分方燃えつきるのを待ってこの行事は終わる」

とか書かれている。こんな看板もある。



《交通》
堀越峠
堀越トンネル(国道163号)
国道162号(若狭街道・堀越街道・鯖街道)の堀越トンネル(美山側)↑ 小浜32㎞とある。
堀越峠は、写真の稜線が下がっている左側を越えた。美山町と福井県名田庄村の境にある峠。標高511m。若狭小浜と京都を結ぶ峠で、かつては九十九折の険路として府北部の難路の1つとして知られていたという。昭和49年10月26日、峠下の棚野川源頭(京都府側)から骨谷(福井県側)源頭部へ一直線に抜ける堀越トンネル(全長1.4km ・ 幅6.5m)が開通し、幹線車道として一新したという。旧道は今の国道の東側の下の棚野川沿いに見え隠れする、これは難路というか、未舗装で車線狭く、くにゃくにゃで車はムリのよう。


《産業》


《姓氏・人物》


盛郷の主な歴史記録


杓子屋
 上吉田の薬師堂は大冶元年(一一二六)建立といわれる山水寺がその前身であったが、その廃寺を総持院住持清玄が主宰して薬師堂として再建した延宝二年(一六七四)三月の奉加の板書きには棚野郷の一二村それぞれの奉加銀高と人数と庄屋名が書き記されている。地元の吉田・林・田土の三村のデータがないのは残念だが、他の一二村の当時の戸数を知ることが出来るのはありがたい。ほとんどの村が、江戸時代の他の時期の戸数よりも、現代の戸数よりも多い数字を示している。延宝の頃までは山の価値が高まった時期だった。それゆえに人も多くいたと思いたいが、この時期の戸数人口のデータはまず見つからない。薬師堂板書はそれゆえに大変貴重なものであるか、さらに貴重な内容がある。
 棚野一二村の奉加に加えて、さらに「杓子屋銀之覚」とし、九つの谷に住む「杓子屋」からの奉加も書き留めている。杓子は飯を盛り、汁をすくうあのオタマジャクシの杓子である。棚野の山中に三七人もいる。杓子屋は単なる呼称のひとつであって、実際には木製の食器や盆・膳など、さまざまなものを作る。木地師である。木地師は利用できる木の多い所を求めて、次々と移動して定住性に乏しかったことから、その利用する山の属する村々との縁は希薄で、時にはその山地に木地師が入住しているのをその村の人が気付きもしないことも少なくなかったようであるが。棚野山の木地師は村の人々からしっかりと認知されていたようで、薬師堂建立の奉加を村人並み以上に納めている。木地師は一般に山林の利用を無償で行っていたように言われることが多い。その場合にも木地師の側から村人への何らかの謝礼がある方が自然なような気もするが、この薬師堂の奉加は、そのような意味合いを持たせて集められたものかも知れない。棚野山の杓子屋の拠点は、山奥とは言っても村からの距離はそう遠くない。ほとんど村から日帰りで仕事に行けるようなところばかりである。彼ら杓子屋は村人と何らかの縁を持つ人々であったのだろうか。

木地屋まどい銀
 木地師は国境沿いの山地を稼ぎの場とするのか通例で、定住性が希薄だったために、それぞれの藩も住民として把握する熱意に欠けていたようで、ほとんど支配の対象にもされなかった。いわゆる「化外の民」という扱卜である。
 園部藩の文化二年(一八〇五)に編まれた「略史前録草案」という書物の寛文頃の記述に、「木地屋まと(ど)い銀」の説明として「仏主村に先年キリシタンを隠し置く事件があって、キリシタンは江戸に渡され、キリシタンに宿を貸した百姓は断罪に処されたことがあったために、キリシタンを匿った時にはその村中が曲事(有罪)であると申しつけたところ、方々の百姓から、そういうことなら、山奥に住む木地引きは他国の所々からの寄合者で、どんな人間が紛れ込んでいるかもわからず、その上、木地引きがいると山が大きく伐り荒らされ、百姓の山稼ぎの妨げともなるので、木地引きは追い払って下さるべきである。その代わり木地引きが支払っていた運上銀は百姓の側から出すと申し出てきた。【木地屋まとい銀】とはこのことである。しかし、ちい(知井)村は篠山藩と入札(入り混じりていることを言うのか)にて、(小出)伊勢守一人の支配ではないので(木地引きを)追い払うことができず、今も木地引きがいて、役銀を出している。」と書かれている。木地引きも存在を確認していて藩は運上銀(税)を取っていたが、百姓の側から迷惑な存在として追放依頼があったから、木地引きを追放すると藩に入らなくなる木地屋の運上銀を代わりに百姓が負担することになって、基本的には木地屋は追放すべき対象となったが、知井村だけは篠山藩と支配が混じるために園部藩の一存で追放することが出来ないので、木地屋から運上銀を出させている、ということである。「まとい」は「まどい」で「償い」と書く。「代償」である。藩にとっては税収が少なくなることだけは問題であるか、百姓がそれをカバーしてくれるのであれば、木地屋自体の存在はまったくどうでも良いようである。棚野も知井と同様に園部・篠山両藩が入り交じっているから同じような状態だったのだろう。
 同書の別の所で「木地屋まとい銀二百三十目(匁)ちい村より出す」という記述がある。これはかなり大きな額である。知井の古検の山役銀は七三九匁余だった。(一六七頁)そのうち園部藩小出伊勢守へは二二〇匁が納められた。一〇匁違うが、ほぼ匹敵する数字である。これまでに拝見した地元史料の中に木地屋まとい銀の支払われている記録はまったく見つからない。おそらく、「古検山役銀」と「木地屋まとい銀」は同じものなのだろう。古検は太閤検地を言うから、太閤検地の時には里の百姓には田畑の年貢だけを課した。山暮らしの者には山役銀を課した。重複して課してはいなかったのだ。
 その後江戸幕府の支配の体制が確立していくに従い、山中暮らしの人々も里に下りて田畑中心の暮らしの人々に融合していく。あとあとまで山中暮らしに拘り続ける人々は追い払われるような存在に落莫していき、代わりに里村の人々が山中に入り新たな山中暮らしを始める。古検山役が明確に村々の小物成のひとつとして見ることか出来るのは篠山藩の延宝七年(一六七九)・天和二年(一六八二)の山検地以降のことで、それ以前には見つからない。
 それ以前には奥山暮らしの人々が運上銀を納めていたとするならば、それはその前代の中世・戦国時代の遺制を継承したものだったのだろう。中世は「職」の体系の時代で、それぞれの仕事は寺社権門のお出入りの仕事人として「職」の免許状を得て、そのお墨付きによって渡世することが出来るような仕組みだった。
  『美山町誌』)

盛郷の伝説

堀越峠
魚行商人とオオカミ
むかし、高浜の魚行商人たちが掘越峠を通って京へと運んでいた。しかしこの堀越峠を行くのは、たいへんなことだったらしい。とくに、冬は命がけの峠越しだ。雪とオオカミとのだたかいが待っていたのだった。
明治の初めころ、若宮に新左というあまり足に自信のない行商人がいた。新左はオオカミに追われたときのことを考えた。“わたしなぞ、足が遅いからオオカミに合ったら、ひとたまりもなくやられてしまう。オオカミを何とか味方にすることを考えたほうが良さそうだ”
そこで、新左はオオカミのための弁当をこしらえて持っていくことにした。塩分を欲しがるオオカミの習性を利用しておき、自分の身に危険が迫ると、かねて用意した塩辛い握り飯をオオカミに与えるのだった。いつも、そうしているうちに、新左は二匹のオオカミと顔なじみになった。
 「ほら、おまえたちの好きな握り飯だぞ」
と、気楽に握り飯を与えることができるようになっていた。オオカミたちは新左を見ると尻尾を振って近づいてくる。いつのまにか、二匹のオオカミは新左が堀越峠を越えるときは、かならず前後につきそって、ほかのオオカミから身を守ってくれたという。そのお陰で新左は一人でも峠を越えることができたのだそうだ。
 実は、オオカミと友達になれない場合は、行商人は集団で行動した。足の弱いものは魚を半分捨て泣きながら、みんなから離れないよう懸命について行ったという。
 「お~い、もう少しゆっくり歩いてくれないか。もうついていけない」
と、弱音を吐くものもいる。
 「こんなところでうろうろしていると、死んでしまうんだぞ。しっかりしろ」
 「ぼやぼやしていると、みんなに置いていかれるぞ。荷物を少しにしろよ」
隊列に遅れそうになるものはせっかく運んできた荷物を捨てるしかなかった。
 仲間からはずれれば、凍死をするか、オオカミに襲われるかする恐ろしい峠であった。そんなこわい峠でも荷物を運んで高浜の人びとは生活しなければ、ならなかったのだろうか。
 また、堀越峠にはマムシがことのほか多かったそうで、上着は脱いでも、膝から下は完全防備で峠越えしたともいわれている。むかしの魚行商人たちは“京は遠うても十八里”といったそうであるが、これは行商人たちの “京はわずか十八里だ、こわいのもたかだか十八里だぜ頑張ろうぜ”という、こわい峠を越える不安に負けないように、魚行商人自身を励ます言葉でもあったようだ。
  『若狭高浜むかしばなし』).





盛郷の小字一覧


盛郷(もりさと)
森ケ下(もりがした) 奥ノ谷(おくのたに) 谷尻(たにじり)  清水(しみず) 大町(おおまち) 堂ノ下(どうのした) 久保岸(くぼぎし) 柳ケ本(やなぎがもと) 寺谷口(てらだにぐち) 久保前(くぼまえ) 佐野前(さのまえ)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『北桑田郡誌』
『美山町誌』各巻
その他たくさん



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