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丹波の

大野(おおの)
京都府南丹市美山町大野


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京都府南丹市美山町大野

京都府北桑田郡美山町大野

京都府北桑田郡大野村大野

大野の概要




《大野の概要》
大野ダム右岸に沿って府道12号(綾部宮島線)が走る、周囲が開けて広い、地名どおりのまさに“大野“の景観。府道沿いに「大野ふれあい館」(大野振興会の大野屋)がある一帯。タバコも売っている、ガソリンスタンドもある。↓

「野」という地名を聞くと、よく思い出すのは、「野は水平で平な所でなく、傾斜地」とする柳田国男の指摘である。『地名の研究』に、「元は野(ノ)といふのは山の裾野、緩傾斜の地帯を意味する日本語であった。火山行動の最も敏活な、降水量の最も豊富なる島国で無いと、見ることの出来ない奇抜な地形であり、之を征御して村を興し家を立てたのも亦一つの我社會の特長であった。野口、入野といふ類の大小の地名が、山深い高地に在るのも其爲で、是を現在の野の意味で解かうとすると不可解になるのである。大野は久しい間開き得なかったので地名になったのかも知らぬが、是に對立する小野といふ地形こそ、最も移住民の落着いて開き易いものであった。…」とある。
火山の裾野ではなく、当地は河岸段丘で、緩やかな傾斜地である。
「大野」は隣の京北町にも亀岡市にもあり、当「大野」は「元禄郷帳」「天保郷帳」では野々村を冠称した。
大野村は、江戸期~明治22年の村。大野10ヵ村の1。古代は弓削郷、中世は野々村庄の地。篠山藩領。村内の天満宮は天正13年に創建、文化11年再建された。弘治元年創立、正保元年孤峰禅師中興の曹洞宗林昌寺があるが、寛保元年の火災で旧記・什宝を焼失した。日蓮宗京都妙顕寺派蓮乗寺は天正元年僧日孟の開基で、所蔵の法華経は武蔵池上本門寺23世日等の直筆写経である。真宗本願寺派善西寺は、天文12年僧祐真の開基で、もとは真言宗であったが、尾藤清左衛門兼武が本願寺の門主証如に帰依して善西と称した折に改宗したという。慶能塚は、天暦3年当地で没した菅原道真の弟慶能法師の墓と伝える。明治6年学校建設に伴い塚上の大楓樹を伐り塚土を除いたところ、人骨が出土したため手厚い供養がされたという。天保末年に林民之助が寺子屋を開いている。
明治4年篠山県、豊岡県を経て京都府桑田郡、同12年北桑田郡に所属。学制頒布の翌6年求祐校を設置した。同22年大野村の大字となる。
大野は、明治22年~現在の大字名。はじめ大野村、昭和30年からは美山町の大字、平成18年からは南丹市美山町の大字。村域内に太閤検地にまつわる争田があり、俗に喧嘩田(けんかだ)と称していた。

近代の大野村(広域地名)は、明治22年~昭和30年の北桑田郡の自治体。大野・萱野・三埜・音海・肱谷・小淵・樫原・向山の8か村が合併して成立し、旧村名を継承した8大字を編成した。昭和30年美山町の一部となる。村制時の8大字は美山町の大字に継承された。


《大野の人口・世帯数》 179・81

《大野の主な社寺など》

天満宮

村の真ん中あたりに鎮座する。
案内板に「天満宮
天正13年(1585)創建と伝えられ、江戸初期に活躍した日本の名陶工野々村仁清の遠祖菅原道真、野々村頼房が祀られています。
幾多の変還を経て昭和10年にこの場所に移転しました。境内のお堂には、鎌倉末期の木造毘沙門天立像がありましたが、平成10年に盗難にあい未解決です。 大野区・野々村仁清をたたえる会」とある。
『北桑田郡誌』は、「天満宮 字大野にあり 菅原道眞及び野々村頼房をまつる。社傳によれば天正十三年の創立、文化十一年の再建なりと。
」とある。古い樹がないからこの地に鎮座したのは新しいことなのだろう。


:慶能塚

慶能塚は、天暦3年当地で没した菅原道真の弟慶能法師の墓と伝える。明治6年学校建設に伴い塚上の大楓樹を伐り塚土を除いたところ、人骨が出土したため手厚い供養がされたという(北桑田郡誌)。写真の右手に見えるのが「求祐館」という学校のような建物で、手前側に大野公民館、大野屋さんと続き、その前庭の広いグランドの隅に「塚」なのか残土の盛り上がりなのか、このあたりにあったのかも知れない。何も案内がない。「大野堂」というのがどこだが不明。
道真の弟、慶能法師と伝えるが、そのような弟がいたというような話は正史には見えない、正史にないからといって、本当にいなかったかの証明にはならないが、近くの園部では道真の子とする伝えもあり、またそのほかの異伝もあり何が何やらのちょっと架空の人物的な、架空の墓地的な話になる。
当地などの伝えによると、慶能が延喜元年(901)大野村に潜住し、のち還俗して野々村頼房と称し野野村庄30余ヵ村を支配、天暦3年(949)9月当地で没した。里民らが大野堂の傍らに葬り慶能塚と称したという。川谷の旧家菅生家は慶能の子孫と称している。慶能ゆかりの地としては上庵(うえあん)・下庵(しもあん)もある。上庵は大野野々村家の宅地内にあり、明治以前には一祠を建てて天満天神を祀り、毎年八朔の日に神事を行い、下庵はもと尼寺で大野野々村家(別家)の地内にあり、秘伝録などを保存していたという。
『北桑田郡誌』は、「慶能塚 字大野にあり傳へいふ。菅原道眞の弟慶能法師 天台宗の僧たり 世を遁れて野々村郷に來り、天暦三年九月この地に寂す。よって本村大野堂の傍に葬り、里人呼んで慶能塚といふ。明治六年十一月學校を此の地に建つるにあたり、塚上の大楓樹を伐り塚土を除きたりしに、中より人骨を發掘せり。こは今尚目撃者の記憶に新なる所なり。本村川谷(かはだん) 三野の地内 の舊家菅生吉左衛門氏は法師 俗名野々村頼房 遠裔なりと傳へ、家にその系圓を存す。」としている。


曹洞宗周陽山林昌寺

弘治元年創立、正保元年孤峰禅師中興の曹洞宗林昌寺。寛保元年の火災で旧記・什宝を焼失したという。
『北桑田郡誌』に、「林昌寺 字大野にある曹洞禅宗の寺にして、後奈良天皇の弘治元年に創立せられ、のち正保元年に孤峰禅師之を中興せるものゝ如し、即ち本寺所藏の文書に
 初自弘治天和之末禅教律三宗僧侶交居此(中略)後至寛永之初里人大半帰心當山禅宗
と見え、尚縁起に
 寛永十七庚辰年十一月上旬、當國船井郡下胡麻村へ越前國大本山永平寺孤峯大禅師來輿ありて、新地開発遊ばされ、山號を秀林山寺號を龍澤寺と申候て、永平寺の禅風殊の外繁昌の沙汰有之候に付則當寺も知識地の望有之候に付、総旦那中申合、役人三人已十一月に下胡麻村龍澤寺へ登山致し、林昌寺も當時住僧無之破壊同様の寺に御座候得共、何卒孤峰大禅師様御來輿遊ばし被下候て、御取立の處総旦那中奉願上趣申上候處、時の監寺傅龍和尚様被仰出候儀は、當寺も新開発にて近年の辛労大方ならす、其上先達て中台村西岸寺並に志和賀村眞福寺右の両寺より、孤峯大禅師請待に役人参り、右両寺近年に取立可致旨返答に及置候。諸方急々に取立も行届き申間敷候、大禅師前へ奏達の上委細返答致すべく候條、今晩は門前に宿を取り一宿可致旨被仰出、則一宿致し翌朝登山致候處、大禅師様直面に被仰出候儀は、西岸寺眞福寺両寺は先約なれば明春より取立の積なり。
林昌寺も近年の内に取立可申候條、先當分傳察僧を監住として差遣はし可申候由被2仰出1。直様下山仕則午春右傳察僧御越被成候て、檀用等是時より禅曹洞宗の家風に相定り候事
とあるに由りて沿革の大概を知り得べし。寛保元年火災にかゝり旧記什寶等大半烏有に帰せしは惜むべし。」とある。

日蓮宗京都妙顕寺派蓮乗寺

蓮乗寺は天正元年僧日孟の開基、所蔵の法華経は武蔵池上本門寺23世日等の直筆写経という。『北桑田郡誌』は、「蓮乗寺 大野にありて日蓮宗を奉ず。寺傳によれば正親町天皇の天正元年僧日孟の開基する所といふ。是より先野々村庄司菅原實相京師に上りて妙顯寺の僧日尭の教化を受け、信心肝に銘じければ、帰りて日蓮宗に帰し、一宇の佛寺を建立してかの秀傳院日孟を請じて其の開山となせりと。本寺に藏する法華経は日等 武蔵池上本門寺第二十三世 の直筆写経にして筆力稍??字禮よく整ひ、郡内稀に見る古経巻なり唯此の中一巻を闕佚せるは最も惜むべし。」とする。
また、『美山町誌』に、「妙林講
十二月十日、大野区では妙林講という珍しい名のお講が蓮乗寺で行われ続けられている。
天正十二年(一五八四)太閤検地(検地のやりなおし)の時に園部の代官石川伊賀守と大野区との間に、米の取れ高で争いがあった。結果は代官側の負けであったが、その事件をめぐって権太郎等四名が憤慨抗争して捕えられ、重い刑に処せられることになった。そのことが妙林院日樹法尼(石川伊賀守の乳母といわれる)の知るところとなり、助命哀訴され四名は赦免されたという。その田を「けんか田」と呼ぶが、その田は今も残っている。そしてこの十二月十日は、妙林様の命日であり今でも徳を偲び感謝の祭りを区一同で行いお参りしている。」という。
その喧嘩田は今もある。

府道12号線沿い、大野公民館前のガソリンスタンドの隣の、この時はまだ田植え前で水が張られた田で、案内板も立っている。
「けんか田
秀吉の太閤検地のころ、石川伊賀守の代官と大久保権太郎・東杢次郎・文字馬之助・長(永)塚彦太夫ら百性とが畝歩争いをじた場・所で、「けんか田」と呼ばれています。この四人は、権力者に刃向った罪で死罪に決まりましたが、石川伊賀守の乳母で法華信者妙林尼の命乞いにより罪を許されました。大野区」とある。

浄土真宗本願寺派尾藤山善西寺

善西寺は、天文12年僧祐真の開基、、もとは真言宗であったが、尾藤清左衛門兼武が本願寺の門主証如に帰依して善西と称した折に改宗したという。『北桑田郡誌』は、「善西寺 字大野にあり、天文十二年僧祐眞の開基にかゝるといふ。もと真言宗なりしが尾藤清左衛門兼武といふもの本願寺の門主證如に帰依し、その法號を受けて善西と称しこれより眞宗に改めたりと傳ふ。」という。


野々村仁清の生家(伝)

府道沿いの案内板。生家はここから山の方へ入った奥で、車ではムリ。
蓮乗寺をめざして行かれるといいかも、その少し奥にある。


ニンサマは江戸時代初期の生まれで、その生家がそのまま残っているわけはないが、ここにあったといわれる。今は茅葺、アルミサッシである。
「案内板」に、「伝・野々村仁清生家
この家は、江戸初期に活躍した日本の名陶工京焼の祖といわれる仁清こと野々村清右衛門の生家と伝えられ、食い違い間取り等北山型住宅の遺構を残しています。
この上の山腹には、仁清の菩提寺・蓮乗寺(この下方にあります)の前身である光明寺跡もあり、子孫の清八・仁平らが眼っています。大野区・野々村仁清をたたえる会」とある。
さらに詳しい案内もあり、
「陶聖(伝) 野々村仁清生家
「野々村仁清」について
最近の研究で推定を含め次のことが解っている

野々村仁清(初名清右衛門 通称清兵衛)は慶長十八(一六一三)年頃に葉茶の名産地野々村庄大野の野々村家に生まれ、寛永元(一六二四)年数え年十二歳頃に大野と同じ篠山領内の立杭(現在の篠山市内)へ奉公に出た。
 寛永二年農村取締令公布
寛永四(一六二七)年に三年年季奉公制度が十年年季制に改正されたことにより「土練り三年 ロクロ七年並行して窯焚十年(通算)」にお礼奉公一年を加えた十一年間に蹴ロクロや手びねり、たたら作りなどの技術を身に付け壷屋清右衛門と言われたように丹波壺を中心に生活用品の作陶の基礎修業を積んだ。
年季明け後、職人として山城粟田口に赴き粟田口焼・信楽焼や唐物・高麗物の様々な写しを修業した。さらに尾張瀬戸で手ロクロでの荼碗 肩衝茶人 ルソン壷の写しの専門的な茶入稽古修業をし絵薬の開発研究をした。
その後京都に帰り仁和寺門跡と荼匠金森宗和の知遇を得て仁和寺門前で開窯しロクロや手びねりの冴えに加え「きれいさび」と言われる純日本風の金銀五彩に緑・紫等を加えた色絵陶を完成させ陶芸作家としての誇りと清水焼等の発展への基礎を作った。
数え年四四歳頃の明暦二(一六五六)年に仁和寺宮より「播磨大掾」を受領し「藤原姓」と「仁」を下賜され「仁清」(野々村播磨大掾藤原正廣仁清・略して野々村播磨大掾藤正仁清)と号するようになった。
万治二(一六五九)年遠祖菅原道真公の命日に「南無天満大自在天神万治二年二月二五日野々村播磨大掾藤原正廣仁清」と銘書・押印して「花瓶香炉 燭台の三具足」を北野天満宮に奉納した。
仁清の御室窯は登窯のみならず、いろいろな用途の七つの窯を持ち費用を度外視した芸術的高級作品追求の経営は経済的な負担を強いられ延宝四(一六七六)年には香山家から借財をした。
晩年になると仁和寺近くの打它氏ゆかりの宇多野妙光寺の雲庵和尚に参禅。天和二(一六八二)年二月一九日雲庵和尚寂に伴い三月五日に逆修の小さな石碑を妙光寺境内(過去帳の添え書きに雲庵和尚の側とある)に建立、その日を自分の命日とした。
法号『吟松庵元龍居士』(逆修とは生きているうちから死後の往生菩提を祈つておこなう仏事)[備考…妙光寺仁清参禅説を否定する学者もいる]
美山町大野の野々村氏の菩提寺蓮乗寺では仁清のこの志を汲み三月五日を命日とし、かつて回向を行っていた。
貞享三(一六八六)年には寛永二〇(一六四三)年発布の「田畑永代売買禁止令」が形骸化したこともあって、らかの理由で長男清右衛門が故郷大野
の田畑を処分している。元禄七年頃初代仁清はその生涯を全うする。その場所は不明である。
子どもには長男清右衛門、次男清次郎(藤原正良即ち藤良・二代目仁清)、三男清八改め清八郎、他に安右衛門(清右衛門の初名とする学者もいる)及び二代目乾山となる猪八(伊八)がいる。
元禄九(一六九六)年の「御室御記」の清八より九二年後の天明八(一七八八)年にも野々村清八が過去帳の中に登場する。(伝)仁清生家は概ね「清」を踏襲するが弘化三(一八四六)年に野々村忠七という(伝)仁清家の中興の祖が現れる。
母屋は天和年中の火災で焼失、今ある母屋は江戸中期の材料などで建てた「食い違い間取り」の北山型の建造物である
(現在は平入りに改良されている)
現在判明している作品の中に国宝「色絵雉子香炉」(石川県立美術館蔵)と国宝「色絵藤花図(文)茶壷」(熱海・MOA)及び重要文化財一八点がある。
また彼の作品の中には子ども時代の玩具や故郷ゆかりの物を題材にしたものが多い。
最近になって野々村仁清の画像が京都で発見された、この画像が野々村仁清家の本家の血筋の人々に酷似していることが判明した。
なお 末裔野々村清八及び野々村仁平はこの山腹に眠る。
美山町大野区・仁渭をたたえる会」とある。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》
慶能法師
『美山町誌』には、
「慶能法師
野々村郷の総社、道相神社の祭神としては祀られていないが、野々村六番につしてはもう一人、伝承上の主人公がいる。菅原道真の弟、慶能法師のことである。
慶能は比叡山で出家していたが、道真が藤原時平の讒言に遭って太宰府に左遷された昌泰四年(九〇〇)。彼も叡山を逐われ、野々村にたどりついた。ここで彼は還俗して妻を娶り五男一女を儲けた。この六人の子に野々村・公文・下司・大沢・菅生・武内の六つの姓を与え、三三ヶ村を平屋・丸岡・和泉・大野・高野・樫原の六の番に分けてそれぞれを支配させた、嫡子の姓をして郷名野々村が生まれた。これは「平屋番略記」の説である。
一説に木梨軽皇子の五世の孫に野々村左近と言う人がいた。慶能法師は行脚してこの地に来て、還俗して左近の娘保姫を娶り、六子を得た。後にこの六子に野々村郷を分領させた。これが野々村六番の始まりだという。野々村の開祖が木梨軽皇子で、その正当な承継者として慶能を位置付けているわけだ。
また一説に、菅公亡きあとの怨霊を恐れた都人は北野に神殿を祀り、道真の左遷と同時に地方に隠棲していた一族を都へ召し返そうとしたが、慶能は還俗したことを恥じて、招きに応じなかった。それゆえに天皇は、道主大明神の氏子の村、野々村三三ヶ村を慶能に宛てがわれた。慶能の死後、遺言により野々村を六分して六番とし、五番を五子に、残り一番(丸岡番)を後室に配分した。これは「一宮道主大明神縁起」の説である。
実際に菅原道真の弟、慶能という人は存在したのか。道真は三男に生まれて兄二人と弟一人がいたようだが、兄二人は早世、弟は道真が二〇歳の時に亡くなり、三五歳の時に父是善が死亡した。道真は「我に父母なく兄弟なし」と嘆いたという(川口久雄「菅家文草 菅家後集」解説二六頁)。菅原道真はあまりに有名な人物である。彼に出家した弟がいて、どこの史書にもまったくその記述が見つからないということは、そういう人物が実際には存在しなかった可能性があることになるが、まったく存在しなかったと証明できることにはならない。つまりはわからないのである。
しかし、川谷の行福寺は、その前身を長福寺といい、延長六年(九二八)慶能の法要のために建立されたという伝承を持っている。字大野には慶能が天暦三年(九四九)九月この地に亡くなったとされる「慶能塚」が存在する。三埜の菅原神社は、かって慶能がこの地に小庵を結んで住んだことがあるという伝承を持つ。
いつの頃からか、野々村の人々の心の中に菅公の弟慶能が住んでいたことは確かなことである。
ここに見てきた丹波道主命、木梨軽皇子、慶能法師の三人のうち、先の二人は正確な年代までは分からないにしても実在性が高そうな人物であり、一人はフィクションの可能性が高い。しかしいずれにしても記録されている歴史の上に、あらためて羽を広げて構えられた伝承である。」.


野々村仁清(ののむらにんせい)
百科事典などにも記事がある有名な陶工、『美山町誌』にも詳しいが、ここは超簡単にふれる。
正確な生年、没年ともに不詳。江戸前期の陶工。通称は壺屋清右衛門(一説に清兵衛)。「仁清」は仁和寺の門跡から「仁」の字を賜り、号としたもの。丹波国桑田郡野々村の生れ。京都に出て仁和寺前などに窯を築き、色絵陶器を創世して京焼きに新生面を開いた。


若くして瀬戸、美濃、京都粟田口などで陶法を学び、正保4年(1647)ころ御室仁和寺門前に御室焼をはじめた。明暦年間(1655‐58)には仁和寺の〈仁〉と清右衛門の〈清〉の字を合わせて〈仁清〉と称し、製品に〈仁清〉の銘印を捺した。
彼の作品、この2点は国宝に指定されている。ほかに重文が18点もあるという。

開窯期の御室窯は唐物や瀬戸写しの茶入、高麗茶碗写しなどを主流に金森宗和好みの斬新な器形、瀟洒な銹絵や染付、色絵などを施した茶器や懐石道具などを製作した。
宗和はとくに御室焼の製品を自身の茶会にも多用し、また大名、武家、町人たちにも斡旋するなど、御室窯の指導と普及に努めた。万治~延宝(1658‐81)ころが御室窯の全盛期とみられ、茶碗、水指、香合などのほか、雉子、法螺貝、海老などを形どった掛花入や香炉、華麗な絵付の茶壺を作っている。赤,緑,青,黄などに金・銀彩を加えた色絵陶器が最も名高く、仁清は生存中にも京焼色絵陶器の大成者として評価されていた。延宝1(1673)年ころ家督を嫡男安右衛門(襲名して2代清右衛門)に譲り、晩年には尾形深省(乾山)に陶法を伝授したらしい、元禄7(1694)年)ころ没したものとみられている。なお乾山への陶法伝書は乾山自筆の《陶工必用》に写しが収められ、仁清の陶法を知る重要な資料となっているそうである。



大野の主な歴史記録


奈良井山というのは裏山の一帯だが、野々村の祖・丹波道主命の伝承がある。
『北桑田郡誌』に、
「奈良井山論の顛末 崇神天皇の御代四道將軍の一人として丹波に遣はされたる丹波道主命は、地方平定の後本郡に來りつひに野々村に薨じ給へり。よりて其の地に宮を建てゝその靈をまつり、一宮と號し野々村郷の總氏神と崇め奉れり。奈良井山はこの一宮に獻ぜられたる社地なりしが、幾百年の間或る時は氏子に賣渡され、氏子は更にまた之を獻納して社領となし。ある時はまた他の氏子に賣却せられたることなどもありしものヽ如く、奈良井山の所有主は甲より乙に、乙より丙に轉々變易せしより、この山の一部分を有せる地主は極めて複雑なる状態となり、境界分明ならす犬牙交錯して將來紛糾の因を造りしなり。江戸時代の末文化十一年の頃よりこの山に関する論爭起り、十三年後なる文政九年に至り、この葛藤一時落着したるも、久しき間の係爭に多大の費用と日子とを空費し、爲に一村の疲弊を來し、十年後なる天保年中に及ぶもその創痍全く癒えず、「何卒厚き御憐愍を以て御救被思召米四十石御貸下被成下候様乍恐奉願上候」と歎願して、年貢の減額を計りし如き證跡歴然たり。而もこの山論は明治に至りて再燃し、當時の郡長森田幹、郡内有力者野尻岩次郎、郡視學宗宮信行三氏の調停により、僅に落着を告げ殆ど永久にその爭根を絶つことを得たり。今左に當年の濟状を載録せん。
  山林所有権入縺事件和裁爲取替證
 北桑田郡宮島村大字和泉上司小字奈良井山壹番地の内山林四十六町二段一畝歩並に同郡大野村大字大野小字奈良井山壹番地山林貮拾參町貳段歩同貮番地山林貳拾壹町七段貮畝貳拾歩同參番地山林壹町貳段八畝拾歩所有権の儀往昔より不分明にして彼我各々以て所有地と相信じ來候處明治二十九年和泉上司に於て右山林立木の中杉檜樅栂松を賣彿ひたるにより茲に所有権を判明すべき機會を惹起し雙方屡次交渉の末其和裁事件を現任北桑田郡長森田幹氏に委嘱し同氏は各自に就き懇篤に證據書類並に沿革情由を聞札し本件の繁雑晦澁にして到底理非曲直を判明し難きを察し雙方の情義を酌量し和裁を宣言せられたる處情義周到にして雙方異存無之に付茲に左記の條件を遵守することを盟約す。
 一、土地に付きては大字和泉上司中字奈良井山壹番地中壹町貮段八畝拾歩大字大野に就きて之を言へば字奈良井山三番地を以て大字和泉上司の所有とし其他和泉上司中字奈良井山壹番地中四拾四町九段弐畝弐拾歩大字大野に就きて之を言へば奈良井山壹番地弐番地の地所を以て大字大野の所有に歸し各現形の立木を土地と共に其の所有と爲すべきこと
但し土地境界を判明ならしむる爲め別紙圖面を添付す
…」

大野の伝説






大野の小字一覧


大野(オオノ)
道ノ下(ミチノシタ) 文字?地(モジガイチ) 畷ノ西(ナワテノニシ) 道ノ上(ミチノウエ) 風呂ノ元(フロノモト) 井ノ元(イノモト) 迫谷(サコダニ) 札ノ辻(フダノツジ) 田中川(タナカガワ) 下野(シモノ) 仲ノ間(ナカノマ) 道ノ間(ミチノマ) 庵ノ谷(アンノタニ) 広畑(ヒロハタ) 森ノ上(モリノウエ) 新溝ノ下(シンミドノシタ) 森ノ下(モリノシタ) 溝ノ間(ミドノマ) 岡ノ上(オカノウエ) 谷川(タニガワ)

関連情報


こんな案内地図が貼ってあった。




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丹後・丹波
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福井県三方郡美浜町
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『北桑田郡誌』
『美山町誌』各巻
その他たくさん



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