京都府南丹市美山町佐々里
京都府北桑田郡美山町佐々里
京都府北桑田郡知井村佐々里
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佐々里の概要
《佐々里の概要》
町の東部で、ここから東は標高700~800mの山稜を介して京都市になる。由良川支流佐々里川が山間を北流し、東部に源を発した中ノ谷川が西流してこれに合流するところで少し広くなっている。
古代は弓削郷、鎌倉時代以降は知井庄。
佐々里村は、江戸期~明治22年の村。知井12村の1。丹波国桑田郡知井庄のうち。慶長7年(1602)幕府領、天保6年(1835)より園部藩領。
明治4年園部県を経て京都府桑田郡、同12年北桑田郡に所属。学制以前村内には大島祐誠の寺子屋があった。同22年知井村の大字となる。
佐々里は、明治22年~現在の大字名。はじめ知井村、昭和30年からは美山町の大字、平成18年からは南丹市の大字。
《佐々里の人口・世帯数》 17・10
《佐々里の主な社寺など》
佐々里峠
府道38号(京都広河原美山線)の佐々里峠の口。冬期は封鎖されるそう。佐々里川に沿って続く、これを越えると京都市左京区の広河原という所ヘ出る、広河原や花背は保津川の上流になり、元々は丹波国桑田郡であるが、その先から山城国愛宕郡になり、鞍馬、貴船という桂川上流に出る。ミヤコのカホリがしてきそうで、鞍馬天狗のおじさんも出て来そうな気配がする。
もう一つの支流の八丁川に沿って、府道370号(佐々里井戸線)がある、その源流部の小盆地には八丁(廃村)があったそうだけれども、通行不能だそう。
知井八幡神社
八幡神社は弓削郷の産土社で、弓削八幡(京北町上中)を勧請したものかと思われ、美山町の各集落にも必ずと言っていいほど祀られている。その中でも当社は特に重要な社と見られる。
甲賀三郎兼家伝説の地である案内板がある。
大鹿退治伝説の里
元明天皇の和銅6年(六一三)、丹波の国の山奥に八つの頭をもつ巨大な鹿かおり、都の人々を恐怖におとしいれ、村々の農民は田畑を荒らされ大変な被害を受けていた。
天皇は武将甲賀三郎源兼家に大鹿退治を命じた。兼家は、豪勇の武士を引き連れ、弓削八幡宮で武運を祈り、険しい山道を二人の童子に道案内され、八丁山へ、衣懸山から佐々里川上流、栃柳谷の山の中へと進んでいつた。そして布滝の岩屋から出てきた八頭の大鹿に兼家は矢を放ち目を射た。
大鹿の血は、岩や道を染め(赤石ヶ谷)、ついに倒れ、兼家は大鹿の首をはねた(まないた岩)。
兼家は、家来共々神の加護と武運に感謝し、佐々里に祠を建て、八幡大明神を祀り、都への路についた。家来の中にこの地に永住した者の子孫が今日まで続き、これを後に智伊(知井)十苗といい、知井之庄開拓の先人と伝えられている。
(十苗は、林、勝山、高野、大牧、中田、東、長野、名古、中野、津元 |
柳田国男も『京都の伝説・丹波を歩く』も注目した所だが、郡誌も町史も触れない、当社すら触れない様子。ほぼ伝説の通りだったとすれば当地から知井の地は開かれていったのかも知れない。
諏訪神社というのはどこにあるのか、本殿内に合祀されているのだろうか。神体の鎌もわからなかった。
囲垣祭
珍しい物が境内におかれていた。囲垣祭というものだそう。
案内板には、
囲垣祭の由来
囲垣祭とは、村民全員が講中になり、満十五歳になった若者の元服を祝う儀式と祭りである。囲垣とは、元服した若者の名前を記して八幡宮の境内に立て掛ける木札をいう。佐々里の囲垣講の起源は、遠く江戸時代以前にまで遡る。他村の者が佐々里村の立木を再三再四伐採した。奉行所に訴え裁判となったが、その際村の若者の雄弁が力となり、北の方水流れの分は佐々里の所有であるとの裁判が下された。それが元和の旧暦三月二十七日(現在は四月二十七日)であったことからこの日に囲垣祭が行われるようになり、今に至っている。 |
おめでとう、新若者に対する村の期待の大きさが見えるような祭、しかし男の子の名ばかりのよう、けっこういる。女の子も入れれば、この倍はいることになる、佐々里だけのことではないような数で、これは知井村全体の祭なのだろうか。中三が高一くらいの年齢だからまだ親元にいるのだが、高校卒業すれば、何人が村にとどまることになるのだろうと心配になる。
「囲垣」は齋垣と書くが、霊地を占めるための垣のことで、瑞垣、玉垣とも呼ばれる、万葉時代以前からの言葉のようである。今なら四周にしめ縄が張ってあるような場所で、これを越えて中へ入ってはならない。神社境内の周囲にたいていは石製の垣が作ってあるが、あの垣のことである。中は神の地であり通常の場所ではない、人間が中へ入る場合は、物忌をして心身共に浄めてからになる、だから本来は忌垣の意味のようである。
当社の場合はこんな囲垣がある↑、二重に締められているようである。だいたいは一の鳥居から先の中の空間は囲垣の中である。
勝手に入って写真を写したりしてはならない場所であることを示しているのだが、ワタシは勝手に入るが、それくらい強く神社にひかれている者と思って、誠に失礼を許してもらうことに勝手に決めている。別にワタシは神と同格のエライ者だぞと勝手に思い上がっているわけではない。
この名を記した木札の列が囲垣のように見えたから、この名があるものか。
真宗大谷派弘誓山最勝寺
知井八幡社の八丁川を挟んでの向側にある。同寺は大治3年(1128)良忍が知井谷に建立した真言宗聞法寺の末寺であったが、文明7年(1475)蓮如上人に勧化を受けた祐善によって再興され、真宗に改められた、蓮如筆の六字名号1幅を蔵する。その後70余年無住であったが、元亀年間(1570~73)祐西が住職となり再々興したという。また本願寺と織田信長が戦った石山合戦に際し、檀家中より有志を募って信長方と交戦、殊勲を立て門主教如より金襴輪袈裟および水晶大念珠を与えられたといい、今も寺宝として伝える。近世には園部藩主の位牌安置所となり、明治維新まで毎年その菩提を弔ったと伝える。
『北桑田郡誌』
最勝寺 字佐々里にあり、寺傳にいふ。本寺は崇徳天皇の大治三年大原の良忍丹波國に來りし時、知井谷に一寺を創立して聞法寺といひしものゝ末寺にして、もと眞言宗なりき。然るに後土御門天皇の文明七年蓮如如上人若狭よりこの地に入りし時、南村に於いて兵部卿。(入道して浄頓といふ)中將(浄頓の弟にして若法師といふ)の二人蓮如の勧化を受けて眞宗に歸依し、若法師は名を祐善と改め佐々里に來りて本寺を再興す。蓮如の兄弟を化導せし際親筆の六字名號各一幅を與へて茲を去りしが、本寺は尚之を保存す。地方にて之を番の名號と名づけて尊崇す。祐善子なく爾來七十餘年間無住のまヽ経過せしが、後祐西來りて本寺の住僧となる。 祐西は新田義貞の族大島讃岐守義政の裔なるが故ありて遁世出家せし也 天正年中織田信長の本願寺を大阪石山に攻むるや、祐西は檀徒中の同志を引具して信長の軍を防ぎ屡々戦功を立つ、門主教如之を賞して自ら着用せる金襴輪袈裟及び水晶大念珠を與ふ。今この二品共に教如の壽像と併せて本寺に寳藏せらる。降りて園部藩主小出對馬守の時より本寺はその位牌安置所となり、明治に至るまで同藩主歴代及び家老小出孫兵衛祖先累代の位牌を藏し、毎年その菩提を弔へり。 |
《交通》
《産業》
《姓氏・人物》
佐々里の主な歴史記録
佐々里の伝説
『定本柳田国男集』「甲賀三郎の物語」に、
丹波北桑田郡知井村の佐々里の八幡宮にも、元は別社として諏訪神社があり、それを香加三郎兼家を祀るものと謂って居る。兼家妖魔退治の朝命を拜し、丹波の八丁山に入って八頭の大鹿を射殺した、其故迹と傳へて衣掛峠矢撓石、俎板岩などがあるといふから、元の語りごとは長かったのである。後人兼家を諏訪明神の化現なりとして、神に祀ったといふのを、史實の如くに思って居る人もある。 |
天照大神の裔とか名乗っていて、それを信仰している日本人はけっこういる、少なくとも数十年昔までは全国民がそう盲信していた、中には信じてはいないが信じたフリをしていた人もあった、アホなことを言うな、とか言えば即監獄であった、敗戦後に自らの神格を否定した天皇人間宣言が出されるが、それでもまだまだまだまだ天皇は神様で日本は神国と信じている、天皇の兵は正義の兵で、残虐などするはずもないし戦争すれば勝つと信じて北方領土は戦争でとりかえす、とかのネゴトを言う国会議員すらいるしまつなのだから、国民の中には腐るほどもいることであろう。女王とか国王とかいる国はあるが、神の子孫と名乗りそれを国民が信じているという国は珍しいのではなかろうか。たぶん21世紀では日本だけでなかろうか。時代遅れも世界一のチト頭のおかしな国に住んでいるの自覚は持っているべきであろうか。
『京都の伝説・丹波を歩く』に、
佐々里の甲賀三郎物語 伝承地 北桑田郡美山町佐々里
元明天皇の和銅六年(七一三)、妖怪が禁裏に出没し、近国の農民もその害を被った。天皇が博士に占わせたところ、丹波の国北部の深山に八頭一身の巨鹿あり、近年の災害はそのなす所なりとのことであった。天皇は武将の甲賀三郎兼家にこれを退治させることにした。兼家は家来を率いて丹波の国に到り、諸神の加護を祈り、矢を作り弓を削っ。弓削村の地名はこれによる。すると神祐著しく、箭竹が一夜のうちに生じ繁茂した。弓削村矢谷がその址である。兼家が山に入ろうとすると、二人の童子が現われ八丁山に導いた。途中、坂道を越えるとき、狩衣を脱いで甲胄を身に着けた。この地が衣懸山である。こうして佐々里川の上流朽柳谷に入ると、たちまち天地鳴動し、八頭一身の大鹿が岩窟内より躍り出て、兼家に飛びかかった。ただちに矢を放つと、見事に命中した。鹿は矢を負いながら山を下り、ついに斃れた。流血が岩や道を染めたので、この地を赤石ヶ谷という。兼家は大鹿を岩上で斬ったが、この岩を俎岩という。この岩は後に洪水で流され、今は芦生の空戸の下にあり、付近を俎板淵という。また大鹿を斬った後、兼家は甲胄を脱ぎ、ふたたび狩衣を着けたが、今この地には鎧岩がある。兼家は都に上ろうとして佐々里で休憩し、ここに一祠を建て八幡大明神をまつり神恩に謝した。これが今の知井八幡宮である。なお、大鹿退治に成功した従兵のうち、この地に留まって永住した者がいる。これが知井十苗で、知井村開拓の旧家だという。十苗とは、林・勝山・高野・大牧・中田・東・長野・名古・中野・津本の十家である。 (『京都府北桑田郡誌』)
伝承探訪
美山町は、文字どおり、山の奥の美しい山村であった。
桂川に沿って北上した車は、園部町を突切り日吉町に入ると、桂川の支流・田原川に沿う山道を西へ向かい、やがて佐々江に至って、さらなる支流にしたがいつつ再び北上を続ける。小型の車がかろうじて通れる山の道は、つづら折りに登って、つづら折りに下る。初夏の日ざしが、濃い緑の葉を通って差し込む美しさは格別だが、はたしてこの道は人里に通じるのかどうかが不安に思われる。
小一時間も走ったであろうか。急に視界がひらけて、由良の清流が飛び込んでくる。ここが美山町で、みごとな茅葺きの家並みは、まさに農山村の原風景さながらであった。しばし車を止めて茅葺きの風景に見とれる。
そこは北聚落で、文化財の指定を受ける大宮八幡宮は、かつては諏訪社を合祀していた当地方名刹の一つであった。江戸期の旧家を利用したできたての民俗資料館を訪ねて問うと、西方の白尾山を越えた鶴ヶ岡聚落には、諏訪社が祀られており、正月五日には昔ながらの「御狩の神事」がおこなわれて、なかなかの賑わいだと言われる。渡された「案内書」によると、八幡社の後背には、猪・鹿・熊の絵が示されている。茅葺きの美しい山里は、山の幸の豊かな狩猟の山村でもあった。それが狩猟の神なる諏訪明神を祀らしめるに至ったのだ。
車はさらに西に行く由良川を静かに遡り、同じく知井十二ヶ村のうちである下・江和・田歌の聚落を通過、まもなく南に遡ると由良の最上流のめざす佐々里の聚落に逢着した。早速に由良の源流・佐々里川沿いの知井八幡宮を参拝すると、はたして当社は諏訪明神を合祀するところであった。それのみならず当社のご神体は鎌であると宮総代は説明される。諏訪信仰にとって鎌は、悪鬼を払う呪器であるとともに、依代的存在で、これをご神体とする諏訪社は、全国に及んでいる。しかも当社の祭日は、春は四月二十七日、秋は十月十五日のこと。その秋祭は八幡宮のそれにしたがうもので、春祭の二十七日は諏訪の神事によることであった。
およそ諏訪の信仰は、狩猟をよくする人々の間に支持されてきた。それは、諏訪明神の神格が狩猟神であり、その祭儀は四度に及んだ狩祭を旨とするゆえであった。中つ世、仏教が狩猟を殺生のわざとする罪業と主張したのに対して、信州の諏訪社は鹿食免を発行し、諏訪の勘文と称する唱え言によって、このわざを積極的に支持したのであった。そして、その諏訪信仰の布教者、すなわち諏訪の神人たちは、この鹿食免・諏訪の勘文を持って、山の狩猟民たちの間を歩き、その信仰を弘めていったのだ。
その上、この布教者たちは、その諏訪の鹿食免・勘文のみならず、狩猟の神なる諏訪明神の本地、つまり前生譚として、狩猟の名手なる甲賀三郎の物語『諏訪縁起』を流布して歩いたのである。その甲賀三郎は、鹿を射る弓矢の上手によって鬼王を退治し、はからずも地底を遍歴、蛇体と化して帰国、後に諏訪明神に転生したという物語である。この物語が、当地方にも伝承されていたことは、当社藏の『諏訪上大森大明神御由緒実記』などによって知られる。
はやくわたくしは、この甲賀三郎の物語『諏訪縁起』流布の地域に、諏訪神人の定着の歴史をうかがってきた。小稿「甲賀三郎譚の管理者」(『神道集説話の成立』所収)がそれである。これによると、兼家の大鹿退治にしたがった従兵のうち、「この地に留まって永住した者」とは、あるいはそれを意味することになる。しかも、兼家の佐々里の山中における大鹿退治の営みは、その諏訪神人の唱導した諏訪の狩祭を意義づけたものと思われる。それならば、その諏訪神人の定着地は、当佐々里聚落ということになろう。
今、佐々里聚落の戸数は十二戸。かつてはほとんどが狩猟をよくしていたという。そのうち三戸は知井十苗の「林」、同じく三戸は「勝山」姓を名告る。伝説は、隠れた歴史を物語るのだ。 |
佐々里の小字一覧
佐々利(ささり)
九鬼(クキ) 上野(ウエノ) 森脇(モリワキ) 向条(ムカイジヨウ) ズルマン 段(ダン) ハリマ 池町(イケマチ) 西保(ニシホ) 戸玉(トダマ) 村下(ムラシタ)
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