下平屋(しもひらや)
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京都府南丹市美山町下平屋 京都府北桑田郡美山町下平屋 京都府北桑田郡平屋村下平屋 |
下平屋の概要《下平屋の概要》 国道162号(若狭街道・周山街道)の上平屋から府道19号(園部平屋線)に入った、由良川本流の右岸側の集落。地内の西背後は、城山(403m)で、その東麓になる、中世川勝氏の居した山城の島城があり、その遺構の一部を「丹波誌」は「大サイ野山ノ頂ニアリテ宮嶋ノ野ヲ下瞰ス、昔ノ建造物アリタル所力一尺角ノ石アリ長サ一間、又礎トシテ塁トシテ揚ゲタルカ、之ヲ籠石卜呼ブ」と記すという。 古代は弓削郷、中世は野々村庄。 下平屋村は、江戸期~明治22年の村。平屋10ヵ村の1。慶長7年(1602)幕府領、元和5年(1619)より園部藩領。 明治4年園部県を経て京都府桑田郡、同12年北桑田郡に所属。同14年当村に近隣11か村連合の戸長役場を設置。同22年平屋村の大字となる。 下平屋は、明治22年~現在の大字名。はじめ平屋村、昭和30年からは美山町の大字。平成18年からは南丹市の大字。 《下平屋の人口・世帯数》 101・47 《下平屋の主な社寺など》 下平屋遺跡から縄文時代のものと思われる石棒・凹み石などが出土している。 三社明神 真宗大谷派西乗寺 天文20年(1551)祐道の開基と伝え、境内東南隅の阿弥陀堂に安置する阿弥陀仏と観音・勢至両菩薩の木像は、平安時代の作品で重要文化財。 『北桑田郡誌』に、 「西乘寺 下平屋にあり、天文二十年僧祐道の開基なりと傳ふ。境内東南隅に阿彌陀堂を建て丶こ丶に阿彌陀佛観音勢至両菩薩の木像 即ち弥陀三尊の像 を安置す。いづれも端麗の尊容を具へ、鎌倉時代優秀の作品なるべし。」とある。 『美山町誌』は、 「西乗寺の仏像 平安時代 左脇侍 室町時代 木造阿弥陀如来及両脇侍坐像三躯 美山町字下平屋小字上ノ山二四番地 真宗大谷派西乗寺 昭和二年七月二十一日指定 来迎印を結ぶ阿弥陀如来像を中心に、向かって右に観音菩薩坐像、左に勢至菩薩坐像を配する三尊一具の仏像で、このような形式は貴族社会に浄土教か普及した藤原時代に数多く作られ、この像も藤原時代のいわゆる定朝様といわれる穏和な姿をしているので藤原後期のものと折紙付きである。 桧材の寄木造り、彫眼、漆箔で、像高が中尊一四〇センチメートルの結跏趺坐、観音が一〇六センチメートル、左膝をたて蓮台を奉持する。勢至が100センチメートルで合掌跪坐、両脇侍の台坐は本体と同時期の作ではないが、中尊のものは同時に作られたものと思われ七重の蓮華座になっている。阿弥陀如来の慈悲に満ち溢れた優しい面相、無理な誇張に走らない穏和な体躯と着衣の表わし方など、藤原後期如来型の特色をよく表わしていると専門家の言である。 この仏像の縁起は諸説あり、それを裏付ける資料がないため定説を述べることはできないが、戦後間もないころ、下平屋公民館が作られた「西乗寺案内」のパソフレッ卜には次のように紹介されている。 そもそもこの阿弥陀如来および両脇侍三尊仏は、定朝工房の作とも伝えられている。もとは奈良の地にあったが円城寺、延暦寺僧都の争いの折、初めて火難を免れ給うたという。かくてうち続く僧兵の乱のため。難を京の近郊に避けて安置されたが、南北朝の兵乱にこの寺も火難に遭うにいたった。だがこの時、三尊仏はなにびとも知らぬうちに、数町離れた松林に移って安泰の御姿を拝することができた。村人たちはその霊威にうたれ、その地に一庵をつくって火災除けの御仏として崇めるにいたった。その後戦国時代の世情騒然の折、一夜侍僧の霊夢により衆生済度の願いをこめて、京洛の地、遥かこの野々村の里に阿弥陀如来像を移し。ここに一寺を建立するに至った。これが西方寺の初めである。しかるにかつてのところも兵火の乱に紛れて焼野となりしため、里の者達この地に御仏を迎えたのは、火除けの霊験によるところと仰ぎ帰依した。 くだって室町末期の頃とか、この地一帯大野火に襲われた。この西方寺もあわや紅蓮の焔に包まれたかと思う時、折しも村人たち猛炎の中にありありと黄金に輝く阿弥陀仏の御姿を拝むと、俄かに風向き変って堂宇は遂に類焼を免れたという。また近くは大正時代に近くに大火あり、その火勢まさに下平屋の地に迫るとき、里の住民たち挙って阿弥陀仏に火難を免がせ給えと念願した。この時、日頃の尊崇の心ざしと併せ一念通じてか、さしもの猛炎もここに至らずして事なきを得たという有難き次第なり。かくの如く火伏せの霊験いよいよあらたかにして崇敬ますます高き御仏なり。 国宝に指定後、直ちに修理の必要性が認められ、文部省において設計調査したところ、修理費として一〇八八円七五銭が算出された。その内訳をみると、主たるものは木材と彫工、助手、漆工等の工賃である。当時の物価を考える参考に二、三の内容を紹介すると、彫工の日当が四円、大工が三円、晒木綿一反が一円、桧材一才で一円五○銭、鎹一本が一〇銭等、修理費の捻出は下附金が六八八円七五銭、すなわち六割が国の負担で地元は四〇〇円負担している、当時の修理に際してのこまごまとした仕様書が残されているので貴重である。」としている。 小林家住宅 文化13年(1848)の建築で野々村33村の大庄屋を勤めたという小林家住宅。同住宅は平入5間梁で、「なかのま」「かみのま」は長押をまわし棹縁天井を吊り、幅1間の広縁を設けたもので、各庄屋を集めたときにはここにも畳を敷いたといわれる。小林家住宅三棟(主屋・小屋・土蔵)は重要文化財。主屋は文化13年の建築で桁行15.2メートル、梁間12.4メートル、入母屋造・草葺。 写真手前の建物が小屋、その奥に主家、その奥に土蔵がある。 ちょっと前(ワタシが子供の頃)まで、ちょっとイナカへ行けばどこでも見かけた茅葺の農家。ワタシのおジイちゃんおバアちゃんも住んでいた、築200年くらいはよくあったと思う、私とこの家が私の村では一番古い、などいう子がいたもので、聞けば200年くらいと言っていた。 『美山町誌』は、 小林家住宅 主屋、小屋、土蔵各一棟 美山町字下平屋小字寅石四番地ノ一 小林清亮氏住居 昭和五十年六月二十三日指定 主屋(一棟)桁行一五・三㍍ 梁間一二・四㍍ 入母屋造 茅葺 小屋(一棟)桁行九・九㍍ 梁間四・九㍍ 入母屋造 茅葺 土蔵(一棟)土蔵造 桁行三・九㍍ 梁間三・九㍍ 切妻造 二階建 桟瓦葺 附 露地門一棟 腕木門 切妻造 桟瓦葺 高塀二棟 露地門北長一・七㍍ 南折曲り延長一五・〇㍍ 各杉皮葺 文化元甲子年よりの諸色買物代銀控 一冊 土蔵普請見舞受納帳(文化三年丙寅二月吉日の記) 家普請見舞受納帳(文化十三年子十月の記) 土蔵普請入用帳(文政十一年子十月の記) 小林家は江戸中期より野々村庄の大庄屋をつとめた当地方屈指の豪農で、その屋敷構えにその面影を残している。「北山型」の進んだ形ではあるが附属の建物と一体となった庄屋級住宅のすべてを知るうえで貴重な建造物ということで指定を受けた。それらを証拠づける文書もよく残されており、当時の建築のありさまや村落共同体のありようなどを知る手掛りも得られる貴重な資料群である。 北山型特有の「あげにわ」も近世後期ごろからしだいにすたれ、普通の土間になり、平面分割も中央縦線にとらわれなくなり、いわゆる四間取り型の民家と区別のつきにくい平面構成をもつものが現れてきた。この住宅はその代表例である。ここでは広い土間があり、表と裏の出入口に通じ、床上部は表側三室、裏側三室の合計六室からなり。田の字型の四室の中の二室を更に分割した形の平面をとっている。当家で特に注目されるのは表側に幅一間の広縁を設けている点で、役宅として領主と村人との間に生ずる政治的、社会的な動きが民家の中にも持ち込まれ、そこに幾分の格差がつくり出された証拠であろう。 また前栽の庭も小造りではあるが亀を形どり、その中央の「イロハモミジ」は、当家建築当時は成木であっただろうと思われるので、樹齢は三〇〇年を超えていると思われる。町の指定木となっている。」と記す。. 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 下平屋の主な歴史記録下平屋の伝説下平屋の小字一覧下平屋(しもひらや) 花ノ木(はなのき) 上ノ山(うえのやま) 下タ西(したにし) 西ノ口(にしのぐち) 広手口(ひろでぐち) 森(もり) 寅石(とらいし) 迫筋(さこすじ) 高砂(たかさご) 下モ西(しもにし) 大津クシ(おおつくし) 堂ケ橋(どうがばし) 谷口(たにぐち) エラ 金屋(かなや) 堂ノ前(どうのまえ) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『北桑田郡誌』 『美山町誌』各巻 その他たくさん |
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