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丹波の

下吉田(しもよしだ)
京都府南丹市美山町下吉田


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京都府南丹市美山町下吉田

京都府北桑田郡美山町下吉田

京都府北桑田郡宮島村下吉田

下吉田の概要




《下吉田の概要》
府道368号(和泉宮脇線)の下吉田トンネルのあるあたりの一帯。由良川が北へ南ヘ何度も大きく湾曲しながら流れ、その左岸側。
下吉田村は、江戸期~明治22年の村。宮島11ヵ村の1。古代は弓削郷、中世は野々村庄。慶長7年(1602)幕府領、元和5年(1619)より園部藩領。慶安元年(1548)3月、園部藩の検地を受けた。明治4年園部県を経て京都府桑田郡、同12年北桑田郡に所属。同22年宮島村の大字となる。
下吉田は、明治22年~現在の大字名。はじめ宮島村、昭和30年からは美山町の大字。平成18年からは南丹市の大字。


《下吉田の人口・世帯数》 24・44


《下吉田の主な社寺など》

応神天皇を祀った八幡神社が鎮座する。真宗大谷派円融山頓乗寺は、天正4年俗名山内秀次の開基にかかる。
村域内には中世以前の創祀と推定される八幡神社がある。また真宗大谷派の円融山頓乗(ルビ・とんじょう)寺があり、天正四年(一五七六)一一月、了巴(俗名山内秀次)の開基と伝える。

八幡神社
中世以前の創祀と推定されているという。
『北桑田郡誌』に、「八幡神社 下吉田にあり、應神天皇をまつる。毎年秋放生曾に祭典を行ふ。」とある。

真宗大谷派円融山頓乗寺

明治初年の水害により現地に移転したという、本堂正面の竜の彫刻は古い建物の一部と伝える。本尊阿弥陀如来のほか親鸞・蓮如の木像を安置。天正4年(1576)11月、了巴(俗名山内秀次)の開基と伝えるそうである。『北桑田郡誌』は、「圓融山頓乘寺 下吉田にあり、真宗大谷派の末寺。天正四年十一月了巴 俗名山内秀次 の開基せる所と傳ふ。」とある。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


下吉田の主な歴史記録


猿楽
 梅若は丹波猿楽の家の名前だ。猿楽は奈良時代に中国から渡来した散楽から始まったという。散楽とは歌舞・音曲・道化・軽業・奇術などあらゆる雑芸を総称したものだが、この国に定着したあと中世にはその中の歌舞劇が次第に能と狂言の形に分化して、精神的な世界を表現する芸能に進化を遂げる。中世以来の混沌のなかで、未曾有の殺し合いを生き抜いて新しい治世の形を作り上げなければならない武将にとって、これら芸能や茶道の世界は心の安定のためになくてはならない要素であったらしく、熾烈な戦いのあい間あい間に猿楽の宴を催している。猿楽の役者は地方地方に拠点を持って、それぞれに芸を磨きあい競いあっていた。丹波は中でも数が多く評価も高かったらしい。彼らはいつも集団で暮らしていたわけではなく、ことあるたびに各地から集合していたらしく、今見た例でも下吉田・南と点々と存在している。年貢の赦免高を持つということは、幕府に行事がある時には、猿楽の芸能者として江戸に参上していたことを意味する。下吉田の梅若七郎兵衛は川向かい、城山の麓に住んでいたようで、城山の城主川勝氏の庇護のもとにあったらしいことをうかがわせるが、江戸時代の何時の頃にか下吉田から姿を消している。南の梅若治右衛門の家は今も続いているが、同家の系図には天明二年六月梅若徳次郎景勝が二九歳で死去、子紋之助はまだ三歳で「御用勤めがたく」親類に譲って江戸参勤のことはなくなったと書かれている。この親類は鶴ヶ岡の方だと言われている。同家の過去帳を拝見すると棚野との縁が少なくない。寛文十年(一六七〇)の上吉田村惣中宛の文書に、上吉田村と山首谷の所属について争った殿村の梅若五助という人の名前がある。江戸時代たいがいの百姓は公的には姓を名乗ることが許されなかったが、幕府の行事に参勤する猿楽師は士分の格を与えられていたようで、ここに梅若の姓が記されている。この人が猿楽と無縁なはずはないだろう。殿村は川勝内蔵介あるいは川勝光綱の城があったという伝承を持つが、その城下に梅若は住んでいた。島城の麓、下吉田に住んでいた梅若と、軌を一にしている。川勝氏は猿楽梅若氏を抱えることによって、信長・秀吉に独特の価値を認められていたのかも知れない。
 絶えず数多の血しぶきを浴びながら凄惨な戦いを勝ち抜いてきた武将達は、何かにっけて猿楽の宴を催し、ひととき血なまぐさい現実を忘れた。忘れさせるだけの強烈な魅力が猿楽にはあった。猿楽師は生臭いことは言わない。何も言わず、何も知らない振りをしながら、その場の信長の目を読み、信長の魂のもつれを一瞬にほごすわざを己の身体の動きに込めて演ずる、完膚無きまでの阿吽の呼吸があった時に、信長は感嘆の声を上げた。野々村の猿楽師は、誰よりも近くから、誰よりも深く、信長の、秀吉の、心を見つめていたのだ。
 猿楽という言葉は散楽から転訛したものだろうという説はそれで良いが、丹波はもともと都から見たら田舎の代名詞のようなところで、丹波人は「丹波の山猿」と揶揄もされた。その山猿の舞楽で「猿楽」と侮蔑的に呼ばれたのが始まりだったかも知れないのだけれど、そこから作り出された芸能は、心ある誰もが今を一瞬見失い、異次元の深遠微妙な世界に放り込まれ、魂の浄化を与えられる力を秘めるものだった。
 和知町の梅若氏系図には「梅若氏御先祖墓所大嶋と号し今は知井郷と云う此の所にこれあり。大嶋と云うは、今は川の名と相成り申し候」という記述がある。南村と北村の間にある大嶋のことらしい。このことは「梅若会」前西芳雄氏からご教示いただいたことである。梅若猿楽とわれわれの土地との関わりはこれまで知られている以上に深いものがありそうである。
  『美山町誌』)

下吉田の伝説





下吉田の小字一覧


下吉田(シモヨシダ)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『北桑田郡誌』
『美山町誌』各巻
その他たくさん



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