旧・知井村(ちい)
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京都府南丹市美山町南・北・中・河内谷・下・知見・江和・田歌・芦生・白石・佐々里 京都府北桑田郡美山町南・北・中・河内谷・下・知見・江和・田歌・芦生・白石・佐々里 京都府北桑田郡知井村 |
旧・知井村の概要《旧・知井村の概要》 由良川の最上流部に位置する旧村で、古くは知伊と表記される。 知伊村は、鎌倉期~戦国期に見える村。丹波国桑田郡のうち。 鎌倉末期の徳治2年10月7日、弓削荘下村に宛てた公文僧覚円の山論裁許の沙汰状が初見(北桑田郡誌所収文書)。同文書によれば、弓削荘下村・知井村・棚野村の3村に課された臨時課役としての材木量をめぐって山論があり、杣工人の員数に従い材木量を沙汰するよう裁許されている。次いで、至徳4年閠5月21日付の天竜寺領土貢注文案に「一 弓削庄上村 寺納米玖拾斛捌舛玖合〈加延并智伊村分〉」と見える(天龍寺文書)。 下って天正2年、荒木村重らが山城誓願寺の本堂造営料を寄進しているが、同年5月3日付の目録には「<チイ村〉弐石 〈山国〉村山駿河守」と見える(誓願寺文書/大日料10-16)。また、年未詳7月13日付で川勝兵兵衛大夫給人らの動員を催促した羽柴長秀書出にも「知伊村」と見える(記録御用所)、そうである。 村域は美山町南・北・中などを中心とする地域と推定されている。また北に鎮座の八幡神社所蔵文明10年3月銘の2個の鰐口には「丹州桑田之郡知伊之庄則八幡宮」「丹州桑田弓削庄知伊村」とあるそうである。 江戸期は下村・北村・南村・中村・佐々里村・芦生村・河内谷村など9か村が、知井庄9か村と総称された。 近代の知井村は、明治22年~昭和30年の北桑田郡の自治体。南・北・中・河内谷・下・知見・江和・田歌・芦生・白石・佐々里の11か村が合併して成立した。旧村名を継承した11大字を編成。昭和30年美山町の一部となり村名解消、村制時の大字は美山町の大字に継承された。 チイといった地名は、全国的にも当地しか見当たらない。伝説によれば、巨鹿の血のことで、その血を祀るのが佐々里の知井八幡社ということである。 佐々里のササ、下側の白石のスズという地名、チイはシイのことでなかろうかと推測すると、これは宮津市栗田の獅子崎(しいざき)、その北に獅子(ちし)がある。チとシは通音とわかる。ササ、ススの地のシシ神社で、これはたぶん金属を指しているのかと思われる。下弓削の山中からかつて銅鐸が出土している。佐々里八幡社は弓削八幡(京北町上中)を勧請したものでなかろうか。京北の弓削氏はたぶん物部氏であろう。弓削は弓を作る氏族と言われる、物部弓削大連守屋とか、この後裔が弓削氏を名乗っている。物部氏なら弓も作ることだろうし、金属も必要であろう。諏訪大社の神長官は代々守矢家だそうで、諏訪大社とモリヤは何か関係があろうと推測されている。何となく全体がつながりそうだが、詳しいことは不明。 旧・知井村の主な歴史記録
関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『北桑田郡誌』 『美山町誌』各巻 その他たくさん |
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