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丹波の

知見(ちみ)
京都府南丹市美山町知見


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京都府南丹市美山町知見

京都府北桑田郡美山町知見

京都府北桑田郡知井村知見

知見の概要




《知見の概要》
由良川支流知見谷川の上流域で若狭と接する、美山町の一番北に位置する集落。府道38号沿いの中集落から府道369号(若狭街道)へ入り、その突き当たり一帯である。知井坂を越すと若狭名田庄村である。
古代は弓削郷、鎌倉時代以降は知井庄。
知見谷は、室町期~戦国期に見える荘園名。丹波国桑田郡のうち。応永18年3月日付の宝幢寺・鹿王院所領目録に鹿王院領の1所として「丹波国知見谷〈同国散在、注文在別紙〉」と見え、永享7年3月日の目録にも同様に記されている(内閣文庫蔵鹿王院文書)。当地については文明7年5月16日、同10年5月27日の両度、幕府が鹿王院に安堵しているが、そこでは「鹿王院領丹波国知見谷四分壱」とあり、残る4分の3については未詳。下って、年未詳7月13日付で川勝兵衛大夫の給人らの動員を求めた羽柴長秀書出には、知伊村・棚野村などと並んで「知見谷村」と見える(記録御用所)そうである。
知見村は、江戸期~明治22年の村。知井12ヵ村の1。慶長7年(1602)幕府領、天保6年(1835)より園部藩領。明治4年園部県を経て京都府桑田郡、同9年知見中村を合併。同12年北桑田郡に所属。同22年知井村の大字となる。
知見は、明治22年~現在の大字名。はじめ知井村、昭和30年からは美山町の大字、平成18年からは南丹市の大字。


《知見の人口・世帯数》 51・25


《知見の主な社寺など》

八幡神社

府道369号から途中で西に入り、西畑の人家がなくなり道も途切れるあたりの杉林の中に鎮座。

日蓮宗本妙寺

八幡神社の並びの少し奥に本妙寺がある、崩れかけた山門、本妙寺と刻まれた石があるが本堂などはもうない。日経が慶長12年京都六条河原で鼻削ぎの刑にあった時、その血で染筆したという法華七字の血曼陀羅を所蔵していたが、無住となって建物だけとなり、仏像・什器・宝物は京都岩倉妙満寺に移ったと伝えられている。日蓮宗正法寺が知見全体を受け持つかたちになっているそうである。
本妙寺 字知見にあり。寺傳に據れば慶長年中僧日経他宗の迫害を被りてこの地に遁れ來り、舊家市川左門の歸依を受けて一宇の寺を起せるもの即ち本妙寺なりといふ。日経本寺を去りし後はその法弟日秀之を襲ひて大いに興隆に力めたりと傳ふ。本寺に藏する血曼陀羅は法華七字の題目にして、日経が世の迫害を受け慶長十二年二月二十日京都六條磧にてはなそぎの刑に遭ひし折、流血淋漓たる中に自若として筆紙を乞ひ得て染筆せる所なりと稱せらる。
要するに本村は平屋村と相同じく神社に乏しくして寺院に富める地なり。即ち北にまつれる八幡神社の外知見、下にも八幡大明神をまつれども特に記述すべき由緒も結搆もなし。之に反して寺院にはその數といひ沿革といひかヽる山地に於ては珍とするに足るものあるは、吾人の一驚を喫せる所なり。 (『北桑田郡誌』)


日蓮宗知見山正法寺

こちらは若狭街道沿いにあり、境内にはイチョウの巨樹がある。登り口の案内板がはげていて読めないが、どうやらこのお寺が知見寺、本像寺の流れをくむ寺院のようである。

知美寺(のち本像寺と改称)は貞観16年(874)の創建と伝えられる真言宗の古刹。
文献には、
本像寺
知井村大字知見に在る法華宗の寺なり。寺傳にいふ。本寺はもと眞言宗に屬し、貞観十六年智證大師の弟圓乘の開基にして長榮山知美寺といへり。十九代の僧多寳阿闍梨大観、永仁元年十一月五日日蓮の高足日像の此の地に巡錫せる際、之と法論を闘はして打ち敗れ、忽ち日像の弟子となりて、日蓮宗に改め、寺號をも本像と更めたりと。而して當時所蔵せし経文は之を三町餘距たれる山腹に埋め了せり。爾来京都本山妙顯寺貫首歴代の隱棲地に充てられ。一時巨刹なりしも、後花園天皇の康正二年四月火災に罹りて烏有に歸し、ついで元禄三年尾崎山の地を相して堂宇を再建せしが、近く明治四年十二月また炎上して堂宇什寳悉く燒失す。翌五年五月假に一草庵を結び以て今日に至る。
本寺蔵する所の大黒天木像は黝黒にして頗る古色を帯び、其の背後に左の如き銘文の刻せられたりといへば、今より五百八十餘年前の彫刻なるべき理なるも、未だ面り拜するの機會なきを遺憾とす。
    蓮師自作祈願
      爲後代記之
       暦應三年
       辰十月十三日     日像(華押)      (『北桑田郡誌』)


《交通》

知井坂700m

府道369号(若狭街道)の途切れる所、この先は柵があってもう行けない。八ヶ峰の登山路にもなっているので、歩いて行けばいけるのだろう思う。
古来若狭湾岸から京都への最短路として栄えた。稜線が凹んでてるあたりが知井坂と思われる、右ヘ続く尾根が八ヶ峰か。知井坂と堀越峠を越えるコースは重要路で、商人の通行が盛んであった。険路という。主な商品は塩・乾物・釘・蝋燭・糸などが運ばれたという。若狭の村人の中にも行商にでかける人も多く、月のうち20日も行商に歩く人があったという。行商は戦前まで続いたが、明治期~大正期に敦賀~舞鶴間に鉄道が開通すると、この交通路は次第に寂れていったそうである。

知井峠の向う側、若狭名田庄村に知三(江戸期までは知見と記している。名田庄村役場がある所は久坂で、知三久坂と呼ばれた知三の中心地)、同じ村名で、偶然同じというよりも、元々は同じ村、一つの村だったのではなかろうか。

《産業》


《姓氏・人物》


知見の主な歴史記録




知見の伝説

地名説話
知見の起源 知は血と音訓相通ず。往昔は血見と書けり。何れの時なるか知れずといへども、丹波と若狭との國境上下数里の峻坂にて大戦闘のありし時、流血坂路を蔽へり。よりてこゝを知坂と稱し血河こヽを流下せるによりて血見谷の名出で、射矢集中の地こそ矢原にして今八原と書く。戦士の宿泊せし地は小字大泊の名に遺り、知坂の中腹に駒立と呼ぶ所あるは此の時大將の駿馬を留めて指揮をなせしに起り、若狭に知三村あるも亦血見村の遺跡なりといふ。地名傳説もこゝまで懇切に附会せらるれば、多少の値あるべし。   (『北桑田郡誌』)
チは道のことか。丹波路(たんばぢ)などと今もいう。若狭街道の通じる村の意味か。チイのイは引き延ばした語か、ミは何か、三かも、三方向の交差点か、不明。




知見の小字一覧


知見(チミ)
古田(コダ) 宮ノ向(ミヤノムカイ) 大畠(オオハタ) 堂ノ下(ドウノシタ) 八原田(ヤハラダ) 大出合(オオデアイ) 家ノ上(イエノカミ) 本田(ホンダ) ヲドチ 大泊代(オオトマリダイ)

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『北桑田郡誌』
『美山町誌』各巻
その他たくさん



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