豊郷(とよさと)
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京都府南丹市美山町豊郷松尾・神谷・名島・洞 京都府北桑田郡美山町豊郷松尾・神谷・名島・洞 京都府北桑田郡鶴ヶ岡村豊郷松尾・神谷・名島・洞 |
豊郷の概要《豊郷の概要》 豊郷は棚野川支流の西川の流域の集落。川沿いに府道大岩美山線(34号)が走る。松尾・神谷・名島・洞の4集落から成る。鎮守は鈴波神社。真言宗御室派保土呂山成願寺は一般に中風寺と呼ばれる。 豊郷村は、明治9~22年の村。松尾・神谷・名島・洞の4か村が合併して成立。はじめ桑田郡、明治12年からは北桑田郡に所属。同22年鶴ヶ岡村の大字となる。 豊郷は、明治22年~現在の大字名。はじめ鶴ヶ岡村、昭和30年からは美山町の大字、平成18年からは南丹市の大字。 -4集落- 松尾 松尾村は、鶴ケ岡19ヵ村の1。棚野川の支流西川の左岸に開けた集落。川の上流は名島村、下流は船津村。古代は弓削郷。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが、確証はない。 慶長7年(1602)幕府領、寛文4年(1664)より篠山藩領。鈴波神社と諏訪神社の氏子。明治9年、神谷村・洞村・名島村と合併して豊郷村となった。 神谷 神谷村(かんだんむら)は、鶴ケ岡19ヵ村の1。西川に合流している神谷川の流域に開けた集落。神谷川を下ると東は名島村・松尾村。四方を山に囲まれ、西方にある船井郡境の標高898メートルの山を神山として信仰し、神の宿る谷というところから村名が生れたという。古代は弓削郷。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが、確証はない。神谷には上谷・下谷があり、かつて集落は高所の上谷にあったが、のちに現在の下谷に移転したという。 慶長7年(1602)幕府領、寛文4年(1664)より篠山藩領。諏訪神社の氏子、成願寺の檀家。村内丘陵地から室町時代の経塚三基が発見されている。明治9年、洞村・松尾村・名島村と合併して豊郷村となった。 名島 名島村(なしまむら)は、鶴ケ岡19ヵ村の1。西川の左岸に沿った集落。下流は松尾村、南西は神谷村。古代は弓削郷。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが、確証はない。 慶長7年(1602)幕府領、寛文4年(1664)より篠山藩領。鈴波神社がある。明治9年、神谷村・洞村・松尾村と合併して豊郷村となった。 洞 洞村(ほらむら)は、鶴ケ岡19ヵ村の1。西川の最上流に位置する。四方を山に囲まれ、西は洞峠を越えると何鹿郡古屋村に達する。川を下ると名島村。古代は弓削郷。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが、確証はない。 慶長7年(1602)幕府領、寛文4年(1664)より篠山藩領。八坂神社がある。成願寺の檀家。明治9年、神谷村・松尾村・名島村と合併して豊郷村となった。 洞には石灰岩層があり、48滝の各所に鍾乳洞があるほか、聖が谷には間口4m・高さ1.5m・奥行4mの岩穴があり、山で焼いた炭の中継保管地とされていた。洞の地名はこのような鍾乳洞系統の洞穴に由来するという。西の郡境に洞峠があり、瀬戸の地蔵尊には洞峠で冬期ににわかの積雪により遭難した親子の話が伝わる。 《豊郷の人口・世帯数》 139・71 《豊郷の主な社寺など》 鈴波(すずなみ)神社(名島) 中風寺の奥の院があるが、その奥の方に鎮座。巨大な神木杉の中にある。 社伝によると、松尾の中風寺(成願寺)の開基円能の創建と伝える。例祭は10月6日。 (鈴波神社 字豊郷地内宮谷にあり、大山咋神をまつる。傳へて成願寺の開基大長大師圓能法師の創立する所なりといふ。祭日十月六日。 『北桑田郡誌』). 八坂神社(洞) 洞のなかほど、府道から社殿が見える、獣除けのフェンスが張られている。元治元年(1864)の創祀で、もと山腹に鎮座していたが、明治初年現在地に移建。祭日は10月7日という。 (八阪神社 字豊郷の洞にあり。牛頭天王 素盞嗚尊 及び蔵王權現をまつる。元治元年の創建にかヽり初山腹にありしを明治に至り現位置に移せり。祭日十月七日。社殿の後方林中に一窪所あり。樹木鬱葱として常にものすごし。傳へいふ。往昔この地に牛を牽き入れしに忽ち影を没して之く所を知らすと。その何の故なるかを詳にせずと雖も、今人尚恐れてこゝに近づかず。 『北桑田郡誌』) 真言宗御室派保土呂山成願寺(中風寺) (松尾) 成願寺(じょうがんじ)は、府道沿いにある。真言宗の寺院としては何か派手な感じ。真言宗御室派。本尊は弥勒菩薩。 成願寺は一般に中風寺と呼ばれ、中風に効験のある寺として、広く畿内に信仰を集めている。薬師堂・弥勒堂・護摩堂・大般若経・庫裏があるほか、鈴波神社の末社祇園社の付近に中風寺の奥之院ができ水子地蔵が安置されたという。 寺伝によれば、大和国橘寺(奈良県高市郡明日香村)の円能の開創と伝える、年代は不詳。当寺住職は古くから河合の諏訪神社の別当職を兼務したという。一説に、古くこの地に平等寺という大寺院があり、成願寺および東南方山腹にある薬師堂もその塔頭の一つであったという。現在の山門・本堂・弥勒堂は元緑4年(1691)再建。本尊の弥勒菩薩は高さ3尺1寸の木造坐像で、傍らの四天王の2像とともに鎌倉末期の作といわれる。成願寺には延宝5年(1677)再建された薬師堂に関する文書が伝わる。薬師堂内の薬師三尊および四天王像は鎌倉初期以前の作という。 (成願寺 鶴ヶ岡村大字豊郷地内名島にある眞言宗の寺なり。本寺の起源につきても確乎たる典據なきを以て詳に知る能はざるを憾とす。寺傳には大和國橘寺の僧圓能の此の地に来りて開基せるものなりと。本寺住職は古来諏訪神社の別當を職とせしことより見れば、この寺がその神宮寺なりしことは明かなる亊實なり。境地山を負ひ川を控え景勝を占むるのみならず、元禄四年に再建せる山門本堂彌勅堂いづれも精巧なる建築物にして、林泉の風致亦大に掬すべきものあるを以て、賽者の心気忽ちにして爽快を感ぜざるはなし。山門及彌勒堂の彫刻は實に繊麗なるものにして輪奐の美を添ふること更に大なりとす。本寺藏する彌勧菩薩は所謂出世彌勒の相好にして、高さ三尺一寸、臺座より四尺五寸の木造坐像にして傍に安置せる四天王中の二像と共に優秀なる作品といふべく、恐らくは鎌倉時代末期のものならんか。 本寺の東南三町なる松尾の山腹に薬師堂ありて薬師如来日光月光両菩薩四天王及び十二神将を安置す。こはもと平等寺と號せし大伽藍にして、成願寺はその塔頭なりしと。平等寺はその後退轉して、今や雨露をも凌ぐに足らざる薬師堂一宇のみを殘存せるは惜むべき限なり。薬師如来は高四尺七寸木造座像にして、脇侍日光月光両菩薩尊像は高五尺六寸の木造立像なり。四天王は二天王のみを存しいづれも高四尺五寸の木造立像なり。薬師三尊像はいづれも鎌倉時代以前平安朝末期の製作ならんか。薬師堂今は屋根漏り柱傾きて甚だしく朽損せりざ雖も、五間三面にして直径一尺餘にも及ぶ丸柱を用ゐたるあたり、確に古雅の趣を存し、轉た當年の善美を偲ばしむるに足る。 『北桑田郡誌』). (薬師堂 松尾の丘陵中腹に西面せり。もと茲に平等寺と稱する大伽藍ありしこと、及び本尊薬師如來脇侍日光月光両菩薩四天王像等の優秀なる作品なることは既に第五章第二十の項下に逑べし所なるが、本堂再建に關する興味ある文書を傳へたれば左に録せん。 桂山平等寺薬師如来精舎一宇修造奉加萬覺帳 延寳五丁巳年十一月八日 舟津邑桂山平等寺棟札並御寄附奉加之亊 聖主天中天 迦陵頻伽聲 哀愍衆生者 我等今敬禮 桂山平等寺初建立崇徳院御宇大治三年戊申、良久而及二破壊一、再建立者元久三丙寅年、再々建立 者應長二壬子年、從‐其久而今及二大破一、仍而御寄進并奉加奉二修覆一者 于時延寳五丁己十一月八日 一現米五石御寄進 笹山城主松平豊前守 一白銀三枚御寄進 園部城主小出伊勢守御家中 奉加場所 棚野十五ヶ村、野々村三十三村、弓削知井周山八代大谷田原上林五十三里 右村々奉加了 願主 松尾村庄屋 與兵衛 同 村 中 願主 舟津村庄屋 五兵衛 同 村 中 右之通成就仕両村役人并両村中相集り、成願寺養徳寺先例且聞傳へ請待修覆造営供養御入佛相勤申 候以上 于時延寳五丁巳年十一月八日 『北桑田郡誌』) 神谷の水車 下を流れているのが神谷川、この上流(右側)に集落がある。かつて4基の水車が回る村だったという。コトコト回る水車を復活し、交流拠点にして村も再生だ!と若者達が自らの手作りで取り組んだものという。回っている。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 豊郷の主な歴史記録豊郷の伝説豊郷の小字一覧豊郷(とよさと) 宮ノ口(みやのくち) 上町(かみまち) 保土呂(ほどろ) 芝(しば) 松尾谷(まつおだに) 東尻(ひがしじり) 有田(ありた) 土生(はぶ) 柳迫(やなぎさと) タヤ 向谷(むかいたに) 前田(まえだ) 栗元(くりもと) カツラ 高地山(こうちやま) 上地(かみち) 花ノ木通(はなのきどおり) 下谷(しもたに) 井落通(いおちどおり) 洞谷(ほらだに) 平野(ひらの) 朝日(あさひ) 野世(のせ) 北中(きたなか) 下側(しもがわ) 湯ノ口(ゆのぐち) 湯ケ谷(ゆがたに) 小路ノ上(こみちのうえ) 中島(なかじま) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『北桑田郡誌』 『美山町誌』各巻 その他たくさん |
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