鶴ヶ岡(つるがおか)
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京都府南丹市美山町鶴ヶ岡 京都府北桑田郡美山町鶴ヶ岡 京都府北桑田郡鶴ヶ岡村鶴ヶ岡 |
鶴ヶ岡の概要《鶴ヶ岡の概要》 「鶴ヶ岡」の範囲。「鶴ヶ岡」と言っても、その範囲は時代により異なる、当ページで取り上げるのは、明治9~22年の村で、河合・棚・殿・船津の4か村が合併して成立した旧旧鶴ヶ岡村の村域である。明治22年~昭和30年の旧鶴ヶ岡村については、旧鶴ヶ岡村を参照。 鶴ヶ岡は、北東部に源を発した棚野川と北西部に源を発した棚野川支流西川が合流する地点の一帯で、棚野川沿いに国道162号が走る。合流点付近の殿・川合には鶴ケ岡小学校などがある。 旧旧村合併の際、舟津東北の山角より雌雄一対の丹頂鶴が飛んできて法明寺背後の山腹をかすめ、諏訪明神の森に入ったため、村繁栄の瑞祥であるとして新村名を鶴ヶ岡としたという。 最初の鶴ケ岡村は、明治9~22年の村。河合・棚・殿・船津の4か村が合併して成立。はじめ桑田郡、明治12年からは北桑田郡に所属。同21年の戸数97(市町村合併史)。同22年鶴ヶ岡村の大字となる。 新しい鶴ヶ岡村は、明治22年~昭和30年の北桑田郡の自治体で、鶴ヶ岡・高野・豊郷・盛郷・福居の5か村が合併して成立した。旧村名を継承した5大字を編成。昭和30年美山町の一部となる。村制時の5大字は美山町の大字に継承された。 鶴ヶ岡は、明治22年~現在の大字名。はじめ鶴ヶ岡、昭和30年からは美山町の大字。 -域内の各集落- 河合 河合村 美山町大字鶴ヶ岡 川合 河合村は鶴ケ岡19ヵ村の1。棚野川に西川が合流する地点に開けた集落。北は棚野川を挟んで殿村、川を下ると棚村。古代は弓削郷。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが、確証はない。 慶長7年(1602)幕府領、寛文4年(1664)より篠山藩領。寺院はなく、殿の曹洞宗法明寺の檀家。明治9年、棚村・殿村・船津村と合併して鶴ケ岡村となった。 殿 殿村 美山町大字鶴ヶ岡 殿 殿村は、鶴ケ岡19ヵ村の1。棚野川に西川が合流する地点の北側に位置し、若狭(周山)街道に沿った集落。南は棚野川を挟んで河合村、北東(棚野川上流)に田土村、北西(西川上流)に船津村。土豪川勝光綱の殿城があったところから、殿村と名付けられたという。古代は弓削郷。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが、確証はない。 慶長7年(1602)幕府領、元和5年(1619)より園部藩領。川合の諏訪神社の氏子。寺院は法明寺。明治9年、棚村・河合村・船津村と合併して鶴ヶ岡村となった。 殿とは、ワタシが住んでる所の少し奥にも殿村という所があるし、綾部市上林にも日吉町にも同地名がある。「高貴な人の邸宅」(『広辞苑』)で、大極殿とか紫宸殿とか古代にもあるが、地名の場合はたいてい中世の殿様屋敷のことで、裏山に中世山城があって、その麓である。山の上のシロでは日常生活が不便で、イザの時以外は麓に暮らしていた、館(たち)とか根小屋とかとも言う。京都府京丹後市弥栄町に外村(とのむら)があるが、ここも山城跡があり、殿村であろう。 棚 棚村 美山町大字鶴ヶ岡 棚 棚村は、鶴ヶ岡19ヵ村の1。棚野川の右岸に位置し、若狭(周山)街道に沿った集落。川をさかのぼると河合村、下流は砂木村。 古代は弓削郷。鎌倉末期、徳治2年(1307)の八丁山山論文書(上弓削共有文書)に「棚野村無杣山之間、無工之条当然也」とあり、また応永3年(1396)12月日付の弓削庄注進状残闕(海老瀬文書)に「棚野村」の名がみえて、この棚野村は当地棚を中心とする地域に比定されており、鎌倉時代から室町初期にかけては棚村の地は弓削庄の一部であったとされる。 一説には弓削本庄の枝庄であり、その荘域は鶴ケ岡19ヵ村にわたったといわれる。年代は不明であるが、のちに弓削庄と棚野の間にあった野々村庄に包含されたといわれる。しかし、棚野地域には野々村の荘域に広く伝えられる木梨軽皇子や慶能法師にまつわる開発伝承がなく、野々村の荘域とは別に開発された地と考えられるという。室町中期に一時管領細川氏領となったというが、確証はない。 慶長7年(1602)幕府領、元和5年(1619)より園部藩領。川合の諏訪神社の氏子。寺院は最尊寺。明治9年、河合村・殿村・船津村と合併し鶴ケ岡村となった。 船津 船津村(ふなづむら) 美山町大字鶴ヶ岡 舟津 船津村は、鶴ケ岡19ヵ村の1。棚野川の支流西川の左岸に開けた集落。北西(上流)は松尾村、南東(下流)は殿村。古代は弓削郷。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村庄に包含きれたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが、確証はない。 慶長7年(1602)幕府領、元和5年(1619)より園部藩領。川合の諏訪神社の氏子。寺院は養徳寺。明治9年、棚村・河合村・殿村と合併し、鶴ケ岡村となった。 《鶴ヶ岡の人口・世帯数》 188・81 《鶴ヶ岡の主な社寺など》 諏訪神社(川合) 鶴ヶ岡小学校の奥に鎮座。拝殿の奥に諏訪神社と八幡神社の社殿がある。鶴ヶ岡の総社のような大社である。案内板もあるが、はげいてい読みにくい。というか読めない箇所もあるが、幸いにも先学が読んでおられるので、それを参考にすると、 諏訪神社の由来 当社所蔵の縁起に依ると、当初は大森大明神 と号し、和銅六年長井山に初建立云々とあるが、その創建年次は詳 らかでない。後になって、大長大師円勝坊が大和よりこの地に来て、獣害を除いて土民を安堵させようと、応安二年に信州諏訪明神を勧請し、現在の地域に社殿を創立して建御名方命を祀った。 法師は神官を兼ねて、棚・砂木の二村を祈祷布施所とし砂木に狩蔵を作って当社の狩所とした。そして、円勝法師の創始した由緒により、 と定め、神官は草鞋脚絆の扮装で腰に短刀を帯びて、神幣を捧げ持って先頭に立ち、 供奉の村民は弓・槍・銃を持ってその後に従って疾走し、猪・鹿を獲って神前に供える例であった。 この様式にも変遷はあったが、昭和二十年まで続けられていた。この為、大晦日から正月五日まで、南は川合・相白の境である烏帽子岩に、東は田土、西は松尾の境に忌縄を張って通行を禁じたが、住民はこれを犯さなかった。しかし、これは明治維新のとき廃止になった。 永和四年、この地に初建立のときは今の社域の下段にあったが、正徳二年に神殿を改築して現在の位置に遷した。 当社は、十五年目毎に大祭典を挙げ、古くよりその規模の大きさに於いて棚野の千両祭りと言われた。盛郷・福居は刀踊、豊郷は振踊、高野・鶴ケ岡は神楽を献進することになっているが、その起源・沿革は明らかでない。この振踊りは室町時代の民間舞踊の遺風を存するものであると謂う。 祭神は建御名方神。旧郷社。社伝に応安2年(1369)僧円勝が信濃国諏訪神社を勧請して神官を兼ね、棚・砂木二ヵ村を祈祷料所と定めて永和4年(1378)に社殿を創建したという。現在の建物は正徳2年(1712)の再建。本殿は北向で、柿葺・単層・神明造で三間三面、唐破風向拝が付き上屋がある。隣に末社の八幡神社がある。 当社は毎年1月5日、「お狩の神事」が行われた。神主が神幣を捧げて先頭に立ち、氏子一同がその後に従って砂木の狩倉(かりくら)山まで疾走する。氏子は途中小銃を発射しときの声を挙げて威勢をつけるという行事であった。12月晦日から1月5日まで、南は川合・相白(そうはく)の境界である烏帽子岩に、東は田土、西は松尾に忌縄を張って通行を禁止したが、村民たちはかたくこの禁を守ったという。 例祭は10月5日、ほかに15年ごとに大祭、30年ごとに特別大祭を挙行する。大祭は棚野の千両祭とよばれ福居・盛郷両地区から刀踊、豊郷地区から振踊、鶴ケ岡・高野両地区からは神楽を奉納する。これらの起源・沿革などは不詳だが、振踊には道行の歌・お伊勢踊・長者踊・小鷹踊・商踊・武者踊の六種類があり、室町時代に流行した風流踊の流れをくむものという。 (八幡神社 郷社諏訪神社の攝社なるべく。その本殿の西に齋きまつらる。創立修築等いづれも諏訪神社と同時に行はれたるものヽ如く、社殿の構造形式共に同一なり。祭日八月十五日。 『北桑田郡誌』) (諏訪神社祭礼 十月五日は、鶴ヶ岡の諏訪神社のお祭りである。三○年ごとに大祭が行われ、その中間の一五年目に中祭と称する大祭を行う。祭礼の前夜四日は宵宮参りがあり、境内で子供や大人の角力が奉納され賑やかである。現在は怪我を避けるため保育園児と小学生の子供角力だけが奉納されている。 諏訪神社の祭礼芸能 諏訪神社の祭礼芸能 鶴ヶ岡地区 平成三年四月十九日指定 年ごとの祭礼には特別な行事はないが、三十年ごとの大祭、その中間の十五年ごとの中祭は、各氏子中の奉納芸で賑わい「棚野の千両祭」と呼ばれてきた。物入りであり、村あげて底抜けに奉納芸に賭けるところからつけられた別名と考えられる。高野からは太鼓を中心とした神楽、鶴ヶ岡からは俵振りを混じえた神楽、豊郷からは獅子舞と姫踊、盛郷と福居からは太刀振が演じられる。これらには囃子が伴い、その大太鼓を乗せる屋台は風流の作り物を飾る曳山となっている。 神楽はお多福やひょっとこによる道化芸と太鼓打ちが一体となった芸能で、恵比寿、大黒、天狗、お多福、ひょっとこ(ササラすり)に太鼓打ちが一〇人ばかり、ほかに笛、鉦、幟差などで構成され、太鼓のまわり打ちと道化芸、それに幟差の曲芸が加わる。字鶴の神楽も高野のものと大差がないが、青年衆の一糸乱れぬ「俵振り」は見事である。新藁で編まれた小型の米俵を巧みに操作しながら行列する。最後には狐の面を着け「狐踊り」というけんけん跳びも加わる。盛郷と福居の振物は、二人一組で手にする太刀や長刀、棒を一方が打てば片方が受けるという左右対称的な演技をみせる組太刀型の太刀振りである。露払、棒振、長刀、太刀、太刀、牛若弁慶、太刀(おいなげ)の七曲を伝えている。最後のおいなげは負い投げの意で、他地方では見られない刀の柄を地面につけ、それを軸にしてかいくぐる柄こぐりや背負い投げの型があり注目されている。豊郷の獅子舞は途中から加わったもののようであるが、姫踊りは注目の奉納芸である。これは振物とセッ卜芸になる風流踊りで室町時代にその原型を求めることができると専門家の関心は高い。青年の中踊り、女装した少年の側踊り、大勢が新発意のリードで輪踊りをみせる典型的なもので、音頭と笛、太鼓の囃子がつく。道行、御伊勢踊り、長者の踊り、小鷹踊り、商い踊り、武者の踊りの六曲が演じられる。テンポの遅い踊りの中に新発意の発する「シットロロ」の囃子が印象に残る。 十五年目ごとに奉納するという条件の悪さにも拘らず、しっかり伝承されていることは、村々が競演する形をとってきたところに因があるのではなかろうか。府の指定を受けてから芸能の伝承に重点を置いて競演は大祭や中祭とし、毎年十月五日の祭礼にどこか氏子中が芸を特設舞台場で奉納する形態をとっている。(『京都の文化財第九集』より) 『美山町誌』). 曹洞宗法明寺(殿) 殿集落の北裏山山腹に集落を見下ろす。国道からもよくわかる。当寺の裏山に天正末年、川勝光綱が築城したという殿城があった。当寺の参道を登ると行けるそうだけれども、今はもうその路もないかも、曲輪跡なのか平らな所があります、とのことであった。 寺伝によると天正年間、川勝光照の創建、普明国師を開基とする。もと臨済宗であったが、正徳年間、曹洞宗に改められたという。本尊は観世音菩薩、郡内三十三ヵ所観音霊場の札所である。 法明寺から見下ろす殿・川合の集落。上流側(北)から下流側(南)向きに写す。 境内にある名花・法明寺桜がよく知られている。造幣局にも移植されたそうで、案内板に、 法明寺桜 この桜は、山桜が突然変異したものであるが、江戸時代中期に当寺境内に移植された、樹齢約二百五十年、幹周り三メートル、枝ぶりは二十メートルに及ぶ立派々老木であった。花は淡紅色で花つきは密、花弁数は十五~二十ほどの八重の美しさは格別で、満開の姿は、眼下の眺望と相まつてすばらしい景観として知られていた。 京の桜守として高名な佐野藤右衛門氏は、その見事さに感銘を受けてこれを「法明寺桜」と命名し、接ぎ木で育成するとともに、著書『桜花抄』『桜守二代記』により広く世に紹介している。また水上勉氏の小説『桜守』の一節にも名木としてこの桜が描かれているが、惜しくも古木は、昭和五十四年六月に折れたため、当山八世阜一秀住職が佐野氏より三本の苗木を譲り受け移植したものがも明治以降に植えられた数本と共に残っている。 現在「法明寺桜」は、桜の名所である大阪造幣局にも植えられており、毎年通り抜けの季節には、他の名花と共にその美しい花を咲かせている。 平成二十八年三月 殿区 花の季節にまた来て見よう。今の法明寺桜はまだ小さく人の背丈を少し超えるくらいのものである。 境内に釈迦堂がある。釈迦像、地蔵像があるそう。 (・木造釈迦如来坐像 一躯 美山町字鶴ヶ岡小字ノブー五(殿) 法明寺釈迦堂 像高は約一㍍、塗り替えた痕跡がみられるが、寄木造りで彫眼、本妙寺の薬師如来像に近い作品だと専門家の言、特に衣文の波を大波、小波を交互に彫出する奔波式が残存している点を時代識別の重要ポイントにおさえる専門家もある。唯衣文がやや単調なきらいがある。釈迦像は釈迦の一生におけるいくつかのポイントを表す像が数多く作られたが、多くは悟りを開いた釈迦が大衆に教えを説く説法像が多いが本像もこれに当たる。 上林へ抜ける街道に面して釈迦堂があった。明治初期に堂宇とともに現在地に移築したもので、その附近一帯を釈迦堂前という地名で面影を残している。 ・木造地蔵菩薩立像 一躯 美山町字鶴ヶ岡小字ノブー五(殿) 法明寺釈迦堂 平安末期の作といわれ。寄木造りで彫眼、像高は一五六センチメートル、色は塗り替えられているか台座及び光背は古いままのもののようである。末法思想のさかんだった平安中期以降、地蔵信仰が広まり多くの像が作られたと思われる。 偉容は頭を丸め、身に衲衣・袈裟をまとう僧形で、左手に宝珠を持ち右手に錫杖を持つ立像か多いが、本像もその例にもれない。 『美山町誌』). 真宗大谷派相白山最尊寺(棚) 最尊寺は、棚集落の西部の山麓にあり、相白山と号し、真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、文明7年(1475)蓮如が大内の光瑞寺に寄留中、棚の中江六右衛門が帰依、法名教順をもらい蓮如に随行。永正3年(1506)帰村して相白山に一寺を建立したのに始まるという。寛永19年(1642)に現在地に移建。現存の建物は宝暦9年(1759)の再建時のものという。寺宝に山科本願寺建立の際もらった連如消息1通、連如筆の六字名号、実如筆の六字名号、同消息2を伝えるという。 (最尊寺 字鶴ヶ岡地内棚にあり。眞宗にして僧教順の創立にかヽる。教順は敦實親王 宇多天皇の第八皇子 第二十一世の遠孫にして、俗姓を中江六右衛門尉氏政といふ。初め山國村中江に住せしが、のち本村相白(あひもし)に移住し本願寺第八世蓮如の此の地を過ぎりし時その徒弟となり、隨ひて諸方を巡歴し文明十年山科本願寺 今の山科別院 の建立せらる丶や、勤番の功を以て上人の御消息一通を賜はりしといふ。のち延徳元年一月寺號を授けられ、三月には覚如 本願寺第九世 親筆の六字の名號をさへ得たりしかば、教順本村に歸住し相白山に堂宇を建て眞宗の一寺を開創せり。これ本寺の起源にして時に天正三年なり。後寛永十九年に至り相白より現地に移れり、現存の堂宇は寶暦九年の再建にかヽる。寺寳に蓮如筆六字名號、同消息一通、實如筆六字名號、同消息二通などありといふ。 『北桑田郡誌』). 臨済宗養徳寺(船津) ナビなどには表示される、斜面に集落があり、その中ほどにある。建厳智憧の開基と伝える臨済宗養徳寺、明治維新後無住となったという。境内の庚申堂は起源・沿革など不詳だが、古来婦人の崇敬が厚く、毎年8月16日の盆踊は賑ったという。 (養徳寺 字鶴ヶ岡の舟津にあり、寺傳によれば後奈良天皇の天文四年に、臨濟禪宗の僧建巖智憧和尚の開基せるものなりといふ。衰頽甚しく明治維新後無住となれり。境内に庚申堂あり、起源詳ならざれども婦女の尊信篤く、毎年八月十六日の盆踊は極めて殷賑なり。 『北桑田郡誌』) 殿城跡 法明寺の裏山には川勝光照の遺子川勝丹波守光綱が拠ったと伝える殿城跡がある。 殿の郵便局横から見上げる殿城跡。高い所にある建物は法明寺。 (殿城址 字鶴ヶ岡法明寺背後の山にあり。光照の遺子川勝丹波守光綱天正の末年若狹よりこの地に來り、氏を小山と改め茲に城いて居れり。大阪陣に際しその子光忠豊臣氏に屬せしかば、敗軍の後帰村して農民に下り以てその祀を存せり。光忠の後胤に忠次といふものあり、偶々盛郷の山中に大蛇棲息せしを以て村民怖れて出入するものなし。忠次乃も山中に入りてその巨蛇を屠り以て村民を安堵せしめしといふ。其の家譜及び武具は今なほ本村川勝喜平次氏の家に藏すと聞く。 編者いふ。この伝説も亦江戸時代の正確なる史籍にはみえざる所なり。 『北桑田郡誌』) (殿城(美山町殿) 棚野川と西川が合流する殿集落の北に位置する殿城は、標高三五〇だの尾根上に構築されており、西に延びる尾根上を一〇㍍幅の堀切で遮断し、低土塁が堀切側にある。主郭(I)は東西四〇㍍・南北一〇㍍の規模で、北側の一部に低土塁をもつ。西の尾根上には四段の曲輪(兵士の詰める場所)があり、二〇㍍下には畝状空堀群の付設で、北側の谷部を攻め登ってくる敵の横移動を防ぐのか目的である。 西尾根一二〇㍍下の先端部には、幅五㍍の堀切と土塁をもつ、長さ二五㍍・幅八㍍規模を有する曲輪(Ⅱ)がある。上部の殿城との関係は不明であるが、尾根を堀切って遮断しているため、別の一郭としての防御機能を有する遺構である。殿城の尾根先の四段の曲輪を結ぶ通路は南側を通り、通路中央部に一条の竪堀が斜面の横移動を阻止している。 天正年間構築の伝承を残しているが、畝状空堀群の付設や堀切の状況から。天文年間に構築された可能性を残し、川勝氏が下田氏と称した時期からの本拠であった可能性がある。 『美山町誌』(図も)) 棚城(乾城)跡 棚集落の西方山麓に当地方を支配した川勝光照の子孫乾清輝の乾(いぬい)城跡と伝える地があるそうだが、どこなのかわからない。 (乾城址 字鶴ヶ岡の棚にあり。川勝光照の後裔乾清輝この地に方一町餘の邸宅を構へ、柏原野に大なる馬場を造り、棚野十八村を領せしが、のち民間に伍して氏名を山崎教庵と改め外科醫を業とせりといふ。今この地に教庵の子孫存し、傳家の重寳南京焼の茶椀を藏すといふ。 『北桑田郡誌』) 上げ松(川合・殿) 西川(左)が棚野川(右)合流する所の河原にヤグラがある。ここで行われるのだろう。 川合のものか、殿のものも付近にあると思われるがわからない。ワタシは見たことがないので、文献を幾つか、 (鶴ケ岡村は郡の北端なれば遺習甚だ多くこれらの祭事の外には、八月二十四日に裏盆と称し「上げ松」の遊を行ふ、七八間の高さある杉丸太の尖頭に苧殻にて編みたる籠をつけ、杉葉を充てゝこれを立て、夜に入れば下方より松明をほりあげてこれに点火し、鐘笛、太鼓を以て之を囃し火神愛岩山に敬意を表す。蓋し本郡人の愛宕崇拝は伊勢大廟の崇敬と共に古来著しき習慣を有し、郡内各村日を定めて伊勢講愛宕講を行はざるはなく、山ノロ講と共に敬神の二大年行事なるが、崇仏の行事としては纔に観音識の一般に行はるゝがあるのみ。 『北桑田郡誌』) .(上げまつ 本村川合、殿、田土、庄田の四区に於ては、毎年八月二十四日各々近傍の川原に至りて炬火を焚く。これを上げ松と名づく。こは予め長十間内外の柱上に竹にて製したる茶筌形のヒウケを造り中に藁鉋屑などを満たし、その中央に高さ約二間の所に御幣の束を結び付く。さてその日薄暮の頃より松明を持ちたる面々はこゝに集まり来り、競うて松明を打ち上げ柱上のヒウケの中に入れんとす。やがて松明その中に入れば煙焔高く揚がりて一時に之を焼き尽す。この折を侍もて柱を倒し御幣を抜取りて捧持し、聲を揃へて祇園囃子を歌ひつゝ、其の年當番の家に入りて神酒を飲むなり。こは愛宕神社に献燈を意味せるなりといふ。 『北桑田郡誌』) (上げ松 上げ松 盛郷、殿、川合 昭和六十三年四月十五日指定 芦生 平成元年四月十四日指定 京都市の広河原や花背、久多では「松上げ」といっているが、ここに近い芦生でも同じである。形態は全く同じで名称の違いに大きな意味はない。本来はもっと多くの地区にあったと思われる。鶴ヶ岡の場合、昭和初期まで神谷、洞、庄田、脇、山森で続けられ、上吉田と林は大正五年まで独自でやっていたが田土と合併し、現在のような形になった。 愛宕神社の地蔵さんを祀る行事で、その縁日に当たる八月ニ十四日の夕方から夜にかけての催しである。もともと修験者(山伏)たちの験比べの行事であったようで、力がついたことを確かめることに端を発して卜ると中世芸能史にくわしい山路興造氏の説である。したがって昔は「柱松」と呼んでいたといわれるが当地方での確証はない。今でもこの名称が残っている所が多いようである。これは鞍馬寺の竹伐会と同じ趣旨で愛宕修験者たちが運んだものであろうといわれている。 上吉田区に残っている文書によると、愛宕神社神明火祭と書かれており、火災予防を願っての行事で宝永二年(一七〇五)七月二十四日(旧暦)に始まったことがわかる。祭の要領を簡単に述べると、まず御神木(灯籠木・とろぎ)と呼ぶ約二〇㍍余もある桧丸太の先端に、茶筌形の「火受け」をつけ、その中に杉葉や麻稈(おがら)など燃えやすいものを入れ、その先に愛宕神社の御幣を立てる。灯籠木は、それぞれの集落で用意された藁製の綱で倒れないように引っ張って支え る。昔はこの御神木起こしというのが大変な作業であったが、現在は一部継竿式になっているところもあり、以前に比べると簡単になったようである。村人総出で準備が終わると夕方から祭が始まる。公民館などの宿を出発した一行は山車を中心に笛や太鼓の神楽囃子で道中を練り込み川原に向かう。灯籠木を中心に円形に陣取った若者衆は手に手に点火した松明を持ち、一斉に火受けに向かって投げ込むが、さながら運動会の玉入れと同じ要領だが、高いこともあり、夜でもある、そう簡単には点火しない。半時間か一時間ぐらいは投げ合いが続く、暗闇の中、放物線をえがく松明の灯は人を幽玄の世界に引き込むかのようである。やがて一個の松明が火受けに止まるとたちまちパチパチと音をたてて燃えあがり、祭はクライマックスに達し、神楽囃子は一段と調子をあげる。夜も九時を過ぎると川面をなでる川風も加わり冷気を感ずる。五穀豊穣、家内安全、そして火伏祈願の夏祭りは幕を閉じ、美山にもそろそろ早稲の刈取りが始まる。 『美山町誌』). (上げ松 八月二十四日の晩は、芦生、川合、殿、田土の四集落で愛宕さんへの献灯のための「上げ松」がある。 この日は朝から区総出で上げ松の準備がされる。川原に二〇㍍もある柱を真っ直ぐに立てるのは大変な仕事である。 殿では上げ松立ての責任者の音頭に合わせて柱が立てられていく。柱の状態を見ながら取られる音頭は次のようなことである。 「どなたさんも心を合わせて ヨーイトセー 山手が弱いぞ ヨーイトセー もちょっと弱いぞ ヨーイトセー 川手が弱いぞ ヨーイトセー もちょっと弱いぞ ヨーイトセー ヨイショ ョイショ ヨイショ ヨイショ」 ロ-プを引く人、又木を掛けて起こしていく人、みんな音頭に合わせて力を入れる。こうしてやっと土台の定位置に柱かはめ込まれる。 夕方、公民館に集まるといよいよ祭場の川原へ「ねり込み」がある。笛や太鼓で「導き」といわれる曲でねり込んでいく。松上げが始まるとこれも笛や太鼓で「松上げ」のお囃子をして威勢よく松明がほおり上げられる。田土では成人用と子供用とがあり、夏の夜空に放物線を描く明りの線は美しい。また田土では区の人数が少なくなり、人力で柱立てができないので機械で柱立てを行っている。 「上げ松」は愛宕さんの献火といわれているが、一説には雨乞いの行事ではないかともいわれている。上げ松をできるだけ高く上げ、煙が遠く厚くたなびいて雲となり、雨を降らせてくれることを願い祈りだものではなかろうか。 『美山町誌』) これとは別に愛宕山献火祭が各地で執り行われているという。上げ松と愛宕祭は直接には関係がないように思われる。祭日は同じで似た行事なので混同がありそうだが、別の起源があるかと思う。 (愛宕山献火祭 八月二十四日は美山の各集落で愛宕山への献火祭がある。夕方集まった区民は、お祭りしている愛宕神社に、各自が肥松と苧幹を混ぜてあらそ(麻の皮)で縛った松明を二㍍ぐらいの竹の棒にくくって持って上がる。神社の境内で火を焚いて松明に火を分け、拝殿に御神酒やお供え物をささげ、防火の祈祷をする。終わると松明を持って下山する。暗闇に松明の火だけが曲がりくねった山道を点々と下りてくるさまは大変美しい。今宮では松明の火を各戸へ持ち帰り神様へ供える。この日、京都の愛宕山へ代参する集落もあり、献火した後迎えの宴を持つという。また板橋は八月十五日に献火祭をし山から下りてくる時、下山道のところどころに松明を立ててくる。 松尾では、山の高台に、紅色の提灯で「大」の字形を作って灯りをいれ、(今は電球)愛宕さんに送り火として奉納している。 『美山町誌』). 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 鶴ヶ岡の主な歴史記録諏訪神社の大祭(…鶴ヶ岡村諏訪神社の大祭は十五年を期して擧行せらるヽ大規模の神事なれば、古く棚野の千両祭と稱せられ諸種の振り踊を奏す。其の最も古典的なるを振袖踊といふ。歌謠極めて古雅にして数人の唱子中央風流傘の下に立ちて唱和し、踊子は男女(すべて男子なるも幼弱者は女装す)二列の輪を爲してこれを圍む、位置を變ずることなくして扇子振袖を動かすものなるが、二列の間に大鼓持ち一人打者一人よりなる鼓手あり、鼓を打つと同時に圏内を移行する外に新發意なるものあり、素襖大紋を著し、踊の名を告げ、踊の方法を語り、トクトウシツトロトの掛け聲をなして跳躍す、態様最も奇矯なり、歌詞古拙、多くは奥州長者の當を讃美するものにして、附近にては八瀬村綸旨祭赦免地音頭と稱するものゝ中、御所踊屋形踊等と稱するものに類似せり。綸旨祭は八瀬村が後醍醐天皇より建武三年、年貢御免の綸旨を得たるを記念せりと傳ふるものにして、誠に當時の遺風を傳へたるものなるが、我が鶴ケ岡村の歌謠も恐らくは室町時代に於ける民間舞踊の形式を残存せゐものにして、古来の舞踏図、北野御社繪卷風流図、豊國神社臨時祭繪屏風の風流図に現はれたる風流の趣を如實に語るもの、誠に田樂と併せて風俗史上の遺寳とも云ふべし。この踊の外に棒鎗刀剣を持して舞踊する振り踊りあり、就中刀振りは勇壯恬溌の技にして、武神を祭るに最も恰當せるもの、剣光燦として太陽に輝くの時、一隊の白襷黒装束の踊子が列を整へ歩を練りて堂々神社に詣づるの光景は誠に懦夫をして立たしむるの概あり。この舞踊は若狭丹後の御社に同様の祭事あるを以て見れば、恐らく古来よりの習慣として風流と同じく一般に弘布せしものといふべし。次に同御社一月五日出初の祭と稱するものヽ如きは、往古我が郡狩猟の遺風を傳ふるものにして、維新以前は十二月晦日以後正月五日に至る間は村境に齋竹七五三繩を張りで人民の出入を禁じ、當日に至るや御主幣帛を奉じて山野に出ると共に、供奉の村民銃鎗をとりて猪鹿を狩り之を神に供ぐるを例とせしが、維新以後に於ても年々猪鹿を献ずるものあり、明治二十四五年頃より後は猪鹿の数大に減じ、容易に之を捕獲すること能はざるに至りて其の風全く止むに至れりと雖も、出初祭には恒例として空砲を發射して以て敬神の誡を致すを習とす。蓋し同神社の祭神は建御武名方神にして猪鹿退治の守護神、即ち農作物の保護神として近郡農家の共に崇敬するところにかヽれり。編者の幼時鶴ヶ岡にては各戸鎗を有せざるはなく、積雪の際戸外数歩にして猪鹿を捕獲したるの例あり、近年に至り山林の開拓愈進み深山幽谷すべて其の天然林を失ふに至ると共に、猪鹿遠く去りて影を止めざるに至れりと雖も、江戸時代に於ては南北両部共に猪鹿の棲息夥かりしかば、村民は野獣の被害を口實として租税の減免を上書出願せるものあり、明和年中朝鮮人國役掛銀願書(牧磯五郎氏蔵本)に 御国役高凡四千六百七十石餘御座候桑田郡の内にも山奥の場所にて山ぬけ鹿猪荒し亡所仕り候田地多く御座候て困窮罷在候所不尠云々 明和元年申十二月 青山下野殿領分丹州桑田郡の内河合村以下廿五ヶ村 とこれなり。實に現今の北部及中部臺地に於ては野獣の繁殖全く過去の趣を失ひたりと雖も、南部臺地には雲ケ畑小野郷の帝室御猟地あり、世界有敷の狩猟場を成せるが如きは尚我が郡過去の状況を再現せるものにして、殊にこれあるが爲めに近村猪鹿の被害を訴ふるが如き彼此全く相似たりと云ふべし。 『北桑田郡誌』). (諏訪神社 美山町・鶴ヶ岡小 年 鈴木淳子 わたしの家の近くには諏訪神社があります。諏訪神社の行事の中でも一番大きなにぎやかなお祭りは『例祭』です。そのほかにも、元旦祭、厄除祈願祭、祈年祭などのお祭りがあります。 この諏訪神社は、和銅三(七一〇)年、今から千二百六十八年前にたちましたが、現在の建物は正徳三(一七一三)年、今から二百六十六年前に再建(たてなおし)されました。村をひらいた人や百姓のためにつくした人を神様としてまつったことが神社のはじまりだそうです。 わたしたちは、お盆やよみやの時にちょうちんを玄関につるすのです。 この諏訪神社にまつってある神様は『たけみなかたの神』という人です。昔、八つの頭を持つたしかが山からおりてきて、人を殺したりして人々をこまらせたので、たけみなかたの神がそのしかを退治したので、諏訪神社にまつったそうです。 そしてお正月には、神様がまつってあるところにはしめなわをはっておきます。その五日間はだれもはいることができません。それは、けがれた人が中に入ったらいけないからです。 諏訪神社の例祭は十月の五日にあります。毎年は各部落に分かれて祭りをしますが、十年に一回、五つの部落全部が集まってお祭りが行なわれます。そして二十年に一回のお祭りはもっと大きいし、三十年に一回のお祭りはそれよりもっともっと大きなお祭りです。 よみやにはおすもうもあります。そのおすもうには、わたし達の組の男子も出るので、おうえんに行きます。中には保育園の子どももかわいいふんどしをしめてがんばっていました。大人の人のすもうはとてもすごいです。それは、こけたらその場所にあとがつくぐらいの力なので、見ているとこわくなります。それに声も大きいので、遠くの方までその声が聞こえてきます。 わたしが小さいころ、よく諏訪神社で遊びました。秋になるとその近くの山には山いちごができてよく取りに行きました。あまずっぱくてとてもおいしいです。 この諏訪神社にいつもおまいりしている人もいます。中には、毎日かかさずおまいりをしている人もいます。 この神社はいつまでもみんなにすかれるよい神社であってほしいです。 『由良川子ども風土記』). 鶴ヶ岡の伝説鶴ヶ岡の小字一覧鶴ケ岡(つるがおか) 道ノ脇(みちのわき) 宮ノ腰(みやのこし) 今安(いまやす) タコ田(たこだ) 長井(ながい) 宮ノ前(みやのまえ) 馬場(ばば) 佃(つくだ) ノブ ウツ谷(うつたに) 谷ノ下(たにのした) 溝ノ上(みどのかみ) 溝ノ本(みどのもと) コモウ谷(こもうたに) 相白(あいむし) 水上(みずかみ) 水迫(みずさこ) 中尾(なかお) 遊里爪(ゆりづめ) 滝尻(たきじり) 川合(かわい) 川合新田(かわいしんでん) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『北桑田郡誌』 『美山町誌』各巻 その他たくさん |
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