内久保(うちくぼ)
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京都府南丹市美山町内久保 京都府北桑田郡美山町内久保 京都府北桑田郡平屋村内久保 |
内久保の概要《内久保の概要》 府道38号(京都広河原美山線)沿いの集落。とくに目立つものもないが、由良川が蛇行し、少し広くなっていて盆地のような場所。地名は合併旧村名を合成したもの。 内久保村は、明治9~22年の村。大内村・上久保村が合併して成立した。はじめ桑田郡、明治12年からは北桑田郡に所属。同14年荒倉村をはじめ11か村と連合して当村に戸長役場を設置。同22年平屋村の大字となる。 内久保は、明治22年~現在の大字名。はじめ平屋村、昭和30年からは美山町の大字、平成18年からは南丹市の大字。 大内村と上久保村 大内村(おおうちむら) (現)南丹市美山町大字内久保大内 平屋10ヵ村の1。允恭天皇の皇子木梨軽皇子が罪をえて丹波に下り、この地に紫磨(しま)城をつくって住んだといい、村名の大内はその大内裏があったことにちなむという伝説がある。古代は弓削郷、中世は野々村庄。慶長7年(1602)幕府領、元和5年(1619)より園部藩領。村域内に神社はなく、宮脇の道相神社の氏子。明治9年、上久保村と合併して内久保村となった。 上久保村(かみくぼむら) (現)南丹市美山町大字内久保上久保 平屋10ヵ村の1。古代は弓削郷、中世は野々村庄。慶長7年(1602)幕府領、元和5年(1619)より園部藩領。村域内に社寺はなく、宮脇の道相神社の氏子、大内の真宗大谷派光瑞寺の檀家である。明治9年、大内村と合併し内久保村となった。 《内久保の人口・世帯数》 172・83 《内久保の主な社寺など》 紫磨城 光瑞寺の南方の紫磨城地区は允恭天皇の皇子木梨軽皇子が流罪となった際に住んだという伝説の地で、下の小字一覧には紫摩城が見える。しかしそこは山で、今は別に何もなさそう、中世の山城があったのかも知れない。 『北桑田郡誌』には、 「紫磨城址 内久保地内大内にあり。昔允恭天皇の皇長子木梨輕皇子罪を獲て丹波に來りこの城を造りて住みたまへりと傳ふ。皇子五世の孫に野々村左近といふものあり、會々菅原道真の弟慶能法師行脚してこの地に來り、還俗して左近の女保姫(やすひめ)を娶り、六子を擧ぐ、後この六子野々村郷三十三ヶ村を分領す。これを野々村六番といふ。(前節宮島村傳説参照)今の地名大内は大内裏に擬しなるものといへど素より信を置くに足らざる也。」とある。木梨軽皇子は正史では当地とは何も関係がないようだから、郡誌が言うのもムリもない。前節宮島村傳説参照は宮脇のページに引いた。カルノという所は、下の写真で言うと、まっすぐに府道を行って、道なりに右ヘカーブしたあと左ヘと曲がるあたりである。 蓮如之滝 府道沿いに案内板と駐車場がある。滝はこの桜樹の裏側あたりに見える。右の道をあと20mばかり行けば、左手に見える。 白尾山の南の谷川が由良川峡谷に注ぐあたりは急崖となり、幅2.4m・高さ30mの滝がある。蓮如上人が当地の真宗大谷派滝見山光瑞寺に立ち寄った際、この滝を賞したことから蓮如之滝と呼ばれている。光瑞寺の山号もこの滝に由来するという。 そこの案内板に、 「蓮如の滝の由来について 浄土真宗中興の祖といわれる本願寺八代蓮如上人(一四一五~九九)は、京都大谷の地にて誕生、近江より越前に移り北陸を中心に教化、吉崎坊舎を建立する。その後、若狭小浜を経て当地に辿り着く。文明七年(一四七五)八月下旬蓮如上人六十一歳の御とき、対岸の茶店の石に座して、白尾山(標高七四八)を源流とする曲がりくねる落差約七十mの滝を眺め絶賛する。 この時より蓮如の滝と言われるようになった、と伝えられる。光瑞寺にはその時の御座石が今も安置されている。文献「光瑞寺縁起」にも当時の様子が詳しく記録されている。内久保史跡保存会」とある。 『北桑田郡誌』には、 「蓮如の瀧 内久保光瑞寺の對山中腹にあり。本願寺第八世の門主蓮如上人越前吉崎を出でヽ若狹に入り更に知見の嶮を踰えて此の地に来るや、暫光瑞寺に憩ひてこの瀧の風致を賞せり、故にこの名あり。幅八尺高九十尺。源を白尾山(七四八・五米)中に發し、流程數十町にしてこの懸崖を落下す。その状宛も白布を垂る丶に似たり。奔下直に上由良の巨流に入る。」とある。 「蓮如の滝」 真宗大谷派滝見山光瑞寺 蓮如の滝に対するところから滝見山と号し、真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来。 寺伝によれば文明7年(1475)越前吉崎御坊(現福井県坂井郡金津町)より若狭小浜を経て当地に来た本願寺八世蓮如が草庵に滞在、その時庵主原田重兵衛が蓮如に帰依し剃髪、了照と名乗り草庵を光瑞寺と改め浄土真宗の寺としたのを始まりとする。蓮如が重兵衛に与えたという六字の名号は宝物として残る。また重兵衛が串柿を勧めたということから、毎年当寺より本願寺へ串柿を贈るのを例とした。天正年間、本願寺と織田信長が戦った石山合戦の折、当寺も軍資金を送り、その時の古文書類が保存されている。「時寛永十三歳次柔兆困敦孟春八日 本願寺僧慶聞坊謹志」との銘のある梵鐘がある。 『北桑田郡誌』に、 「光瑞寺 平屋村大字内久保に在る眞宗の佛寺にして、上由良川を隔てヽ白尾山中腹の瀑布に對するより瀧見山の號あり。本寺はもと眞言宗なりしが、後土御門天皇の文明七年八月二十五日、本願寺第八世兼壽 蓮如上人 越前吉崎より若州小濱を經て丹波に入り、平屋村内久保に來りて一小草庵に憩ふ。庵主原田重兵衛兼壽に應對するの間程なく他力易行の教義に感化せられて眞宗に歸依したるが、兼壽重兵衛の人となりを愛し。傍の紙を取りて南無阿彌陀佛の六字の名號を書して之を與へ、重兵衛又串柿を侑めて之を待遇せりといふ。 今本寺にこの名號を寶物として存す。爾来本寺よりは毎年串柿を本願寺に増進する例となれり 重兵衛剃髪して了照といひ、草庵を改めて眞宗の一寺となす。これ當山の開基なりと。天正年中本願寺第十一世光佐 顕如上人 の大阪石山城に據りて).織田信長と對戰せし時、本寺は軍資を送りて之を後援したるを以て、当時本願寺と本寺との間に往復されたる消息文書少からず現存し、執事役下間(しもつま)の署名せる物などを傳ふるは最も興味ある事實なり。本堂西向方九間單層草葺入母屋造の建物にして、庫裡土藏鐘棲等備はり、本寺の座敷はその構築設備善美なれば領主小出氏入部の時數々こゝに出入せりといふ。本寺梵鍾の銘に曰く 陶鎔已畢 忽掛二華鐘一 響徹二幽谷一 聲傳二數峯一 賢愚兢聚 老少相從 誦二祖風口一 澆二法雨胸一 專挑二舊式一 直守二前蹤一 講演無レ懈 昌哉此宗 時寛永十三歳次柔兆困敦孟春八日」とある。 『美山町誌』には、 「・木造阿弥陀如来立像 一躯 美山町字内久保小字段 光瑞寺 阿弥陀如来は釈迦と同じく印度王族の大子で、出家の後、法蔵菩薩となった。そのとき四十八の願をおこし、その大願を成就して仏となり。西方極楽浄土の教主になったといわれている。四十八願のうち第十八願の念仏往生願は最も大切なので弥陀の本願というが、念仏を行う者は必ず往生させるという誓いである。したがって浄土真宗の本尊は阿弥陀如来立像となっている。本像は鎌倉後期の作といわれ三尺立像で寄木造り、玉眼、この形式は当代の著名な仏師であった快慶の好んだ作風で、世に安阿弥様と称され。多くの作例が残っている。本像もこの系統のものであろうと。」と記す。. 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 内久保の主な歴史記録空襲の記録。昭和20年6月15日9:45、こんな山中の集落もB29の焼夷弾爆撃を受けたという。 『美山町誌』に、 「内久保への爆弾投下 第二次世界中の隠れた事実として内久保に爆弾に投下されたことがある。京都は全国からみて空襲の少ない府県の一つであるが、全くなかったかというとそうではない。京都地区への空襲は、一月から六月上旬まで計二三回にわたって繰り返されていた。更に六月中旬に入ってから北桑田郡平屋村と、奈良電鉄(現近鉄)の桃山御陵駅-小倉駅間の線路への投弾で計二五回を数えていた。だが京都地区への空襲は、そのほとんどが単機か、少数編隊機によるもので、投弾のなかには南山城地方の山林で炸裂するものも多く、大編隊によって市街地への集中爆撃をみる例は報告されてきていなかった(『京都新聞』「防火の詩」より)。 このようすを昭和四十年代後半、教職員らの有志が教材づくりの一環として調査した「京都・美山空襲を記録する会」の報告集によると次の事実が判明している。 ・期日昭和二十年六月十五日 ・時間午前九時四五分の記録と午前一〇時三〇分の記録の二通りあるが、九時四五分説が多い ・天侯 くもり(機体見えず) ・機種・機数 B29・数機 ・飛行方向 南西から北東へ ・落下地点 野添の山中と内久保地内の上久保 ・落下数 上久保で約八〇発という記録(『平屋校沿革誌』)また記録する会の調査では上久保の平野部で三二発が確認と ・爆弾の種類 油脂白(黄)燐焼夷爆弾 ・被害 全焼家屋二軒、負傷者一名、他にこげた家屋多数、水田や畑の被害、山火事あり なぜこんな山奥に投下されたかの疑問について、「記録する会」の聞き取り調査などの結果では、盲爆でなく製材所をねらったのではないかと結論づけている。戦時下の製材所は軍用材を多量に作り、弾薬庫や造船の資材になっていたというのである。」とある。 『語りつぐ京都の戦争と平和』は、 「一九四五年六月一五日 南丹市美山・日吉、亀岡市東別院、近鉄沿線 この日、府下各地でB29から焼夷弾が投下されるという事件が相次ぎました。 北桑田郡平屋村(現・南丹市美山町)内久保では、午前九時四五分頃、B29が焼夷弾を投下、家屋二戸が全焼し、一歳の幼児が軽傷を負いました。 船井郡五ケ荘村・世木村(いずれも現・南丹市日吉町)では、午前九時頃、北方から三機のB29が現れ、焼夷弾を投下、田原川沿いの片野地区の民家二軒が全焼、一軒が半焼、木住地区の山林にも火災を起こしました。この焼夷弾の破片は、立命館大学国際平和ミュージアムに保管されています。 南桑田郡東別院村(現・亀岡市)鎌倉船崎地区では、午前八時頃、B29が通過中、焼夷弾多数を投下して山火事が発生し、また、民家四戸が焼失し、負傷者も一人出ました。後で集められた焼夷弾の筒は牛車三台分ほどもあったと言います。この時の空襲で家が焼かれた亀岡市二代目市長の平田一義さんは、一九七四年に、自宅前に、「戦災うけた地区」との石碑を建立されており、裏面には「昭和二十年六月十五日 大東亜戦にてこの地に焼い弾投下 上下四世帯全焼 人畜被害ありての後十年 苦難に耐え再建 千歳のため伝えるものなり」と刻まれています。 さらに、『奈良電鉄社史』によると、「一九四五(昭和二〇)年六月一五日午前一〇時三五分、来襲した米機が、桃山御陵前・小倉間の線路上に焼夷弾を投下し、下りの架線と高圧線が断線したが、死傷者はなく、約三時間の単線運転の後平常に復した」とあります。 これらの空襲は、今まで個別に語られているだけでしたが、この日は同時刻に大阪・尼崎が約五〇〇機のB29の大空襲を受けており、空襲を終えたB29が、余った焼夷弾を投棄したものと思われ、一連のものと考えられます。」としている。 内久保の伝説義民清兵衛 『京都丹波・丹後の伝説』に、 「義民清兵衛 北桑田郡美川町内久保 美山町内久保は、旧幕時代上久保と大内の二つからなっていた。いまから百四十年程前、この上久保に宮内満兵衛という人がいた。生まれつき負けん気が強く、おとこ気があり、信望が厚かった。 たまたま天保四年から七年までの天候不順で、農作物の収穫が悪く、各地で大飢きんが起こり甲斐、三河などで一揆があいついだころ、この地力でも農家の人たちは食べるものにも事欠き餓死寸前にあった。しかし園部代官所からは何らの容赦もなく、きびしい取り立ての知らせ。この取り立てに、だれ一人としてこの窮状を訴え出る人はなかった。このとき清兵衛は死を覚悟して単身直訴することを決心し、代官所にいってこの実情を訴え続けた。代官所はこの訴えを聞くどころか〝百姓の分際で生意気〝と清兵衛をしばり上げ、下役人に命じて清兵術を責め殺してしまった。そして、その日の夕方恨みをのんだ清兵街の死体は、竹の簀巻きにされ園部川に没げ捨てられた。数日後、通りすがりの人が下流の堰堤に引っかかっている簀巻きを引きあげてみると、簀巻きの中から指が二本出ていてびっくり、大騒ぎとなった。当時この上久保村は、園部藩から五つの免割り(百姓の上納する米の高、一免は十石)をうけていた。清兵衛はこの凶作続きの大飢きんに、とても上納できないから三免を免じて二免にしてもらいたいと訴え続けていたもので、この二本の指はこの二免をさしたもので、清兵衛の鉄のような堅い意志のあらわれであった。 この話は藩主の耳にも入った。さすがに非情な代官も、土地の人たちのため直訴を続けてきた清兵術の心意気に感じて、ついに、二つの免に下げることを承諾したため、農家の人たちは蘇生の思いで、家業に精を出すことができたという。しかし清兵衛の強訴の罪は許されず、家族たちは地元にいることができなくなり流浪し家は没落、その屋敷あとはいま畑となって残っている。 昭和四年の夏ごろ、この上久保の人たちは、死の強訴を続けて餓死を救った清兵衛の功績をいつまでも伝えるため、近くの上由良川の川底から高さ一・五メートルの大きい川石を掘り起こして、〝義民宮内之碑〝と刻み上由良川にかかる野田橋のほとり西南約五十メートルのところに建て、毎年十月十日地元の人たちが、この碑の前に集まって盛んな供養を営み、そのめい福を祈っている。 〔しるべ〕内久保は国道162号線の美山町安掛から分かれて東北へ約四キロ、府道沿いに内久保、大内両地区合わせて六十余戸が散在する。」 内久保の小字一覧内久保(うちくぼ) 丁田頭(ちょうだがしら) 小畠(おばたケ) 大前ノ下(おまえのした) 保瀬頭(ほせがしら) 紫摩城(しまじょう) 下タ野(したの) 池ノ元(いけのもと) 山ノ神(やまのかみ) 池ノ谷(いけのたに) 下カルノ(しもかるの) 狐塚(きつねづか) 神ケ迫(かみがさこ) 栗ケ谷(くりがたに) 井爪(いづめ) 山越(やまごし) 谷ノ下(たにのした) 段(だん) 上前田(かみまえだ) 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『北桑田郡誌』 『美山町誌』各巻 その他たくさん |
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