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赤花(あかばな)
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赤花の概要《赤花の概要》 畑山村の南、赤花川の流域に位置する。下流が口赤花、上流が中赤花である、古くは一村で赤花村と称していたが、寛文6年(1666)に分村した。中赤花を東進する道は滝峠越で丹後国に通じている。 赤花村は文禄4年(1595)に出石城主小出吉政領となる。寛文6年小出吉重が父吉英の遺領を継いで出石藩主となった際、弟英本に二千石を分知、このとき赤花村は口赤花村と中赤花村に分れ、中赤花村は旗本小出英本(倉見小出家)領となり、口赤花村はそのまま出石藩領として残った。 元禄9年(1696)出石藩小出家は無嗣絶家となり、同藩領はいったん収公されたが、翌10年松平(藤井)忠周が武蔵国岩槻(埼玉県岩槻市)から移って出石藩主に就任すると、当村は再度出石藩領となり、同藩領で幕末に至った。明治14年に中赤花村と合併して赤花村となる。主計・主桜谷・日場・谷地・菅谷・上ノ垣からなる。 赤鼻村は、南北朝期に見える村で、但馬国出石郡太田荘のうち。観応3年(1352)5月19日付今川頼貞寄進状(菊大路文書大日料6 ー 16 )に、「但馬国太田庄内赤鼻村参分壱地頭職」が御神楽料所として今川頼貞から山城石清水八幡宮に寄進された。 近世の赤花村は、江戸期の村で、出石郡のうち。山名氏政滅亡後天正13年まで青木勘兵衛、同年から前野長康が領した。文禄4年からは出石藩領。寛文6年出石藩主小出吉重が弟英本に二千石を分与した際、口赤花村・中赤花村・奥赤花村の3村に分村。 近代の赤花村は、明治14~22年の村名。出石郡のうち。口赤花村と中赤花村が合併して成立。明治22年資母村の大字となる。 赤花は、明治22年~現在の大字名。はじめ資母村、昭和31年からは但東町の大字。平成17年より豊岡市の大字となる。 《赤花の人口・世帯数》 117・51 《赤花の主な社寺など》 ![]() 東の丹後との境の大師山には巨石群がある。大師山には巨岩奇石が多く,婦岩・重箱岩・コウモリ岩などがある、ツツジの里で有名。ハイキングコースがある。 ![]() ![]() 県道701号線(加悦但東線)沿いに石の鳥居がある。これが須流神社の鳥居、社殿はまだこの谷の奥(主樓谷)で、ここから6、700メートルばかり奥にある。 ![]() 鹿除けの電柵を開いて境内に入る。熊の世界である。大きな岩がゴロゴロしていて、社殿以前の磐座祭祀を想定させられる。 特に感動ものは、社殿右の裏山に見える二つの巨岩↓ ![]() ![]() 『資母村誌』に、「社後の山に朱樓石とて二個の密接せる突石あり、奥院なりとて祭祀す、一を男石と稱し伊弉諾に形とり、高四丈圍り三丈、一を女石と稱して伊弉冊に形とり、高三丈三尺周二丈四尺なり」とあるのはこの岩であろう。(丈は約3メートル)。花崗岩のようである。 『資母村誌』 須流神社
赤花村字 地神の初代游母陀琉神訶志古泥神に次で生る伊弉諾伊弉冊高御産靈神の命を奉りて天浮橋に立ち天瓊矛を執て共に滄海を探りて於能碁呂島を造る依て二神殿を建てゝ居し交婚を為し日月星辰を生み尋で淡島淡道伊豫筑紫伊岐津島隠岐佐渡大倭豊津島等の諸地を發見し我國の基を開く。『書紀、古事記参取』 神名帳考證曰 祭神須沼比神古事記神活須沼毘神の女伊怒比賣大年神を合祀す 古事記 大年神娶活須毘神之女伊怒比賣生子大国御魂神 神祇全書但馬式社考 須沼比神大年神娶神活須毘神之女伊怒比賣生子大國御魂神按流與沼横音通祭神大年神歟。 一神體衣冠束帯坐木像二躯 社後の山に朱樓石とて二個の密接せる突石あり、奥院なりとて祭祀す、一を男石と稱し伊弉諾に形とり、高四丈圍り三丈一を女石と稱して伊弉冊に形とり、高三丈三尺周二丈四尺なり。 一高麗狗一封高一尺七寸木造也 創立不詳、正徳二年九月再建、賓暦五年八月神體彩色、文化十四年九月再建、明治六年十月村社格加列、大正四年十月二十七日神饌幣帛料供進社指定。 神體臺座銘記 寶暦五乙亥天八月吉日主(木+婁)大明神、願主橋本八兵織小西權吉、渡邊猶右衛門、御彩色岡の堂にて仕候、京都大佛師木村弘印公。 一額主樓大神宮 裹に文政八年八月八日庭田入道從一位前按察使大納言祐眞謹書 一札奉建立主樓大明神社村中息災五穀成就願攸正徳二壬辰年九月吉祥日大工西村杢兵衛 一札奉宮社立大工棟梁西村杢右術門正徳二歳壬辰十月吉日奉納首露大明神社 一札當宮再造遷宮棟札赤花邑氏子中奉再建主櫻大明神宮臺宇大工棟梁岡田小兵衛 一札文化十四歳九月二十六日本願主口赤花橋本八兵術中西吉左衛門中赤花渡邊猶右衛門奥赤花小西六郎右衛門 一石燈龍一基萬延元暦庚串皐月建八兵衛橋本政義一基安永下季己午長月孫太郎泰義一對文化和 一石段寛政十二申九月 境内社武神能祭神須佐之男命稲荷神社祭神保食神 境内坪數五百七十坪外に五畝十七歩明治三十八年編入 氏子百四十五戸 祭日十月十一日 神社関係地主樓谷、神ノ村、神かいち神谷、神田、神ノ浦、宮の谷、火ば 関係文書(渡邊猶右衛門所有) 十一月八日の御状二十七日に相届忝く拜見仕侯慮其御地貴公様彌御健勝に被成御座珍重に奉存候仭又主僂大明神様正一位の官に奉成建候由御願被成候而願望相叶候慮小間小間御申被下早速右之御連名惣氏子寄合而披露仕候處此上ながら御願被成候而正一位主樓大明神と額奉掛候得ば此上も無御座惣氏子銘々大慶に奉存候併境内小間小間事記別紙に遣中候段御披見之上可然様奉願上候先は荒々御返事申上候恐惶謹言十二月五日渡邊猶右衛門橋本八兵衛小西六郎右衛門橋本定七 橋本儀三郎様 一筆啓上致候先以彌貴公樣御健勝に被成御暮珍重奉存候次に此方私家内始定七殿御方皆々無事に有罷候間乍慮外御心安思召被下度候仭股主樓大明神官位之事前委細御噺申談事候處不捨置被掛御心に此度御願被成大方成就仕候處小間小間御事記御申越被下早速此上願之儀相叶候はゞ額も御調被成可被下候額代二面可仕候間字面間違無之樣願上候正一位主樓大明神願主(橋本儀三郎 渡邊猶右衛門)一宮守神主の儀子孫無之罷在候處寶暦五年亥ノハ月に御再興仕候而戸前改錠前仕候而四人願主名書、数字不明)に仕候處拙者名前上り氏子惣代より手形取錠前祭禮等一切差圖世話仕候 一神體いざなぎいざなみ之みことに御座候其節佛師木村法印被申候は古き神體凡六百年以前と被申候是も貴公迄何角申入候宜敷願成仕候樣に奉願上候十二月 五日渡邊猶右衛門橋本儀三郎樣 本屋は出石藩主之崇敬厚く、年々米一斗宛祭典費として下給せられ、且代々一度は必ず参詣せらる。 『但東町誌』 須流神社 祭神 慎近王命(「但馬世継記」)
村社
鎮座地 資母村赤花字主樓谷 〔特選神名牒〕赤花村字主楼谷(出石郡資母村大字赤花) 〔神祗志料〕 今赤花村字主樓谷にあり 祭神 伊弉諾尊 伊奘冊尊 由緒 創立年月不詳なれども延喜式の制小社に列し正徳二年本殿を建立し文化十四年同殿を再建す明治六年十月村社に列せらる 〔延喜式 巻十 神名式下〕 但馬國一百卅一座(大一八座 小一百十三座) 出石郡廿三座(大九座 小十四座) 須流神社 〔特選神名牒〕 須流神社 祭神 稱主樓明神 〔神祗志料〕須流神社 主樓明神といふ(神社道志流倍 式社取調書) 〔棟札寫〕奉建立主樓大明神村中息災五穀成就願 攸正徳二四年九月吉祥日大工兩村杢兵衛 當宮再造遷宮棟札赤花村氏子中奉再建主樓大明神宮壹宇大工棟梁岡田小兵衛文化十四歳九月二十六日本願主口赤花橋本八兵衛中西吉左衛門中赤花 渡邊猶右衛門奥赤花小西六郎右衛門 〔神饌幣帛料供進神社指定年月〕大正四年十月二十五日 〔神社明細帳〕拝殿新築大正五年十一月二十四日 境内 七百三十七坪 官有地 榮造物 本殿 萱葺入母屋造四坪 本殿覆 四坪 拝殿 萱葺入母屋造六坪 境内神社 武神社(不詳)稻荷神社(保食神) 祭日 例祭 十月十一目 寶物及貴重品 一本殿建立棟札正徳二年 一枚 一本殿再造棟札文化十四年 一枚 氏子 百四十五戸 加耶国に首露王(金官加耶国の始祖王)がいる。シュロとかスロとか読んでいる。須流神社もそうしたところと関係深いものと思われる。亀旨峰(クジの岳)に6個の金の卵が降臨し、首露王が生まれたという。クジ山にシュロ王が天降った、クジは比遅神社のヒジと同義で、日本神話の天孫降臨神話の この辺りの人々の祖(主樓明神・シュロ王、スル王)を祀るものであろう。あるいはスルはシラ・シロの新羅と見ても加耶と見てもよいであろう。天日槍と見ても豊受大神と見てもよいであろう。 ![]() ![]() 鬼子母神祭を週末にひかえて赤い幟が立てられている ![]() 臨時の駐車場の案内がアチコチにある、子宝を願う参詣者が多いとか。鬼子母神堂(→)(『資母村誌』より)は背後の山にある。寛永15年(1638)・享保15年(1730)に本殿を改築(法華寺文書)。毎年春の大祭には神体を乗せた神輿が旅所である法華寺に迎えられ、但馬地域だけではなく丹波・丹後方面からも多くの人々が参拝に訪れて賑わうという。 鬼子母神堂までは、結構距離があり、勾配もきついとか、子を産めるような若い人でないとムリ。 『資母村誌』 法華寺
圓融山法華寺は妙顯寺の末寺なり。寺格乙六等紫金襴跡。 資母村寺院明細帳に曰く 出石郡資母村ノ内口赤花字主計 日蓮宗妙顯寺末 法華寺 一、本尊 釋迦佛 一、由緒 創立元和四年中興寶暦十二年四月 一、堂宇 桁行七間三尺 梁行五間四尺 一、境内地 四百三十七坪 官有地第四種 一、位牌堂 桁行一間七分五厘 梁行二間 一、廊下 桁行五尺 梁行二間 一、檀徒 四百六十五人 1、本尊 中央は南無妙法蓮華経。左釋迦如来。右多寶如来。本尊眞前に日蓮聖人を奉祀す。 其厨扉に記あり。 南無妙法連華経南無口蓮大菩薩 大光山三十三代 大僧都 日猶花押 維時享和元辛酉年孟夏良辰 但馬國赤花村圓融山法華寺十四傳 體遠院 日諦 施主當寺越 性相院妙常日善 髻中院法珠日持 袖包院妙念日珠 2、由緒 元和の頃丹後中郡河邊の人河末宗助並同人子息久右衛門の二人あり。出石町経王寺二世日政上人に歸信し眞言を改めて熱烈眞摯なる法華の行者となり、赤花治部淺右衛門に仮寓し、大に諸人を感化して信者を作り、遂に一宇の精舎を建て、経王寺三世自性院日音の上足南曉院日榮を開祖に請せり。是れ即法華寺なりとす。傳ふる所に依れば、元和二年建立を発願し、四年に草菴を結び(現地の下の畠)、八年に至りて寺號山號を公稱して經王寺の別院となり、妙顕寺の末寺に列せりと云ふ。河末父子は稀有なる篤信家にして、同時に又一大事業家なり。久右術門歿するや、出石藩(蓋し小出氏)の郡代友松五郎兵衛は特使を遣して其葬儀に列せしめなりと云ふ。以て其感化の偉大なるを知るに足る。 宗助法名 宗助日正居士 正保四年七月二十五日 久右衛門法名 觀理院得解圓濟日教居士 寛文四年七月二十五日 3、沿革 法華寺に第十一世義光院日解大徳の筆「略縁起」なるものあり。即一篇の寺史也。 掲て以て沿革を明かにす。 抑當寺者河末宗助法號も則宗助同子息久右衛門法號は圓濟此親子出石經王寺二世實成院日政上人歸依し眞言宗を改同一乘山三代自性院日音師之弟子南曉院を當寺の開山と頼新一宇を建立せり誠以後代希有父子たり是以法華寺永代あらん限河末氏圓濟父子年忌等深志可營者也十代日寮住職之内百遠忌法事執行す圓濟… 4、歴代 略 5、法華寺と出石藩主 前記十一世義光院日解大徳の略縁起に曰く 前出石城主小出家只今にては断絶及ぶといへども古来の過去帳御先祖御一家之戒名不殘しるし傳へたり當寺は小出家より除地之御厚恩在之候得者永代無断絶回向専一たるべしと云ひ、又仙石氏よりも同様の赦免を賜り、且つ仙石家の菩提寺經王寺の別院たるの由緒により、毎年正月三四五日の三日間仙石家へ參候せりと云ふ。 6、鬼子母神堂 イ、創草及沿革 鬼子母神堂は神瀧山上に在り。前掲義光院の略縁起(安永四年乙未仲夏造)に依るに創建は正保年中なりと云ふ。或は寛永なりとなすものあり。享保十五年九月丹波天田郡小野原の人、由利彌右衛門社殿を改築し其周圍山林及麓より山上に至る參詣道路、巾二間の地を寄進して大いに觀を改む。天保十一半二十世智見院日慈再建。昭和二年村民の過失にて類焼の厄に遭ひ現に再建中に屬す。籠堂は二十三世唯明院日導の時創設し、明治二十七年萬人講解散の紀念として増築され以て今日に至る。 ロ、鬼子母神の由来 鬼子母神は佛經に由来するは勿論なるも、原名は訶利底(Hariti)と日ひ、歓喜、暴悪、青色等に譯す。或は義譯して歓喜天母、愛子母、鬼子母等と云ふ。詳細は毘奈耶雑事三十一、南海寄歸傳一等を參考すべし。要するに釋尊の教化に依りて得道せる一悪女が、誓願を發して護法神と成りしなり。 然り而して鬼子母神を奉祀する寺院は甚だ多かるべきに、獨り當寺のもののみ渇仰崇信さるる所以に至りては、文獻の徴すべきものなし。傳況事蹟等も無し。 ハ、當寺の鬼子母神々體 當寺の御神體は、元日蓮聖人門下の逸足日法聖人作のものを奉祀せしも、英智院日宣(傳未詳)更に塑像をり、元の神體を其胎中に藏めたりと傳へらる。更に現神體の頭髪は信者の喜捨せるものなりと。是れ弘化以前天保の頃のことなるも、神體の臺座昭和二年焼失して詳細を知るべからず。 ニ、祭禮の概況 校補但馬考に曰く 鬼子母神祠 赤花法華寺後山に在り。老松路を挾み頂に祠及寵り堂を建つ四面を下瞰すへし眺望佳絶なり山腹瀑布あり其水極めて寒冽賽徒常に絶えず丹後殊に多く丹波之に亞ぎ殆但馬を壓せんとす祭日は四月十七十八兩日にして神輿を以て神體を山下に迎へ法華寺を以て旅所とす來賽するもの約二萬人に及ぶと云ふと。簡明なる寫實なり。雖然郷土史としては更に一歩詳細に寫さんと欲す。 四月十七日 先づ早天山上の神體を厨子に安置し、篤信家交代して背負ひ、一の鳥居の外なる常寂奄に降り来る。時を計て當寺より神輿を舁いて同菴に奉迎す。乃も厨子より更に輿に安じ振放して寺に入る。時に午なり。此より参拜の老若男女踵を接し肩を摩し、十敷町の外より長蛇を作す。百般の商人地を借り露店を列ね客を爭ひ引く。又輕技、奇術、犬芝居の類假舍を建て幕を引き、撃柝、鉦、鼓、喧囂閙熱夜を徹す。神前には祈祷の讀経絶ゆることなし。 同十八日 午前九時より神前の祈祷始まり、賽徒庭を埋め十一時前後より愈最高潮に逹す。近隣近郷は云ふに及ばす、丹後丹波、遠きは京阪神地方より參拜す。午後五時洪鐘一杵、数十百の露店一時に撤せられ、輕技奇術の類も忽地中止し、神輿本堂を出で中庭を周匝数回、山門を出で、又振放して常寂奄に奉送し、昨日の厨子の安じ背上に倚て上山す。此に於て祭典全く終了す。 7、宗善祠 法華寺境内に在り。火防神として里人に尊崇せらる。毎年春秋兩彼岸中日を祭日とす。奇なる傳説あるも、茲に掲げず。 8、洪鐘 … 『但東町誌』 円融山 法華寺 (赤花)
日蓮宗 妙顕寺末 寺格 乙六等紫金襴跡 本尊 釈迦佛 中央 南無妙法蓮華経(本尊眞前に日蓮聖人を奉祀す) 由緒 創立元和四年 中興 宝歴十二年四月 堂宇 桁行七間三尺 梁行五間四尺 境内地 四百三十七坪 官有地第四種 位牌堂 桁行一間七分五厘 梁行二間 廊下 桁行五尺 梁行二間 檀徒 四百六十五人 金蔵山金蔵寺の支院西光寺(京都府加悦町)も当村にあったという。 《交通》 ![]() 《産業》 《姓氏・人物》 ![]() 橋本竜一(←)(『但東町誌』より) 字主計(かずえ)の橋本竜一は明治7年(1874)水車による機械製糸を始め、同12年には蒸気機関を装備した釜数50の工場を作り、同13年には横浜港からアメリカやフランスに生糸を直輸出している。 『但東町誌』 豊岡県が成立して、その明治七年(一八七四)資母村赤花の橋本竜一は、女工を雇って水車で機械製糸をはじめ、その生糸を横浜に送っている。このことは廃藩置県や、庄屋、年寄村役人の廃止、戸籍の実施や土地売買公認、などの一連の政治行政機構の変革よりも、もっと積極性をもった新しい企業精神の勃興であった。そのような試みが何故早くも但東町で行われるようになったのか。それは単に経済行為の自由が認められるようになったというばかりでなく、この山陰の山奥にも世界経済の影響がまともに打寄せ、それを可能とする経済的条件が成立するようになったことを意味している。すなわち生糸の高騰と製糸の有利性で万延元年(一八六〇)から元治元年(一八六四)を一〇〇とする指数で、慶応元年(一八六五)から明治二年(一八六九)の横浜港の輸出品のうち、生糸は一七三、蚕種は実に一、二二〇の指数を示していた。(「横浜市史」)その主要な原因はヨーロッパとくにフランス養蚕地帯における「微粒子病」の流行と、東洋の産地中国における「太平天国の乱」であった。このような世界経済の変化は、横浜における生糸、蚕種の好況となり、当時東京駿河台の依田薫の塾にあって英語数学漢学を学びつつあった但東町の青年橋本竜一の知るところとなり、学業を放棄して東京築地の小野組製糸工場を見学して製糸機械の模図を作り、郷里で製糸工場を開かしめた。また上州富岡(群馬県)の製糸工場で技術を習得し、上州島村の田島武平について蚕児飼育、蚕種製造法を学び、男女工数名を伴って富岡製糸場で技術を伝習させ、赤花の水車工場で生糸を生産して横浜に送り、蚕種の製造は実兄橋本正隆に任せ、製糸と蚕種製造業を行わしめるに至った。この青年橋本竜一が明治七年に創立した「製糸マニユフアクチュアー」は、明治一二年には蒸気汽罐を装置し、釜数五○の工場制工業に発展し、翌一三年には横浜を経由してアメリカ、フランスに直輸出するようになり、一八年六月時の農商務卿西郷従道の功労賞授与となるが、このようなことが但東町の一角に実現したということそのことが、「明治維新の変革」を如実に示すものであったといえる。 (「資母村誌」)二五八頁)…
赤花の主な歴史記録赤花の伝説![]() 赤花の小字一覧関連情報![]() |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『兵庫県の地名Ⅰ』(平凡社) 『但東町誌』 その他たくさん |
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