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平田(ひらた)
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平田の概要《平田の概要》 正法寺村の上流側、出石川の流域に位置し、出石・福知山道(国道426)が通る。 中世は、雀岐庄東方(領家方)の一村で、南北朝時代の相論の具書中に関係史料が伝わる。貞和4年(1348)2月22日付の但馬国守護今川頼貞注文案に、大高山に拠った凶徒(南朝方)与同輩跡の一として「雀岐庄内平田村法勝寺領公文志津田彦三郎入道」が記される。志津田彦三郎入道の跡地である当村は、栗尾村・小谷村・増法寺村などとともに門真左衛門尉寂意に与えられたが、寂意は平田・小谷・増法寺三村の領家職を押領したとして、貞和5年三村の領家坊門為名家から幕府に提訴され、次いで以後応安元年(1368)にかけて太田孫太郎や名主庄官らが三村の領家職を違乱したとして為名家は幕府や守護に提訴し、そのつど勝訴の裁決を受けている。門真寂意も公文職名田畠がことごとく領家方に沙汰付されたと幕府に提訴して、観応元年(1350)その返渡を認める裁決を受け、公文職名田畠の名主で、志津田入道とともに闕所とされたとみられる明覚と領家との間にも相論が起こっている。当村の領家坊門為名家は度々の相論に勝ってはいるものの、結局領家職の知行を確立できなかったようである。 平田村は、江戸期~明治22年の村。出石郡のうち。山名氏政滅亡後天正13年まで青木勘兵衛、同年から前野長康が領した。文禄4年からは出石藩領。明治22年高橋村の大字となる。 平田は、明治22年~現在の大字名。はじめ高橋村、昭和31年からは但東町の大字。平成17(2005)年より豊岡市の大字となる。 《平田の人口・世帯数》 151・54 《平田の主な社寺など》 ![]() ![]() 集落の南側山裾に鎮座、春日神社(春日大明神社)は明和9年(1772)の勧請とされる(厨子裏書)。 ![]() ![]() 『但東町誌』 放光山 專福寺 (平田
往古は粟谷口香積寺と号し、中途休房し寛文宝永(一六六一-七一〇)のころ若僧住し永領寺より通円来り、粟谷口旧地に建立し專福寺と稱した。宝永期に貞山師を円了寺より迎え、宝歴一二年(一七六二)一実の時代から佛教一切経を所蔵した。 安政六年(一八五四)第六世大蟲法師は長男得生に住職を譲り、六〇才で薩摩開教に三年従事し六四才の七月本願寺の命を受け北海道開教に聞名法師を同行し、函館と小樽に寺を建て六六才にて函館の地にその生涯を閉じた。 《交通》 ![]() 《産業》 《姓氏・人物》 平田の主な歴史記録平田の伝説![]() 平田の小字一覧関連情報![]() |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『兵庫県の地名Ⅰ』(平凡社) 『但東町誌』 その他たくさん |
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