丹後の地名 若狭版



木村(きむら)
兵庫県豊岡市但東町


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兵庫県豊岡市但東町木村

兵庫県出石郡但東町木村

木村の概要




《木村の概要》
太田の下隣の集落。太田氏の「大将軍館」「堀ノ内館」が置かれたといい、木村は()(柵)村の意味であろう。
太田川の流域、同川の北岸を走る出石・宮津道(丹後道)に沿って発達。寛永16年(1639)の田畑地改帳(太田家文書)では高三三九石余、正保(1644-48)頃成立の国絵図に村名がみえ、高三三三石余。
寛延元年(1748)に当村北部で境を接する西野々村との間で境相論が生じている。当村と倉見領(旗本小出氏知行地)の西野々村の境界をめぐる紛争であるわら谷事件では寛延3年寺社奉行大岡忠相にこよって裁許が行われている。
木村は、江戸期~明治22年の村。但馬国出石郡のうち。山名氏政滅亡後天正13年まで青木勘兵衛、同年から前野長康が領した。文禄4年出石藩領、元禄9年からは幕府領。明治22年資母村の大字となる。
木村は、明治22年~現在の大字名。はじめ資母村、昭和31年からは但東町の大字。平成17年より豊岡市の大字となる。


《木村の人口・世帯数》 58・20


《木村の主な社寺など》

サヌカイト製尖頭器の出土
『但東町誌』
わが町の石器 -木村の尖頭器-
 丹波では、いまだ無土器時代の遺跡は皆無であるが、但馬ではその終末期の遺跡が若干知られている。そのひとつは養父郡養父町森石ケ堂洞穴付近の谷間から発見された尖頭器である。この尖頭器の石質は頁岩質のもののようで、表裏とも押圧剥離が顕著である。
 第二のものは出石郡但東町木村西ケ奥の川中から発見された尖頭器で、石質はサヌカイトのようである。これは前者に比べてやや粗雑な感をうけるが、ほぼ同時期のものと考えてよかろう。但馬発見の無土器時代の遺物はこの二例にすぎない。この二例がいずれも尖頭器であることは、無土器時代終末期になって、はじめて但馬に人間が住みついた痕跡を示しているといえる。このような人びとが、いずれの地からおとずれたかは明らかでないが、南部から北上したと考えるより、むしろ、東方からの移住と考える方が妥当なのではあるまいか。但馬の山地は東の京都府・滋賀県を経て中部の山岳地帯に接続する。つぎにおとずれる縄文文化の諸要素のなかに、中部・北陸と結びつく要素がかなり知られている。またこの尖頭器の文化は東方に濃厚で、瀬戸内周辺はむしろこの文化の末端ではないかと考えられる点も多い。つまり、尖頭器の文化は西日本の無土器文化が自然に変化して生れたものではなく、無土器文化の終末に東からかとずれた、新しい文化要素と考えた方がよいのかもしれない。その意味では、東からおとずれた要素が県の南部を経て北上したと考えるよりも、摂津・播磨南部・淡路と同時に、東の山岳地帯を経由して、直接但馬へ輸入されたと考える
方が妥当なようである。播磨北部の地域に無土器時代の遺跡が存在しないことは、尖頭器文化の北上を否定する材料となるのではなかろうか。(「兵庫県史」第一巻一一四~五ページ)
 但東町に見えた鎌木義昌教授は、以上のよう考察されているが木村から発見されたそれは、のちの資母村長太田誠一氏が、大正一一年五月同氏宅付近の川中から発見されたものであり、いまも同家に保存されている。

森本神社

森本神社は元禄7年(1694)に霊代を調進し、嘉永元年(1848)本殿を再建。中世の但馬守護職太田氏ゆかりの神社で太田市場村民も氏子としている。
『資母村誌』
森本神社
木村字森本村社祭神句々廼智命、相殿太田判官日本書紀曰伊弉諾伊弉冊二尊海を生み、次に川を生み次に山を生み、次に木の祖句々廼智を生む。
『古事記』伊邪那岐伊邪那美の命、志那都比古神を生み、次に木の神名は久久能智神を生む。
木村名も祭神に基き名けしなり。
太田判官守延、森三郎左衛門尉と稱す後醍醐帝第六之宮恒良親王本村に幽せられ預り奉る、元弘三年後醍醐帝隠岐を出でられ船上山に幸し給ひ諸國に詔を下し北條氏を討ぜんとす、帝源忠顯に勅して山陰山陽の兵を召し赤松則村を援けしむ、太田判官皇子恒良親王を奉じて近國の勢を催し錦の御旗を立て京師を攻め、二條合戦に敗れて死す、詳しきは年代、人物、城跡參照
創立年不詳 元禄四年神體彫刻、嘉永元年九月四日上屋再建、明治六年十月村社格加列、明治四十五年五月無格社産靈神社杵築神社合祀す。
神體 句々廼智命立像一躯
太田判官木像一驅 衣冠束帯坐像帯刀し中啓を持つ
臺坐銘記 七條大佛師運慶之末孫洛陽四條堀川之住大佛師福田康欧作之元禄辛末四歳六月四日
一札 森本大明神本堂再建棟上嘉永元戌九月吉日大工棟梁美含須谷村河原嘉平
生野銀山勝田次郎樣御支配所施主産子中願主(木村市場)若連中木村庄屋吉右衛門市場庄屋傳左衛門
境内社 杵築神社(大己貴命)琴平神社(事代主命)産靈神社(造化三神)
 産霊神社合祀迄妙見宮と稱し字西ヶ奥山上にあり、札、奉掛御寶前一享保九年辰四月二十三日の夜大雨にて所々大松一の枝に御燈明上りしを人々之を拜み役人衆方へ是をつげそうこう打寄キセイをかけし所に彼方より御告げを蒙り妙見大ぼさつとあらはれ則妙見堂を建て夫れより諸人参詣致候さい餞を集め申候其時之御代官飯塚孫次郎樣御支配其後享保十二年末四月に宮をさい銭にて建て御代官長谷川庄五郎樣平岡彦兵衛樣御支配之時也後々之年に至り萬一御公儀より御尋之節此札掛上け申印に御座候以上享保十二年未の四月吉日妙見大ばさつ様但州出石八木町大工彌兵衛木村庄屋権右衛門年寄吉右衛門
一燈籠一封 寛政六甲寅九月(太田善蔵 太田正見)
一鳥居 安永六丁酉一月吉日
一石段 下寛政七卯一月、上文化元年子天
一石玉垣 大正十二年九月京都大木曾
境内坪數 百七十七坪
氏子數 九十戸
祭日 元舊九月卯の日なりしが現今十月十七日とす


但馬六十六地蔵(木村地蔵)

63番 木村地蔵
我々も 数の山岡 乗り越えて ここに来村は 後の世のため
山内や 木村の里の 地蔵尊 救わせ給え 現世未来を

但馬各地には六十六の地蔵様が祀られている。伝説によれば、…
昔、但馬地方は一面の泥海であったという。そこで、新羅の王子「天日槍命」が但馬五社大明神とともに円山川下流の豊岡市瀬戸の岩山を開き、その泥水を日本海に流し、但馬の地が作られたという。しかし、泥がなかなか乾かないため、「見国岳」ともいわれる粟鹿山の頂上に神々が集まり、乾ききらない但馬の土地を眺め、但馬全域にわたって大きな梵字を書き、その要所要所の66カ所に「地がため地蔵」として地蔵様を祀り、その地面が固まるように祈願した。それから人々が大変生活しやすい豊かな但馬の国が生まれたとか…
但馬地蔵巡礼66ヶ所は、全国66ケ国の但馬版として整備された巡礼道で、総道程約175キロメートルもあります。心を込めて巡れば全国をまわるだけの功徳が得られるとされるとか。


岩吹城
但馬守護・太田昌明が築いた岩吹城。集落の下手にある。

『資母村誌』
岩吹城
木村字城山標高二〇三米突の山頂にあり、本丸東西二十五間南北二十間、御方ヶ丸東西三十間南北二十五問。其他数段あり堀切り二ヶ所あり、展望廣く要害の地たり、太田氏一族の居城なり。字池の谷に貯水せし跡あり、此城も龜か城と同時に廢城となりしものならん、當時の土器破片あり。
岩吹城跡

館跡
旧街道添いの集落の山手側、今は田畠となっているところあたりではないかと思われるが、何も案内なく不明。
『資母村誌』
太田氏館跡
 木村字堀の内にあり、東西五十間南北六十間、文治年間太田昌明宅を構え累世の居住地なりしならん。此地東方佛清、龜か城、姫の段、西方岩吹城を望むべく要害の地たり。『大日本史』によれば恒良親王但馬に流され給ひ太田判官に預けらると、一旦此館に預り後畑山に奉ぜしか、堀の内・堀端・梓野弓場・屋敷掛等の字あり。尚當時の土器破片を出す、地は敷段あるも概して平坦にして館跡として廣闊なり。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


木村の主な歴史記録



木村の伝説




木村の小字一覧



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『兵庫県の地名Ⅰ』(平凡社)
『但東町誌』

その他たくさん



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