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高竜寺(こうりゅうじ)
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高竜寺の概要《高竜寺の概要》 ![]() 高竜寺ヶ岳登山道。地蔵堂内にある案内板↓。 地蔵堂の手前を左へ入ると産霊神社がある。 高竜寺集落は、高竜寺ヶ岳(696・7メートル)の南麓、標高約220メートルにある。地名はかつて当地にあった高竜寺に由来する。同寺は嘉承2年(1107)出石郡主政安牟加首牟志布が創建したと伝えられる(但馬国司記)。弘安8年(1285)の但馬国太田文には「高滝寺五町」とみえ、「聖護院御領」「地頭太田三郎次郎人道行願」の注記がある。 高滝寺は、鎌倉期に見える地名。但馬国出石郡のうち、弘安8年(1285)の但馬国大田文に「高 高竜寺村は、江戸期~明治22年の村名。出石郡のうち。山名氏政滅亡後天正13年まで青木勘兵衛、同年から前野長康が領した。文禄4年出石藩領、寛文6年からは旗本(倉見)小出氏の知行。明治22年資母村の大字となる。 高竜寺は、明治22年~現在の大字名。はじめ資母村、昭和31年からは但東町の大字。平成17年より豊岡市の大字となる。 《高竜寺の人口・世帯数》 18・8 《高竜寺の主な社寺など》 ![]() ![]() 産霊神社は宝永8年(1711)に社殿を再興した(社蔵棟札)。文化元年(1804)設けたという石段が地蔵堂側にあるが、200年も経ているため、かなり変形している。 『資母村誌』 産靈神社
高龍寺村字シヅ谷村社、祭神、造化三神 三神天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神 『古事記』天地初めて發するの時高天原に於て成る神の名天御中主神次に高御産巣日神次に神産巣日神此三柱の神者皆獨り神成坐まして身を隠し玉へり。 『日本書紀』天地の中一物を生じ化して神となる國常立尊と號す次に國狭槌尊次 に豊斟停尊凡べて三神獨化しぬ。 又曰高天原生まれます神の名は天御中主尊、次に高皇産靈尊、次に神皇産靈尊。 神體 木立像一躯鎌倉時代の作ならん。 創立年代不詳 寶永八年再建、明治六年十月村社格加列。 一棟札 妙見大昔薩白山高龍寺氏子不退守護攸 當社再興寳永八辛卯天王春吉祥辰 傳禍爲福子孫繁榮二世安穏息災延壽 村中老若男女敬白出石八木町三左衛門宗鏡寺町新右衛門 出石醫王山光明院宥山 一社殿 間口八尺三寸奥行六尺九寸、丸柱前庇作 境内社 荒神社愛宕社稻荷社 一燈寵一封 寛政六寅九月一道書 一石段 文化元年十月吉日 坪數 二百五十一坪外ニ一反一畝七歩三十八年五月編入 氏子數 二十八戸 祭日 元陰暦九月七日現今十一月二十三日 ![]() 『但東町誌』 古代の但東町の集落と神社
『但馬国司記』は霊亀元年(七一五)阿部安麻呂が但馬国司に任命され、佛教の伝来と共に天平一三年(七四一)国毎に国分寺、国分尼寺の詔あり、天平勝宝八年(七五六)日高国分寺の完成を伝えている。これら山陰道沿線・出雲国との交通要地の発展はわかるが、出石川を遡る今の但東町辺の文化については疑問点が多く残されている。しかし荘園は社寺院荘園の発展と共に、この山奥にも各種の記録が残っており、既に佐々木荘と神社の記事がみられる。例えば 「天平十九年(七四七年)春三月佐々貴山君大佐伎が出石小領に任ぜられている。高橋義成の甥である。下村主を東里出石主帳となす。佐々貴山君大佐伎は其祖大彦命を佐々貴山に祀る。大佐々伎神社と云う。下村主東里其祖慎近王命を赤端之丘に祀る。之を須流神社と言う。資母郷は其の所領なり下村主東里は真龍の子なり」云々。また、 「延暦三年夏六月(七八四年)佐々貴山君波佐磨出石大領に任じ、葛井宿袮比遅磨出石主帳に任ず。佐々貴山君波佐麿は其祖佐々貴山命を射坂之丘に祀る小佐々貴神社と云う。」またこの頃、 「葛井宿袮比遅磨其祖昧散公を藤ノ森山に祀る。比遅神と云。承和一五年(八四八)秋八月、安牟加首虫生を出石主政に任ず。安牟加首虫生其祖物部十干根命を虫生の丘に祀る。之を安牟加神社と云う。虫生はその所領なり。小野朝臣吉人出石大領に任ず。 寛平五年(八九三年)冬十二月小野朝臣之子吉磨出石大領に任ず。 延喜三年(九〇三年)春正月安牟加首玉生出石主政に任じ、葛井宿袮比遅城出石主帳に任ず。この月出石郡神社神名帳を作り郷社に納む。 仁明天皇嘉祥二年(八四九年)出石主政安牟加首虫生高龍寺を建立する。」等が見られる。 「新造院一所云高能寺建厳堂深草天皇承和十六年主政外従八位下安牟加首牟志布之所造也。 【注】 承和十四年で改元承和十五年は嘉祥元年にあたる。 今産霊神社の下に高龍寺の寺跡あり大門又は中屋敷などの字あり当時はかなり大きな寺院であったが、遂に廃寺となり安牟加首牟首布を祀る。安牟加神社と牟首布(虫生)の部落名は今に残されてゐる。この廃寺附近に造化三神(イザナギ神カミムスビ神タカミムスビ神)を祭る産霊神社を奉斉。 弘任十年(八一九年)資母郷金蔵山金蔵寺建立」云云等の記事が見られ、これら荘園、社寺領荘園の発達と共に今の佐々木、大田附近に集落の中心が見られ、鎌倉時代に入って太田市場等も実在したものと思われるようになってきている。このような中世における山村の発展は、山地の開発に力を入れると私領となること、そのような開発余地が但東町には多く残されていたこと、またそれに伴って有力な豪族等有力者が入り込んできたことを示しているものと思われる。後に道標を建て「京畿道」と丹後の成相寺への途を示した石碑によっても知られるように京都への近道もあり、かなり交通上(歩いて行く)の要地であったことも、その要因とみられるのである。 《交通》 ![]() 《産業》 《姓氏・人物》 高竜寺の主な歴史記録高竜寺の伝説![]() 高竜寺の小字一覧関連情報![]() |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『兵庫県の地名Ⅰ』(平凡社) 『但東町誌』 その他たくさん |
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