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三原(みはら)
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三原の概要《三原の概要》 出合の北東、太田川の左岸(東岸)側にある。但東中学校がある。 文禄4年(1595)出石に入部した小出吉政(のちの出石藩主)領となる。寛文6年(1666)小出吉重が父吉英の遺領を継いで出石藩主に就任した際、弟英本に2千石を分知、この時に旗本小出英本(倉見小出家)領となり、以後倉見小出領で幕末に至った。正保(1644-48)頃成立の国絵図に村名がみえる。元禄8年(1695)出合村との間で境界出入があり、このとき設けられた境界石が現存する。 三原村は、江戸期~明治22年の村。但馬国出石郡のうち。山名氏政滅亡後天正13年まで青木勘兵衛、同年から前野長康が領した。文禄4年出石藩領、寛文6年からは旗本小出氏の知行。出石藩主小出吉重から弟英本に分与された倉見領に属す。明治22年合橋村の大字となる。 三原は、明治22年~現在の大字名。はじめ合橋村、昭和31年からは但東町の大字。平成17(2005)年より豊岡市の大字となる。 《三原の人口・世帯数》 76・29 《三原の主な社寺など》 ![]() ![]() 岡神社は享保4年(1719)に本殿を造営(社蔵楝札)。祭神は少彦名神で、隣村唐川村と同名の神社・祭神であり、出石藩領から倉見領になったため分霊したものと推察されるている。 《交通》 ![]() 《産業》 《姓氏・人物》 三原の主な歴史記録三原の伝説![]() 三原の小字一覧関連情報![]() |
![]() ![]() 資料編の索引
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『兵庫県の地名Ⅰ』(平凡社) 『但東町誌』 その他たくさん |
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