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南尾(みのお)
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南尾の概要《南尾の概要》 出合と出合市場の間、出石川の流域にあり、出石・福知山道が通る。三ノ尾(寛永16年知高帳)などとも書いた。 中世は雀岐庄東方(領家方)の1村であった。応安4年(1371)3月6日付で勘解由小路兼綱が一子仲光に宛てた譲状上代のうち、栗尾村の説明に続けて「南尾村同彼朝臣跡一具之地也。当御代拝領神妙、以便宜、可申給相伝之勅裁者也」と記されている。栗尾村と同じく、建武3年(延元元年、1336)大和国吉野に参向して領家職を没収された坊門親輔(彼朝臣)の跡地で、かつは兼綱の母方、親輔の祖父俊輔の相伝由緒地であった。後光厳天皇(御当代)から兼綱が拝領したというが、ほかに関係史料は伝わらない。中世には土野荘に属したという(県神社誌下)。正保(1644-48)頃成立の国絵図に村名がみえる。 南尾村は、江戸期~明治22年の村。出石郡のうち。山名氏政滅亡後天正13年まで青木勘兵衛、同年から前野長康が領した。文禄4年からは出石藩領。明治22年合橋村の大字となる。 南尾は、明治22年~現在の大字名。はじめ合橋村、昭和31年からは但東町の大字。平成17(2005)年より豊岡市の大字となる。 《南尾の人口・世帯数》 66・23 《南尾の主な社寺など》 ![]() ![]() 「延喜式」神名帳の出石郡小社「日出神社」に比定する説がある。畑山の日出神社とする説もある。当地の日出神社は多遅摩日多訶神・由良止美神を祀る。境内に栃の巨木があったことから中世以来栃森大明神と称していたが、明治3年旧称とされる日出神社に改めた。寛永-正保(1624-48)頃出石藩主小出吉英は出石川改修にあたって同神社を旧社地の南東隅に移したという。安政6年(1859)に本殿を造立(社蔵棟札)。氏子圏は当地および出合・出合市場・日殿で、祭礼日(10月)は千本餅つきの神事が行われる。 《交通》 ![]() 《産業》 《姓氏・人物》 南尾の主な歴史記録南尾の伝説![]() 南尾の小字一覧関連情報![]() |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『兵庫県の地名Ⅰ』(平凡社) 『但東町誌』 その他たくさん |
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