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中山(なかやま)
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中山の概要《中山の概要》 ![]() 東経135度線が通る。 ![]() モンゴル民族博物館がある、たんたん峠を越える国道482号と県道2号が交わる、坂野川が太田川へ合流する地点。 旧資母村の中心地で、 虫生の西になる、同村は古くは当村のうちであったが、寛永19年(1642)に分村した。交通の要衝にあたり、近世には宿屋・茶屋・荒物屋なども立並んでいたと伝える。 中山村は、室町期に見える村名で、但馬国出石郡太田荘のうち。文明10年の但馬国檀那村付注文に「一、中山村やとハほうり殿」とある(肥塚文書)。また、「蔭涼軒日録」長享2年7月5日条所引の西芳寺領所々目録に「但馬国太田庄内中山須地坂門新弐拾柒貫文」とあり、当時は、山城西芳寺の所領であった。当地の中世城跡として中山城がある。初代城主堀政直は南北朝期の人、春屋妙葩を当地に招いて菩提寺蔵雲寺を建立したという(城館荘園遺跡)。 文禄4年(1595)小出吉政(のちの出石藩主)領となる。出石藩主小出家が元禄9年(1696)に無嗣廃絶になると、一部は矢根銀山付(矢根組)として幕府領となり、以後は出石藩領と幕府領の相給で幕末に至った。 近世中期頃から縮緬織物業が発達。文化2年(1805)の御好明細帳(太田家文書)によると縮緬機稼をしていたのは6軒で、織機15機があり、製品は京に売りさばいていた。安政2年(1855)に矢根組6ヵ村が翌三年の絹糸・繭の生産予定を生野代官所(生野町)に報告した際の書上(同文書)によると、当村の予定は絹糸45抱(1抱200匁)・繭60貫目で、ほかに周辺の諸村から絹糸を買入れ、反物に仕立てていた。御好明細帳によると、油役を納め、冬場には杜氏として山城伏見や摂津灘に出稼に行く者もいた。 中山は、明治22年~現在の大字名。はじめ資母村、昭和31年からは但東町の大字。平成17年より豊岡市の大字となる。 《中山の人口・世帯数》 503・177 《中山の主な社寺など》 ![]() ![]() ![]() 如布神社は坂野村から水害の際に流れついたという説と、豪族が坂野から移ってきた際に移したとする説があり、後者が有力だという。 『資母村誌』 如布神社
中山村字田口良に在り、村社にして祭神埴安彦命埴安姫命。 伊邪那美神生火之迦具土将因生此子美蕃登見炙而病臥在多具理邇生神名金山毘古神次金山毘賣神次波邇夜須毘賣神。『古事記』伊弊册尊爲軻遇突智所焦而終矣其且終之間臥土神埴山姫。『日本書紀』埴安彦埴安姫は土を司る神なり。 延喜武内社にして近隣に在る祭神並に社名を同うせる神社左の如し。 丹後加佐郡高野村大字女布、目原神社 同 熊野郡下佐濃村大字女布、賣布神社 但馬城崎郡日高村字國保(舊高田郷)賣布神社 同 郡口佐津村大字浦上丹生神社 伊勢飯南郡丹生神社鑛山守護神 神體埴安姫命立像 社殿創立年不詳、大永二年卯月寛政九年三月、文化十二年九月、天保十四年九月再建、明治六年十月村社格加例、明治十六年十月本殿移轉。 一札(寫) 奉新再興當社之事 右當社建立之事抜群雖久及大破更無取立仁體雖然爰外垣右京之進源恒光依神夢難計建立之處明?現在安穏後生善處也故同作事奉行足立右衛門吉次也 大永二年壬午卯月八一日敬白(現在札なく寫に依る) 一札 奉遷宮執行寛政九巳年三月三日當國出石巫女朝日和泉 一札 如布宮大明神前殿再建文化十年乙亥歳九月吉祥日 一札 拝殿普請天保十四年卯九月 境内社豊宇賀命 享保三戌年九月八日と供物石に銘あり、尚弘化四年再建の札あり。 一鳥居 天保十二年丑三月建立 一石燈籠一封 寛政五年八月 氏子數 八十八戸 祭日 十月八日。 神社関係地名 字田庫(たくら) 神社の神田より収納せし穀を納むる處。 字神田(かんだ) 神社の用途に充つる田地、又はミトシロと云ふ、祖田にて賣買を禁ず。神社自ら耕作するもあり、其田租は貯蔵して神税と稱し、祭祀修繕之用途及社司社人之俸祿に充つ、仲哀帝九年四月神田之制を定め佃らしめたるを始めとす。 字神奴 (俚稱かんじょう)神の奴又は神賎とも云ふ神社に属する賎民なり、良民と婚することを得ず、之を司る長官神奴連と稱す、即神奴の居住せし處なり。此神社俗にコケツ(嘉吉?)の洪水に坂野より、流れて入に止まる故に名づくと口碑あれども、荒唐無稽の傳説なり。 『但東町誌』 獅子舞い
舞鶴の如布神社祭礼「獅子舞い」の歴史は新しい。旧資母の中心本務社だった同社秋祭りにふさわしい祭礼を、と氏子の協議により昭和四五年ごろから創始された。もらろん「昭和初期」の事項には属さないが、その性質上ここにかかげた。区内の要所数力所で噺しに合わせて舞い、本社殿に奉納する。 大字中山は大正末期までおよそ一五〇戸で一区を形成したが、その後、如布と赤野に別れいずれも一〇〇世帯前後の集落をなり、秋まつりは相互の祭礼を交歓するようになった。 ![]() ![]() 赤野神社には郷土芸能として名高い大刀振りが10月10日の例祭に奉納されるという。この太刀振りは、丹後の籠神社に奉納される太刀振りである。 『資母村誌』 赤野神社
中山字宮ノ谷口に在り、村社にして祭神は天穂日命。(祭神の記事虫生安牟加神社参照) 祭祀の由来。虫生村元中山村なりしを寛永十九年分村せしにより、分霊祭祀したるならん。 神體 衣冠束帯の坐木像 社殿創立年 寛永十九年、降りて寛政六年八月再建、明治六年十月村社格加列、明治十五年安牟加神社を赤野神社と改稱。 赤野宮大明神棟札(寫)(澁谷喜兵衛藏) 當社神廟以星霜久遠故村民一同近年庶幾再造之矣今茲預執山野令證其来由所冀五穀豊登萬民和樂災難不興奉祈願神明之擁護者也 寛政第六歳舎申寅初夏如意珠日 前大徳一道叟宗等敬誌罵□□ 一高麗狗 石彫一對、安牟加神社より分霊の時奉祀すといふ。古色蒼然たり。 一札 延喜式内奉鎭祭阿牟加神社明治五年壬申三月二十八日、懸毛畏幾當社は延喜社安牟加神社坐之社虫生村に鎮座有之寛永十九壬午年中山村へ分社し奉崇今般王政復古にならせられ基其蒙御改徳猶改て其記乎奉捧氏子一統休日參詣致候事神官丹後熊野郡市場村七社神社日下部從五位藤原秀宗花押 鳥居 天保十一年二月 燈龍 一基寛政元年九月 一基寛政四年九月 境内坪數 三百七十九坪内官有地百七十六坪 民有地二百三坪 氏子數 六十二戸 祭日 十月八日 摂社 稲荷神社、保食神社、大國主神、蛭子神。 『但東町誌』 太刀ふり
祭礼行事のうち県下でも有名となり、神戸港まつりにも出演して好評を拍しか「太刀ふり」は、赤野神社で毎年行われているが、その源流は奥藤の祭礼であった。すなわち、前掲佐古文書によると、次の記録がある。 原文では「奥藤に伝わる氏神祭礼について」となっており、最初「子供相撲」を奉納していたが、それが次のような経緯で、「太刀ふり」に変わっていったというのである。 奥藤部落の当時の青年はひそかに相談し、丹後石川(いま野田川町)の太刀振り行事を視察し、その結果で指導協力をたのみ、明治四一年夏ごろから指導者を招いて練習を始めた。一方、部落では事が新らしく重大な改革であり、事前に総代等の諒解も求めず単獨強行したので血気に走る非難が起り、その中止説にまで発展したが、同志は却って反対し、どこまでも強行を決意し、丸垣添ヶ谷囗溜池の堤防で毎日猛練習するに至った。 部落の反対理由 一、兵庫県で初めての行事なので神社庁の許可が得られるか。 二、真剣の太刀を使うから危険である。 三、服装を一定する費用は部落負担に困る。従って個人的に多額の経費を要する。 四、毎年長期練習することは家業に支障。 五、祭具の屋台、太鼓、剣の柄、服装等部落負担が多いこと。 六、差当り村当局、賢察当局の許可困難。 これに対し青年会は、練習進行とともに断行を決意し、また一面父兄においても自家子弟の参加で次第に軟化し、この間に村会議員、警察当局が実際を視察すること数回に及び、青年会長藤本弘端氏は、責任を痛感して辞任するに至った。 以上のとおり賛否両論対立したが、結局祭礼行事の行きづまりを洞察して一応今年から試案として実行することを協定し、左記のとおり落着した。 実行協定 一、屋台を新調する。服装は袴(タッツケ)二〇着、太刀棒は部落で新調する。 二、その他の服装 肌衣、手甲、自足袋、鉢巻、襷などは本人負担とする。 三、太刀は本人負担とするが、手持ち品ない者には、借入れ購入の斡旋する。 四、参加物は小学校六年生以上及び青年会員。 五、練習中は毎夜終了後、夜食を饗し各戸順番に供出する。以上 この年は最初の催しでもあり駐在巡査を初め近隣から見物来客殺到して境内に溢れ、小売店数人も開店し、氏神祭開始以来の盛況を見るに至ったのみならず毎年順調に奉納し、親戚間の交流も一段と親密を加え、例祭の日を待望するようになり、他部落の羨望となった。 その一つは赤野神社の祭礼であった。まず中山赤野神社氏子にも改革論が高まり、指導者の派遣方要請あったので早速協議し、一週間余り数人を派遣した。 赤野は氏子多く、参加人員か三〇余人にのぼり、部落の熱意と経済力の旺盛とで短い間に諸整備を終わり、楽台、祭具、服装等一切新調、練習中の待遇一切氏子負担、初年は観客の殺到で壮観を極めたという。 また当地方の名物として喧伝せられ、のちには出石神社大祭行事に招かれ、豊岡市のNHKふるさとの歌まつり出場候補、出石秋まつり、県政百年記念行事(豊岡市民会館)、神戸港まつり、城崎温泉まつりに招かれて妙技を拍し、奥藤から赤野へと本末転倒、県下創始者の名を譲り去る状態となった。 しかしこの佐古文書による石川の太刀ふりも、更に源流があって、そこから伝えられたものと思われる。このように一つの祭礼の行事をとって見ても、そこに町民のささやかな談合とそれを毎年もり立てていった庶民文化の歴史がある。それは誰にも強制されない、下からの創意工夫と、善意による民間伝承の歴史でもあった。この意味で石川の「太刀振り」の源流と思われる「京都府百年の資料」の次の記事が注目されねばならない。県府境を超えた祭礼行事交流の歴史といえる。 京都府下年中行事調査票 天橋立太刀振保存會 團體構成 宮津市府中地区字中野・江尻・溝尻の三区 演技場所 公民館、宮津市字中野、江尻、溝尻 沿革 府中地區は往古丹後國の國府のありし所にて國幣中社籠神社創社記によれば、今より約一、○○○年前(貞觀年間)から傳るとあり、現在では三部落、三様の太刀振をしており、これら三部落によりて宮津市天橋立太刀振保存會を結成しその保存に努めている。 現況 毎年四月二四日當地祭の際のため向一〇日間練習をする、又NHKその他より上演招待を受けた時約一週間の練習をして上演する。昭和四一年二月京都府勤労會館落成式に上演。昭和四二年宮津市細川幽齊四〇〇年祭に参加する。 丹後街道はもともとは、もっと北側の山中を通っていて、たぶん坂野→虫生と続いていたのでなかろうか。太田川ぶちの中山は比較的新しい集落と思われる。坂野や虫生からの移住者たちの村ではなかろうか。 ![]() ![]() 蔵雲寺は普明国師の開山、数多くの寺宝を有する。うち絹本一六羅漢像は明兆作で、県指定文化財。千体仏は豊岡藩筆頭家老石束源五兵衛(大石良雄の妻りくの祖父)が火撫村(豊岡市)正福寺に寄進した三千体のうちで、像高24センチの准胝観音像は延宝年間の作で、のち赤花村橋本家の手に渡り、昭和初期に同家から移したもの。ほかに観音菩薩画像(伝宋・(代牧谿作)・達磨大師画像(鎌倉時代)があり、仏像では本尊釈迦如来像・阿弥陀如来坐像・聖観音立像などがある。境内には高さ35メートル、目通り5メートルの説法杉がある。嘉吉 4年銘の古碑は、もと但東町太田の亀ヶ城跡にあったと伝えられている。 『資母村誌』 藏雲寺
天徳山藏雲寺は大徳寺派に屬し寺格一等地に班す。資母村寺院明細帳に曰く 出石郡資母村ノ内中山村字住吉 臨済宗大徳寺派 藏雲寺 一、本尊 釋迦佛 脇士 文殊普賢 一、由緒 開山普明嘉慶元年創立 一、本堂 桁行六間三尺 梁行五間三尺 一、庫裏 桁行六間 梁行四間 一、鐘楼堂 方一間三尺 一、境内地 四百六十二坪 官有地第四種 一、檀徒 千三百五十人 一、境内佛堂 一宇観音堂 由緒不詳 建物方二間 1、本尊に就て 本尊釋迦牟尼佛脇士文殊・普賢兩菩薩の厨子の背面に記有り、曰く 當寺中尊釋迦文佛者清光院月窓妙圓信尼(註、中山堀徳右衛門第十六世城定妻貞享二年に歿す)所喜捨也然厳容歳古膠漆剥脱因募澗彩于時檀信今井正敏(註、畑山今井甚兵衛先世天保十一年に歿す)放捨浄財再加彩飾脇侍菩薩文殊普賢新又彫鐫三尊並化盡善盡美妙圓法號原刻厨扉今別設覚牌朝經暮咒今井曾祖近事男女六員法號皆謚居姉又別設牌晨供夕養聖像刀刻巌飾經營所鳩功徳佛 日永耀檀信彌増一切含靈共成正覺 但馬國出石郡中山郷天徳山藏雲寺 現住 宗 磋 寛牧第四壬子四月吉旦 幹縁 紹 禹 佛師 水谷作之進 又澁谷伊右衛門古文書(文政元年造)に曰く 天文年中の頃堀家城(註、堀徳右衛門第十世天文元年十二月十二日歿)藏雲寺の本尊釋迦文殊普賢等を寄附せし事あり近比本尊再興の折柄本尊裏書に常善院と清光院月窓妙圓禪定尼と記せるを以て家城の法名常善院なる事を知る云々 之を要するに當寺本尊は天文年中堀氏より寄進され、寛政に今井氏修復して今日に至れるものなるを知る。 2、開山に就て 開山特賜智覚普明國師と藏雲寺との関係は分明ならず。必らず勘請開山ならん。然れども何の縁由無く妄りに勘請するものに非ず。以下國師の略傳と口牌の要領を記して後日の研究に俟ち、且つ諸先輩の高教を仰ぐ。 國師略傳(普明録年譜に依る) 師諱は妙葩字は春屋芥室と號す甲州の人應長元辛亥年十二月二十二日生る天龍寺夢窓疎石の族姪なり七歳出家興国六年法を夢窓に嗣ぐ臨川天龍に出世し或は宮中に召されて説法す建徳二年南禪山門の事に関し細川頼之と間有り自ら避けて丹後餘戸雲門寺に閑居す居ること九星霜四方の學徒風に趨り來り参ず夢窓の會下飽参の宿?咸師が閑静に處るを喜び憧々として來り訪ふ師唯通夕地爐に葉を燒て古今を商確し後學を鞭励す一語の世相に及ぶ無し?を貼して曰く曹溪門下不容俗談と天授五年四月幕命により歸京六月勅を奉じて南禪に住す翌年徽號を賜りて智覚普明國師と云ふ足利義満勅を奉じて師を僧録司に命ず日本此職師に始まる元中元年洛北の大伽藍落慶し萬年山相國承天寺と名く師を開祖に請す師謙譲夢窓を延請して開祖とし自ら第二世に居る元中五年八月十三日示寂壽七十八臘六十四嗣法の者五十員四部の弟子八千五百餘人。 口片+卑の要領 茲に口?と云ふも、實は中山最舊家澁谷又右衛門(元姓堀)の系圖二卷に誌されしもの也。只恨ひらくは故有りて峯山に在しが、昭和二年三月七日震火災に遭ひて烏有に歸せり。囚つて藏雲寺の延寶以前の前息は全く知るべからざるに至りぬ。即往古中山に堀某あり。夙に普明國師に歸信し、藏雲寺を建立して開祖に請せりと。 試みに同家の過去帳を繙くに 第一世 直政院天猷良徳居士 第八世 天徳院一峯宗重居士 第九世 資城院普山宗明居士 と云ふ。熟字何れも天徳山と普明とを用ふ。豈何等かの縁由無からんや、尚古來八月十三日開山忌には、同家主人を以て正賓となすの習慣有りき。因に言ふ同家は現戸主にて第二十八代なり。 3、沿革 延寶又は其以前に於て一朝丙丁の厄に遭ふ。災後豊山座元寺を字「古蔵雲寺」より現地に移す。因りて師を第一世とす。山門は寶暦の頃虚舟和尚建立。庫裏は敬巌和尚安永に再興。玉山和尚、大観和尚の寛政享和文化文政天保の時代は最盛期也。明治初年、寺綱大いに緩み、一時收拾すべからざる亂脈に陷りしと雖も、憲道和尚、枯淡飄逸禪機横溢、之に嗣ぐに義道先師、温淳恪勤、漸く法燈を已滅に挑て今日に至る。 4、歴代 略 5、藏雲寺と冷泉家 6、藏雲寺と松源寺 7、住吉と不昧稻荷 字藏雲寺の東及北、坂野川の西一帯の地を住吉と字す。明治初年迄住吉明神の小祠蔵雲寺北方に在りしに因る。此小祠は古來蔵雲寺の鎮守なり。御神體今に至りて猶存せり。不昧稲荷は蔵雲寺背後の山上に在り。文書有り曰く 正一位(不昧)稲荷大明神鎮座之事 右雖爲本宮奥祕依格別懇願略式修封之 厳爾令授與之訖 禮祭永愼莫怠慢仍證 書如件 日本稻荷總本宮 愛染寺(印) 嘉永五壬子歳十二月吉辰 晃綴花押 但馬國出石郡中山 藏雲寺 祭日は往古上巳なりしも近比四月三日となせり。不昧の名は蓋し百丈野狐の故事に依る。 8、洪鐘及半鐘 … 『但東町誌』 天徳山 蔵雲寺 (中山)
臨済宗 大徳寺派 寺格 一等地 本尊 釈迦仏 脇士 文殊普賢 由緒 開山普明嘉慶元年創立 本堂 桁行六間三尺 梁行五間三尺 庫裏 桁行六間 梁行四間 鐘樓堂 方一間三尺 境内地 四百六十二坪 官有地第四種 檀徒 千三百五十人 境内佛堂 一宇 観音堂 本尊 観音 由緒 不詳 建物 方二間 ![]() ![]() 金蔵寺山頂の金蔵寺とは別のものだが、寺伝によると古くは真言寺院で金蔵山中腹に七堂伽藍を構えていたが、織豊時代に焼打ちに遭い廃絶、明暦4年(1658)鼎山が開山となって臨済禅寺として中興し、明和3年(1766)現在地に移転したという。本尊の聖観音像のほかに十一面観音像・笠塔婆(正和三年銘)・逆修塔三基(永禄一一年銘)などがある。 『資母村誌』 金藏寺
資母村寺院明細帳に曰く 出石府資母村ノ内中山村字山添 臨済宗妙心寺派 金藏寺 一、本尊 聖観音 一、由緒 不詳 一、堂宇 桁行十間三尺 梁行五間三尺 一、鐘楼堂 方一間 一、寺務所 桁行五間 梁行三間 一、寶蔵 方二間 一、境内地 百四十三坪 官有地第四種 一、境内佛堂一宇 鎮守堂 本尊 荒神 由緒 不 詳 建物 方一間 一、檀徒十七人 瑞雲山金蔵寺は妙心寺派に屬し寺格現に五等地三級なり。 本尊は明細帳に記せる如く聖観世音菩薩。 開山は再住妙心前宗鏡鼎山大和尚。 1、金蔵寺の由緒及沿革 開山鼎山大和尚自筆の記録現存す。桐の板にして長二尺餘、巾一尺許り。曰く 但州太田庄瑞雲山金蔵禪寺夫當山者古寺之舊蹟而荒艸漫々野鹿成群嶺猿抱子者年尚矣三四歳之先太田庄中人民各合力建一宇觀音堂水旱疾疫凡有所求必祷焉則有霊験信之彌厚且請一僧結一菴永□願成法窟于時予傳聞此佳境明暦三丁酉十月朔旦得々來而一見此山庄人亦隨後來説大悲霊験日暮下山寄宿中山名主澁谷家翌旦臨將歸去此庄中之?主挽袂而留之云拙昨日攸見之境願結一艸菴以成休息地然則此庄之請人共合扶効力而以結現當二世之勝縁山僧應其言而留五七日廼十月三日與諸人共再登山?除荊棘安置柱礎不終一月而修造之功已成矣明年六月有二施主而被寄進大悲之尊像并厨子於是以□□□令安置于堂内者也伏而願慈眼永照群肓悲心大度衆生者珍重 時明暦四戊戊年六月十八日 前住妙心見宗境鼎山埜衲一猷誌焉 又明治十九年、當時の住職の筆に成りし金藏寺由緒に曰く。 (上略)文祿四年出石城主小出吉政一夜城内地中ニ霊佛埋レリト夢ミ覚メテ直チニ地ヲ鑿ツニ果シテー寸八分ノ黄金佛觀昔像ヲ得タリ因リテ領内著名ナル霊地ニ納メントテ金藏山ニ安置セラレタリ如是縁由ナルヲ以テ小出吉政本地ヲ儉スル際田五石餘加フルニ金藏山林ヲ寄附セラレ以テ不怠ノ供養ニ備ヘタ戸者ナリ于今保存ス(中略)又明暦四年戊ノ六月十八日肥後國泰勝寺鼎山大禪師此山ニ來リ中絶セルヲ患ヒテ再興シ臨済宗トナリ初メテ禪風ヲ振フ故ニ開山卜稱ス嗣席炎雪禪師次ニ守玲次ニ祖傳次ニ義範膏油ノ田貳拾石餘買附シ且又山峯嶮岨ニシテ利便ナラザルヲ患ヒテ明和元年三月二十一日寺ヲ本村字山添(註、葢シ現在ノ地)へ移ス故ニ中興ト稱ス。 右を綜合し考ふるに金藏山上に仁王門、金堂、講堂等彫甍雲に聳えし眞言宗元金藏寺が兵燹にて没落せしより春風秋雨幾十回、世は足利の末期より織豊二氏を経て徳川となり、後西院天皇の御宇、四代將軍家綱の時、金藏山上には再び梵唄磬聲が松籟飛泉に和するに至れり。其再興の経緯は上記二記録に詳なれば再び贅せが(更に人物傳鼎山の條及元金藏寺の條参照)と雖も、鼎山禪師が明暦四年六月十八日入寺せし以前より、已に觀音堂有りて衆庶の參詣所願せし處なるは、上記二記録の一致する處なり。又明暦四年鼎山禪師が入寺せし金藏寺は、山上の舊蹟に結ばれし一把茅底の小庵室にして、中山、虫生、三藤、畑山、赤花等の各有志が協力浄財を喜捨して建てしものなりしなり。次に二世三世四世を経て五世義範和尚に至り、下山して現地に移り、伽藍を造營して初めて寺たるの面目を具備せるものとなす。 私に謂ふに中興義範和尚の功績は、開山鼎山大和尚の上に在りと云ふも不可ならず。上記の如く金蔵寺は、古来檀家無く有志信徒間に成りし觀音講にて維持されしものなるが、蓋零細なる貯蓄を積み、諸方の寄附田地と相俟って二十餘石を買求め、剩へ寺基を山下に移すは洵に一大事業なりしならん。而して此大事業を扶翼せる人名を佚せるは最も遺憾なり。 2、歴代 開山 鼎山大和尚 延寳二年九月五日。 二世 妙心第一座炎雪白和尚 寳永元年七月六日。 師は室埴村桐野慈眼寺にも住せしことあり。當寺には前後二十年住持す。 三世 玉山守玲首座 元文二年十一月廿三日。 師は四十二年の久しきに冱り住持す。 四世 心宗祖傅首座 元文三年五月十九日。 五世 中興朴堂義範首座 明和三年四月二十三日。 六世 燈外和尚 寛政六年六月十八日。 七世 崑溪智崙智座 文政七年七月二十三日。 師は現在の伽藍を建立す。其棟札如左 略 八世 荊山宗玉首座 文政十一年十二月十二日。 九世 朴應全果長老 明治十九年六月八日。 師の逸話畸傳頽る多し。 十世 良谷慈温長老。 看住 関捩和尚 兼務 前住妙心惠薩和尚 大正 年 月 日。 十一世 妙心東堂承天恵重和尚 大正十一年十二月二日。 十二世 住持妙心白現雄正和尚 現住。 3、金蔵寺と小出氏及仙石氏 小出吉政公と黄金佛の夢並當寺の傳説は邈として追ひ難きも、當寺が古寺の舊蹟として、又寂室圓應禪師卓錫の地として小出氏仙石氏等歴世の領主より崇信を受け、特殊の待遇を受けしは明確なる事實なり。即左に掲ぐる小出氏の赦免状の如きは其證左なり。 赦免地 一、屋敷 二斗八升六合 一、田方 壹石九斗 一、畠方 二石一斗四合 右ハ此度中山村御地改メニ付御赦免被仰付候也 延寶二巳年九月 坂根新右衛門 波浪助之丞 中嶋九兵衛 村松庄太夫 横目付 南條十郎右衛門 又仙石氏は藩主一代の中必ず一回は當山へ參拜さるゝ例なりしと云ふ。 4、金属山上の観音堂 私に謂へらく金蔵寺と観音菩薩とは、實に奇しき因縁あり、即古代の金蔵寺の遺佛は観音なり現今の本尊も観音なり、小出氏との傳説も観音なり、鼎山和尚開叢以前より祭祀せしも観音なり、而して寺の維持は観音講に頼れり、是を奇ならずとすべからず。更に又西國三十三霊場選定の時、僅少なる費用を調達し得ざりし爲、丹後松尾寺が選に與りて當寺は漏れたりとの傳説も有り、洪鐘の銘に邈矣古寺補陀道場と云へるは宜なる哉。 山上の観音堂は、明治初年改築されしものなり。明暦以前より屋代此地に在りしものなるべし。現今堂内には観音像と阿彌陀像とを祭れり。毎年七月十八日白山権現の祭禮には、此堂にて古樸なる民謠『ささ囃』奏さる。阿彌陀佛の厨子の背面に記有 嘉永三庚戌之夏予雲游萍寄之次偶登于此山(中略)五輪寶塔埋塵土佛陀尊像沒草中 悲歎不忍措之企圖恢雄(中略)集廃塔於背後之山隅又佛像洗濯于京師云々 嘉永四龍舎辛亥正月二十一日 送行之日誌之 洞上沙門 關一重花押 行雲流水一衣一鉢の淡生涯に在る人が、韜光晦跡の爲め、半歳單丁の活計を此古蹟に營み、塔を集め佛像を修復せるは尊むべく慕ふべき心行なり。観音堂の背後十歩にして塔を集めたる地に到る。其數凡三四十なり。 5、金藏寺庚申堂 本堂の北にあり。赤野神社の舊社殿なり。 6、梵鐘及半鐘 蔵雲寺大観和尚年譜に、 天保十七己亥年三月金蔵寺鐘鑄云々 とあり。 左記文中「在来鉅鐘音聲不調」と云へるもの是なり。現在の鐘直径二尺一寸、高三尺七寸。鐫文及銘左の如し。 略 7、其 他 出石郡西国巡禮歌に曰く 二十五番 中山金蔵山金蔵寺 石は出で黄金は藏す中山の 寺はたつてふ萬代迄も 『但東町誌』 瑞雲山 金蔵寺 (中山)
臨済宗 妙心寺派 本尊 聖観音 由緒 不詳 堂宇 桁行十間三尺 梁行五間三尺 鐘樓堂 方一間 寺務所 桁行五間 梁行三間 宝蔵 方二間 境内地 百四十三坪 官有地第四種 境内仏堂 一宇 鎭守堂 本尊 荒神 由緒 不詳 建物 方一間 檀徒 十七人 ![]() ![]() ![]() 《交通》 ![]() 《産業》 《姓氏・人物》 中山の主な歴史記録中山の伝説![]() 中山の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『兵庫県の地名Ⅰ』(平凡社) 『但東町誌』 その他たくさん |
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