丹後の地名 若狭版



奥矢根(おくやね)
兵庫県豊岡市但東町


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兵庫県豊岡市但東町奥矢根

兵庫県出石郡但東町奥矢根

奥矢根の概要




《奥矢根の概要》

口矢根村(矢根)の北、奥矢根川の上流域。口矢根村で出石・福知山道から分岐し、奥矢根川沿いに北上、山越えで口小野村(出石町)に至る道や西方の八坂峠に向かう山道が通じ、八坂道は江戸時代初期に出石藩の参勤交代路であった伝えもある。古くは口矢根村と一村で矢根村と称していたが、のちに分村した。また中世には口矢根村とともに矢根庄に含まれていた。文明10年(1478)八月吉日付播磨国広峯神社(姫路市)の但馬国檀那村付注文に「一おくやねの村やと あさかい殿」とみえ、次いで同14年8月10日付の丹後・但馬両国檀那村付注文にも「一但馬国いつしの郡内(中略)おくやねのつしたてわき」とみえる。
近世の領主の変遷は口矢根村に同じ。矢根銀山は万治元年(1658)に発見され、寛文2年(1662)までが最盛期であったという。この頃には当時衰微していた生野銀山の鉱夫が多数当地に移り盛況を呈した。しかし地下水の湧出があっていったんつぶれ、寛政10年(1798)には水抜きをして稼業を再開しだが、ほどなく休山となった。現在、鉱山跡一帯に4つの坑口や多くの鉱夫たちの墓が残り、矢根千軒・千貫掘といった地名も残され、地内天満神社には検量に用いた大棹秤が伝えられる。
おくやね村は、室町期に見える村名。但馬国出石郡のうち。文明10年の但馬国檀那村付注文に「一、おくやねの村 やと あさかい殿」とあり、播磨広峰社の御師が当村を訪れている。
奥矢根村は、明治5~22年の村。出石郡のうち。矢根村が口矢根村と当村に分村して成立。明治22年合橋村の大字となる。
奥矢根は、 明治22年~現在の大字名。はじめ合橋村、昭和31年からは但東町の大字。平成17(2005)年より豊岡市の大字となる。


《奥矢根の人口・世帯数》 108・39


《奥矢根の主な社寺など》

天満神社(奥矢根天満宮)

天満神社では2月に学業成就合格祈願祭が行われる。近隣から数千人の参詣があり「但馬天満宮」として人気があるという。
案内板
天満神社
祭神 菅原道真
境内 九百三十七坪
社殿 天明八年九月吉日(再建)
拝殿 大正十一年七月二十日
由緒 菅原道真公太宰府に流竄されし際一族の源敏相は但馬権守に左貶され土師氏を頼りこの地奥矢根に来住むせり
道真公は延喜三年(九〇三年)の二月二十五日に没せられしと、その後神霊として道真公をお祀りし天満天神とし仰ぐことに至れり
現在社地に隣接する山腹に方一間位の大なる岩あり、これを天神岩と称し奥の院とせり、その下段に平坦にして東西二十間南北八間あり御所屋敷と称し菅原公一族の居住の跡なりと
当天満神社の御神体は木像にして菅原道真公をお祀りし、その傍らに同じ服装の源敏相を合祀している
天満神社は学問の神、書道の神として往昔より人々に讃仰されている

埴野(はにの)郷だから、土師氏の祖を祀ったものか、菅原氏は元は土師氏。


臨済宗大徳寺派慕吉寺(無住)


《交通》

矢根銀山
《産業》
万治元年矢根村に銀山発見、銀山発見後は奥矢根千戸といわれた、現在、鉱山跡の一帯には4つの坑口や多くの鉱夫たちの墓が残り、矢根千軒・千貫掘といった地名も残されている。地内天満神社には検量に用いた大棹秤が伝えられる。

下の資料に、「部落に入る道端に、昔の鉱夫の冥福を祈願して建てられたものと思われる享保一三戊申天八月二六日と刻んだ碑と、元禄一〇寅二月の銘を刻んだ自然石の碑が残っており、また近くの天満宮には、昔矢根銀山で産出した鉛等を、口矢根村政所で検量した「大棹秤」が社庫に保存されており、往時の面影を忍ばしめるものがある」とある。

銀山、奥矢根千軒へは、このあたりが入るのであろうか。
『但東町誌』
奥矢根銀山
 銅鉄器の使用以来、銅山鉄山は重要な資源となったし、貨幣として装飾用品としての金銀の使用以来、金銀山の開発は時の支配者の最大の関心となった。しかし明治以前に鉱業が発展したのは、律令時代の国有国営時代と、一六-七世紀の近世封建制確立以後の二期であったとされている。豊臣秀吉は金銀山は公儀のもの、諸国大名領のものも、大名に預けおくものという考え方を貫いた。幕藩体制確立後も鉱山は領有の形態により、直山・請山・直営山(御手山)に分けられた。そして一般に重要な金銀山は、直山法が採用された。
 但馬の生野銀山は、最初は自分山という山師の負担で経営された。元和四年(一六一八)味方但馬は湧水のため処理に困り、割間歩を引受ける際直山とり立を願った。しかしその際「将来大鉱脈についたときは、御入用つまり御直山としての公費投入分を返納するから、自分山とすることを許されたい」と願出ている。山師は自分山を望んだことが知られる。
 徳川時代生野代官が支配した鉱山は、生野以外に但馬地域で一一、播磨地域で八、合計九二を数えたといわれている。現在日本鉱業が所有している旧朝日鉱山は、今は全く廃坑となっているが、近世「生野鉱山」として銀を産出したことは前述「大石文書」でも明らかである。
 矢根銀山は出石藩小出大和守の領地で、万治元年(一六五八)に開坑し、元録九年(一六九六)まで三八年間同藩の所有に属した。しかし元禄一〇年四月より生野代官の所管となり、「天領」として経営された。
  「銀山旧記」によると、寛文二-三年(一六六二-三)の頃生野銀山が衰退して不況となり、この矢根銀山が活況を呈したといわれている。そのため生野銀山に働いていた鉱夫は、矢根に転出し「矢根千軒」時代を出現した。五六〇ヵ所の間歩を開掘「千貫掘」(千荷掘)といわれるように多量の出鉱を見た。これによって吹屋の煙も山を覆う状況であったと伝えられている。
 この頃の状況を知りうる資料として、安政六年(一八五九)山田代官が後任者に申し送ったという次の文書がある。
   但州出石郡奥矢根銀山之儀、往古盛致候得共敷中(注 杭内)涌水強、稼相止候由申伝にて年暦等も不相知候得共、年久敷稼捨に相成候儀故、間歩形も無之悉く潰込候処、宝政十午年(一七九八)三月、同村百姓代(注 村役)三郎兵衛と申もの相願、粟鹿間歩之内、廊下(注 坑口よりの平坦坑置)百間余、下り三拾間余并火切水抜(注 採掘箇所)之内、廊下百三拾間余夫より下り之内、水湛候場所、樋拾六挺、右弐ケ所共午年三月より去ル未(文化八年)二月迄多分の入用を以普請(注 整備)いたし、水取込(注 排水)掘場所七ケ所相立相稼候処、同年四月、仙石越前守城下出石郡龍野屋源藏と申ものへ山方相譲度旨願出候に付、願之通申付、同人儀猶又出精相稼、同十月右靖(しき)中より掘出候鋰(くさり)(注 鉱石)之分、於二山元一吹方(注 製煉)致度旨願出候間、其段御勘定所(注 江戸勘定奉行所)へも御由中上候て、直入役、見廻役差遣、吹方取計、出灰吹銀は定式之通御運上蔵にて引替、且、鉛之儀、津出(注 搬送)相願候に付、隣村口矢根村改所に申付、通切手(注 搬送許可証)差遣、同村にて貫目等為二相改一通し候処、其後親鋰石(注 銀銅含有主脈)出方少分に付、毎月吹方いたし候儀差支、勿論吹方等仕候節は当銀山(注 生野)吹大工、其外汰(かり)物師 (注 以上製煉関係者)迠相届候儀にて、遠方多分之諸費多く相掛候儀に付、当分吹方相休罷在候処、稼人共仕入銀等手交候由にて是迠堀溜置候石銀鋰(いしがねくなり)(注 鉛鉱)当銀山町(注 生野)買吹共へ売渡度旨去ル未三月願書差出候に付、願之通承届置申候間、以来之儀可レ然取計可申旨追々申送候処、山師共稼労れ上ケ山(注 返上休山)相成、当時稼人は無之候得共、為二御心得一先前申送之趣尚又申送候。
    安政六年
      山田代官

【資料】
       矢根銀山之事
  一、小出大和守領知之節万治元成年十一月令二湧出一候由明和六巳丑年?百十二年ニ成
元禄九子年十一月出石引渡之節、石原新右衛門、小野朝之亟受二取之一、翌年丑四月?支配、四月晦日造生野附ニ成、秋山七郎左衛門様御支配之節也
又、古書ニ明暦二丙中ニ初ト有、年数二年之?也
  (明和八年(一七七一)卯四月ヨリ「生野代官文書」)

その原文の注解   但馬史研究会副会長
柏村儀作氏
 (矢根銀山は)小出大和守の支配地であった頃の万治元年(一六五八)一一月初めて銀脈を発見したものと伝えられ、(この記事を書いた)明和六年(一七六九)まで一一二年を経過したことになる。
 (この矢根銀山を)出石藩から引渡しを受ける際(生野代官附配下の)石原新右衛門、小野朝之亟がこれを受とり翌年四月まで差配し、その末日から生野役所の管掌することとなった。代官は秋山七郎左衛門の支配時代であった。また、古書には明暦二年(一六五六)から初まると(書かれたものがあり)二年の相違がある。
 すなわち寛政一〇年(一七九八)頃、奥矢根村の三郎兵衛というものが採掘を始め、多くの費用を投じ坑内七ヵ所で採鉱していた。それを出石郡の龍野屋源藏に譲り渡した。源蔵は採掘鉱石を現場で製錬することを許され、生野代官からも役人が出張して管理し、出来た灰吹銀は生野代官所へ納入し、鉛は口矢根村政所で許可証を受け、他所へ搬送していたというのである。しかしそのうち出鉱量が激減したため、毎月の製錬に支障を来すばかりでなく、この工程には生野より専門家を雇入れる必要があり、出費が嵩む等の関係で一時中止せねばならなくなった。このままではますます困窮するばかりであるから、今まで貯鉱している鉛鉱を、生野の買吹-製錬業者に売却したいと願い出たので許可したと前の代官から申送りがあった。現在は休山状態にあり稼動していないが心得のため申し送るから承知されたいというのである。
 なお寛政一〇年(一七九八)三月の奥矢根銀山浦内絵図は次図のようで四つの坑口をもっていたことが知られる。
 現在の奥矢根の鉱山は大正四年(一五一五)頃まで久原鉱業が採掘しており、その頃黄鉄鉱が出ていたが、その後休山となった。現在入口に事務所跡、鉱石や雑土石を掘出して搬出した「ズリ」が残っているのがみられ、当時「山の神」を祭った小丘、牢屋の跡、「矢根千軒」といわれた鉱夫の住宅跡、製錬場跡等が残っている。
旧坑口がなおそのまま開口しているので、子供達が入ると危険なので現所有者日本鉱業は、矢根岩出佐一氏宛「旧朝日鉱山の上一坑坑口の石積閉そく工事」を依頼し、昭和四九年五月二〇日頃までに完成するよう計画図を添えて依頼してきている。部落に入る道端に、昔の鉱夫の冥福を祈願して建てられたものと思われる享保一三戊申天八月二六日と刻んだ碑と、元禄一〇寅二月の銘を刻んだ自然石の碑が残っており、また近くの天満宮には、昔矢根銀山で産出した鉛等を、口矢根村政所で検量した「大棹秤」が社庫に保存されており、往時の面影を忍ばしめるものがある。他所の旧金山に見られるような千貫掘千軒長屋のための遊廓はなかったようである。
 (生野史談会・柏村儀作「矢根銀山探訪記」参照)
 このような銀山・鉱業は通貨に用いられ、それにつれ幕末になると農山村にも貨幣経済が浸透してきた。そして田畑を質入れして銭を借りる必要も多くなった。このため別項でみるように森尾の平尾家や、矢根の大石家などの現金所有地主に、近所の土地が集中し、幕末から明治初期にかけての土地集中が行われる事となる。
 次の文書はその一例とみられる。
   預り申金子手形之事 (大河内村古文書)
  一、銀壱貫六百四拾七匁弐分者 但し元銀也 利息七月元
 右の金子慥に預り申処実正ニ御座候然る上は御質物として御米四拾石書入中処実正ニ御座候然る上は来る十月晦日限り月壱分式の利息を加へ元り勘定之意急度御皆済可仕後日之ため金子預り質人手形依
而  如件
      嘉永五年
        子ノ六月廿七日
         預り薬王寺村 幸左衛門
         同断大河内村 浅二郎
 雲原村西原儀助 殿     同村受人磯 七
  【付記】
   生野銀山と機械設備
 生野銀山は慶応年間(一八六五-七)幕府が廃坑とすることに決め、そのため数千人の坑夫は生計の途を失い、飢餓に瀕する状態が生じた。(工部省沿革報告) この救済が大政奉還とともに明治政府が官営を決意する重大な理由であったようである。明治二年(一八六九)フランスの技師コハニーの設計に基く新設備充実に踏み切ってゆくのは、政府が金銀を確保し、貨幣制度の安定に資しようとするにあったものと思われる。
 生野新銀山の新しい機械設備は、その一部を国内工業にその製作を任せたことである。コハニーが明治二年一月二日に提出した機械類の設計図は、横須賀製鉄所(フランス人設計-政府直営)に廻わされ、そこで製作され、翌年三月一日に完成している。工部省沿革報告によると、熔鉱炉付属機械と記されてあった。この横須賀製鉄所で製造できないものは外国に委嘱してつくらせたとしている。
 この他三年八月には鉱山機械の歯車のほか七品を金沢藩の鉄工所に製作させている。この外国に依頼した機械は小型銀鉱精錬機で、二年六月到着、三年三月設置竣工、運転試験を続け、修理等を加え、四年三月にやっと習熟し、効果を挙げるにいたった。そして一〇月にはこの機械を一〇倍にし、職工をふやす方針をたてている。これと別にコハニーの建議により、洋銀九万四、二二四ドルの大機械をフランスに注文し、九年に至って据付が完成している。このようにして生野や佐渡に使う鉱山用機械の部品製造は、明治一〇年代末までのわが国における機械工業の中心になっていた。(「産業史」Ⅳ二〇四~五頁)


《姓氏・人物》


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『兵庫県の地名Ⅰ』(平凡社)
『但東町誌』

その他たくさん


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