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太田(おおた)
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太田の概要《太田の概要》 亀ヶ城があった城山↓ ![]() 県道2号(宮津街道)に並行する、旧道沿いに人家がある。たんたん温泉(西野々、高竜寺)方面へ抜ける道が分岐する。古くから資母郷の中心地であったが、43年の学校統合で使命を終えたという。 太田荘は平安期に見える荘園名。但馬国出石郡のうち。「中右記」承徳元年(1097)2月6日条に「為役夫工使成濫行輩、依前日仰尋問明法博士範政之処、申云、但馬国太田庄住人……已上為盗犯殺害事不可会赦」とあり、当荘住人が伊勢神宮役夫工使に濫行を働いたとして検非違使の勘問を受けることとされている。 中世も太田荘で、鎌倉期~室町期に見える荘園。出石郡のうち。「平家物語」巻12に、文治2年(1186)源行家を和泉国八木郷に討ち取った比叡山西塔北谷の僧常陸房昌明はその勧賞として源頼朝から「但馬国に多田庄、摂津国に粟室ニケ所」を賜ったという。この「多田庄」は延慶本「平家物語」などでは「太田庄」と紀され、当荘を指す。常陸房昌明は当荘にあっても太田氏を称した。太田昌明は承久の乱後、北条政子の論功行賞によって但馬国守護に任じられて、以後6代太田守延まで亀ヶ城を本拠として、西方の木村に岩吹城、東方の畑山に仏清城を築いた。亀ヶ城跡は現在の太田字城山。弘安8年(1285)の但馬国大田文には「太田庄 八拾丁〈法金剛院領 伯宮御領 地頭越前々後室〉」とある。この頃にはすでに太田氏は当荘地頭を退いていたらしい。観応元年(1350)10月25日付足利尊氏寄進状などに、太田荘地頭源氏の寄進状にもとづいて「但馬国太田庄内坂本村」が京都臨川寺三会院に寄進され、下地は同院雑掌に付された。次いで同2年には「但馬国太田庄内秦守村」が足利直義から亡息如意王の迫善のため三会院に寄せられ、足利義詮もこれを安堵している。その後貞治4年(1365)2月22日付官宜旨に、「太田庄内秦守村坂本村地頭職」を安堵するとともに伊勢大神宮役夫工米・御禊・大嘗会以下の勅役をはじめとする諸課役が免除された。秦守村・坂本村の比定地は未詳。このほか当荘内には唐河村・赤鼻村・中山などの地が属していた。「荘園志料」は唐川・本・市場・中山・三原・東里・日向・坂津・口赤花・奥赤花・口藤ケ森・奥藤ケ森・坂野・虫生・高竜寺・西野々の地を当荘域とする。古代の「和名抄」資母郷の郷域が荘園化したものとみられている。 近代の太田村は、明治7~22年の村。太田市場村が改称して成立。明治22年資母村の大字となる。 太田は、明治22年~現在の大字名。はじめ資母村、昭和31年からは但東町の大字。平成17年より豊岡市の大字となる。 太田市場村は、現在の但東町太田で、中世の太田庄の遺称地。同庄を名字の地とし、鎌倉時代に但馬国守護を勤めた太田氏の居城とされる亀ヶ城跡があり、その西麓の字大将軍館(だいしょうごやかた)や堀ノ内館は同氏の居館跡と伝える。正保(1644-48)頃成立の国絵図に村名がみえる。文化2年(1805)の御好明細帳に、冬場には杜氏として山城伏見や摂津灘の酒蔵に出稼に行く者もいた。また養蚕・製糸も盛んで、安政2年(1855)に矢根組六ヵ村が翌3年の絹糸・繭の生産予定高を生野代官所(生野町)に報告した際の書上に、当村の予定は絹糸二〇抱(一抱二〇〇匁)・繭三〇貫目であった。当村は元禄9年(1696)以降幕府領であったが、太田川を挟んだ狹い山中に幕府領のほか出石藩領・旗本小出領(倉見小出領)の村々が境を接していた。このため、一帯の諸村は弘化2年(1845)に火の用心や芝居興行のことなどを取決めた三領規定をつくり、各村間の調整を図っている。明治初年に太田村と改称した。 『資母村史』 市場市街跡 太田村は明治三年迄市場村と稱し、往昔太田氏國の守護職として在城當時は相當人家集團せしならん、今に村落のある所を町と稱し其の次の字を町下と云ふ蓋太田谷の市場の謂なり。
《太田の人口・世帯数》 43・18 《太田の主な社寺など》 ![]() 太田川流域にあった皇室領庄園。古代の出石郡資母郷の地域と考えられ、「但馬考」は、三原より上流、唐川・木村・市場(太田市場)・中山・東里・日向・畑山・坂津・口赤花・奥赤花・口藤森・中藤森・奥藤森・坂野・虫生・高竜寺・西野々を「太田庄と云」としている。初見は「中右記」承徳元年(1097)2月6日条で、伊勢神宮の役夫工使に濫行を働いた「但馬国太田庄住人」らに、検非違使の勘問を受けさせるよう命ぜられている。次いで延慶本「平家物語」には、文治2年(1186)5月12日、北条時定とともに源行家父子を捕らえた常陸房昌明に、恩賞として「摂津国土宅庄」とともに「但馬国太田庄」が与えられたことが記されている。昌明はもと比叡山西塔の僧といわれ、源頼朝の家人となって活躍した。源行家追捕に手柄をあげたことは「吾妻鏡」文治2年5月25日条にも記されるものの当庄(地頭職であろう)を賜ったことは「平家物語」以外にみえないが事実とみられ、昌明は当庄に本拠を構えた。そして承久の乱に際しては但馬にあって上洛を命じる後鳥羽上皇院宣を持参した使を斬り、上皇方の武士と戦ったあと深山に隠れ、次いで北条泰時の上洛軍に合流したという。昌明のこの行動が北条政子と同義時に激賞され、乱後但馬守護に抜擢された。以後太田氏を称し、元弘の乱の際の太田守延に至るまで子孫は代々但馬守護となった。太田氏の本拠は今の太田字城山にあった亀ヶ城とされる。 弘安8年(1285)の但馬国太田文には「太田庄 八拾丁」とみえ、「法金剛院領」「伯宮御領」「地頭越前々司後室」と注記があり、庄田については「不出注文之間、任古帳註進之」と記し内訳はない。法金剛院は鳥羽上皇中宮待賢門院玲子によって双ヶ丘の南東麓(京都市右京区)に建てられた寺院で、法金剛院領は皇室領庄園の一。但馬ではほかに大内庄(豊岡市)が同院領であるが、成立の経緯はともに未詳。待賢門院から上西門院・後白河上皇等を経て、太田文作成当時は後深草上皇の管領下にあった。「伯宮」は領家と思われるが未詳。もと地頭とみられる越前前司は北条氏一族の時広(時弘)と推定される。初め太田氏がもっていたと思われる当庄地頭職が北条一族に代わっているのは、あるいは太田氏が北条氏との結び付きを強めようとして譲ったのであろうという。南北朝時代に入って貞和3年(1347)6月24日、「但馬国内 大田ノ下方唐河村」の播磨国広峯神社(姫路市)の檀那が他の財産とともに譲与されている。唐河村(唐川村)が当庄の下方にあたり、庄域が唐河村から上流一帯にあることが確認される。 貞和5年(1349)9月29日付で本光院から「太田庄内さかもとの村」(地頭職)を京都西郊嵯峨の臨川寺三会院(京都市右京区)に寄進した。本光院の氏名は未詳であるが、翌観応元年(1350)10月25日将軍足利尊氏は坂本村を「当庄地頭源氏寄附状」に任せて三会院に寄進しており、本光院は当庄の地頭源氏であることが判明する。尊氏の寄進状は同日執事高師直から但馬守護今川頼貞宛に施行され、同年11月14日今川頼貞から勝田繁三郎・野呂三郎宛に遵行され、同日藤原信貞・平貞景の連署で坂本村の下地を三会院雑掌に沙汰付した旨請文を認めている。勝田繁三郎=藤原信貞、野呂三郎=平貞景は守護の被官で守護が出石郡の郡代に任じていたのであろう。次いで観応2年(1351)4月8日付で足利直義が亡息如意王の追善料所として「太田庄内秦守」(村地頭職)を同じく三会院に寄進している。観応元年から同2年は観応擾乱の渦中にあり、尊氏が寄進した日付は足利直冬追討のため京都から西国に出陣する直前にあたる。また足利直義は同2年2月尊氏と講和したものの、8月初めには再び決裂して直義は京都を出奔する。同年8月15日付で尊氏の息義詮が京都天龍寺方丈宛に秦守村の、同月17日付で守護に宛て坂本・秦守両村の安堵の御内書・御判御教書(いずれも案文)を発しているのは、直義出奔後の情勢を前に三会院から安堵を要請したのか。坂本・秦守両村ともに比定地は未詳。次いで観応3年5月19日には守護今川頼貞が山城石清水八幡宮の神楽料所として「太田庄内赤鼻村参分壱地頭職」を寄進している。赤鼻村(赤花村)の奥地までが当庄であったこと、かつは当時地頭職が細分化されていたことが判明する。貞治4年(1365)2月22日付の官宣旨三会院重書によって、三会院領秦守・坂本両村地頭職にかかる伊勢神宮役夫工米、御禊大嘗会以下勅役・院役ならびに都鄙寺社所役、国中段米・関米・恒例臨時大小公役等がすべて免除されている。 室町時代に入って応永15年(1408)6月15日には「おうたのしやうの内たんかきとの」の広峯神社檀那が一〇〇文で売却されている。一方、室町時代の当庄には京都南禅寺の塔頭龍華院領や京都西郊の西芳寺(京都市西京区)領もあった。応永21年12月27日の将軍足利義持御判御教書は、他の龍華院領とともに「但馬国太田庄寺領分」の諸公事・段銭以下臨時課役等を免除して守護不入の地とし、文明10年(1478)5月28日、前将軍足利義政は応仁の乱中不知行であったとみられる「但馬国太多庄」などの龍華院領を「返付」している。「蔭涼軒日録」長享2年(1488)7月5日条の西芳寺領所々目録のなかに「但馬国太田庄内中山須地坂門新弐拾漆貫文」が記される。龍華院領の所在地はわからない、西芳寺領は中山付近にあった。 ![]() ![]() 国道482号線脇に広場ができていて、そこに「史跡亀ヶ城」の柱(↑)が立っている。 この土道↑を行くと旧街道に出る、右ヘ行って、 ![]() ![]() 鹿除け柵を開いて入る。入口に案内板↓がある。 ![]() 史跡 亀ヶ城跡
亀ヶ城は、鎌倉時代但馬守護であった太田氏の築城と伝承されている。 城域は東西約三百メートル・南北約三百メートルを測る大規模城郭で、中央部の堀切を挾んで「東城」と「西城」からなる。 「東城」は、土塁をもつ広い主郭部(Ⅱ)を、南側の曲輪群や竪堀、北側の広い帯曲輪で防御している。「西城」の主郭部(Ⅰ)は、北側の帯曲輪だけでなく、西側に構築した深い二重の堀切と畝状竪堀で堅固に守備されている。 亀ヶ城は土塁を利用した「二折れの虎口」や畝状竪堀に特徴があり、戦国時代から織豊期の傑出した縄張りとなっている。位置的にも、出石~宮津の街道を押さえるための、重要な拠点的城郭となっている。 文治年間(1185~90)、源行家を討ち取った功により常陸房昌明(大江氏)が太田荘を賜り、同荘内に居を構えて太田氏を称したという。承永の乱に際して、昌明は北条氏追討の院宣を携えてきた院の使者を斬り、武家方についた功により但馬国守護に任ぜられ、太田に亀ケ城を築いたといわれる。 以後、昌明の子孫は代々但馬国守護を継承し、弘安8年には太田政頼が但馬国大田文を注進している。それによれば太田氏一族は各地に所領を有し、当町域では惣領の太田行願が高竜寺の、太田三郎入道如道が雀岐荘の地頭であった。 『兵庫県の地名Ⅰ』 亀ケ城跡 現但東町太田城山
西流する太田川の右岸、太田集落背後(北側)の標高一六五-一七ニメートルの丘陵にあり、丹後宮津から出石(現出石町)に抜ける街道(出石・宮津道)を押える要衝を占める。太田集落との比高は約九〇-八〇メートル、城域は東西約三〇〇メートル・南北約三〇〇メートルあり、大規模である。東西に延びる丘陵のほぼ中央鞍部に構築された堀切(幅一五メートル・深さ一〇○メートル)を挟んで、東側の標高一六五メートルに位置する東城と西側の標高一七二メートルに位置する西城からなる。鎌倉時代但馬国守護であった太田氏による築城と伝える。 中央鞍部の堀切から東側に少し上ると虎口受けの曲輪があり、虎口を左右の土塁で固めた大規模な東城の主郭(東西約四〇メートル・南北約五五メートル)に至る。また主郭の西側にも坂虎口がある。主郭の背後(北側)には七-九メートルの幅広い土塁状の曲輪を設け、その北・北東斜面に三段の曲輪を構築している。さらにその二〇メートル下には北側から東側にかけて幅一一-二二メートルの帯曲輪が取巻いている。主郭前面(南側)には二つの尾根が延び、西尾根に七段の曲輪と大規模な竪堀(幅九・一メートル、深さ三メートル、長さ三七メートル)、東尾根に六段の曲輪と堀切・竪堀を構築。とくに東西の尾根先端の曲輪は一五×四九メートル、一七×三一メートルと規模が大きい。中央鞍部の堀切の西側は高さ三メートルの切岸と小曲輪を経て西城の主郭に至る。主郭は東西約四〇メートル・南北約二六メートルあり、西隅部は高さ一メートルの櫓台状の曲輪となっている。主郭の北側は四メートルの段差を設けて大規模な曲輪(三○×二一メートル)をつくり、その二〇メートル下にはやはり幅一五-二〇メートルの帯曲輪を配置している。主郭の南西側には深さ一五メートルの大規模な堀切と小曲輪(七×一三メートル)を構築し、さらにその西側に深さ六メートルの堀切を設けている。この二つの堀切に挟まれた小曲輪の南・北斜面には、北側に七条、南側に五条からなる大規模な畝状竪堀群を構築し、西側の防御をより強固なものにしている。鎌倉時代末期-南北朝時代に築城起源をもつ城を戦国時代に大改修し、さらに戦国末期に西側の大規模な堀切と畝状竪堀群を構築することによって補強を加えたことがうかがえる。 太田集落の位置する山裾には門口・構口(かまえぐち)・大手口・町・町下・隠元谷・堀端(ほりばた)・墓ノ町(処刑場)・長福寺址・了見寺址などの地名が残り、北側の幅広い帯曲輪は馬駈場、その背後(北側)の谷は牢屋敷延とよばれている。また城の東一キロの山麓には太田氏代々の墓地と伝承されている五輪ヵ谷がある。なお城の西の山裾には大将軍館(だいしょうごやかた)・堀ノ内館の字があり、大将軍館は太田氏の祖太田昌明か承久の乱以前に居住し、同乱後に新たに建設したのが堀ノ内館であると伝える。 太田昌明はもと比叡山延暦寺の僧で常陸房といった。文治元年(一一八五)一一月、源頼朝が弟義経・叔父行家と不和になった時、義経・行家の追捕に加勢した平時定(北条時定)に従った常陸房は和泉国で行家を捕らえ、斬首した。頼朝は初め常陸房を流罪としたが、のちに許し、摂津土室庄(現高槻市)と太田庄を与えた。常陸房は太田庄に移って太田昌明と改名したという。承久の乱に際して昌明は幕府方にくみし、但馬国内の京方の武士と戦い、乱が終息した承久三年(一二二一)七月、後鳥羽上皇の皇子雅成親王が但馬に配流となると、北条義時らはその警護を昌明に命じた。昌明はこの時に但馬守護職に補任されたという(以上「平家物語」「吾妻鏡」など)。弘安八年(一二八四)の但馬国太田文は太田政頼が注進した。同太田文によれば、当時の太田一族の所領は朝来郡伊由庄(現朝来町)、気多郡観音寺(現日高町)・同円提寺、出石郡の弘原庄(現出石町)、神戸郷(現同町か)、下里郷(比定地米詳)、雀岐庄西方・高竜寺、城崎郡気比庄(現豊岡市など)、美含郡佐須庄現香住町)などで、守護領は現出石町周辺と円山川の下流域から河口部に濃密に分布している。守護である政頼自身の所領は弘原庄(五○町)と気比庄内の気比村(三四町余)、下鶴井庄(三六町余、現豊岡市)・伊由庄(二八町)で、本貫である太田庄(八○町)の地頭は越前前司後室(北条時広夫人)となっている。このことから鎌倉末期の但馬の守護所は太田庄内ではなく、弘原庄内か、その周辺に所在したものと考えられている。 元弘の乱によって後醍醐天皇の皇子聖護院宮静尊法親王は但馬に配流され、太田守延にその警護が命じられる。守延は元弘三年(一三三三)後醍醐天皇が隠岐を脱出し、名和長年によって伯耆国船上山(現鳥取県赤碕町)に迎えられたことを知ると、親王を奉じて挙兵、千種忠顕軍に合流して六波羅探題を攻撃したが、京都二条通の戦いで戦死したという(「太平記」巻四・巻八など)。このとき太田氏は断絶したと考えられているが、地元にはその後も当地に存続し、当城は天正八年(一五八〇)の羽柴長秀(秀長)の第二次但馬進攻によって落城したという伝承もある。ただ現段階では太田氏にっいて、南北朝期以降文献的に確認することはできない。しかし太田氏の城と伝承されている当城は、縄張りの点からみて南北朝期から戦国末期の様相を呈していることは事実である。なお戦国期に当地は山名氏(致豊・誠豊・祐豊)の領域に属していたが、当時の城主は不明である。畝状竪堀の卓越する縄張りから判断すると、戦国の最末期に轟城(現竹野町)の城主垣屋豊続による改修が考えられる。 『資母村誌』 龜か城
太田村字城山にあり、文治二年太田昌明攝津葉室莊、但馬太田莊を鎌倉幕府より賜ひ、後但馬守護職に補せられ當城を築き、太田氏十一世三百九十餘年の城砦たり。最初昌明の築きし時は一の砦なりしならんも挑戦國時代に至り豪族諸方に起るに及び常に居住し備を嚴にせしものならん。 山頂数段あり、本丸東西二十五間南北四十間あり、本丸の西方堀切二個所ありて西端に小城谷の字を存し、字門口(太田校前)、字構口(太田校敷地)其他馬駈場等の字を存す、尚屋敷跡よりは當時の土器破片を出し、礎石あり。往時は石垣ありしも村民取去りしにや今は跡方もなし、貯水の跡城の北方にあり、西野々字わら谷の東側中腹数十町に渉り溝を穿ち--跡今に至り猶存す。此城天正八年豊太閤但馬入國--出石城主山名氏を降し、太田氏も共に民間に下りければ廢城となりぬ。 図など(但東町誌) ![]() ![]() ![]() 亀ヶ城は山城だから、麓に館があった、普段はそこで暮らしていたのてあろう。それは西隣の木村側に置かれていたようである。木村の奥、山側で、上の地図でいう「大将軍館」「堀ノ内館」がそれである。今はロクな道もないようなことだが、木村はたぶん 《交通》 ![]() 《産業》 『資母村史』 鑛坑の跡 西野々村字本谷にあり、金屋の字を存し愛宕山裏に金屑石多く出づ太田村にも金屋、吹屋、イモヂカエ、トギダ等の字を存す、往昔鉱石發掘し鍛練せしものならん虫生村字向金山坂野字轟にも鑛坑あり。
《姓氏・人物》 太田昌明 太田の主な歴史記録太田の伝説![]() 太田の小字一覧関連情報![]() |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『兵庫県の地名Ⅰ』(平凡社) 『但東町誌』 その他たくさん |
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