丹後の地名 若狭版



佐々木(ささき)
兵庫県豊岡市但東町


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兵庫県豊岡市但東町佐々木

兵庫県出石郡但東町佐々木

佐々木の概要




《佐々木の概要》
相田村の奥で、佐々木川の上流域。中世の雀岐(ささき)庄の遺称地。鍛冶屋・中地・宮本・樫谷からなる。たゝら場・鍛冶屋・切石などの地名が残り、かつては鉄の生産が行われていたとみられている。ササは鉄の意味かも知れない、あるいは銀か銅かも。今はクマゴローが多いようだが、 〽 笹に黄金がなり下がる 宝の山の村だったかも知れない。正保(1644-48)頃の国絵図に村名がみえる。

中世の雀岐庄
出石川とその支流佐々木川・河本川流域にあった法勝寺領庄園。「但馬考」は河本・西谷・天谷・小谷・佐々木・相田・正法寺・平田・栗尾の9村を「佐々木庄と云」としている。法勝寺は京都岡崎(京都市左京区)にあった白河天皇の御願寺であるが、当庄がその寺領で皇室領の一となった経緯は未詳。初見は治承年間(1177-81)早部(日下部か)貞助を当庄公文職に補任した源朝臣某下文案(広僑家文書)で、次いで建久8年(1197)7月日付で雀岐新大夫助景を「但馬国当役御家人」とした交名注文案があるが、ともに南北朝時代の相論の具書。次いで文永10年(1273)11月14日、領家坊門三位入道(基輔)預所通貞と地頭太田左衛門三郎政継との閧で下地中分か行われ、同年11月16日付の関東下知状によって承認された。
太田文には「雀岐庄 七十二町九反四拾六分」とみえ、「法勝寺領」「領家尾張三位家跡」「内 但中分地」の注記がある。下地中分の結果、東方と西方に分れる。東方は三七町五反三〇歩で「領家尾張三位入道子息三人」と注記があり、庄田の内訳は河成四反小三〇歩、寺田二町二反、神田三町六反三三〇歩、定田三一町一反大四〇歩である。西方は三六町四反六〇歩で「地頭太田左衛門三郎入道如道」の注記があり、庄田の内訳は仏神田二町三反一四一歩・定田三三町九反二三六歩で、さらに「但於関東御公事、在京役以下事者、如中分以前、令勤仕云々」と記される。領家方となった東方も関東公事と在京役などは地頭から賦課し得たのであろう。
領家方は次に述べる南北朝時代の相論具書によって出石川沿いの南尾・小谷・増法寺(現正法寺か)・平田・栗尾の諸村であることが判明し、地理的にも庄域の東方にあたる。したがって西方は佐々木川・河本川流域となる。領家方のうち栗尾村・南尾村は南北朝時代の公卿勘解由小路兼綱の「母儀方相伝由緒之地」であったが(応安四年三月六日勘解由小路兼綱譲状土代)、兼綱の母は坊門俊輔の女である(尊卑分脈)。したがって太田文の記す「領家尾張三位入道」は俊輔である。ただし俊輔は三位になっていないが、俊輔の父基輔は三位となっており、俊輔の祖父清親は尾張守となっている。坊門家は有名な信清の一流とともにその弟隆清に始まる一流も坊門を称しており(清親は隆清の子)、この一流が尾張三位家とも称されたのであろう。太田文作成当時の領家「子息三人」は俊輔の子輔能・俊親・清忠と思われる。一方、地頭の太田左衛門三郎は守護太田氏の一族であろう。元亨4年(1324)10月11日付で播磨国広峯神社(姫路市)の「但馬国さゝきのたんな」が売却されている(「広峯孫四郎檀那売券」肥塚文書)。当庄にも広峯神社の檀那(信者)がおり、御師がその檀那に信仰を勧める権利が、利権として売買されたのである。
当庄の領家の一人であったとみられる清忠は後醍醐天皇の側近として活躍し、延元元年(1336)天皇が大和国吉野に移った時も同行した。同じとき清忠の兄弟俊親の子親輔も吉野に参向したが、親輔が相伝していた南尾村・栗尾村の領家職は北朝によって没収された。そして貞和2年(1346)に光厳上皇から勘解由小路兼綱に与えられ(同年11月27日光厳上皇院宣)、南尾村領家職も後光厳天皇の時代に同じく兼綱に与えられた(前掲勘解由小路兼綱譲状土代)。一方、貞和の頃庄内平田村の公文は鎌倉時代以来の御家人志津田彦三郎入道、栗尾村の公文は彦三郎と当麻三郎左衛門尉であったが、二人は但馬国大高山凶徒(南朝方)与同輩として所職を没収され(同4年2月22日但馬国守護今川頼貞注文案)、跡地は同4年12月27日将軍足利尊氏から門真左衛門尉寂意に与えられた(足利尊氏下文案)。ところが寂意は平田・増法寺・小谷三村の領家職をも押領したと、領家坊門為名家から幕府に提訴した(同5年12月25日室町将軍家御教書案)。為名は坊門俊輔の弟為輔の子(尊卑分脈)。為輔は太田文の頃は当庄の領家ではなかったはずで、為名がどのように三ヵ村の領家職を相伝したかは未詳であるものの、南山に参向した坊門清忠らがもっていた領家職を、南尾村・栗尾村同様に北朝から与えられたのかもしれない。ちなみに為名は北朝に仕え、貞治2年(1363)従三位となっている。
門真寂意による平田など三ヵ村領家職押領は貞和五年の将軍家御教書によって停止されたが、続いて観応2年(1351)3月24日には太田孫太郎(地頭太田氏の子孫か)の、貞治5年12月14日には名主・庄官などの、同じく三ヵ村領家職に対する濫妨を停止する幕府引付頭人奉書や将軍家御教書が出されている(いずれも案文)。一方、門真寂意も、公文職名田畠もことごとく領家方に沙汰付されたとして提訴し、観応元年3月28日付幕府の引付頭人奉書(案)によってその返却が認められている。さらに公文志津田入道が闕所とされたとき、公文職名田畠を知行していた明覚も闕所とされたが、明覚はその権利を主張して違乱に及んだらしく領家方から訴えられ、観応元年六月日付の陳状を残している。陳状案は前欠のため相論の内容は明確にならないが、明覚反論の論拠の一は、前掲建久の交名注文案にみえる雀岐助景を先祖とする累代の御家人であるという点にあった。前掲治承・建久の文書は明覚側の具書中に含まれる。明覚をめぐる相論の結末は明らかにならないが、坊門為名家は相論のたびに下地の沙汰付は受けるものの、相次いで違乱・濫妨が発生し、領家職知行の確立は結局成功しなかったと思われる。もっとも南北朝時代に相論が繰返されたことで、当庄、とりわけ平田・増法寺・小谷三ヵ村の史料が伝わることとなったが、それも応安元年(1368)8月27日付で改めて三ヵ村が領家方であることを確認し、ただし半済については傍例に任せるとした守護書下(案)と同年9月2日付守護代施行状(案)で最後となる。一方、栗尾村・南尾村については、応安4年3月6日付の譲状土代のなかに、勘解由小路兼綱は前掲の由緒を述べた後「雖為少所、可執心」とわざわざ記しているが、以後の史料は伝わらない。応安元年の守護書下のなかで半済について触れていることが暗示するように、当庄は結局守護や国人によって押領されたのであろうという。

佐々木村は、江戸期~明治22年の村。出石郡のうち。山名氏政滅亡後天正13年まで青木勘兵衛、同年から前野長康が領した。文禄4年からは出石藩領。明治22年合橋村の大字となる。
佐々木は、明治22年~現在の大字名。はじめ合橋村、昭和31年からは但東町の大字。平成17(2005)年より豊岡市の大字となる。


《佐々木の人口・世帯数》 49・19


《佐々木の主な社寺など》

弥生時代の石斧が出土

佐々伎神社(式内社)

集落のなかほど、県道へ迫る丘上に鎮座。祭神は大彦命・少彦命、「延喜式」神名帳に載る出石郡の同名社に比定される。雀岐神社とも記し、二宮大明神ともいったが、これは雀岐大明神・須流大明神を合祀したことによるという。弘安8年(1285)の但馬国太田文で雀岐庄東方の庄田三七町五反三〇歩のうちにみえる神田三町六反三三〇歩を佐々伎神社の神田とみる説もある。「兵庫県神社誌」に引く雀岐神社縁起によると、貞享2年(1685)に社殿を再興、嘉永4年(1851)に焼失し、文久2年(1862)に再建、この時の上棟札が残る。例祭日には「さゝばやし」を歌い、舞踊りながら社殿に至り奉幣する撚り込み神事がある。境内には貞治三年(1364)の宝篋印塔がある。
『但東町誌』
縣社 佐々伎神社
鎮座地 合橋村佐々木字宮本
  〔特選神名牒〕 佐々木村字宮本(出石郡合橋村大字佐々木)
  〔神祇志料〕  今佐々木庄佐々木村に在り
祭神 少彦名命 ○調書ニハ大彦命ヲモ記ス
由緒
(イ)總説
 崇神天皇十一年道主命、比奈良岐と計り北國開發の祖は少彦名命、大國主命を祀る社を創立せしに創まると傳ふ國司文書には桓武天皇延暦三年佐々貴山君波佐麻其祖を祀るといへるは同氏族の祖神を合せ祀りしものか延喜式の制小社に列し鎌倉時代法勝寺領として御田三町六反三百三十分を有し後世須留神社を合せ祀って二宮大明神と仰ぎ江戸時代貞享二年、寶暦二年社殿を再建し文久二年又本殿を上棟せり明治六年十月村社に列し大正十二年六月郷社に進み昭和四年八月縣社に昇格せり
  〔出石藩舊記〕
 雀岐大明神
 須流大明神
 右二社ヲー社ニ約メテ二宮大明神ト稱ス
 七月十五日 祭例獻米五升
 大崎大明神 八月十五日 祭例獻米五升
(ロ)社名祭紳
  〔神社扁額〕
 佐々伎神社    (中畧)
参考
〔神社考〕佐々伎神社 延喜式神名帖ニ載スル所ノ神社号ニシテ今佐々木ニ坐ス所ノ祭神少彦名命沙々貴大神諸國鎭座記曰但馬國沙々木神社少彦名命在出石郡國民大祭之必豊年也
宇賀宮也云々
和論語神明部曰少彦名命山城國五條天神近江國佐々木貴大社但馬國佐々伎宮是也右ノ書ニ載ル所ヲ見レバ世ニ著シキ神社ナリ古ヨリ此ノ地ノ婦人子ヲ産スまかなし此ノ神ノマモリナリト云傳フ此神醫藥之事ヲ教へ給フ神ナレバ其ノ靈験アルモムベナリ凡神社諸國ノ鎭坐ト六所ニシテ是其ノーナリ云々太田文ニ曰雀岐庄神田三町六反三百三十分トアルハ右二社ノ神領ナリシナルベシトアリ
〔但馬考〕佐々伎御社 延喜式ニアリ小社ナリ今佐々木ニイマスハ二宮大明神大崎大明神二社ナリ何レ古祠ナルコトヲ知ラズ 但馬式社考曰槌人二宮大明神卜稱ス池臣曰佐々木村鎭座佐々木大明神卜云フ 神名帳考證曰祭神大彦命命ハ孝元天皇ノ長子ナリ伴信友曰(近江国沙差貴社ノ條)姓氏録ニ佐々貴君ハ阿部朝臣同祖大彦命ノ後也書紀孝元紀ニ鬱色謎命ヲ立テ皇后トナシ大彦命ヲ生ム是レ佐々貴君等凡七族ノ始祖也 池臣曰姓氏録左京皇別佐々貴山君アリ曰佐々貴山君ハ阿部朝臣同祖大彦命ノ後也攝津皇別亦然り曰佐々貴山君ハ高橋臣阿部朝臣同祖大彦命ノ後也古事記ニモ佐々紀山君韓フクロ卜云フ人アリ現今近江ニテ少彦名命仁徳天皇敦實親王ヲ祭ルト云フハ當ラズ況ンヤ出石郡ニ高橋郷アリ大彦命ノ子孫ノ當國ニアルハ據アリト云フベシ姓氏録ニ雀(サキ)ノ朝臣アレド建内宿禰命之後也マガフベカラズ 神祗寶典曰近江國佐々木社ハ少彦名命仁徳天皇垂跡ナリ但馬式社考曰和論語ニ少彦名命ハ山城國五條天神近江國佐々貴大社但馬國佐々伎宮是也ト
(ハ)創立
[増補但馬一覧]崇神天皇十一年夏四月壬子朔下向シ玉ヘバ郡盗恐レテ逃去リ異賊悉ク歸服シテ國國安寧也道主命比奈良岐談合シテ北国ハ大己貴命少彦名命等ノ開闢ノ功アリ殊ニ靈験新ナレバ天皇へ奏シ天皇勅免有リテ靈神ノ社頭ヲ造営シ玉フ云々
〔國司文書〕人皇四抬五代勝寶感神聖武皇帝天平拾九年春三月以佐々貴山君大佐伎爲出石郡司高橋臣之族也云々人皇五十代柏原天皇延暦三年夏六月以佐々貴山君波佐麻爲出石郡司佐々貴山君波佐麻祀其祖佐々貴山君於射坂丘云々  (以下省畧)

←境内石段の左手に「ナンジャモンジャ」の木がある。

なんじゃもんじゃの木
この木は古くからなんじゃもんじゃの木と呼ばれています。撫でると愛情が芽生え家庭が円満になる、若い人が撫でると恋人が出来るとされています。
佐々木神社のなんじゃもんじゃ 学名、鹿の子木です。 森の中には十数本あり、“どんなもんじゃ” 社殿にお守りがあります。
“宝篋印塔” 鳥居右手の宝篋印塔は足利時代のもので但馬最古のものです。
福知山の頼光寺にも、なんじゃもんじゃがあるが、この時期は小さい白い花が一杯に咲く。なんじゃもんじゃといってもいろいろあるのだろうか。この木は花がない。


浄土真宗本願寺派東光寺

『但東町誌』
東光寺 (佐々木)
眞宗 本願寺派 (本願寺末)
本尊 阿彌陀仏
由緒 創立元禄二巳巳七月開基存久
堂宇 桁行九間 梁行四間三尺
境内地 百五十九坪 …
檀徒 四十二人
参道に「かじや地蔵」が祀られている。バス停名も「カジヤ」。寺号からしても、古い寺歴がありそうと思われる。本来の本尊は薬師如来、創立は平安期でなかろうか。
教育家・東井義雄氏の生家だそうである。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》
東井(とうい)義雄
ほんものはつづく。つづけるとほんものになる。
東光寺住職であった東井義雄は戦前・戦後を通じて生活綴方教育の実践家として知られ、昭和34年に教育功労者に与えられるペスタロッチ賞を受賞、出合(豊岡市役所 但東庁舎内)に東井義雄記念館がある。

佐々木の主な歴史記録


佐々木の伝説




佐々木の小字一覧


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『兵庫県の地名Ⅰ』(平凡社)
『但東町誌』

その他たくさん


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