丹後の地名 若狭版



旧・但東町(たんとうちょう)
兵庫県豊岡市但東町


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兵庫県豊岡市但東町

兵庫県出石郡但東町

旧・但東町の概要




《旧・但東町の概要》
出石郡の東半を占め、但馬の東に飛び出したような位置にあり、北と東は丹後、南は丹波で、西で但馬に接する。周囲は法沢(ほうたく)山・高竜寺ヶ岳・磯砂山・権現山・江笠山・三国山・居母(いぼ)山・富岡山・東床尾(とこのお)山など標高500~800メートルの山々に囲まれ、中央部には郷路(ごうろ)岳・東里(とうり)ヶ岳がある。このため周辺の地域との接触は峠越えで行われてきた。これらの山々は太田川・出石川の水源ともなっているが、町域では平野部は少なく、農業の規模は小さかった。令制以来出石郡に属し、戦国期には出石有子山城主の配下であったと考えられる。江戸時代の村数は天保郷帳によれば36。明治22年の町村制施行によって出石郡の資母村(太田川流域)・高橋村(出石川上流域)・合橋(あいばし)村(出石川中流域)の3ヵ村が成立。昭和31年に、この3ヵ村が合併して但東町が成立した。町名は但馬の東部に位置することによる。平成17(2005)年より豊岡市の大字となる。

【沿革】
〔原始・古代〕〔木村西ケ森の尖頭器〕当町は但馬地方東部の山岳地帯に位置するため、縄文時代までの遺跡・遺物が豊富である。先土器時代の尖頭器が大正11年に木村西ケ森の太田川川中で発見されている。これは但馬地方で発見された最古の遺物の1つで、尖頭器の文化が、中部地方の山岳地帯から滋賀県・京都府の山岳地帯を経て、当地に波及したことをうかがわせる、という。
〔縄文・弥生時代の遺跡と古墳〕縄文早期の土器片が出土した佐田亀谷遺跡、楕円文土器片とともに石鏃・石匙などが出土した後天神遺跡など、縄文時代の遺跡が近年相次いで発見されている。小谷遺跡は縄文時代から弥生時代にかけての複合遺跡で、出石川水系に分布する天日槍伝説を考慮すれば、出石川上流部に流れ込む各支川の合流点付近は、但馬地方でも早期に稲作が行われた地帯と考えられる。
太田川流域の資母地区では、奥藤遺跡など、隣接する丹後地方と共通の特徴をもった土器片が出土し、密接な交流があったことを示している。
古墳は「校補但馬考」によれば、水石に「古墳の如きもの三あり、皆極て高大」と記し、「天日槍の墓なるべし」との土地の人の説を載せている。畑川と出石川に挟まれた合流点近くの小丘陵を指し、「古墳の上に、更に多数の小墳を作りしものの如し、近年河岸設定に鑑み、往々其石を濫采し、処々凹状を呈せり」と付記しているが、確証を欠いている。当町の確認されている古墳はすべて円墳で、埋葬施設は横穴式石室である。そのうち栗尾字下山根の栗尾古墳の竪穴系横口式石室は、天井石の隅部を三角に架構した特異な構造である。
〔高橋郷・資母郷・埴野郷〕当町域は出石川下流の出石地方とともに、天日槍を祀る氏族の勢力範囲であったが、やがて大和政権の支配下に入ったと考えられる。古代律令制下の当町域は但馬国出石郡に属し、「和名抄」に見える高橋郷・資母郷・埴野郷に比定される。高橋郷は出石川最上流部とそれに合流する河本川・佐々木川の谷筋で、但馬から丹波を経て畿内に向かう道筋を占め、各谷筋に大生部兵主神社(薬王寺)・手谷神社(河本)・佐々伎神社(佐々木)の式内社がある。資母郷は出石川の支流太田川とそれに合流する唐川川・赤花川・板野川の谷筋で、但馬国府から丹後国府に向かう道筋にあたり、日出神社(畑山)・阿牟加神社(虫生)・比遅神社(口藤)・須流神社(奥赤)の式内社がある。埴野郷は出石川中流域を占め、水石に名神大社に列する御出石神社があったと伝えられる。御出石神社は現在の水石神社とも、またのちに桐野(出石町)に移転した御出石神社ともいわれる。
〔交通の要衝春野駅〕「延喜式」兵部省の項に見える但馬7駅のうち、春野駅が訓の類似から埴野郷付近に比定され、但馬国府から丹後国府に至る行程のほぼ中間に位置する出合・矢根付近に設定されていたと考えられている。同地は、丹後・丹波への分岐点で交通の要衝であり、駅馬5匹が置かれていた。

【中世】
〔太田荘の盗犯殺害人〕院政期になると、当町域にも荘園が成立する。文献に見える最初の荘園は、太田川流域の旧資母郷に立荘された太田荘である。「中右記」承徳元年(1097)2月6日の条に役夫工使に濫行した但馬国太田荘住人を盗犯殺害人として検非違使の勘問に伏すことを決定した記事が見える。弘安8年(1285)の但馬国大田文によれば同荘は80町で法金剛院領・伯宮御領となっている。高橋郷は高橋荘(聖護院領)・雀岐荘(法勝寺領)・片野荘(聖護院領)に分かれ、旧埴野郷は土野荘のほか、矢根荘(賀茂社領)になったと考えられる。皇室関係の所領が大部分を占めることから、当町域の多くが院政期に成立したものとみなしてよかろう。
〔但馬国守護太田氏〕文治年間(1185~90)、源行家を討ち取った功により常陸房昌明(大江氏)が太田荘を賜り、同荘内に居を構えて太田氏を称したという。承永の乱に際して、昌明は北条氏追討の院宣を携えてきた院の使者を斬り、武家方についた功により但馬国守護に任ぜられ、太田に亀ケ城を築いたといわれる。以後、昌明の子孫は代々但馬国守護を継承し、弘安8年には太田政頼が但馬国大田文を注進している。それによれば太田氏一族は各地に所領を有し、当町域では惣領の太田行願が高竜寺の、太田三郎入道如道が雀岐荘の地頭であった。なお、太田荘の地頭は越前前司後室となっているが、これは昌明が同荘を北条時房に献じたことによるものであろう(出石町史1)。さらに太田氏一族が同荘域内にある高竜寺や隣接する雀岐荘を支配していることからみて、同氏が太田荘を実質的に支配していたものと考えてよかろう。なお、惣領行願が支配する出石郡内の下里郷を旧資母郷域とみる説もあるが、確証はなく場所も定めがたい。
〔太田守延の戦死〕元弘元年(1331)後醍醐天皇が隠岐に流されると、天皇の第4皇子成良親王も但馬に流され、守護太田守延の監視のもとに置かれた。また、当町には恒良親王が流され、畑山の御池の地に幽閉されたと伝える。同3年、天皇が隠岐嶋を脱出すると、守延は成良親王を奉じて反幕府軍に加わり、上洛したが、二条大宮で戦死した。以後、但馬における太田氏の勢力は次第に衰退し、一族の動向も不明である。建久8年(1197)に但馬国守護安達親長が注進した当役御家人交名に雀岐新大夫助景の名が見える。同氏は雀岐荘に土着した国御家人であったと思われる。
太田氏衰退後、南北朝内乱期には但馬国守護に吉良・今川・上杉の諸氏が任じられた。その後、応安5年(1372)12月には山名師義に同職が与えられた。同氏の子孫は此隅山城(出石町)を拠点に戦国期まで但馬に君臨し、当町域も同氏の支配に属した。
〔中世の寺院〕太田荘域に高竜寺・金蔵寺、高橋荘には薬王寺があった。但馬国大田文によると高竜寺・薬王寺は所領を有し、金蔵寺には、興国元年(1340)と貞和4年(1348)に寂室円翁が1~2年逗留して詩を残している。なお、雀岐荘相田には建武年間(1334~38)に安国寺が建立された。片野荘小坂には覚如門弟乗専が一院をつくり、のちに乗専寺と呼ばしたが、但馬地方では早い時期にできた浄土真宗の寺院であろう。

〔近世〕
〔領主支配の変遷と村々〕当町域は天正13年(1585)前野長康の支配下に、文禄4年(1595)には播磨国竜野から入部した小出氏出石藩領に属した。寛文4年(1664)の小出吉英所領目録に見える村々は35か村である。同6年藩主吉重の時、弟の英本に出石郡内の2,000石が分与され、当町域の7か村が旗本小出氏領となった。元禄10年(1697)小出氏に代わり松平氏が武蔵岩槻から入部したが、矢根銀山付き村々として5か村が幕府領となった。その後、宝永3年(1706)松平氏に代わり信濃上野の仙石氏が入部し、当町域は出石藩領・幕府領・旗本小出氏領に分割されたまま明治期に至る。なお、「天保郷帳」に見える村々は中山村・矢根村・久畑市場村など36か村であった。
〔いなきばつる牛と但馬ちりめん〕当町の農業は地形上、山田や山畑が多く、生産性は極めて低かった。赤花地区に伝存する但馬地方最古の検地帳の「赤花始り之御水帳」では田畑筆数の3分の2以上が下々田もしくは下田で、上田はわずかに2筆で、全体の1割にも満たない。山畑では焼畑栽培が行われ、蕎麦・大豆・小豆・コンニャクが生産された。このうち赤花の蕎麦は著名で、日高町神鍋地方の蕎麦とともに出石蕎麦の根源といえよう。農業生産の不利を補うため、山地の地形を生かして養蚕・畜牛・炭焼が盛んに行われた。寛永年間(1624~44)には大河内村の稲木場吉左衛門が、肢蹄・気力の強い長命な黒毛和牛を生み出し、以後世襲で純系を維持し、いなきばつる牛として当地方に広めた。但馬牛の中で、最も優秀な品種の1つとされている。大河内村に隣接する薬王寺村の大生部兵主神社は、古来牛馬の守護神として崇められ、例祭には牛市が立った。また、文化年間(1804~18)太田川水系の中山村に、丹後峰山からちりめん織の技術が導入され、当町の基幹産業であるちりめん機業の基礎となった。貨幣経済の浸透に伴って、一部の地主層が土地の集積を始め、矢根村の大石家は幕末期までに30町歩の散田地主に成長している。同家は商業活動ね手広く行い、出石藩の御用商人に登用されて出石焼の藩外への販売に従事するなど、藩経済の中枢部で活躍した。
〔矢根銀山の盛衰〕江戸初期に一時期、当町域では鉱業も盛んであった。小出氏時代の万治元年(1658)奥矢根地区に銀鉱脈が発見され、矢根銀山が開坑した。盛期には560の間歩を開いて「千貫堀」の盛行を示したという。当時不振であった生野銀山から鉱夫などが大挙移動してきて「矢根千軒」の時代を現出したとも伝える。元禄10年銀山付き村々5か村が上知されて、生野代官所の支配下に移ったが、ほどなく衰退に向かい、寛政10年(1798)には4つの坑に減少していた。以後、断続的に採鉱が行われ、大正4年頃まで久原鉱業が採鉱していたが、現在は休山のまま、日本鉱業の所有となっている。

〔近現代〕
〔満州への移民とちりめん機業〕当町域は明治22年市制町村制施行により合橋村・高橋村・資母村となり、昭和31年3か村の合併により但東町が成立した。なお人口は、大正9年1万572、昭和5年9,695、同15年9,441、同35年8,804、同45年7,181、同50年7,022、同55年6,734、同60年6,581と減少の傾向にある。明治以降の当町の産業は、農業を基軸としながらも、その地勢的不利を補うため、山地を生かした養蚕・製糸・畜牛・木炭製品などが盛んであった。なかでも製糸は、明治7年当時赤花に橋本竜一が関西で最初の器械製糸場を設置し、操業を開始している。ただし、同23年不況により廃業している。昭和15年・16年の生産額のうち農業生産の占める比率は約50%、耕地の不足は致命的で、村民所得は全国平均の半分に満たなかった。こうした苦境を打開するため、高橋村では国の満州移民政策に応じ、村内の戸数・人口の20%にあたる103戸・476人が大兵庫開拓団を結成して、同18年に満州国浜江省蘭西県北安村に入植した。しかし、同20年ソ連の参戦から終戦にかけての混乱の中で、団員298名が入水自決するという大きな悲劇に終わっている。
資母村ではちりめん機業が、隣接する丹後地方の影響を受けながら次第に発展し、大正6年には手織りから石油発動機による機械織りになり、同15年には電力を導入して生産力を飛躍的に向上させた。昭和10年にはちりめんの生産額は5万4,570反に達し、生産価格も同村農業生産価格の3倍になっている。
〔戦後産業の推移と振興〕戦後の社会変動は著しく、当町の産業のなかで高い比率を占めていた養蚕・畜牛・木炭生産は衰退し、代わってシイタケやチューリップ球根の生産、ブロイラーの飼育が成長し、町の基幹産業に成長したが、高度経済成長期を境に需要が落ち込み、休業や織機の廃棄による生産調整を実施するなど、転機を迎えている。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『兵庫県の地名Ⅰ』(平凡社)
『但東町誌』

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