丹後の地名 若狭版



薬王寺(やこうじ)
兵庫県豊岡市但東町


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兵庫県豊岡市但東町薬王寺

兵庫県出石郡但東町薬王寺

薬王寺の概要




《薬王寺の概要》

「やこうじ」と呼ぶ。久畑村の北東、出石川の支流薬王寺川の流域山間を占める。神懸(かんがけ)峠の登り口で、出石・福知山道(国道426号)から分岐して同峠を越える道は丹波国天田郡雲原村(京都府福知山市)に通じる。北の薬王寺峠を越える山道は奥赤花村に至る。地名は大生部兵主神社の別当寺であった薬王寺(現廃寺)が伽藍を構えていたことに由来する。正保(1644-48)頃成立の国絵図に村名がみえる。同絵図では神懸峠の道に「脇道難所牛馬不通」と注記される。
薬王寺は、鎌倉期に見える地名。但馬国出石郡のうち。弘安8年の但馬国大田文に「薬王寺 十三町五反二百七拾分<聖護院御領 地頭葺山七郎家貫〉」とある。田地の内訳は常荒1反余・仏神用4町3反・人給3町1反・定田6町1反余。当地に鎮座する式内社大生部兵主神社の別当寺薬王寺とその所領田が荘園化したもの。
薬王寺村は、江戸期~明治22年の村。出石郡のうち。山名氏政滅亡後天正13年まで青木勘兵衛、同年から前野長康が領した。文禄4年からは出石藩領。寺院は曹洞宗楽音寺。明治22年高橋村の大字となる。
薬王寺は、明治22年~現在の大字名。はじめ高橋村、昭和31年からは但東町の大字。平成17(2005)年より豊岡市の大字となる。


《薬王寺の人口・世帯数》 116・63


《薬王寺の主な社寺など》

大生部兵主(おおいくべひょうず)神社(午頭天王社)(式内社)


神懸峠の登り口、江笠山の南西麓に鎮座。健速須佐之男神を祀り、旧県社。かつては牛頭天王社とよばれて牛馬の神として近隣の崇敬を集め、現在も薬王寺天王社の別称がある。「兵庫県神社誌」に、用明天皇皇子麻呂子親王は丹後国竹野郡の賊を退治するために江笠山に鎮座する牛頭天王に祈願し、天武天皇12年(683)には社地を移して牛頭天王を祀ったという。さらに斉衡元年(854)現在地に遷座し、貞観年中(859-877)社殿を造営したとする。一方、中世まで当社別当寺であった薬王寺(現廃寺)の縁起である高峰山薬王寺縁起(兵庫県神社誌)などによれば、同寺は斉衡元年薬師如来とその守護神牛頭天王を祀る堂舎を建立、同時に江笠山に祀られていた素盞嗚尊を境内に迎えたことに始まるといわれる。のち江笠山を含む山岳信仰の霊地として知られて、康保元年(954)には勅使が参向して寺領を寄せ、薬王寺を中心に6ヵ寺を数えたという。当社は江笠山を神体山とし、その霊地に祀られたのが草創と見られている。
薬王寺の草創後は同寺が支配した。弘安8年(1285)の但馬国太田文には「薬王寺 十三町五反二百七拾分」とみえ、「聖護院御領」「地頭葺山七郎家貫」の注記があり、寺領田の内訳は常荒一反小、仏神用四町三反、人給三町一反、定田六町一反小三〇歩である。聖護院は京都にある天台宗の門跡寺院。薬王寺がその末寺となり、寺領田も聖護院領となったものであろう。地頭葺山家貫は関東御家人と思われるが未詳。下って永享元年(1429)12月8日、守護山名時熈は、薬王寺社領四町六反のうち二町五反を売却したため本堂・社殿が荒廃しているので、売却を停止して寺社に還付させ、造営・神事・仏供灯油などを専らにし、天下祈祷をいたすよう申付けるべきこと、供僧・禰宜らが再び売却しないよう領家半済給人の内藤孫左衛門に下地を管理させるべきことを垣屋越前守に命じている。永享頃ですでに荒廃の危機に瀕していたようであるが、それには供僧らの社領田売却が直接のきっかけであるとともに、領家職が設定され、守護被官に半済が給付されていることも原因ではないかと思われるが、ほかに関係史料を得ない。
近世には小出氏・松平氏・仙石氏と出石藩の歴代藩主から崇敬された。寛文6年(1666)小出氏は社領三石五斗余を寄進し、貞享5年(1688)同氏から用材を寄せられて社殿を再建した。また宝永6年(1709)には松平氏が、天保元年(1830)には仙石氏がそれぞれ神楽殿再建用材を寄進している。牛馬の守護神として信仰されていたため、例祭日には牛市も開かれ、「銀一〇匁、其節御村天王様へ御参詣の節の牛繋場として、鳥居より東側五間に八間の処差出候」と記された承応3年(1654)の書付なども残る。牛市には但馬ばかりではなく丹後・丹波からも多くの博労らが訪れたという。明治16年に大生部神社から現社名に改称。当社を「延喜式」神名帳の出石郡の同名社に比定する説と、豊岡市奥野の同名社とする説がある。

『但東町誌』
延長三年(九二五)四月に綴られた但馬世継記の記事を正しいものとすれば、大生部兵主神社 祭神 兵主神


縣社 大生部兵主(オホイクベヒャウズ)神社
鎮座地 高橋村藥王寺字宮内
    〔國司文書〕 高橋郷大生部村
    〔但馬秘鍵抄〕大生部里
    〔出石郡郷名記〕在焉大生部在院之地
    〔但馬國神社鑑〕大生部村鎭座
    〔但馬神社重寶記〕高橋庄薬寺村
祭神 健速須佐之男命
由緒
 (イ)總説
 傳へいふ用明天京の皇子麻呂子親王勅を奉じて丹後竹野郷なる兇賊討伐の爲め當村江笠嶽鎮座の午頭天王に十七日參籠祈願せられ生本の杉を以て神像を調刻せられ其後神社の西方十數町の地に親王を葬り其の塚今に存すとあれば其頃より前に創立せられしものか或はいふ國司文書に天武天皇十二年社地を移し齋祀せることあれば其の前後の事か文徳天皇の齊衡元年神教に依りて現今の地に遷座し清和天皇貞觀年中社殿を造営す村上天皇康保元年當國の國司神徳顕著なる旨を奏聞せしかば大宮吉光勅使として参向し田地四町六反餘を社領として寄進せらるといふ降って治安元年八月二十五日平光守勅使として参向し源頼光は丹波の鬼賊退治の際武運長久を當社に祈って刀を奉納す中古以來藥王寺別當として支配せり次いで國司山名入道常熈は勅使大宮吉光寄進の社領地を別當禰宜社僧等の恣に賣却せるを咎め永享元年家老垣屋越前守に命じて其の地を買得還付せり天正十八年社領を没収せられ高札も亦撤去せられたりしも次いで領主小出吉重は寛文五年祭禮及び當社に關係深き牛馬市に悪徒の狼籍を停めて制札を掲げたり翌六年小出吉重は高三石五斗餘を寄進し小出英安は貞享五年本殿再建の用材を奉納せり領主賓永六年松平忠固は神樂殿再建に又用材を寄進し天保元年神樂殿再建には藩主仙石家の寄進ありたり明治六年十月村社に列し同十六年十一月社名大生部神社を大生部兵主神社と改稱し大正五年九月郷社に進み同十五年九月縣社に昇格せり(中畧)
〔太田文〕大生部兵主神社 嘉祥四年正月廿一日詔天下諸神不論有位無位共叙正六位上於此大生部兵主神社預給此榮後宇多院天皇御宇弘安年中以神徳顕特被進従三位
(ロ)社名祭神
〔但馬國神社鑑〕大生部兵主神社 祭神素盞嗚命
〔但馬神社重賓記〕大生部兵主大明神 祭神素盞嗚命
〔出石郡古事記〕式内壮大生部兵主神社 祭神神素盞嗚命〔但馬国神社灯明記〕大生部 兵主神社 祭神素盞嗚尊
〔神社明細帳〕大生部兵主神社 明治十六年十一月八碑社號更生
(ハ)創立
〔國司文書〕大生部大兵主神社 祭神素盞嗚命武雷命齋主命甘美眞子命天忍日命 人皇四十代天武大皇十二年冬十月出石郡司三宅連神床陣法博士大生部了等勸靖之十二年冬十月三宅吉士神床賜姓連先是夏閏四月三宅吉士神床奉勅集子弟豪族具兵馬器械招陣法博士大生部了講習武事且設兵庫於高橋邑以藏兵器大生部了祀大生部兵主神於兵庫測(大兵主神者素盞鳴尊武甕樋命經津主命宇麻志摩遅命天忍日命也)二月三宅連神床賜姓宿禰人皇四十一代持統天皇己丑秋七月三宅宿禰神床率陣法博士大生部了至養父郡更杵村招集一國之壮丁四分一講習武事設其地於兵庫又祀大兵主神云之更杵村大兵主神社三宅宿禰神床之子博床止更杵村與大生部了之子廣掌車事又爲造兵器召楯縫吉彦令作楯楯縫吉彦祀其祖彦狭知命於兵庫側云之植縫神社博床之子孫云糸井連也
〔但馬秘鍵抄〕陳法博士大生部了食封之地也故名大生部点渟中原瀛眞人天皇御宇十二年夏閏四月三宅宿禰奉勅聘陣法博士大生部了具兵馬器械講武事且建兵庫藏兵器大生部了祭兵主神謂之大生部大兵主神社      (以下省客)

大生部は壬生部で、丹生部のことのようである。
『東アジアの古代文化13』
「地名からみた壬生・丹生」荒竹清光
「壬生部」が「大生部」であり大生部が秦氏と密接な関係を有していると同時に新羅系であることは、大和岩雄氏の『日本古代試論』に詳しく論述されている。

壬生は今はミブと呼ぶがことが多いが、壬はジン・ニン、任務のニンで、ミブとは読めそうにもない、四国の愛媛県周桑郡壬生川町はミブガワチョウではなく、ニュウガワチョウであるが、『和名抄』では壬生郷(安房国長狭郡) (訓注・爾布)、壬生郷(遠江国磐田郡) (訓注・爾布)、壬生郷(筑前国上座郡) (訓注・爾布)で、壬生はニフと読まれていて、壬生は丹生の別表記であろうと思われる。神功皇后の物語に丹生都比売(爾保都比売)の授けた赤土を塗りまくって新羅に勝利したとか(播磨風土記)ある、天日槍の呪術には欠かせない呪物と思われるのである。

兵主神
『古代の製鉄』(山本博)
この分布で気ずくことは、ヒボコ勢力の中心但馬国に、兵主神社が集中していること、いや、一八社の半数にあたる九社が、日本に沿海う丹波・但馬・因幡の三か国に鎮座するのに、同じ日本海に沿い、そして神がみの説話の多い出雲には一社も鎮座しないことである。これは前に述べた出雲系のイダテ神が出雲に集中していて、しかも但馬に一社もないことと、明らかな対照をなしている。すなわちイダテ神と兵主神は、相互の間に何のつながりもないようだが、イダテ神はシコヲ神と、反対に兵主神はヒボコ神と密接な関係にあったことを示すものである。兵主神もまた南部朝鮮から壱岐をへて直接但馬に渡来した神であることを物語っているのである。このルートは、銅鐸の分布が、山陽・山陰の東半から畿内地方中心にある事実と一致し、紀元前後以来、そうとう長い期間にわたって、北九州とは関係なく直接、半島から壱岐をへて因幡・但馬への交通路のあったことを示している。すなわち、略言すると「南部朝鮮-但馬」コースの存在である。但馬から畿内への発展は、近江をへて大和・和泉へのコース、東海に向っては、近江をへて参河へのコースのあったことになり、ヒボコの移動コースにきわめて似ていることを示している。

射楯は刀をつくる神、兵主は矛をつくる神である。こうしてこの二神は、ともに、鉄製の武器をつくることで尊敬祭祀されたことがわかる。

牛の神様として但馬牛の盛んな頃は但馬・丹波・丹後からの参詣者も多かったという。5月3日の例祭は餅まきがあり、交通安全・安産祈願の参拝者が多いという。
境内の乳銀杏の巨木の皮を持ち帰り煎じて飲めば乳が出るようになるといわれる。


若宮神社


村岡神社

史料がなく由緒不明。


薬王寺(廃寺)
当寺は斉衡元年(854)に当地に等身大の薬師如来像とその守護神牛頭天王像を安置する堂宇が建立され、併せて江笠岳に祀られていた素盞嗚尊を同じ境内に迎えたことに始まる。往時は薬王寺を中心に6か寺を数え、江笠岳を含めて、山岳信仰として尊崇を集めた。その霊験は都にまで伝えられ、康保元年(964)春に大宮吉光が勅使として参詣、寺領田4町6反余が寄進されたという(高峰山薬王寺縁起・大生部兵主神社由緒など県神社誌下)。当地の冠懸峠・履物(くつもの)・京田(きょうでん)などの地名はこの勅使下向に関連するものかも推測されている。
永享元年(1429)12月8日付但馬守護山名常煕書下(大生部兵主神社文書同前)に「但馬国出石郡薬王寺社領事四町六段之内弐町五段半分買得云々」と見えて、売却された当寺領が寺社専造営・神事・仏供灯油などにあてるため返し付されている。大正14年7月大生部兵主神社本殿の裏山が豪雨で崩壊した時、藤原期の山吹双雀鏡、須恵器の壺、土師器片などが露出採集されており、古くから神聖な地であったことがうかがわれる。


《交通》
神懸(かんかけ)

県道山東大江線(63号線)の神懸峠の頂上(396m)。向う側が但馬側で、向こうが難路である。手前側はなだらか。


《産業》


《姓氏・人物》


薬王寺の主な歴史記録


薬王寺の伝説




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『兵庫県の地名Ⅰ』(平凡社)
『但東町誌』

その他たくさん


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