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矢根(やね)
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矢根の概要《矢根の概要》 西は出石町に隣接する、出石川と奥矢根川が合流点。人家は国道426号・県道口小野矢根線(247)周辺にある。 中世の矢根荘。鎌倉期~室町期に見える荘園で、但馬国出石郡のうち。 京都上賀茂社領庄園で、出石川流域の矢根一帯に比定される。初見は「経俊卿記」建長8年(1256)8月3日条で、京都下鴨社領土野庄(出石町)との境相論が院の評定で審議され、「人々申云、任記録所本勘文、重遣官使并両社使、可被実検、延久官符、寛治立券片文可尋官底」と記されている。延久元年(1069)の庄園整理令以前に成立していた可能性があるが、関係史料は残されていない。土野庄は寛治4年(1090)の立券である。土野庄と境を接していたことが判明する。実検使の派遣は初め下鴨社側か拒否し、次いで上賀茂社も実検使費用の折半を拒否したため延引したようで、正嘉元年(1257)7月にも「両庄堺実検」が院評定で議せられているが、結末は明らかではない。弘安8年(1285)の但馬国太田文には「矢根庄 十五丁九十分」とみえ、「賀茂社領」「領家和徳門院」「公文矢根夜叉王太郎跡」と注記がある。次いで「同余田 三町八反三百三拾分」がみえ、「同社領」「領家同上」の注記があり、「両所共不出注文之間、任古帳註進之」と記され、当庄・同余田ともに庄田の内訳記載はない。領家の和徳門院は仲恭天皇皇女義子内親王で太田文作成当時は在世中であるが、領家職についてはとくに史料は伝わらない。前公文の矢根夜叉王太郎は当庄を本拠とする武士。正和3年(1314)2月18日付播磨国広峯神社(姫路市)社務某の檀那等処分状(肥塚文書)には「一但馬国壇那等口中山・矢根之壇那等者、実勝分也」とみえる。 南北朝時代の貞治3年(1364)2月26日、朝廷記録所の庭中で上賀茂社の「氏人等申但馬国矢根庄事」が評定され、同5年11月14日に「矢根庄事」について「可有 勅問由」が後光厳天皇から仰せ下されている、係争の内容はわからない(「師守記」同3年2月26日条・同5年11月16日条)。長享2年(1488)の林光院領所々目録(「蔭涼軒日録」同年7月5日条)には「一但馬国矢根年貢銭 三拾貫文」がみえる。当知行ではなく、全盛時の院領を注進したなかに含まれるもので、領家職を継承したものであろう。林光院は夢窓疎石を開山とする京都相国寺の塔頭。 矢根村は、江戸期~明治5年の村。出石郡のうち。山名氏政滅亡後天正13年まで青木勘兵衛、同年から前野長康が領した。文禄4年出石藩領、元禄9年からは幕府領。万治元年(1658)当村で銀山が発見され、元禄年間(1688~1704)地内は口矢根村・奥矢根村とに分けられた。明治5年奥矢根村と口矢根村とに分村。 矢根は、大正4年~現在の大字名。はじめ合橋村、昭和31年からは但東町の大字。もとは合橋村口矢根。平成17(2005)年より豊岡市の大字となる。 《矢根の人口・世帯数》 232・94 《矢根の主な社寺など》 ![]() ![]() 出石川と国道482号に山が迫る、何とも神社立地の余地のないような場所に鎮座。高い急な石段を登った、山腹に社殿がある。 単純に考えて、矢根庄が上賀茂社領庄園だったから、ここに勧請されたものでなかろうか。山城国一宮、祭神は賀茂別雷神であろう。 「兵庫県神社庁」のHPには、 「主祭神 別雷神 由緒 継体天皇11年桐野命其祖を祀ると伝え祭神賀茂縣主命或は野見宿祢とも称す。何れが是なるかを知らざるも明細帳には別雷命とせり。 鎌倉時代賀茂社領となり江戸時代享保12年(1727)本殿を建立し文政5年(1822)正遷宮を行えり。明治6年(1873)10月村社に列せらる」とある。 ![]() ![]() 確かそうな史料がなく不明である。 「兵庫県神社庁」のHPには、 「主祭神 日本武尊 由緒 創立年月不詳 当地方は土師部の子孫多く住して其の祖神を祀りしものならん。 安永5年(1776)本殿覆を修復し安永3年(1774)本殿を再建せり。 明治6年(1873)10月村社に列せらる」とある。 迷っている感じだが、但馬と白鳥(古名は 『日本書紀』 垂仁天皇二十三年
冬十月の乙丑の朔壬申に、天皇、大殿の前に立ちたまへり。譽津別皇子侍り。時に鳴鵠(くぐい)有りて、大虚を度る。皇子仰ぎて鵠(くぐい)を觀して曰はく、「是何物ぞ」とのたまふ。天皇、則ち皇子の鵠を見て言ふこと得たりと知しめして喜びたまふ。左右に詔して曰はく、「誰か能く是の鳥を捕へて獻らむ」とのたまふ。是に、鳥取造の祖天湯河板擧奏して言さく、「臣必ず捕へて獻らむ」とまうす。即ち天皇、湯河板擧 (板擧、此をば拕儺と云ふ)に勅して曰はく、「汝是の鳥を獻らば、必ず敦く賞せむ」とのたまふ。時に湯河板擧、遠く鵠の飛びし方を望みて。追ひ尋ぎて出雲に詣りて、捕獲へつ。或の曰はく、「但馬國に得つ」といふ。 『古事記』 是の御子(本牟智和気王)、八拳鬚心の前に至るまで眞事登波受(此の三字は音を以ゐよ)。故、今高往く鵠の音を聞きて、始めて安藝登比(阿より下の四字は音を以ゐよ)爲たまひき。爾に山邊の大タカ(此は人の名なり)を遣はして、其の鳥を取らしめたまひき。故、是の人其の鵠を追ひ尋ねて、木国より針間国に到り、亦追ひて稻羽国に越え、即ち旦波国、多遅麻国に到り、東の方に追ひ廻りて、近淡海国に到り、乃ち三野国に越え、尾張固より傳ひて科野国に追ひ、遑に高志国に追ひ到りて、和那美の水門に網を張りて、其の鳥を取りて持ち上りて獻りき。故、其の水門を號けて和那美の水門と謂ふなり。亦其の鳥を見たまはば、物言はむと思ほせしに、思ほすが如くに言ひたまふ事勿かりき。…
但馬の和那美は、養父郡に式内社・和奈美神社があり、そこではないかと言われる。そうかも知れないし、城崎郡式内社・久久比神社かも知れないし、当社ははっきり白鳥神社だから、当社辺りであったのかも知れない。確かな史料は残されていない。近世に銀山が発見される以前に、古代にもうすでに鳥取氏がいたのかも知れない。白鳥(スワン)は渡り鳥で水鳥だから湖や湿原がないと飛来しない、今でも琵琶湖や宍道湖へは渡ってくるから、このあたりに湖があれば、飛来することであろう。当社の社前の広い田畑はかつては湖であったのであろうか、そんな地割りのように見える。当社周辺には人家はない。 《交通》 ![]() 《産業》 万治元年(1658)当村で銀山が発見され、人口が増え、元禄年間地内は口矢根村・奥矢根村とに分けられた。 《姓氏・人物》 矢根の主な歴史記録矢根の伝説![]() 矢根の小字一覧関連情報![]() |
![]() ![]() 資料編の索引
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『兵庫県の地名Ⅰ』(平凡社) 『但東町誌』 その他たくさん |
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