丹後の地名 若狭版

若狭

郷市(ごいち)
福井県三方郡美浜町郷市


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福井県三方郡美浜町郷市

福井県三方郡南西郷村郷市

郷市の概要




《郷市の概要》
町の中央部、JR小浜線美浜駅や町役場があるあたり。国道27号沿いに市街地を形成して賑やかそうな所になる。丹後街道沿いに開けた市場で、地名は山西郷の郷の市に由来するものか。「稚狭考」には「江市」と記されている。
中世の郷市村は、戦国期に見える村。若狭国三方郡耳西郷のうち。大永2年(1522)3月に宝泉院領2反が「郷市南大道東」にあると見えるのが初見で、郷市の南を大道が通っていた。文明元年(1469)以降の状況を示す耳西郷惣田数銭帳では、当村に三郎丸名・重次名・守久名などの名や、気々子宮分・極楽寺分・玉田庵などの田地9町7反120歩があり、このうち農民は6町2反分の段銭を納入していた。また永正16年(1519)12月に気山彦九郎は「さいかう(西郷)かういち(郷市)こくらく(極楽)寺」の楽頭と楽頭録を売却している。弘治2年(1556)の明通寺鐘鋳勧進入目下行日記には「こいちにて夕めし」代22文が見える。
近世の郷市村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「若狭郡県志」には古津山という小村が記されている。古津山は向水山とも記され、現在の洪水山にあたると思われる。伝承によれば,洪水によって新庄村から流された山といい、残されたのが片山だという。「雲浜鑑」では村高625石余、戸数55・人口305。宇波西神社の例祭には3年目ごとに獅子舞を奉納する。古組・神代組・神明組の3組の宮座があり、舞当の諸神事を執り行い、祭りの前日には引山車が集落内を巡行する。大警護・脇警護2名、区長・亭主・頭舞・後舞・頭太鼓・後太鼓・脇亭主・オゴサイカキ(獅子頭・御借・神酒・カレイ)・警護などの神事の役割がある。4月7日には頭屋で氏子入りの儀式である烏帽子着の儀が行われる。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年西郷村の大字となる。
近代の郷市は、明治22年~現在の大字名。はじめ西郷村、明治31年南西郷村、昭和29年からは美浜町の大字。明治24年の幅員は東西8町余・南北13町余、戸数52、人口は男133 ・ 女131。


《郷市の人口・世帯数》 424・142


《郷市の主な社寺など》

南伊夜山(みなみいよやま)銅鐸
平成13年7月5日、当地の南伊夜山地籍において、農道の建設工事中に銅鐸が1個発見された。扁平鈕式六区袈裟襷文の古い様式という。

南伊夜山というのがどこなのかわからない説明なのだが、郷市に山なんぞないではないか、洪水山ならそう書くあろうし、たぶん西側の金山との境になる山であろうか。
総高43.0㎝、重さ3.19㎏。写真は美浜町歴史文化館の展示品。本物のよう。

獅子塚古墳

国道27号沿い駅前の関電さんの原子力事業本部の建物(昔の役場)のすぐ東側である。後円部側より、古墳の周囲は削られ、周濠も失われている。

前方部より後円部をのぞむ。この下に石室がある。開口部は国道側になる。
以前の案内板
獅子塚古墳
この獅子塚古墳は、六世紀初頭(今から千四百年前)の古墳は、三方郡内唯一の前方後円墳である。明治三十年七月に、この地を開墾の際、石室内より遺物が出土し、同十月、(旧)帝室博物館により調査された。昭和五十三年四月、国道拡幅工事に伴って、若狭考古学研究会により石室内の調査を実施し、調査後は石室を埋めもどして完全に保存された。もともと本古墳の平面形し、ヒョウタン型を呈し、その主軸はほぼ東西にわたり、前方部は西にあたる全長約三十四メートル、後円部の直径約十七メートル、前方部の幅約十五メートルで、封丘には葺石と埴輪をめぐらし、周濠があったと推定される。後円部には南に開口する横穴式石室があり、玄室(墓室)は長さ四・五メートル、幅二・二メートル、高さ二メートルあり羨道(墓道)は長さ二・五メートル、幅〇・六メートルで入口ほど広がりのある型式の両袖式の石室であり、古式の様相を呈する。石室は花崗岩の小型の石材を積み、上へいくほど狭くなる極端な持ち送り手法で作られ、玄室の壁・天井・床にはふんだんにベンガラが塗られ、いわば「赤い石室」である。
 本古墳の被葬者は、三方郡開拓の祖・耳別の君一族の一人と考えられ、純度の高いベンガラの使用や角抔二点の副葬などは特異であり、また南方の興道寺高達に所在する興道寺窯も本古墳造営の際に開かれたものである。
主なる副葬品
装飾付頸坩・小坩付頸鉗・高杯・坏・ハソウ器台・角杯など須恵器二十五点・管玉四点・鉄鏃・鉄斧・馬具等鉄製品九点・銅鈴一点(以上東京国立博物館藏)鉄剣一点・鉄鏃・刀子・曲刀鎌等鉄製品十五点・須恵器および埴輪破片百点・小玉・管玉・勾玉等玉類二十二点(以上 町教育委員会藏)
・なお、伝説では本古墳の被葬者は開化天皇の王子日子坐の子室毘古王の墓と伝えられ、宮代区に鎮座する弥美神社の祭神
寄贈 美浜町教育委員会 美浜ライオンズクラブ


大きくはないが中身に興味引かれる古墳で、三方郡内唯一の前方後円墳。明治30年、開墾によって遺物が出土したため東京帝室博物館若林勝邦が調査した。その後昭和53年に国道27号拡幅工事に伴い美浜町教育委員会と若狭考古学研究会が事前調査を実施した。現形は改変が著しい、墳丘規模は全長32. 5m、後円部径17m、前方部幅15m、後円部高5mと推定されている。ほぼ東西に主軸をとる。葺石・埴輪をもち、埋葬施設は南に開口する横穴式石室である。石室の平面形は羽子板形をし、全長6m、玄室長4. 5m、玄室奥壁幅2.5m、玄室前幅2m。壁体は下半をほぼ垂直に、上半を急傾斜に持ち送る。壁面および床面には赤色顔料(ベンガラ)が塗布されていた。袖石上に楣石を架構した玄門には玄室と羨道を仕切る框石を置く。短い羨道は入口に向かって開き気味の平面形をもち、天井石を架けない。閉塞は河原石を積み上げて行い埋葬後は羨道部を埋め戻している。副葬品は須恵器、玉類、環鈴、馬具、剣、鉄鏃、曲刃鎌、鹿角製刀子など。須恵器には角杯2点を含む。築造時期は須恵器の型式(MT15型式)から6世紀前半とされる。当墳の横穴式石室は若狭町向山1号墳に次ぎ、若狭町十善の森古墳とほぼ同時期の古式の横穴式石室で、九州との関係が深い。また朝鮮半島に系譜をもつ角杯形土器や半島産の可能性が高い赤色顔料など、朝鮮半島にかかわり深い被葬者の性格がうかがわれる。という。
被葬者は、耳別の一族のものと見られる。「古事記」の開化天皇の段では、その子日子坐王の子室毘古王は若狭耳別の祖とある。室毘古王の墓とするには石室の時代(継体時代)と合わないが、皇統譜の伝承に記載される人物を祖とすることからも有力な地方豪族であったと考えられる。また当墳築造に際して南にある興道寺窯が開かれたことは確実であり、出土の角坏二点も同窯跡で焼かれている。
角杯は元々は騎馬民族のものであろうが、あちらとのつながり深い先進の技術を持った一族であったのであろうか。


長塚古墳
獅子塚古墳の周辺には7つの古墳があったというが、今は獅子塚しか残っていない。獅子塚の西方約50メートル(原子力事業本部の玄関先あたりか)に長塚古墳(円墳)があったそうである。横穴式石室で床にはベンガラの付着した玉砂利が敷かれていた。出土品は高坏・ハソウ・提瓶などの須恵器、滑石製紡錘車などがあり、6世紀中頃の築造と考えられているという。
『美浜町誌Ⅵ』
長塚古墳
 獅子塚古墳から(約五十メートル)西側の田の中(現関西電力敷地内)に、かつて横穴式石室を主体部にもつ円墳の長塚古墳が所在していた。『福井県史蹟勝地調査報告』第一冊(大正九年〔一九二○〕)に、①本墳が明治三十年(一八九七)に発掘されたこと、②封土がすでに破壊されていて、雑草が繁茂して小形の塚形を呈していたこと、③出土遺物に、「土器及び赤瑪瑙の勾玉一個を得たり」という手短かな記述がある。
 昭和四十年代(一九六五~)前半(昭和四二年か)の、現国道二七号新設工事で壊された際に森川昌和氏によって遺物が表採されており、須恵器(1~8)・滑石製紡錘車(9)がある。須恵器の年代は、六世紀中葉~七世紀前葉(TK10~TK209型式)を示しているが、時期差がやや大きい印象をもつ。


洪水山西側に平安時代の経塚と思われる首塚・胴塚がある。


伊牟移神社(式内社)

今の美浜町役場の近くに鎮守の杜がある、その中に鎮座。
『美浜町誌』
伊牟移神社
鎮座地…郷市二五-一六。現祭神…国常立命・誉田別命・天児屋根命・大日?貫命・伊弉諾尊・伊奘冊尊・建御名方命・市姫大神。例祭日…二月二十日(戦前は十二月一日)。旧社格…村社。氏子数…九十戸(平成五年)朱鳥五年(六九一)伊勢神宮外宮を勧請したという。伴信友の『神社私考』には、
  此神社、国帳に見え給はず。そのかみ既に社号の異りたるか、又廃
  れたるなべし。伊牟移の移は世とよむべし。
とみえる。この神社は、式内比定社ではあるが、『神社私考』が述べるように、すでに国帳(『若狭岡神名帳』)には見えないことから、平安中期以降、廃絶した可能性がある。『延喜式』式田本・近衛家本・一條家本・吉田家本・内閣文庫本はいづれも「イムイ」と訓じるが、九条家本は「イモイ」とする。青木紀元は「イムイ」が本来の名称で「イモイ」は訛音であろうとしているがなお語義は不詳である。もし「イムヤ」と神号を訓じるとすれば「忌屋」「忌宮」の意かとも考えられる。「神社私考」で伴信友は、「神号の伊牟移は其あたりの名にて、其処に伊牟移寺(いむやでら)と云ふ寺のありて、後にいたく衰へて在けむが、廃たる跡処にもあらむ。さるは土人の俚言に、寺の小さきを庵と云へる例なれば、然裏へたらむには、伊牟移寺庵と複て云へるを訛りては伊美移寺庵と云ふべきなり。今其佐古村に天神社・山王社あり。共に三月二日祭礼。もしくは此二社の中伊牟移神社ならむか。なほよく尋ね考べし。」として佐古(現若狭町)に求めている。しかし、別の案として「郷市の伊屋山に鎮座した射矢神社(伊屋宮明神・伊矢宮・伊屋宮)が、伊牟移の訛れるものと考えた。『大日本史』『特選神名牒』『神祇志杵』はこの伊屋山鎮座の説をとっている。この射矢神社は、明治四一年に郷市の金銀子(きぎす)神社に合祀された。金銀子神社は、朱鳥五年(六九〇)に伊勢外宮を勧請したと伝える郷市の産土神である。しかし、明治期の一連の式内社復興の流れをうけ縁起は金銀子神社のままで、社号のみ式内社の名「伊牟移神社」と名乗ったとみられる。このため産土神である金銀子神社の名は裏に隠れることになった。伊屋山は、もとは神奈備であった神体山的存在であったのであろう。今日郷市では俗にゼンダイ山と袮している。現祭神も、合祀された神々が多く、式内社時代の神名や金銀子神社の原祭神は不詳とするしかない。社伝によると、郷市は、郷民が集って市を立てて諸物を売買したことにおこる区名であるという。またもとの射矢神社の由緒は享徳三年(一四五四)一本の矢が天より降り来たことにより射矢大明神と祟めたという。


『三方郡誌』
神社私考伊牟移神社に曰く、此神社、國帳に見え給はす、そのかみ既に社號の異りたるか、又廢れたるなるべし。伊牟移の移は也とよむべし。當社の所在、数年尋ぬれども詳ならす。強に探索るに、三方郷佐古村の畠地の字に、いみやじあんと云處めあり。口々相傳て定まれる字なし。按ふに神號の伊牟移は、其あたりの名にて、其處に伊牟移寺と云ふ寺のありて、後にいたく衰へて在けむか、廢たる跡處にもやあらむ。さろば土人の俚言に、寺の小きを庵と云へる例なれば、然衰へたらむには、伊牟移寺庵と複て云へるを、訛りては伊美移寺庵と云ふべきなり。今、其佐古村に天神社天王社あり。もしくは此二社の中伊牟移神社ならむす。なほよく尋る考べし。

『三方郡誌』
金銀子神社。郷市に鎮座す。相傳ふ、朱鳥五年伊勢外宮を勸請す。往古は倉見より郷市までの産土神なりと。
〔合祀〕市姫神社。もと同區に鎮座したりき。市宮と稱せり。相傳ふ、往古、商賈此處に會して市を立て、諸物を賣買したり。因て郷市と號すと。大市姫を祀れるなるべし。明治四十一年、金銀子神社に合祀す。
〔合祀〕射矢神社。もと郷市伊屋山に鎮座したりき。伊屋宮大明神と稱せり三神相殿に座す。一座は太神宮〔伊勢〕一座は八幡宮一座は諏訪明神なり。此太神宮をは式内伊牟移神なりと傳ふ。大日本史之に從へり。社寺明細帳には亨徳三年、矢一本天降り、それより射矢大明神と崇むとあり、本社の創建亨徳にあらは式内の神と云ふべからす。明治四十一年、金銀子神社に合祀す。


『美浜町誌』
市姫神社
町内には郷市・河原市・南市・今市(佐田の中字)の四つの市場(市庭)にちなむ字があり、このうち郷市と河原市にそれぞれ市姫神社が鎮座する(南市は河原市の南方に所在することにより、明治初年に改称)。郷市・河原市とも弘治二年(一五五六)の明通寺鋳鐘勧進状に所載の市庭として知られる。
 市姫神は各地の市の立つ場所に祀られる市神で、祭神を宗像三女神の一つ、市杵島姫命とし弁財天や橋姫に付会されている。郷市の市姫神社は、もとは宝積寺の門前の一角、伊達清右衛門家の元屋敷にあった。「福井県神社明細帳」の伊牟移神社(郷市)の項には「字馬作無格社市姫神社祭神不詳由緒古郷中ノ人民集合徼ヲナスコトアリ共ノ旧跡へ神社ヲ建テ市姫大明神卜崇メ祭ルヲ本社に合併ス」とあり、明治四
一年(一九〇八)、三善膳太郎家の春日神社とともに伊牟移神社に合祀されたものである。伊達家は仙台の伊達氏の後裔と言い、伊達騒動の際に東北から敗走の折、一年余で若死にした市姫を祀るとされている。三月二日が市姫さんの命日とされ、お神酒やシラムシを供える。旧宅跡の社地は石積みの基檀が残っており、枯死したタモの記の切株や灯篭が往時の神域をしのばせる。なお、以前は当家のダイジョコも祀られていたが、現在は屋内に遷祀した。


今も森になっているが、ここは金銀子神社の森(雉子杜)であった。同社は朱鳥5年伊勢外宮を勧請し、倉見村より郷市までの産土神と伝える。
市姫神社は市宮とも称して、もとは伊達清右衛門家の一角に市姫さんと呼ばれる宮跡があり、ダイジョコ(大将軍)とともに屋敷神として祀られていたが、明治41年に合祀した。同家は伊達家の本家で、かつては庄屋を勤めた。同家の伝承では、先祖は仙台藩伊達家の家臣であったが当地へ落ちのびて定住、その折市姫を連れてきたが、1年余で亡くなったため斎き祀ったのが当社のおこりだという。3月2日に市姫講という同族の講が行われている。射矢神社はもと伊屋山に鎮座、伊屋宮大明神と称した。伊勢大神宮・八幡・諏訪明神の3社を相殿で祀り、このうち大神宮が式内の伊牟移神社とされている。社寺明細帳に、享徳3年矢が1本天下ったので射矢大明神というとある。同社は明治41年に金銀子神社に合祀。例祭は12月1日(現在3月20日)。「旧藩秘録」には「大明神四月朔日、伊屋宮七月二十七日、春日大明神七月二十八日、八幡八月十五日」とある。


曹洞宗春光山宝積寺

開基三善膳太夫と伝えられる。由緒不知である。竜沢寺末
三善膳太夫家は郡内における四太夫の1つで公文と通称される。「三方郡誌」は「二十八所社上棟日記馬の注文に、一疋くもんとのとあるは或はこの家なるか」と記す。当家は屋敷神としてダイジョコ・春日神社の2社を祀っているそうである。

『三方郡誌』
寳積寺。曹洞宗。郷市に在りき。


《交通》
弥美駅家と駅家郷
「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に見える若狭国2駅の1つ。高山寺本「和名抄」にも駅名がある。北陸道の駅家で、駅馬5匹を常備。若狭国府から当駅を経て、越前国松原駅に至る。伴信友の「若狭旧事考」は、当駅を現在の美浜町郷市に比定する。「和名抄」若狭国三方郡5郷の1つに「駅家」郷が見える。
『三方郡誌』
彌美驛家址。郷市なるべし延喜兵部式に曰、若狭國驛馬、彌美・濃飯各五匹と伴信友曰、彌美の驛家の地は、今の山西郷郷市村の邊なりしなるべし、其は驛を置るゝ里数等の令に據りて考たるなりと。

駅家郷は、「和名抄」若狭国三方郡5郷の1つ。高山寺本には見えない。東急本は訓を欠く。「弥美」駅にちなむ郷名か。駅は丹後街道上の郷市に比定され、郷域もこの付近と推定されるている。


《産業》


《姓氏・人物》


郷市の主な歴史記録


『美浜町誌』
獅子塚古墳
獅子塚古墳の調査
郷市区の旧美浜町役場(現関西電力建物)東隣りに所在する。付近にはかつて七基の古墳が所在したといわれるが、現存するのは本墳のみである。現在古墳の周辺は、国道・道路、駐車場、民家によって囲まれており、島状に孤立して立地している。獅子塚古墳墳丘の現状は、かつて墳丘が畑地として利用されていたことから、歩道がつけられて墳丘は変形して原形をとどめていない。西面する前方後円墳で、葺石・埴輪を伴っている。『福井県史蹟勝地調査報告』第一冊(大正九年〔一九二〇〕)によると、明治三十年(一八九七)七月に同地が開墾された際に天井石の下から土器や鉄器類が出土したため、同年十月二七日旧東京帝室博物館員若林勝邦氏が発掘している。この時の出土品は、現在東京国立博物館の所蔵となっており、須恵器として装飾付台付壺、筒形器台、壺、高杯、杯、角杯形土器(以下角杯と表記)二点、ハソウ、鉄斧、鉄鏃、馬具、三環鈴、管玉などが出土している。築造時期は、杯の口径が飛躍的に大型化し、長脚無蓋高杯の出現など六世紀前半(MT15型式=陶邑古窯跡群における須恵器の型式名、以下同じ)の特徴を示す。ただ、杯身の立ちあがりの内面に段をもつものは、確認していない。墳丘規模は、全長約三二・五メートル、後円部径約十七メートル、前方部幅約十五メートル近くに、後円部の高さは約五・〇メートルに復原できるが、すべて盛り土である。現在、墳丘が一見低いように観察されるのは、古墳周囲がその後土盛りされていることに起因する。
 昭和五三年(一九七八)春の調査は、獅子塚付近の国道二七号拡幅工事が計画されたことから、若狭考古学研究会が事前調査として実施したものである。調査は、埋没している石室を中心に進められた。埋葬施設は、後円部の中央に築造された横穴式石室で、ほぼ南に開口すること、羨道部は以前の調査ではまったく手が加えられていないことなどが判明した。調査の途中で古墳の重要性が認識され、設計変更されて石室全体の完全保存が決まったことから、羨道部の閉塞石を外すことをしないで現状のままに保存することになり、調査は玄室部分にとどめることになった。
横穴式石室の概要
床面は、現墳頂下三・〇メートルにあり、墳丘北面のもっとも低いところから一・〇メートル上がったところに床面がくる。玄室の天井石は、盗掘や以前の調査の際にとりあげられており、現状では奥壁と袖石(立柱石)上に架構された見上げ(楣まぐさ)石が原位置を保っているにすぎない。玄室石材の構成をみると、最下段に比較的大きな石材を横積みして腰石としている。その上方も横積みを基調とした構築方法をとっている。基底部から五~六段までをほぼ垂直に積みあげていることから、横方向の目地は比較的明瞭であるが、その上方はかなり急な持ち送りを行っていたことが推測される。玄室奥壁の石材と側壁の石材を交互に積みあげた技法を用いており、奥壁と側壁にかかる力石が認められる。上部の四隅部分については、奥壁・側壁の区別がつかないほどであったことが推測される。
 玄室は不整形な羽子板(只見)状のプランをなしており、規模は全長六・〇メートル、玄室長四・五メートル、奥壁幅二・五メートル、玄門付近での石室幅二・〇メートルあり、奥壁の残存高から推定すると天井高は、二・〇メートル以上あったものと推定できる。玄門部には玄室と羨道を区別する立柱石を左右に設け、その間に仕切り(梱しきみ)石が設置されている。仕切り石は幅十センチメートル内外の厚さがあり、高さは二十センチメートルほどある。したがって、見上げ石と仕切り石にはさまれた空間は、七十センチメートル×六十センチメートルほどしか存在しない。見上げ石上の前壁の有無は不明であるが、玄室床面から見上げ石上までの高さが一・四メートルであるところからすると、天井石が漸次高く造られていた可能性はあるが、玄室高を高くするために存在した可能性は高い。
 羨道部はきわめて短いもので、仕切り石の外側に閉塞板を立て、外部から長径二十センチメートル内外の河原石を積みあげて閉塞していたことが推測できる。このことは、もっとも玄鬥側の閉塞石が垂直に立っていることからも首肯できる。閉塞板は、厚さ十二センチメートル内外である。羨道部の周壁構成は玄室に比べて粗雑であるうえ、床面は栗石などの敷石も存在しない。羨道は、天井石が架構されない「八」字状に開く前庭部とよぶべきものである。本墳の横穴式石室の特徴は、次のようになる。
①左右側壁の持ち送りが顕著であり、比較的小さな自然石を用いて構築する。
②石材の大きさが一定せず形が不揃いなために、石と石の間隙に小石を挿入させる。
③玄門部に立柱石・見上げ石・仕切り石を設置する。
④羨道部が発達せず、墳丘内に内包する。
⑤玄室内床面全面に、赤色顔料を塗布する(ベンガラは、純度七九・三%の良質であり、日本列島産ではなくて朝鮮半島産である可能性が指摘されている)。
 以上のように、獅子塚古墳がもつ横穴式石室の形態の特徴は、この種の石室がいまだ列島規模で普及していない段階の、北部九州に系譜をもつ初期横穴式石室の特徴と一致する。
出土遺物
今次調査でも、鉄剣や玉類が床面の直上から出土している。剣は、玄門の仕切り石から奥壁ヘ三・〇メートル、左側壁際から切つ先を真西からやや南に向けて出土し、玉も同じく北へ三・五メートル、左側壁際から〇・五メートルの所で密集して出土している。赤瑪瑙勾玉一点(1)・水晶勾土二点(2・3)、水晶管玉七点(4~10)、ガラス小玉二五点(11~35)の出土があり、ガラス小玉は赤瑪瑙勾玉の周辺から出土し、勾玉の下からも三点出土している。そのほか、発掘後玄室内の埋土を篩いにかける作業を続けたところ、コンテナ半箱ほどの量の須恵器の破片と、鉄地金銅張馬具(剣菱形杏葉・鏡板)、金鉗・曲刃鎌・刀子・鉄鏃などの破片を採集することができた。いずれの出土品も、東京国立博物館所蔵品と一体になるものと推測されるが、須恵器片のなかには、異形土器の脚(24)が含まれている。
 再発掘調査にも関わらず、鹿角製装具を装備した剣が完形品で出土したが、後期におけるこの種の鉄剣が出土することは稀である。剣は、六世紀半ばで主要な武器から消えてしまうが、このことは、『記紀』における剣と刀の記述頻度が、古墳からの出土品が剣から刀へと交代する傾向と一致する。剣は、中期以来の遺制として、政権中枢部から配布されることが続いていたのであろう。鉄地金銅張の馬具が出土していることについても特筆される。若狭において六世紀前半期になって出現する前方後円墳のなかで、金銅製品が出土する古墳は広域首長墳をおいてほかになく、豊富な須恵器(装飾付台付壺・角杯)類の出土と合わせて、獅子塚古墳被葬者の位置づけが一層明らかである。ほかに、金坩のハサミ部分が出土しているが、古墳からの鍛冶関連遺物の出土は、若狭で初例である。
 興道寺窯で焼成され、獅子塚古墳の被葬者によって陽徳寺古墳群第一号墳(岐阜県関市)へもたらされたと推測される角杯について其体的に述べておこう。角杯は、大形と小形の二種類が副葬されていた。角杯が比較的偏在して出土するところから、その歴史的背景を考慮する必要がある。興道寺窯で焼成された角杯の供給された範囲についても、それが特異な遺物であるだけにアトランダム(無作為)になされたとは考えられない。需給関係の一端を明らかにすることは、その歴史的背景を想定することが可能となる。
 現在では、角杯は列島内で二十数遺跡から出土している(調査当時は、三遺跡)。出土個数は、獅子塚古墳、興道寺窯などの窯跡を除いては、古墳はもちろん、溝や遺物包含層内においてすら一個しか出土しておらず、希少価値の高い器物であったことが知られる。
 さて、興道寺窯では開窯時以外角杯を焼成した痕跡を残していないが、他地域出土の角杯のうち若狭からもたらされたものが存在するかどうかという流通の問題がある。角杯を実査した限りにおいては、陽徳寺古墳群第一号墳出土の角杯については、興道寺窯産である可能性が高い。角杯は、口径八・七センチメートル、器高十八・二センチメートルで、口縁部はほぼ正円である。焼成は堅緻であるが、鉄分の含有量が多いため焼き上がりの色調はやや黒味を帯びており、表面の割れ口をみると濃セピア色である。外面の調整は口縁部を下に向け、角部から口縁部に向かって粗いハケ目調整を行っている。これらの特徴は、興道寺窯出土の角杯のなかに著しく共通点を見出せる資抖が存在する。また、獅子塚古墳出土資料の小形タイプに近似している。以上のことから、獅子塚古墳築造時期と陽徳寺古墳詳第一号墳の築造時期は、そう隔たった時期でないことが分かる。
 ところが近年、鏡谷古窯跡群(滋賀県野洲市・竜王町)に近い小槻大社十号墳(栗東市)の周溝から角杯が一個体出土している。鏡谷古窯跡群周辺地域は、興道寺窯と同じく花崗岩地帯であり、原料土に鉄分が多く含まれることから須恵器の色調が黒みを帯びる傾向がある。加えて、粗いハケ目調整の痕跡や焼成具合に近似した印象をもつ。産地が若狭か近江のどちらであろうと、国境を越えて美濃の陽徳寺古墳群まで角杯がもたらされているという事実からは、少なくとも六世紀初頂~前半の段階には、豪族間の往来(=交渉)が比較的頻繁に行われていたであろうことを推測させるものがある。陽徳寺古墳群第一号墳出土の角杯は、朝鮮半島に出自をもつ遺物の性格を考えるうえでいくつかの重要な問題を提起する。
 ①朝鮮半島に出自をもつ製品を列島内で生産していること
 ②朝鮮半島に出自をもつ製品の生産が、畿内に偏在することなく地方にも存在していること
 ③地方で生産された製品が、大和政権を介さないルートで国境を越えて供給されていること
 これらのことが実証されたことから、今後朝鮮半島に出自をもっ遺物をあつかう場合十分参考にすることができるものである。その後、赤根川金ヶ崎窯(兵庫県明石市)において開窯時に角杯が焼成されている事実が明らかになった。これら六世紀前半段階に角杯を焼成した地域は、第五節で述べる播磨→近江→若狭のルート、つまり新羅の王子天日槍の遍歴コースと重なることから、渡来系氏族秦氏との関わりが想定され、これらの地域で共通する新羅系遺物が出土していることにも注目している。
 本墳の被葬者を特定することは難しいが、「古事記」開化天皇条の「日子坐王系譜」につながる室毘古王を被葬者とする伝承があるように、「別氏」につながる人物である可能性は高い。近江の雄族和邇氏・息長氏、美濃の牟義都君氏らとつながり、北部九州、朝鮮半島までを視野に入れて行動しえた人物を想定することができる。これら一連の豪族は、いずれも継体大王擁立勢力として知られており、獅子塚古墳出現の契機を継体大王擁立と絡めて考えることが可能であろう。


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『美浜町誌』(各巻)
その他たくさん



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