丹後の地名 若狭版

若狭

早瀬(はやせ)
福井県三方郡美浜町早瀬


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福井県三方郡美浜町早瀬

福井県三方郡北西郷村早瀬

早瀬の概要




《早瀬の概要》
若狭湾と久々子湖の間、海と湖・山の間に集落がある。
中世の早瀬浦。南北朝期から見える浦名。中世では耳西郷に属した。観応3年(1352)6月21日に佐々田坊五郎右衛門尉が堺土網場を「日向浦早瀬方刀禰」などに去渡した文書が初見。耳西郷は弘安年間に春日社の荘園となり、康安元年(1361)には耳西郷半分地頭職が京都の臨川寺に寄進され、天竜寺の支配も始まった。春日社領の早瀬浦は隣の日向浦とともに興福寺大乗院門跡支配下の浦として浦郷と称され、興福寺伝法院に恩地として与えられていた。永享9年(1437)11月の算用状に、早瀬・日向両浦は年貢米13石5斗を納入し、その他に鮨・大豆・現夫・平夫を負担して、両浦に支給される米のうちには1斗5升の「御神楽船立分」もみられる。春日社の支配は延徳3年(1491)頃まで確認される。臨川寺と天竜寺の支配については、永享8年(1436)6月に早瀬浦国清名内の伊切山小島・同磯海に関して早瀬浦と久々子村が争ったとき、天竜寺は磯海の境も陸について決めるのが大法であるとして早瀬浦に付けたが、臨川寺庄主梵恩監寺は久々子村に理ありとしたため、天竜寺と臨川寺の争いとなり、結局天竜寺は久々子村を支持する臨川寺の主張を退け、係争地は早瀬浦に属すと裁決された。この場所(小島網場)をめぐって当浦と久々子村とは、明応7年(1498)にも争ったが、早瀬浦に属すことが確認されている。室町期には臨川寺の庄主の政所は早瀬と久々子に置かれた、早瀬政所は耳西郷の年貢を収納し、本所方や半済方に本役米を納入するほか、6町8反131歩の早瀬方政所散田を支配していた。文明元年(1469)以後の状況を示す耳西郷惣田数銭帳によれば早瀬浦には宗近名・国弘名・海山佃分・浄土院・宝寿院・大通庵などの耕地8町7反があるが、浦人が反銭を納入する部分は1町9反であった。漁場は、当浦は常神半島の東側にあった赤石山や堺土をめぐって、日向浦と戦国期に繰り返し争った。同じく常神半島の付け根の東側にあった「くるみ浦」をめぐっても日向浦と争いを続け、天正12年8月には本村由信によって早瀬浦の支配とされているが、この争いは近世でも続けられた。早瀬浦には城があり、元亀元年(1570)9月19日にここで合戦があり、朝倉氏方の野村七兵衛尉が分捕の高名をたてている。早瀬城主は美作和多田次郎右衛門と伝えられているが、この人物は天正5年(1577)9月に早瀬の人とともに日向浦の網場に新儀の網を立てた和多田次郎右衛門尉と同一人であろう。浅野長政支配下の文禄2年(1593)4月頃早瀬浦の給主は浅野平右衛門尉であった。その他、文明2年(1470)に常神社に100文を寄付した早瀬の打権守女房が知られる。
天正12年(1584)8月18日付の木村左衛門尉判物(早瀬区有文書)に「くるミ浦海山共ニ早瀬江申付候」と記され、常神半島中央東側のくるミ浦地域の知行を許されていた。

津波で滅びたというクルミ浦は、この湾にあった。

近世の早瀬浦は、江戸期~明治22年の浦名。「三方部誌」によると、文化5年(1808)の高が「正保郷帳」と同じで、属邑笹田の分が含まれていることを明記している。高の増加は田畑の開発が行われたためとみられる。「若狭国志」に「早瀬浦 属邑一」とあるが,これは笹田のことか。文化4年の戸数は203 ・ 人口1,024。「三方郡誌」には当浦の属邑とされる笹田の戸数22・人口97が、当浦とは別に掲げられている。
宝暦6年(1756)6月6日の早瀬・日向両浦庄屋・組頭等熊川宿法ニ付願状写など10通余の記録によると早瀬・日向両浦には海産物を取扱う仲買・競売り・小売人などがいた。彼らは京都や近江・美濃・尾張までも魚類を売りさばく漁師兼業の商人であった。この商人は宝暦6年まで熊川宿で「古来より是迄無滞通来相違無御座候」とあるようにとがめもなく荷物を通過することができたが、同11年11月の早瀬・日向両浦庄屋共熊川宿法出入裁許ニ付窺書写(同文葦に、
  一、京都魚問屋店掛ニ登候荷物之分ハ、継荷物者勿
   論之儀、通シ荷物茂仮令自分荷物ニ候共、熊川宿
   駅問屋継ニ可仕様ニ御裁許之趣、奉承知候、
  一、せり売之儀者、是迄之通、町売・店売共、せり
   商人之分ハ勝手次第ニ可仕趣ニ相心得、御裁許之
   趣、奉承知候
とあり、熊川宿問屋を通さねばならなくなった。競売りや町売は従来どおりに定められたが、翌12年の早瀬・日向両浦庄屋共熊川宿法出入裁許ニ付窺書案によれば競売りの荷も「一向相通シ不申」とあり商人の不利を訴えている。寛政12年(1800)5月の早瀬浦庄屋三宅彦左衛門熊川筋登荷物荷作りニ付口上書控によると当浦では4、50人の漁師が伸買を兼業、年間3千ー5千個の四十物(合物)・生もの・塩ものの荷物を京都・美濃・尾張まで出荷している。文化2年(1805)正月の早瀬浦中買・せり売人共惣代等熊川通行切札ニ付口上写には熊川宿で荷をとかれ中味を検問されるために時間がかかり商売が成立たないと訴え、庄屋手形で通すように願出ている。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治7年当浦から笹田村が分村したといわれるが不詳。同22年西郷村の大字となる。
近代の早瀬は、明治22年~現在の大字名。はじめ西郷村、明治31年北西郷村、昭和29年からは美浜町の大字。明治24年の幅員は東西3町余・南北3町余、戸数245、人口は男595 ・ 女573、学校2、大船1・小船64。


《早瀬の人口・世帯数》 453・193


《早瀬の主な社寺など》

早瀬製塩遺跡
『美浜町誌』
早瀬製塩遺跡(図34)
遺跡は早瀬区の後背地の海抜五・〇メートル~六・五メートルの海岸段丘面、海抜約十三・〇メートルの山裾開墾地に立地している。寛文二年(一六六二)の寛文地震によって、土地が隆起した地形となっている。平成十年(一九九八)に実施された美浜町教育委員会の分布調査によって、製塩土器の散布が発見された。今後、遺物包含地が笹ヤブ化することが危惧されることから、遺跡の状況確認を目的にして調査が実施されたものである。
 一~四トレンチが設定されているが、いずれも小規模で試掘総面積は、二四平方メートルにすぎない。一・二トレンチから、遺構が検出され、製塩土器が出上している(1~5)。一トレンチからは、敷石炉SX1、SX2、SX3合わせて三基が、二トレンチからはSX4が検出されている(SX1・SX2は同一の炉である可能性もある)。調査担当者は、限定された範囲に水平を志向した石敷の造作が認められること、被熱を受けたことによる石材の赤変・剥離が認められること、製塩土器を伴っていることを根拠にして炉址とみなしている。
 SX1は、南北約一・五メートル×東西約一・二メートルの範囲に敷石が認められる。大きな石材を敷き並べ、その上に小粒な石材を密に一~二段に積み重ねた範囲が確認されている。SX3は、炉の形態はSXlと変わらず、SX2の上位層面に位置しているSX4は、敷石の側面が直線状に検出されたことから、方形の平面形態をもつものと推測されている。南東-北西一・七メートル、北東-南西一・三メートルの範囲に、二五~四十センチメートルほどの大ぶりな自然石の安定面を上方に向けて密接させて配置し、石材の隙間に小石を充填している。南西隅には、約五十センチメートルの巨石を配置することで、明確に隅部を造り出している。石材の表面は、被熱による赤変・風化がすすんでいる。SX1・SX4のような構造をもつ石敷は、宮留遺跡(おおい町)の炉址群に共通するところがあるが、SX4については、共伴遺物が出土していないことやほかの要因から、調査担当者は遺構の性格を保留されている。
 製塩土器は大方浜禰ⅡB式の範疇に含まれるが、上層のSX3出土の製塩土器は、やや時期が降るようである。薄手で須恵質を呈する土器の出土は、近辺にさらに遡及する時期の製塩炉の存在を期待させる。
古い要素をもつ製塩土器の胎土分析がなされた結果からは、興道寺窯産須恵器と同属性を示すことがわかっており、製塩の経営母体を示唆するようで、興味深い。



日吉神社

集落の奥のほうに宮前団地がある、その裏側に鎮座。もともとは林神社という古社があった。このハヤシがハヤセとなったという。ハヤシいうのは産鉄冶金の神の感じだが、千把扱きには古くからの金属技術があったのかも知れない。
『美浜町誌』
日吉神社
鎮座地…早瀬十七-十三。現祭神…大山咋大神・応神天皇・大照皇太神・豊受太神・大物主神・素盞鳴尊・市杵島姫命・神田心姫命・林大神・江頭大神・若王子大神・上筒男命・瑞津島姫命・中筒男命・底筒男命
例祭日…五月五日。旧社格は指定村社である。
現祭神の多くは、明治四一年(一九〇八)六月-五日の神社合祀による祭神で、そこには境内社七社と区内の無格社四社その境内社一社の計十二社になる。合祀された住吉三神(上筒男命・中筒男命・底筒男命)は、「祓戸の大神」で、六月十二月の晦日に大祓式が斎行されたようだが、現在は廃止されているという。合祀以前の水無月神社(一名、早瀬浦の川濯(かわそ)大神)の祭神は、記紀に登場する住吉三神ではなく水無月三光神という特異な神名であったとする(『早瀬の里』『若州社寺由緒記』)。おそらく現祭神は新しく、三光神が祭神であろう。三光とは「日・月・星」を指し、陰陽道の影響を想起する。三光を神紋の意匠とするのは清明神社や嶺北の古社(福井の足羽神社、鯖江の舟津神社)などであり、いずれも大祓式を厳修する。この三光神が「祓所の大神」となった由緒は次の伝説によるという。
 天文十三年(一五四四)この浦に和多山江兵衛という者があった。万里の波を乗り越え大船の売買を業としていた。伊勢大神宮と愛宕山ヘー世に三十三度参けいするという願を立てた。その願の成就のとき、愛宕山のふもとの清滝川に大蛇が出現し往来の人をのんで人々を悩ませていた。近所の人々が、たえかねているのを見て江兵衛はそのまま水中にとび入り、大蛇を退治し人々を安々と往来させ愛宕山を繁盛させた。それから早瀬に下向した。江兵衛の娘にちかという十一才の美少女があった。この者に大神宮と愛宕の両神社が乗りうつり「六月みそか名越しのおり、七お渡りの川濯に出たまえ、日月星の三光が輝く。この子どもを神子として名を小川泉と申して敬礼せよ。諸願かけること成就するであろう。」と神託があった。どこの国でも六月みそかに夏越しはらいという祭りをしているが、水無月川濯(みなつきかわそ)と申すのは当浦が第一である。このような因縁で代々江兵衛の子孫が神子をしており、今もご祈とうの札を諸国へ出している。(「越前若狭の伝説」所収『若州社寺由緒記』)
 このように浦浄を尊ぶ三光神の性格と神道古来の「禊・拔」の信仰が結びついたものとみてよいだろう。
さて、日吉神社は社伝によると、「日吉社」「山王宮」(江戸時代の棟札によると「山王大権現」の社号が確認できる。)とも別称されている。また当社は社伝では、天平神護二年(七六六)近江坂本鎮座の日吉大社より勧請したものという。境内社としてその社号をみせる「林神社」と本社祭神の「林神神」はともに区名「早瀬」の地名起源とされている。つまり「林神社」(祭神 林大神)こそ早瀬の古くからの地主神であろう。『早瀬の里』(昭和四七年十二月早瀬郷土史研究会刊)では「若狭國神名帳」と伴信友の『神社私考』、そしておそらくは社伝を引いて「合祀、林神社、もと地神社といふ。祭神詳ならず、或云蛭子神なりと。国帳に正五位林明神とあるを、郡録志に此社ならんかと云へり。神社私考に曰く、按に当国人の家号にはやしと書て、方言ハヤセと唱習たるかあり、しかれば此地名の早瀬も、もとは林にて、神号はその地名にもやあらむと。明治初年林神社と改称す。同四一年、日吉神社に合祀す。」と述べる。つまり「林(はやせ)」の文字を「早瀬」と作ったと伝える。子供歌舞伎が特殊神事として知られ、これは五月八日(現在は五月五日)の例祭日に斎行される。


『三方郡誌』
日吉神社 早瀬に鎮座す。
〔合祀〕林神社。もと地神社といふ、早瀬に鎮座したりき。祭神詳ならず、或云蛭子神なりと。國帳に正五位林明神とあるを、郡縣志及ひ國志に此社ならんかと云へり、神社私考に曰く、按に、當國人の家號に林と書て、方言ハヤセと唱習たるかあり。しかれは此地名の早瀬も、もとは林にて、神號はその地名にもやあらむと。明治初年、林神社と改稱す、同四十一年、日吉神社に合祀す。
市姫神社、宗像神社、林神社、江頭社〔祭神不詳〕、水無月神社〔祭神水無月三光神〕、共に早瀬鎮座。明治四十一年六月十五日、日吉神社〔早瀬〕に合祀す。



水無月神社(御旅所)

早瀬川のほとりに御旅所がある。案内板に
水無月神社(御旅所)
一、祭神 日月星で三光河濯明神
一、由緒 早瀬に古昔よし奉祀されて来たもので江戸時代の初め頃より特に三方、水月、菅、久々子湖等の水が早瀬川から日本海に注ぐようになり近郷住民の罪穢を清き川瀬に持ち出して、祓の式を此の地に於いて行うと云うところから郡内はもとより、遠くから参拝する者が多く早瀬の水月様として婦女子の信仰が厚いので知られている。
一、御例祭(毎年)
   七月二十七日 神輿渡御
   七月二十八日 本祭礼
   七月二十九日 神輿還御
      昭和五十二年七月吉日



曹洞宗放光山瑞林寺

集落のなかほど飯盛山の麓にある。「寺院明細帳」に、南条郡春日野村盛景寺末、永享二年開山光祐和尚創立ス、とある。
『三方郡誌』
瑞林寺。曹洞宗。早瀬に在り。永享二年、僧光祐創建す。或は云ふ、もと粟屋勝久の別業を寺となしたるなりと。越前盛景寺末なり。

『美浜町誌』
早瀬の瑞林寺は盛景寺四世大章光祐を開山とし、その門弟の関翁鉄門(鉄州)を伝法始祖として開創されたが、同寺も粟屋勝久を外護者としていた。早瀬の飯盛山には粟屋勝久塁跡があり(「福井県の中・近世城館跡」)、瑞林寺はもとは粟屋勝久の別業(別邸)であったと伝えられている。戦国期には全国的に曹洞宗が武士にひろく受容されたことはよく知られているが、三方郡においても粟屋氏などの有力武士による外護をうけて曹洞禅が展開したことを確認できる。このように、徳賞寺や瑞林寺は三方郡における曹洞宗の一拠点となっていく。


真宗大谷派歓喜山浄妙寺

瑞林寺の下側に、「神社明細帳」に、真宗大谷派 下京常葉町本願寺末 東本願寺十二世教如法主ノ弟子法春慶長十二丁未年五月創立、ある。
『三方郡誌』
淨妙寺。眞宗大谷派。早瀬に在り。慶長十二年五月、東本願寺十二世教如の弟子法春の創立なり。


粟屋勝久塁址
『三方郡誌』
粟屋勝久壘址。早瀬飯盛山に在り。何の頃築きたるか詳ならす。山下にその別業ありて、今は瑞林寺となれりと傳ふ。

《交通》


《産業》
戦前までは千把扱の産地として全国に知られた。
古くから千歯稲扱機を製造していたが、天保5年(1834)寺川庄兵衛が鍛冶の技術を研究体得して独特の製法で焼刃をつけ、優良品を製造して販路を全国に広めた。明治15年の生産台数は2万5、000挺にも及び(三方郡誌)、女子の多くは販売に従事し、北は青森から南は沖縄まで行商する者は当時80名を数えた。大正期に入ると足踏式回転稲扱機が考案され、千歯稲扱機は製造されなくなった。


美浜町きっての観光地。


《姓氏・人物》


早瀬の主な歴史記録




早瀬の伝説





早瀬の小字一覧


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『美浜町誌』(各巻)
その他たくさん



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