丹後の地名 若狭版

若狭

北田(きただ)
福井県三方郡美浜町北田


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福井県三方郡美浜町北田

福井県三方郡山東村北田

北田の概要




《北田の概要》
敦賀半島西側の基部に位置し、北は菅浜、南は佐田と接し、西は織田湾に面する。集落は旗護山の山麓にあり、中央を奥丈川が西流する。北部の乙見にはかつて集落があったが、海賊によって滅ぼされたという伝承があり、乙見の姓を有する家がその末裔といわれている。国吉城に籠城した地侍のなかに北田村の山東権之助がいる。
近世の北田村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」では、戸数60・人口231。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。昭和22年山東村の大字となる。
近代の北田は、明治22年~現在の大字名。はじめ山東村、昭和29年からは美浜町の大字。明治24年の幅員は東西1町・南北3町、戸数51、人口は男152 ・ 女128、小船2。


《北田の人口・世帯数》 146・42


《北田の主な社寺など》

乙見古墳
北部の乙見にはかつて集落があったが、海賊によって滅ぼされたという伝承があり、乙見の姓を有する家がその末裔といわれている。乙見には町文化財の乙見古墳がある、未調査の様子。
字赤谷に奈良期と見られる赤谷窯跡、北田神社古墳などの遺跡がある。

織田神社(式内社論社)

旧国道27号と丹生の方へ入る県道33号の三叉路から少し北へ入った、北田の入り口に海岸へ突きだした丘陵があるが、その麓に鎮座。県道から参道らしき道があるが、車で入れるものなのか、留めて歩くべきなのか、しかし駐車できるスペースがない。あるいは村側から入れるものなのかわからない。
祭神は国常立命。大物主命・倉稲魂命・大山祇命を合祀する。旧村社。「延喜式」神名帳に記載の「(オリ)田神社」に比定する説がある。同名の神社は隣の佐田にもある。「若狭郡県志」には「織田(おりた)明神、在北田村、為産神、延喜式所謂若狭国三方郡織田ノ神社是也、又若狭国神階記、三方正五位織田明神云云、未知所祭之神也、四月朔日有祭」とある。「若狭国神社私考」は「北田村は今も織田(オリタ)山東郷の部内にして(マサ)しく織田大明神の社ありて、混れなく鎮坐せば」と述べ、当社は式内社であり、享保10年(1725)書写の「若狭国神名帳」の正五位織田明神であるとしている。同書はさらに、「奉勧請当社事」には「織田之明神者、当所開闢之荘主云々」とあるとし、織田庄の開発者を祭祀したとみるべきだという。
「旧藩秘録」に「織田大明神 四月朔日ミキゴクウ御幣湯立」とあり、少女が人身御供の役をつとめる。同社は海岸近くの山麓に祀られており、海から移ってきたとの伝承がある。

『美浜町誌』
織田(おりた)神社
鎮座地…北田二九-四。現祭神…国常立尊・大山祇命・大物主命・稲倉魂命。例祭日…四月六日。旧社格…村社。氏子数…四二戸(平成五年) 古くは「織田明神」と呼ばれた、佐田の織田神社と共に式内比定論社である。
 北田の集落より離れた海辺の丘裾に鎮座する。『若狭郡県志』では当社を式内社とする。「若狭国志」は佐田の社を主として「一説」に当社を挙げて式内社考證をしている。伴信友は『神社私考』において北田の社を式内社として強く比定している。これにより『大日本史』『特選神名牒』『神祇志料』もこれにならった。
 例祭日に斎行される行事に「ヒトミゴクウ」がある。


『三方郡誌』
織田神社。村社。北田に鎮座す。もと織田明神と稱す。式内織田神社を、本社なりと云ひ、或は佐田にあるを然りと云ふ。若狭郡縣志・神社私考・大日本史神祇志等は皆北田にありとなす。國帳に正五位織田明神とあり。祭神は國常立尊なりと云ふ。明治十四年四月二十七日村社に列せらる。境内六百坪あり。山神社を合祀す。
神社私考に曰、織田神社、郡縣志に在北田村、延喜式所謂若狭國三方郡織田神社是也云々。未知所祭之神也。四月朔日有祭と云へり。此北田村は、織田山東郷七村の中にて、今も織田大明神の社ありて、まぎれなし。然るを志〔若狭國志〕には織田神社、在佐田村、社家説曰、景行天皇六年創建、祭國常立尊、延暦十八年、配祀宮代付二十八所神、一説、北田村稱織田明神者、此其神社也未詳孰是といへり、今按に、北田村に在すと云へるぞ正しかるべき、然るは佐田村二十八所明神の縁起、又勧請記を見るに、凡て佛さまの縁起なるが上に、前後あはぬ事どもさへにありて、信がたきものなれば、探るに足らざれど、むげに無き亊を僞作れるにはあらで、その大旨は、もと紀伊國丹生明神を移し祭り、其後宮代村なる二十八所明神といふを祭りたりとは聞ゆ。〔中略〕北田村は今も織田山東郷の部内にして慥しく織田大明神の社ありて、混れなく鎮座せは、郡縣志に記せる如く、北田村に坐すぞ式内の織田神社なるべき。


神社はほかに、饗神神社・愛宕神社・乙見権現・新明宮がある。饗神神社は「雲浜鑑」に「間ノ神宮」とある小祠で、木製の地蔵を神体としており、子供組によって7月23日に地蔵祭りが行われる。アイノカミはアイノコトの神、すなわち田の神で、当地にはその伝承はない。1月14日には子供組の小正月の行事、戸祝いが行われる。


曹洞宗東光山泰蔵院

集落の奥。天正8年(1580)の創建という、東光寺は曹洞宗の寺院で、芳春寺末。東光寺は廃寺となり、その跡地へのち昭和8年福井市から泰蔵院が移転してきたものという。寺伝によれば延徳2年(1490)今立郡南井村に創建され、慶長6年(1601)北庄城下西源寺町に移った。江戸中期の「越藩拾遺録」には当院の末寺が越中に21ヵ寺あると記す。

曹洞宗東禅寺

天正5年(1577)創建と伝える。
『三方郡誌』
東禅寺。東光寺。共に北田に在り。東禪寺は大正五年、東光寺は同八年の創立なり。開山は共に逸株茂にして、同しく芳春寺末なり。

薬師堂
薬師堂本尊の薬師如来座像は伝行基作とされ町文化財。
『三方郡誌』
薬師堂。北田に在り。本尊薬師如来は行基の作なりと傳ふ。永祿年間、朝倉勢の爲に燒かれたる北田寺の薬師堂とは是なるへし再建の年代詳ならす。

薬師堂は、北田寺という曹洞宗の寺院だったよう。「若州管内社寺由緒記」に、九百五十八年以前人王四十四代元正皇帝の御宇養老三巳未年行基の建立という。「国吉籠城記」に「北田村に北田寺の薬師堂、是はいにしへ行基菩薩之御建立所也、二十八社之鐘、其外の堂ともの釣鐘を敵共鉄砲之玉に鋳申候、二十八所社之馬場に在之大なる松木とも皆、焼払申候」とある。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


北田の主な歴史記録




北田の伝説






北田の小字一覧


北田  壱番坂 神田 桃木 藤谷口 小藤谷 赤野 福ケ谷 森ノ下 北山奥 北山口 縄手 細田 坂ノ上 菰池 角脇 壱ノ谷 二ノ谷 赤畑 長谷 赤坂 宝面谷 赤兀 浜ノ上 泓ノ奥 下川 番堂 未呑田 竃ノ上 宮ノ森 経田 重道 今市 中田 下庄 見原口 大常宮 見原奥 坂畑 片山 兵衛田 長坂口 徳蔵 鳥掛 鏡谷 下面谷 小屋谷 赤田 蘆谷奥 蘆谷口 能田 小蘆谷 横枕 大尾 西ノ下 瀬戸川 上ノ庄 前田 坂ノ尻 関山 馬谷 堂ノ前 又田 堂ノ上 雇谷 杦谷 クヌギ原 小谷 向山 高畑 鉄谷 石ケ谷 小谷見 音見 関谷 中丁場

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『美浜町誌』(各巻)
その他たくさん



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