丹後の地名 若狭版

若狭

興道寺(こうどうじ)
福井県三方郡美浜町興道寺


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福井県三方郡美浜町興道寺

福井県三方郡耳村興道寺

興道寺の概要




《興道寺の概要》
町の中央部、町役場のある郷市の一つ川上側の地。「こうどち」「こんどち」ともいい、雲谷山北方の尾根の尽きるところから耳川左岸に位置する。「三方郡誌」に「興道寺には小名に上所・西所あり」と書かれ、2つの小字に分かれている。
「若狭郡県志」に「元属耳庄、今世為山西郷之内、去小浜八里余也、有小村、号西興道寺、相伝古有寺、名興道寺、廃絶有年、今為村名矣」とある。興道寺という寺院があったから、興道寺という村名となったという。
中世の興道寺は、鎌倉期から見える地名。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案の山門(延暦寺)沙汰の所領のうちに興道寺12町が見えるのが初見で、元亨年間(1321~24)ごろの朱注に「天台四王院領」とある(京府東寺百合文書ユ)。四王院は天台山門三千院梶井門跡の支配する寺院で、正中2年(1325)11月25日に承鎮法親王が尊雲(護良親王)に与えた付属状にも四王院領として「若狭国興道寺」が挙げられている(三千院文書)。山門末寺の付属寺領が荘園化したものと思われる。応永10年(1403)4月に、臨川寺領耳西郷の用水を興道寺雑掌が違乱したため、守護代が違乱を停正するように下知したことが見え、興道寺には耳川から取水する用水路があったと考えられる。永正14年(1517)12月20日の仏国寺買得所々目録のうちに興道寺某の売却した6反の地は「興道寺堤」にあると注記され、これも用水に関連するものである。山西郷二十八所社棟上のとき(永享11年か)「こうたうし」が馬1匹を寄進しており、信仰圈としては山西郷に属していたが、所領編成としては耳西郷に属していたこともあったらしく、戦国期の耳西郷堂社田地数帳に興道寺堂分3反240歩が見え、同じ頃の耳西郷惣田数銭帳では興道寺下司方の2町5反余は耳西郷分として段銭を負担することになっている(宇波西神社文書)。戦国期には三千院梶井門跡の支配も及び難くなり、天文6年(1537)12月の梶井門跡領目録案では「当時守護押領」と注記されている。宇波西神社の田楽頭文のうち文亀3年(1503)に「守久名分 かうとう寺殿」、永正2年(1505)に「興道寺彦五郎方」が見える。弘治2年(1556)6月の明通寺鐘鋳勧進算用状に「八十三文 興道寺」とある。永禄6年(1563)の朝倉氏若狭攻めのとき佐柿国吉)城に籠城した地侍の中に当村の長野喜太郎の名がある。
近世の興道寺村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」に戸数91 ・ 人口337。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年耳村の大字となる。
近代の興道寺は、明治22年~現在の大字名。はじめ耳村、昭和29年からは美浜町の大字。明治24年の幅員は東西3町・南北5町、戸数95、人口は男261 ・ 女254、学校1。


《興道寺の人口・世帯数》 340・100


《興道寺の主な社寺など》

興道寺古墳群
伊牟移神社の南西側、今は水田だが、ここ南北400メートル×東西350メートルの範囲に古墳が10数基疎密に分布している。圃場整備されてほとんど姿を消しているが、未発見のものもあると思われ、後期の群集墳と見られている。
当古墳群出土品(町歴史文化館)↓


興道寺窯趾
興道寺集落の南端山すそに鎮座の日枝神社社殿のうしろ斜面に須恵器の窯跡がある。軟質の岩盤層を刳り貫いてトンネル状につくられた無段の登り窯。燃焼部の輻1・5m、焼成部の幅2m、高さ現状で2・.5m。6世紀後半に閉窯されるまで長期にわたって須恵器が作製されていたと推定される。窯跡は現在福井県内最古のものとみられている。ここでは須恵器のほか埴輪も焼かれており、特筆すべきは角坏の焼かれていたことであろう。各地で角坏出土はみられるが、窯跡は発見されておらず、朝鮮半島に源流の求められる角坏窯跡としては我国唯一のものであろうという。これらは獅子塚古墳出土と同系類であり、6世紀初頭頃、獅子塚に用いるため開窯されたと考えられ、埴輪もまた当窯のものが使われている。その他遺物は6世紀中葉~後半まで認められ、単一の窯ながら1世紀近く利用された。出土遺物は須恵器の坏・高坏・ハソウ・提瓶・器台・壺・甕など。角坏・筒形器台・子持壺および円筒埴輪・形象埴輪(家形)・土錘も出土。

興道寺廃寺

役場から南ヘ300メートルばかりの畑、一部薮地、道縁に小さな案内板がある。周囲の水田面よりいくらか高い、かなり面積がある、耳川の自然堤防の微高地に建てられていたものと見られる。このあたりは観音畑といわれ、一帯からは多数の布目瓦が出土していた。
「興道寺廃寺」(町教委発行のリーフ)には、
興道寺廃寺に関する調査研究の初見は、昭和8 (1933)年、上田三平氏が『越前及若狭地方の史蹟』後篇、「三 廃寺阯 若狭地方の古瓦及礎石」の項で「三方郡耳川沿岸の興道寺地籍の観音畑と稱する地域には多敷の古瓦を出土し蓮華紋のものも他見されて居る。(中略)紋様は鈍重、著しく地方色を帯びたものである。」と出土瓦を紹介し、簡単な資料報告をおこなっています。これより古い記録として、『耳村誌(稿)』「第三章 大字誌」、興道寺の項に「(前略)。名称の興道寺の事今は全く徴すべきものなし。口碑に云、往古小字観音の地に廣堂観音堂あり、霊験殊に著しくして衆庶の信仰厚く、門前自ら市を成したりしが、平安朝の頃、朝廷の帰依に由りて京都に移されたり。(中略)此地に仏刹の存したるは事実なるべし。今尚圓小字附近の土中より瓦の破片、大なる礎石等を発見する事あり。(後略)」とあります。
1958 (昭和33)年に興道寺小字中ノ丁から軒丸瓦がほぼ完形で出土するなど、継続的な古瓦の出土採集があったようで、昭和39 (1964)年4月発行の『美浜町文化財調査台帳』には、「観音堂址(布目瓦出土地)」の所在地がメモ書きされています。付近の観音という小字名をもとに「観音畑廃寺」と呼ばれ、地元の愛好家、郷土史家の問では早くから古代寺院の存在が知られていました。


平成14年以降16次に及ぶ発掘調査が行われて、遺構が明らかにされてきた。
写真は廃寺跡を西側より見ている。案内板のあるあたりに金堂が、その先に塔、左手に講堂、右手に中門、さらに南門があったという。法隆寺式伽藍配置(金堂と塔の位置が逆の法起寺式だが)、聖徳太子の時代、飛鳥時代の寺院である。
この配置の寺院は60寺ほど知られているという法起寺式伽藍配置集成

案内板には、
興道寺廃寺跡 国史跡
興道寺廃寺跡は耳川下流域、左岸の河岸段丘に建立された古代寺院跡です。平成14年(2002)から始まった発掘調査によって金堂、塔、講堂、中門、南門など主要な建物の基壇(基礎部分)が見つかり、イラスト図にあるように本格的な伽藍を備え、最盛期には南北118m、東西80mにおよぶ寺域を誇っていたことかわかりました。
7世紀の終わり頃に建立され、8世紀後半以後の堂塔の再建(建て替え)を経て、10世紀には廃絶したことも発掘調査によってあきらかにされています。
遺跡からは多量の屋根瓦とともに、塑像螺髪(土製の如来仏の頭髪部分)や「耳」と書かれた墨書土器、和同開珎なとの銅銭が出土しました,当地の豪族、耳別氏によって創建された氏寺と考えられます。興道寺廃寺は北陸でも全体像がわかる数少ない古代寺院跡の一つで、北陸道の玄関口にあたる若狭地方に仏教が普及したことを端的に表す遺跡として注目されます。


歴史文化館に行くと、前掲のこんなリーフがある。

立派な寺院であったようで、遺構は創建時のものと再建時のものの二つが重なっていて、約400年に及ぶ長期間、寺院の造営、維持が図られた。
創建期、再建期ともに、法起寺式伽藍配雌、創建期は中軸線が磁北から2度西に振れ、金堂と塔の基壇の南辺がほぼ揃って配置されている。講堂は金堂・塔基壇の北方約20メートルの地点に位置すると見られる。再建は中心伽藍の中軸線が磁北から7度東に振れるように、寺院の中軸線すら変更するほどの大規模なもので、建物の建て替えにあわせて屋根構造も瓦葺きから檜皮葺き、あるいは板葺きへと変化し、「大平神護の大修理」であったようだという。
寺院は前時代の古墳に代わるシンボル的な造営物で、寺院そのものの様相や古代仏教の普及と定着の様相を知るだけでなく、在地豪族、地域社会が密接に結びついて、当地の古代ワニ氏、日子坐王系統の継体の譜代豪族(耳別氏)の出自や盛衰を端的に物語るようである。
出土遺物

多くの瓦、灯明で用いられた土器、土壁や鉄釘、本尊仏の一部と考えられる塑像螺髪、銅銭など。瓦には3型式の軒瓦、丸瓦、平瓦、熨斗瓦、隅落とし瓦、鴟尾または鬼板瓦と考えられるものなどがあり、軒瓦には、①山田寺式と言われるもので、7世紀終わり頃に滋賀県の湖東地域からもたらされたと考えられる単弁八葉蓮華文軒丸瓦と三重孤文軒平瓦、②在地的な文様をもち、8世紀初め頃に作られたと考えられる素弁十葉蓮華文軒丸瓦と三重孤文軒平瓦、③大和地域に系譜をもつと考えられ、8世紀前半に作られたと考えられる素弁九葉蓮華文軒丸瓦と偏行唐草文軒平瓦がある。
関連遺跡
高善庵(こぜんな)遺跡
昭和12年に小字高善庵から出土したことを墨書する瓦片4点が現存する。日吉神社の少し南の地で、出土瓦は製作技法、胎土が興道寺廃寺出土瓦と酷似する。
興道寺遺跡
寺院北方集落で、8世紀前半を中心とする時期の竪穴建物跡、掘立柱建物跡などが見つかり、須恵器・土師器の食膳具(食器)・煮炊具、製塩土器、鉄釘、鉄製紡錘車などの鉄器、鞴羽口や鉄滓などの鍛冶関連遺物などが出土している。


日枝神社

集落南のはずれ、山裾に鎮座、電柵が張られていて入れそうにない。日枝神社は山王社ともいわれ、「若州管内社寺由緒記」に、「本尊阿弥陀如来 古来より氏神」とある。
『美浜町誌』
日枝神社
鎮座地…興道寺三八。現祭神…大山昨命。旧社格…無格社。例祭日…四月三十日。氏子数…九六戸(平成五年)。由緒は不明であるが、祭神よりみて、日吉神社と同じ性格の神社であろう。日吉「ヒエ」の「吉」の字の訓が「枝」に転じて表記されたものだろう。



浄土真宗本願寺派金光山妙寿寺

集落のなかほど。天正6年(1578)創建といい、一向宗で、当村の法名浄念の建立、「寺院明細帳」には、「真宗本願寺派 下京門前町本願寺末 往古焼失に付不詳と雖も元は天台宗にて天正三年五月本山歴代代准如法王の弟子となり慶長九年まで惣道場と称し来り候処同年三月十一日に妙寿寺の寺号本仏免許有之候」とある。
『三方郡誌』
妙壽寺。真宗本願寺派、興道寺に在り、もとは天台宗なりしと雖も、今由緒詳ならす天正三年當時の住僧某、本願寺准如の弟子となり、慶長九年まては惣道場と稱し來りしか、同年三月十一日妙壽寺の寺號本佛の免許を得たり。

《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


興道寺の主な歴史記録




興道寺の伝説






興道寺の小字一覧


興道寺  早子 下河原 狐塚 観音 上河原 渕ノ上 砂河原 中ノ丁 土井ノ上 内町 久保田 茶ノ本 塚原 竹ノ下 四反田 流田 大石 下沢 西沢 茂白 詰広 金割 郷原 針ノ木 上沢 清水 西側 下屋敷 御前塚 尾畑 中長 東長 下川 石倉 岸ノ上 宮ノ前 高善庵 小山 南海道 中筋 縄手 西溝 西野々 樋ノ口 上松 彼岸田 晩田 細田 中在家 荒田 修理田 晩田久保 谷田 常田 墓ノ谷 西徳 小梅 大梅 西山口 原尻 中原 墓ノ前 小山ノ神 畑ノ尾 畑ノ上 呑ノ口 善棚 尼谷口 西ノ幸 猪ノ谷 丁川 中ノ原 山ノ神 大谷 深谷 堂谷 高達 尼谷 滝谷 狸谷 芦谷 丁川原 猿足谷 長尾 西山 西徳谷 師類谷 向井山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『美浜町誌』(各巻)
その他たくさん



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