久々子(くぐし)
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福井県三方郡美浜町久々子 福井県三方郡南西郷村久々子 |
久々子の概要《久々子の概要》 久々子湖の東岸に位置し、北は若狭湾に面する。伝承では、古くは久々子湖畔の字小崎に村が開け、漸次現在地に移住したという(三方郡誌)。地名は湖の名による、久々子の「クグ」は白鳥の古名クグ・クグイに由来するかともいう。 クークーと鳴くからクグイと呼ばれたのだが、垂仁23年紀に、狭穂姫の物言わぬ遺児誉津別命皇子が、クグイが鳴くのを聞いてはじめて口をきいたという物語がある。誉津別命は火の中で生まれているなど、クグイと金属とは何か関係がありそうに思われし、しかも当地の獅子塚古墳の被葬者といわれる室毘古王と、狭穂媛命は姉弟である。 中世の久々子村。室町期~戦国期に見える村名。若狭国三方郡耳西郷のうち。耳西郷半分地頭職が京都の臨川寺に康安元年に与えられてより臨川寺および天竜寺の支配を受けた。当村と西に接する早瀬浦との間で国清名内伊切山小島・磯海について争い、応永14年(1317)には守護代の下知が下されたが、永享8年(1436)には再び争いとなり臨川寺の庄主(梵恩監寺)は久々子村を支持したが、国清名は一円に天竜寺方の名であるとして、久々子村の主張を退け、使を下して久々子村の鮨網や魚見などを切り捨てている。この永享8年の裁許状に「久々子村」と見えるのが村名の初見。この小島網場について戦国期の明応7年(1498)にも争われたが、このときも久々子は敗れている。また文安3年(1446)正月には渡辺九郎右衛門の網を久々子の小二郎が盗んだため、十郎右衛門・孫大夫が久々子の惣中を代表して詫証文を出している。臨川寺は耳西郷半分地頭職支配のために庄主を派遣していたが、寛正5年(1464)に「久々子庄主慈般」が見え、やがて久々子庄主のもとで支配にあたる久々子定使や久々子政所が早瀬定使や早瀬政所とならんであらわれる。文明元年(1469)以降の状況を示す耳西郷惣田数銭帳によれば、久々子村には彦六跡分・蔵雲庵跡分・惣中・刀禰新開・源八跡分・堂分・江本田分・瑠璃寺分・孫大夫分・四郎大夫分などの田地6町1反120歩があり、農民たちはこのうち5町120歩分の段銭を納入していた。永正11年(1514)に宇波西神社田楽頭役が「くほ久名」を持つ「久々子政所殿」に宛てられて以来、何度か久々子政所がこの頭役を負担している、この久々子政所殿とは文明元年以降名の知られる久々子太忠と関連があろう。大永3年(1523)2月に日向浦が網場訴訟のために銭を集めたとき「久々子方のないわき惣中」が8貫文を貸している。弘治2年(1556)6月の明通寺鐘鋳勧進に「くゝし村」は150文出銭したことも見える。文禄3年(1594)10月9日の佐柿町初覚所収文書によれば、当村に馬借がおり、公儀の運送のために馬21匹を勤めることを誓約している。 近世の久々子村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。村高は,「正保郷帳」では田方427石余・畑方47石余、計475石余、「稚狭考」では600石余、「天保郷帳」では740石余、「旧高旧領」では808石余。「雲浜鑑」では787石余、戸数115 ・ 人数450。著しい村高の増加は、寛文2年(1662)の地震により湖岸が隆起し田地を開拓、さらに寛文5年荒井用水の完成による新田開発などに起因する。 久々子湖産の鰻は京都へ運ばれ賞味されたが、久々子を冬子と誤り冬子鰻と呼ばれた。蜆貝も特産であった。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治22年西郷村の大字となる。 近代の久々子は、明治22年~現在の大字名。はじめ西郷村、明治31年南西郷村、昭和29年からは美浜町の大字。明治24年の幅員は東西12町余・南北5町余、戸数136、人口は男343・女342、学校1、大船3・小船67。 《久々子の人口・世帯数》 815・284 《久々子の主な社寺など》 考古遺跡 字寺山に寺山古墳(円墳)、久々子製塩遺跡、字高畑に経塚の耳塚、字口背湖に弥生末期の集落跡口背湖遺跡があり、昭和53年の発掘調査によって口背湖遺跡からは5軒の住居跡を発見、環濠の溝から高坏・壺・鉢・石製ペンダントが出土した。これらの出土品は畿内・山陰・東海で製作されたものもあり、古代における交易を跡づける資料として貴重である。かつて戦があり多数の死者を埋めたという首塚と呼ばれる塚が田のなかにある。 久々子集落の南、久々子湖を望む口背湖地籍の台地の畑にある弥生時代終末(3世紀後半)の集落跡。昭和53年発掘調査を実施。幅2メートル以上、深さ1・7メートル以上のU字形の溝の一部が検出され、集落をとりまく環濠の可能性がある。溝の中から高坏・壺・鉢などの土器、石製ペンダントが出土。溝の南部から2基の竪穴住居跡、東部から3基の竪穴住居跡が判明した。第1号住居跡は黄色粘土層中に構築され、隅丸方形のプランで南北4・9メートル、東西4・8メートル、四本柱、中央に炉跡があり、南部に貯蔵穴が設けられている。壁面も25センチ内外確認され、当地方で発見された本格的住居跡である。第2号住居跡は一部分は未調査であるが、隅丸方形のプランで一辺が東西6・3メートルの大型のものである。4本柱で中央に炉跡が設置されている。2基の住居跡より出土した遺物は、鉢・甕・壺などの土器類。当遺跡は見晴しの良好な台地に位置することや環濠の存在からきわめて防御的な性格をもつムラであったこと、南東の低地を利用して水田耕作がなされたことが考えられる。また久々子湖に依存した漁労活動も考えられる。出土した土器についても、畿内・東海・山陰のものもあり、各地との交流を裏付ける。 佐支神社(式内社) 案内板に、 式内社 佐支神社 御祭神 素蓋鳴尊 家庭札楽、子孫繁栄の大神で五穀豊穣災難消除、国家鎮護の守護の神として崇敬されてる。 合祀社 宗像神社他七社 例祭日 毎年十二月八日 由緒・沿革 当社は平安時代の初期(約千余年前)の延喜式神名帳に載せられた古社である。天慶年間に今の三方町家傍から久々子の祖先住民の移動と共に、此の字、的場に鎮座し、以来元亀年間の兵火によって焼失、のち再建されたと伝えられている。更に明治四十一年末社八社の合祀を機に社殿の新築造営に着手、大正元年十二月本殿を、翌二年十二月に拝殿が落成した。 よって大正三年十一月村社に列せられ、翌四年一月神饌幣帛料供進神社に指定された由緒ある社である。社名の由来は古の鎮座地の地名による。左支神社々務所 『美浜町誌』 鎮座地…久々子六-四。現祭神…佐支大神・素盞嗚尊。例祭日…十二月八日。旧社格…指定村社。氏子数…二〇〇戸(平成5年(一九九三))。 式内比定社で、『延喜式』諸本はいずれも「サキ」と訓じている。久々子の西端通称アメリカ山という小丘の麓に鎮座する。社号は明治四年(一八七〇)の敦賀県による式内社比定によってその社号の復興によるもので、江戸時代までの伝承鎮座地は不明であった。『神社私考』にも 比神社今詳ならず。国帳にも見え給はず。そのかみ社号の異りたるが、又既く廃給へるにかと述べる。伴信友は式内佐支神社の所在地を若狭町井崎、美浜町佐柿に求め、『特選神名牒』では「久々子村」とする。 「三方郡誌」ではもと「江本大明神」と称したとある。また往古気山地籍の家端(かばた)山麓にあったが、そこより古崎に遷座して再び江本大明神と称していたという。「サキ」は「崎」「岬」であろうから、その鎮座地はこうした地形の場所が適当だとみられている。現祭神のうち「素盞鳴尊」を祀るというのも元来は不詳である。「サキ」という社号から荒ぶる神としての「素盞鳴尊」が奉祀されたのであろうか。また当社は『若狭国神名帳』によると、応永(一二九四~一四二八)元亀(一五七〇~一五七三)年間の兵火により古書古宝共に灰燼に帰したというから、江本神社の創祀は、近世以前にまで逆上れる可能性も否定できない。しかしいずれにせよ当社を式内佐支神社の流れをくむものとして位置づけるのは困難である。 さて、当社にも氏子中による一年交替の祝部制度があり昭和の『福井県神社誌』には次の通りに紹介している。 毎年十二月八日例祭後、祝の交代引継を行ふ。凡て祝は毎朝午前四時起床、直に寒水を浴して身を清め心を鎮めて社頭に参拝、燈明、掃除等所定の勤役行務を終りて自宅に入る。勿論自宅には別に一室を新設し、此に常住して冒りに不浄を入れざるのみならず、他人婦女子も敢て入出せしめず、之を水行事と云ふ。一ヶ月計後には慣れて習となり怠ることなし。古来より未だ之れが為めに一人と雖も風邪に犯されたものなし、偏に信仰と神助の致す所なり。而して前年の祝を本祝と称し二ヶ年の別火となす。萬一新祝に不幸不浄の厄等あらば又其代役を為すが故なり。祝は在役中は決して他家に行きても飲食せず、飲食すべき場合には自ら用意して之に備ふ、是れ堅く火を慎むるに依るものなり。とあり、祝(ほうり)(祝部)が当社の神事の中心的存在であり諸役の重さと信仰の篤きがわかる。 『三方郡誌』 佐支神社。式内。久々子に鎮座す。もと江本大明神と稱す。往古、久々子の邑の家端(カバタ)山麓〔八村気山地籍〕にありしとき、古崎と稱する地に鎮座し、佐支神社と稱したりしを、邑の今の地に移りし時、〔年代詳ならず〕社も今の小島崎に移し江本大明神と稱したりと傳ふ。明治四年、敦賀縣に於て、式内の社と定められ、古名に復せられたり。 神社私考佐支神社條に曰く、此神社、今詳ならず、國帳にも見えはにす。そのかみ社號の異りたるか、又既く廃給へるか。郡中井崎村あり。守護次第には伊崎と書り、この伊崎もし古名佐支とは云はざりしか、又郡中佐柿村あり、この佐柿、もしくは坂城(サカキ)の義にて、舊は佐支とは云はさりしか。古言に坂を佐とのみも云へり。 曹洞宗好潮山久音寺 佐支神社の隣。「若州管内社寺由緒記」に、禅宗 光江山 由緒不知 とある。 曹洞宗医王山瑠璃寺 「若州管内社寺由緒記」に、由緒不知 とある。 『三方郡誌』 瑠璃寺。曹洞宗。久々子に在りき、大永二年の須摩盛長の手記に、その名見えたり當時何宗なりしか詳ならず。 郡誌は廃寺としていて、どこにあるものか、薬師如来座像は町文化財だそう。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 久々子の主な歴史記録『美浜町誌』 寺山古墳群(一号墳) 久々子湖畔北東に位置する飯切山東側の標高約十~十三メートルの山裾に立地する。佐支神社から、南方向に三基の古墳があるが、一号墳は、北側の墳丘裾付近まで大規模な土取りがすすみ、墳丘土の流失、横穴式石室の露出をまねいていた。 一号墳は、推定復原十・〇メートルの円墳で、ほぼ南方向に主軸をもつ横穴式石室を内部主体とし、南開口である。石室構造については、奥壁で一石が残るのみであり、鏡石を縦位に据えている。奥壁から開口部石積み内側まで約五・〇メートル、石室幅奥壁付近〇・七五メートル、最大高一・七七メートルある。使用石材は、すべてチャートである。石室幅の減少、奥壁基底部の一石による構成、石材の大型化、側壁持ち送りの希薄さなどを考慮して、七世紀前半に比定されている。 久々子の伝説『越前若狭の伝説』かれこ (久々子) もとの西郷村に「かれこ」という地名がある。むかし大津波のときに、かれいが木の枝にささって干せていたので「かれこ」というのである。しかし今それは松原か金山か所在が不明である。 (永江秀雄) 首塚 (久々子) 田の中にある。むかしここで戦いがあり、多数の人か死んだので、死休を埋め、塚を築いた。 (若越宝鑑) 久々子の小字一覧久々子 弁天 実山 奥浜田 口浜田 堀川 的場 後山 小島 宮下 舟着 下中瀬 川嵜 上中瀬 茶釜谷 池ノ尻 村下 弁天道 西浜 東浜 札場 江川 北腰巻 西堂林 南腰巻 口新田 東島 奧島 奥新田 野寺下 古屋敷 奧脊湖 口脊湖 小野 脊湖谷 清水上 大門 迎野 辻堂 飯山 深田 中島 上野 中野 東堂林 出這入 井根本 高畑 橋本 浜 口浜界 中浜界 下松添 野添 大凉寺 中溝 晩田 小深田 中松添 奥浜界 松原境 上松添 竹腰 風呂前 乙丸 小深田 登道 下竹腰 上竹腰 西山崎 中山崎 東山崎 原山 家傍山 浦見山 日向山 飯切山 実山 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『三方郡誌』 『美浜町誌』(各巻) その他たくさん |
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