丹後の地名 若狭版

若狭

松原(まつばら)
福井県三方郡美浜町松原


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福井県三方郡美浜町松原

福井県三方郡南西郷村松原

松原の概要




《松原の概要》
もとは郷市の出村といわれ、郷市にまたがってJR美浜駅がある。そこからだいたい北側(海側)で、耳川河口の小砂丘地に位置し、若狭湾に面する。地名は海岸線に沿って植えられた防風林に由来する。「三方郡誌」は「松原も亦郷市の内なりしか、何時代よりか一村として数へたり」としている。

JR美浜駅↑             右の高い建物は関電原子力事業本部↑

中世の松原村は、戦国期に見える村。若狭国三方郡耳西郷のうち。大永2年(1522)3月に長泉庵領1反が「松原上」にあると見え、大永5年5月の気山猿楽頭譲状に「若州松原」に1貫500文地があると見える。
大永5年(1525)の猿楽楽頭気山大夫が77歳の時の譲状(「三方郡誌」所収)に「かくとうゆつる事」として「若州松原、一貫五百文也、此内三百文かくとうの内とく也、又のこり一貫に二百文内百二十文座中より外候、(下略)」とあり、当村に猿楽気山座の楽頭田があった。弘治2年(1556)6月の明通寺鐘鋳勧進算用状に「百卅文 松はら村」とある。「佐柿町初覚」所収の文禄3年(1594)10月9日付文書に馬借に関して「二十一疋久々子村、十二疋松原、合三十三疋、両村に御座候間、何時成共、公方之御用次第に、一疋も不残罷出、御役儀可仕候」とある。当村や久々子村には天正頃(1573ー92)から佐柿伝馬に供するために馬借がいた。
文明元年(1469)以降の状況を示す耳西郷惣田数銭帳によれば、松原村には中西小三郎跡分・南方跡分・妙浄庵・西野寺分などの田地19町2反があり、このうち農民は12町3反の段銭を負担していた。また同じ頃の耳西郷堂社田数地数之事には松原堂分6反、同宮分2町が記されている。元亀元年(1570)4月織田信長の越前出兵の折の徳川家康が宿陣したとされる陣址がある。「東遷基業」に「縫路を取て帰陣すべしと、所の案内者を先に立て、木野を通り、松原と云処に宿陣ありける」とある。
近世の松原村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」では村高421石余、戸数51 ・ 人口228。宇波西神社の例祭には3年目毎に獅子舞を奉納する宇波西講という神事組がある。獅子舞の舞手はショウギトウと呼ばれ、頭舞・後舞・頭太鼓・後太鼓の4人がつとめる。祭礼後、社務所で烏帽子着の式が行われ、舞当の年から3年の間に生まれた生後50日以上の男子・養子を迎えた家が出席する。この3か年間に15歳以上になった男子は太夫成人として神事講の席で披露されることになっている。当村と久々子村との間の海岸は両村立合(入会)とされていたことが、享保21年(1736)の久々子村惣百姓海境出入ニ付返答書に記されており、漁場をめぐって久々子村との間で争論があった。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年西郷村の大字となる。
近代の松原は、明治22年~現在の大字名。はじめ西郷村、明治31年南西郷村、昭和29年からは美浜町の大字。明治24年の幅員は東西6町余・南北4町余、戸数55、人口は男147 ・ 女158、小船9。


《松原の人口・世帯数》 322・98


《松原の主な社寺など》


松原製塩遺跡
美浜町ゆうあい広場に屋根の付いたゲートボール場がある、その裏側(海側)にある。この場所は古い自然の浜堤上(或いは砂嘴上)と思われるが、寛文2年(1662)の地震で3メートルばかり隆起して、海岸からは今は200メートルばかり内陸になった。写真では先に見える松原が今の浜堤である、新旧二つの浜堤の間は水田になっているが、そこは古くは潮汲みをした海であったのであろう。


浜堤でなく、たぶん砂嘴であったと思われる。西の飯切山の麓から西ヘ伸びていて、それは写真の民家の先で途切れている、だいたい砂嘴の先端付近で塩を作ったものだろうか。

松原遺跡の製塩炉
古代の日本では、塩は濃縮した海水を土器で煮つめてつくりました。若狭地方は、都に供給するための塩を盛んに生産した地域で、松原遺跡も7世紀前半の塩づくりの遺跡です。ここに復元した敷石炉は、平成6年度の調査結果から推定したもので、この上に土器を並べ、濃縮した海水を煮たものと思われます。
平成9年 美浜町教育委員会

写真も貼ってあるが、剥がれて見えない。
字塩風除に所在する奈良期の土器製塩遺跡で、現海岸部砂丘の背後に水田があり、それよりさらに内陸に形成される砂上に立地し、現海岸線より約200mの奥地に位置する。若狭湾沿岸の製塩遺跡中特異な場所にある。昭和53年の試掘調査によって製塩土器と土師器は検出されたが、土器製塩に伴う敷石炉は未確認。遺跡の範囲は南北約80メートル、東西約100メートル、出土した製塩土器は8世紀代に標式の求められる船岡式のみであり、また土師器もその年次に対応され、奈良期の単純遺跡と考えられている。層位の看察から攪乱はうけておらず、保存度の良好な製塩遺跡として注目される。という。


日吉神社

日吉神社は正平17年の創建と伝える。仁寿2年創立の春日神社は、のち明治41年日吉神社に合祀。「旧藩秘録」には「春日大明神 三月十六日コクウ、山王 四月初申ミキコクウ湯立翁面」とある。
『美浜町誌』
日吉神社
鎮座地…松原一六-一九。現祭神…大己貴命・天津児屋根命・蛭子命・水大神・斎月大神・誉田別尊。例祭日…四月二二日。旧格社…無格社。氏子数…五十戸(平成五年)
社伝によると創祀は貞治元年(一三六二)九月二五日とする。境内社であった蛭子社・水神社・斎月社と、正保元年(一六四四)創祀の八幡社、仁寿二年(八五二)創祀の春日神社を明治四一年(一九〇八)に合祀したという。このため、日吉神社の主祭神は大己貴命一神ということになるが、この神もいつごろよりの祭神かは不明である。「若州管内社寺由緒記」によると当社の本地仏は地蔵菩薩祝部制度を厳守しており、この神社も地区が奉祀する鎮守神・産土神としての性格が強い。


『三方郡誌』
日吉神社。松原に鎮座す。正平十七年九月二十五日の創建なり


曹洞宗潮音山松原院
『若州管内社寺由緒記』に、禅宗 由緒不知 とある。竜沢寺末。


徳川家康陣屋跡


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


松原の主な歴史記録


『美浜町誌Ⅵ』
松原製塩遺跡…

松原の伝説






松原の小字一覧


松原  東河原 小谷口 西河原 東荒浜 東新出来 西新出来 塩風除 東今川 西今川 東浜 西浜 西荒浜 西宅地 下竹腰 甲斐途 東宅地 西浜田 浜田 大浜田 大縄手 上青原 東青原 西青原 村ノ上 東勝取 森田 町田 久保田 野太 舟原 五木田 山下 高畑 成繁 溝添 金丸 山越 茶木端 久保畑 小久保 東原口 境谷 鳥越 長谷 中原 長谷口 東地懷 奥地懷 坂ノ尻 酸将木谷 西坂尻 坂尻口 地懷口 西地懷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『美浜町誌』(各巻)
その他たくさん



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