丹後の地名 若狭版

若狭

三方郡(みかたぐん)
若狭国三方郡


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福井県三方郡美浜町・福井県三方上中郡若狭町の旧三方町


福井県三方郡美浜町、福井県三方郡三方町

三方郡の概要




《三方郡の概要》
福井県若狭地方の最東部、敦賀市の西にある郡。現在は福井県三方郡美浜町と福井県三方上中郡若狭町の旧・福井県三方郡三方町の部分である。南は滋賀県高島郡と接し、北は若狭湾に臨む。北部には三方五湖があって、五湖を含む海岸線は若狭湾国定公園の一部となっている。郡内東部の美浜町を耳川が北流、若狭湾に注ぎ、三十三間山(842・3メートル)を水源とする(はす)川が三方町を流れて三方湖へ注ぐ。平野部は耳川下流と三方五湖周辺に開ける、ほかは野坂山地・丹波山地が海に迫り狭隘な地形。
郡名は藤原宮出土木簡に「三方評」がみえ、平城宮出土木簡では「三方郡」となる。訓は「美加太」(「和名抄」東急本)。
三方は三潟(三方・水月・久々子の三湖をさす)の意とも、御潟(日向湖を加えた四湖の総称)の意ともいうが、あるいは御県か、耳潟かも知れない。
戦国時代には方位にちなんで北方(きたがた)郡の称もあった。
当郡内の郷は、「和名抄」東急本は能登・弥美(高山与本では方+尓美)・三方の三郷を記し、東急本は余戸・驛家の二郷を加える。能登・三方は旧三方町に、弥美は現美浜町に比定される。他の二郷の所在は不詳。「延喜式」神名帳には、三方郡十九座として須加麻・御方・伊牟移・多由比・丹生・織田・和尓部・佐支・宇波西・高那弥・仁布・須部・木野・弥美・於世・常・能登・闇見・山都田の各神社を記す。11世紀後半までには弥美郷の東端に延暦寺領織田荘が成立する。これと前後して弥美郷も御岳山を境として山東郷と山西郷に分けられた。

沿革
原始・古代
縄文遺跡は鳥浜貝塚である。三方湖の南畔に位置する縄文草創期・早期・前期に属する低湿地性貝塚で、「縄文人のタイムカプセル」とよばれるほど諸種の遺物が発見されている。関連して発見された水月湖湖底の7万年分の年縞が有名。
美浜町では縄文中期から奈良時代にわたる竜沢寺遺跡があり、久々子に弥生末期の集落跡、日背湖遺跡が発見されている。南伊夜山銅鐸(43㎝、扁平鈕六区袈裟襷紋が発見されている。)
古墳は、4世紀前半(古墳時代前期後半)の若狭唯一の前方後方墳、松尾谷古墳(三方町藤井。全長35m)。前方後円墳は美浜町郷市の獅子塚古墳(6世紀初頭・古墳後期初頭)1基のみである。当墳の被葬者は古代耳川流域一帯を支配した耳別一族とされる。耳別は「古事記」開化天皇の段に、その子日子坐王の子室毘古王は若狭耳別の祖とあり、皇統譜の伝承に記載される人物を祖とすることからも有力な地方豪族であったと考えられる。九州的な石室をもつ、ちょうど継体天皇の時代の古墳で、彼の有力な親族氏族であったものか。
同古墳付近は弥美郷の地とされ、弥美駅家(「延喜式」兵部省)の比定地でもある。また周辺一帯には式内社に比定される神社も多く所在する。同古墳築造に際して興道寺窯が開かれたことが確実視されている。同窯跡は現在確認されているものでは県内最古である。興道寺には若狭地方最古の寺院(法起寺式)跡である興道寺廃寺跡(奈良時代前期)がある。
木簡からは郡内には土師・海部・和爾部・秦・三家人・物部・別君・竹田部・栗田公を称する人々があり、浪人の黄文五百相の名も見える。このうち別君は「古事記」開化天皇段に室毘古王を祖とすると記されている「若狭之耳別」と関連があり、秦氏も時代は下るが貞観10年に節婦として賞されている「三方郡人秦勝綱刀自」と関係があるか。三方の海が風光明媚であったことは「万葉集」巻7に「若狭なる三方の海の浜清みい往き還らひ見れど飽かぬかも」という歌のあることから知られる。
またこれらより先、「日本書紀」垂仁天皇三年条によると、朝鮮より渡来した新羅の王子天日槍が近江国より若狭を経て但馬国に至る時、菅浜(現美浜町)に逗留した。その縁で子孫の菅竈由良度美が菅浜辺りに住み、その名が地名となったと伝え、現在菅竈由良度美を祀る式内社須可麻神社がある。延喜19年(919)11月18日若狭守藤原尹衡が丹生浦(現美浜町)の海上に渤海客が来着したことを奏上している。
若狭の海岸部では古くから製塩が行われ、58遺跡が知られる、当郡では現在8世紀のものを主として15ヵ所の製塩遺跡が確認されている。藤原宮・平城宮出土木簡によれば能登・弥美・竹田・余戸の四郷(里)から貢進していた。なお、このうち能登・弥美は直接製塩にかかわりのない地域である。
耳別は耳川周辺のみならず鰣川流域まで支配したと考えられ、室毘古王の母大闇見戸売を祀る闇見神社が三方町成願寺にある。
「続日本紀」天平勝宝元年(749)4月14日条に「三形王」がみえ、天平宝字5年(761)10月11日条に「内舎人正八位上御方広名等三人賜二姓三方宿禰一」とあり、これらは当郡にかかわる人物であろうという。

中世
嘉応2年(1170)12月28日付後白河院院庁御賀尾浦四至差定状(大音家文書)は御賀尾浦(三方町神子)の四至を定めたものだが、署名人に「郡司平」とある。鎌倉幕府の勢力が若狭に及ぶのは木曾義仲滅亡後で、若狭忠季が最初の若狭守護であった。忠季は遠敷郡とともに当郡の惣地頭にも補されている。
建久7年(1196)6月日付の若狭国御家人注進案は、若狭の鎌倉幕府御家人33名を記すが、三方郡には倉見範清・山西頼宗・山西雅宗・小蔵滋・山東家経・岩屋信家・永富頼広の7人がいた。いずれも当郡の地名を負う。彼らの多くは承久の乱後は守護・地頭などの押領により没落した。
文永2年(1265)の若狭国惣田数帳写によれば当郡内には荘園に織田(おりた)庄(美浜町)、前河庄・倉見庄・向笠庄(三方町)、便補保に永富保(不詳)、藤井保・田井保(三方町)、山東郷・山西郷・菅浜浦(美浜町)、応輸田(旧領)に三方郷・三方新御供田・賀尾浦(御賀尾浦、三方町)、能登浦(三方町世久見)、三方浦(三方町三方)、耳西郷(美浜町・三方町)、日向浦・丹生浦(美浜町)などがあった。そのうち織田庄・山東郷・山西郷などは鎌倉末期には天台常寿院(跡地は現京都市左京区)の所領となっており、山門(延暦寺)勢力が深く浸透したことを示す。耳西郷は現三方町気山の宇波西神社を惣鎮守としたが、祭礼に氏子の村々から巫女舞・王の舞・獅子舞・田楽という中世前期の特色ある芸能が奉納されることで知られる。
 御賀尾浦は平安末期より鎌倉初期にかけて近江伊香大社(滋賀県伊香郡木之本町の伊香具神社)の神主の出という伊香氏が移住して開発したのに始まるといい、常神半島西浦(三方町)の諸浦や美浜町海岸部の浦々の中でも漁業の先進地として知られる。同地の大音家には250点に及ぶ中世文書が伝わるが、元亨3年(1323)の文書で「たてあみ」、天文5年(1536)の文書で「大網」の存在が知られ、同10年には大網惣中の契状を取決めている。御賀尾浦の北に位置する常神浦も古くからの漁業集落であり、同地にある常神社は海人族によって創祀されたと伝える。同2年の常神社蔵棟札銘に「于時大網之徳分年々用意上フキシ仕候」とみえ、大網の得分すなわち収益から上葺経費を出したことが知られる。これは若狭において大網の存在が知られる最古の資料である。これら大網は近世の浦惣有の大網(大敷網)の先駆といえよう。
 永享12年(1440)一色氏に代わって武田氏が守護となり、諸将が各地に配置されたが、郡内では粟屋越中守が佐柿国吉(美浜町)に城を構えたのをはじめ、能登野(三方町)に畑田加賀守、井崎(同)に熊谷大膳、藤井(同)に山県下野、岩屋(同)に長井右近、相田(同)に山中左衛門太夫、気山に熊川伝左衛門が置かれた。粟屋氏は武田氏の有力被官であったがしだいに離反、度々守護方に反乱を起こした。永禄6年(1563)と同11年の越前朝倉氏の若狭攻めには、三方郡の地侍は国吉城と井崎大倉見城に籠城、両度とも朝倉勢は攻略することができなかった。

近世
守護武田氏の滅亡後、三方郡の拠点である国吉城には、織田信長に所領安堵された粟屋勝久が天正10年(1582)まで居城するが、その後木村重茲・堀尾吉晴と交代したのち、同15年に浅野長政の領地の一部となり、家臣浅野平右衛門が在城した。文禄2年(1593)9月豊臣秀吉は功賞として木村定光に三方郡を与えた。「若狭守護代記」に「佐柿ノ城ニ耳ノ庄山東西郷ヲ添テ木村常陸介ニ賜フ」とある。同年木下勝俊が小浜に入部、家臣の松原三左衛門が佐柿にいた。慶長5年(1600)関ケ原の合戦後、木下勝俊は所領を奪われ、京極高次が若狭の領主となり佐柿には家臣の多賀越中守を置いた。京極氏のあと若狭国は寛永11年(1634)より酒井氏の領地となり、以後幕末まで続いた。なお酒井氏入部により国吉城は廃城となった。
天正16年浅野長政により若狭一国の総検地が行われ、総石高8万5千余石と定まったが、三方郡がいくらであったかはわかりない。しかし正保郷帳に記す2万3千128石余と大差なかったと考えられる。正保郷帳では郡内57村を数えた。元禄郷帳では59村・2万5千280石余と増加する、これは主として寛文年間(1661~73)の浦見川開削による新田開発の結果である。この開削により水月湖・三方湖周辺が干拓され、成出・生倉の新田2村が生れた。その後も開発は進められ、天保郷帳では2万6千479石余。「若狭郡県志」が寛文6年の調べとして記す戸口は3千553軒・1万8千697人。
「雲浜鑑」によれば、十村組は田上・倉見・白屋・成願寺・上野・能登野・横渡・井崎・黒田・岩屋の10村、八村組は相田・藤井・南前川・北前川・三方・鳥浜・三方村之内生倉・田名・佐古・向笠の10村であるが初期には88村。西郷組は気山(三方町、気山の一部は美浜町)・大藪・金山・金山村之内新金山・早瀬・早瀬之内笹田分・日向・日向之内笹田分・久々子・松原・郷市・興道寺・佐野の13村、耳庄組が新庄・寄戸・五十谷・安江・宮代・麻生・中寺・細工・河原市・和田・木野・佐柿・佐柿村之内木野分の13村、山東組は坂尻・山上・大田・佐田・北田・菅浜・竹波・丹生浦の8村(以上美浜町)、浦方組は常神・神子・小川・遊子・塩坂越・海山・田井・田井之内成出・世久見浦の9村(浦)であった(以上三方町)。
中世以来の伝統をもつ漁業は近世に入っても盛んであり、慶長7年6月の若狭国浦々漁師船等取調帳によれば、郡内に299艘の舟があり、かこ713人を数えた。また惣中として31かわの網を有している。浦別では三方町の世久見(19艘・網4)・塩坂越(17艘・網3)・小川(48艘・網3)・神子(13艘・網2)・常神(46艘・網11)・鳥浜(14艘)・海山(11艘)、美浜町の日向(26艘・網2)・早瀬(41艘・網1)・丹生(29艘・網5)など。このうち鳥浜・海山は水月湖・三方湖の湖上漁業。

近現代
明治22年の町村制施行により郡内は八村・十村・田井村・西浦村・西郷村・耳村・山東村の7ヵ村となったが、同31年西郷村が南西郷村と北西郷村に分割、同40年に田井村と西浦村が合併し西田村となった。昭和28年八村・西田村が合併して三方町になり翌年十村を編入。同29年南西郷村・北西郷村・耳村・山東村の4力村が合併して美浜町となった。



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
その他たくさん



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