丹後の地名 若狭版

若狭

旧・耳村(みみむら)
福井県三方郡美浜町
河原市・和田・木野・佐柿・南市・中寺・麻生
・宮代・安江・五十谷・寄戸・新庄・佐野・興道寺


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福井県三方郡美浜町河原市・和田・木野・佐柿・南市・中寺・麻生・宮代・安江・五十谷・寄戸・新庄・佐野・興道寺

福井県三方郡耳村

旧・耳村の概要




《旧・耳村の概要》

旧耳村は今の美浜町の中央部で耳川流域に位置する村であった。
ミミはずいぶんと古い言葉で、弥生期にさかのぼるものと思われる。『魏志倭人伝』に、投馬国の官を弥弥(みみ)といい、副を弥弥那利(みみなり)という、とある。投馬国はどこなのか不明だが、耶馬台国の手前にあったという。ミは神様のミと同じであろうか、ミ、ミミは首長などの尊称と思われる。日本というか倭国というか、古代朝鮮半島と共通する尊称であるという。『古代朝鮮語と日本語』に、「尊・尊者」の意の朝鮮語moj・mi(陪・侍の訓)と対応する語。とある。『記紀萬葉の朝鮮語』には、弥弥-「ミミ」の音訳。これは「身・本・中心・主」の義を持つ語で、官位名としては「主官・上官」の意。弥弥那利-「那利」は「ナリ」で「下」の義。「次官」の義である。とある。後のオミ(臣)やキミ(君)のミではなかろうか。彦火火出見とか、豊聡耳皇子とかミ、ミミのつく人名はかなり知られている。
旧村内には、石剣の寄戸遺跡や銅鐸の南伊夜山遺跡(郷市)が知られているが、その当時の言葉であろうか。

古代
三方評耳里
記録としては飛鳥期から知られる。藤原宮跡出土木簡に「□□〔三方〕評/耳五十戸土師安倍/」「三方評耳里□」。五十戸は里を意味するようである。
さらに貢進物付札の断片に「三方評耳里□」(藤原宮出上本簡5)、調塩の付札に「美々里秦勝稲足二斗」(奈良県教委藤原宮)という墨書がある。後者には評名記載がない、大宝令制では塩の輸貢単位は3斗であるから、2斗と記す本木簡は大宝以前のものと推定される、という。
「若狭国三方郡耳里/秦曰佐得嶋/御調塩三斗∥」(平城宮跡出土木簡)
「耳里」は「和名抄」に見える三方郡弥美郷の前身と考えられる。

「室毘古王は、若狭の耳別の祖」
「日本書紀」には見えないが、「古事記」開化巻によれば、日子坐王が、「春日の建国勝戸売の女、名は沙本之大闇見戸売を娶して、生める子、沙本毘古王。次に意邪本王。次に沙本毘売命、亦の名は佐波遅比売。次に室毘古王」とあり、沙本毘古王・沙本毘売王とは同父母の兄弟になる。「室毘古王は、若狭の耳別の祖」とある。沙本毘古王、沙本毘売命は、今の奈良市の佐保の地名を負う人である、若狭にムロという地名はない、記伝には「大和国葛上郡牟婁郷に依れる名か」とある。大和国葛上郡牟婁郷は、今の奈良県御所市室に当たる。室毘古王は弥美神社の祭神、獅子塚古墳の被葬者ともされている。

弥美郷は、奈良期~平安期に見える郷名で、「和名抄」若狭国三方郡5郷の1つ。高山寺本は「方+尓美」、東急本は「弥美」につくり、いずれも訓を欠く。平城宮から出土した調塩の付札本簡に「若狭国三方郡耳郷中村里〈物部□万呂御調 五斗〉」(平城宮出土木簡概報16)、「三方郡弥美郷中村里〈別君大人 三斗〉」(平城宮本簡1)と墨書したものがある。耳川東岸の美浜町宮代には、「延喜式」神名帳の「弥美神社」が鎮座する。また「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条および高山寺本「和名抄」には「弥美」駅が見える。
三方郡は能登、弥美、余戸、三方、駅家の5郷である。(余戸、駅家は高山寺本にない)
能登と三方は三方町であろうから、弥美郷は郷域は、現在の美浜町の耳川流域一帯はもとより、美浜町のほぼ全域を郷域としていたものであろう。

古代氏族若狭耳別氏と別君氏。
『古事記』と木簡史料に見えるだけで、ほかには何も残らない。ワニ氏系で、朝鮮や大和王権とつながり、耳川流域に拠点を置いて、塩を生産していた。弥美神社を祀り、獅子塚古墳などを造営し、興道寺廃寺を建立したのは、この氏族を中心にしたものでなかろうか。

中世の耳荘
室町期~戦国期に見える荘園。三方郡のうち。文安6年(1449)5月の東寺修造料足奉加人数注進状に「耳荘廿八所」とあるのが初見(京府東寺百合文書ヌ)。次いで寛正4年(1463)閏6月の三方郡常神大菩薩宝殿棟札に「耳庄本所政所」と「本大工兵衛殿耳庄廿八所住」が記されている。耳荘に本所政所が存在しているということは耳荘が年貢等を収納する所領としての実態を有していたと考えなければならないが当荘内の二十八所社とは織田荘山西郷宮代の二十八所社のことであるから、耳荘は特定の所領単位を超えた汎称であったようにもみえる。戦国期天文17年(1548)3月16日に気山猿楽座の毛山大夫らが「耳庄之内廿八所佐野分太刀銭」450文を売却しており、天文19年10月には「耳庄・新庄」も見え、耳川上流の山間地新庄は耳荘の新荘であったとみられる。弘治2年(1556)6月の明通寺鐘鋳勧進には「耳庄さかき(佐柿)」が奉加している。
戦国期の耳荘には武田氏被官の野崎氏が土豪として見え、天文19年10月20日武田信豊より当荘内の買得地を安堵されている。「若狭郡県志」は耳荘の村として興道寺・佐野・新庄・寄戸・伊佐谷・安江・宮代・麻生・中寺・細工・河原市村・本野・佐柿をあげる。これによると耳荘は室町期以降、耳川の上流地域および中流左岸の地と、織田荘山西郷を含む地をさしたと考えられる。

近代の耳村
明治22年~昭和29年の三方郡の自治体名。村名は往古若狭耳別の祖が住み、耳川が流れ、中世に耳荘の地であることに由来する。河原市・和田・木野・佐柿・南市・中寺・麻生・宮代・安江・五十谷・寄戸・新庄・佐野・興道寺の14か村が合併して成立。旧村名を継承した14大字を編成。役場を河原市に置く。昭和28年台風13号によって耳川が氾濫し、橋梁の大半が流失するという大きな被害があった。大正6年国鉄小浜線が開通し、南西郷村郷市に耳村の大字名を冠した駅が開設された。昭和同29年美浜町の一部となり、当村の14大字は同町の大字に継承された。



旧・耳村の主な歴史記録


『三方郡誌』
耳村
一 名稱
本村の境域は大略、酒井氏國主時代の耳庄組同し、耳庄とは王朝時代の郷名を襲きたるなり。今の村名亦之に因る。
二 位置
本村は郡の中央より稍々東に位し、東西に短く約一里十八丁、甫北に長く約二里あり、東は山東村及越前敦賀郡粟野村に接し、南は滋賀縣高島郡西庄・百瀬・川上の三村に接し、西は八村及ひ南西郷村に接す。而して北は一面日本海に濱せり。
三 大字
本村を左の十四大字に區劃す。
河原市 和田 木野 佐柿 南市 中寺 麻生 宮代 安江 五十谷(イサダニ) 寄戸 新庄 佐野 興道寺 河原市・佐柿は小市街をなす。
佐柿は木村定光、國吉城主たりし時に始る。當時民家少くして、百事便ならさりしかは、定光、近里遠村の民を此に移し、竪三町、横三町の町を成さしめ、その地子を?きたり。是より後、代々の國主その例に倣ひて佐柿の租を?かれたり。定光、また椿峠より木野を經て耳川橋に至れる道をは、耳川橋より直ちに椿峠にかゝるやうに改めたり。酒井氏領國時代に奉行役所を置き、又関を設く。又宿驛たり。文祿三年三方郡に於ける馬借馬數三十三疋、即ち二十一疋久々子に、十二疋松原にありき。これ佐柿傳馬の用に供したるなるべし。明治四五年の頃人馬継立所を置かる。置縣以後も猶郡の首邑として、區會所・郡役所等を置れたりき。
  〔霊山晃巌和尚語録〕
 三湖郡佐柿町之記

南市はもと細工村と稱せり。中古は河原市の小名なりしと云ふ。明治の初年、今の名に改む。二百餘戸の大部落にして…、
宮代はもと御社と書けりと云ふ。彌美神社の在る地なれは、かく稱したるなるべし。
安江・五十谷〔伊佐谷とも書けり〕・寄戸の三大字は各戸数四五乃至七八の少数なれは、合せて小三ヶと稱するなり。
新庄は耳川の上流の域を占め、地積廣大にして、小名に粟柄・松谷・淺ヶ瀬・奥・寄積・田代・馬場・岸名あり。山間に僻在するを以て自ら風俗異なり、一種の地方言を有す、粟柄は近年人家絶えたり。
佐野の小名に野口・上野あり。
興道寺には小名に上所・西所あり。
四 土地






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『美浜町誌』(各巻)
その他たくさん



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