南市(みなみいち)
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福井県三方郡美浜町南市 福井県三方郡耳村南市 |
南市の概要《南市の概要》 耳川下流の右岸側、郷市の東側に位置する。 近代の南市村は、明治初年~明治22年の村。小浜藩領。明治初年南市村と改めたという。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年耳村の大字となる。 近代の南市は、明治22年~現在の大字名。はじめ耳村、昭和29年からは美浜町の大字。明治24年の幅員は東西3町・南北2町、戸数117、人口は男494 ・ 女442。 《南市の人口・世帯数》 646・241 《南市の主な社寺など》 明治神社 昭和9年に明治神社を勧請したという。 『美浜町誌』 明治神社 鎮座地…南市一一-一〇-四。現祭神…明治天皇。例祭日…四月十一日。旧社格…無格社。氏子数…九〇戸(平成五年)。『福井県神社明細帳』に、「明治十一年四月十一日創立」とみえる。維新王政復古を賞讃する地区氏子の景仰の極みに明治天皇を生祀したものとみられる。 浄土真宗本願寺派恵光山浄円寺 浄円寺は、もとは浄円道場といい、延宝2年(1674)現在の寺号に改めたという。同寺に親鸞聖人が35歳のときの作といわれる荒血山御霊像と称される阿弥陀如来木像がある。伝承によると聖人が北国巡錫の時、敦賀郡山中あたりの雪深い道を歩いたため足を痛めた。それを見た山中村の炭焼弥四郎が自宅に案内して看護した。聖人は弥四郎の真心を歓び、手ずから阿弥陀如来の像を彫って授けた。以後弥四郎から敦賀の水口氏に伝わり、のち宮代の園林寺に安置していたが、寛政9年(1797)正月9日浄円寺六世智究と園林寺住僧ともに同一の霊夢を感じて浄円寺に移したという。 『三方郡誌』 淨圓寺 眞宗本願寺派。南市に在り。天正元年九月十六日の創立にして、初め淨圓道場と稱せしか、延寳二年七月五日本佛寺號を許可せられ淨圓寺と稱す。當院に荒血山御霊像と稱し親鸞三十五歳の作阿彌陀如来の霊佛あり傳へ云うふ、土御門天皇承元元年の春、親鸞北國巡錫の砌、越前敦賀山中荒血山通行の際、積雪丈餘往来杜絶したる難路を冐し、足傷出血堪え難きをり、山中村の炭焼彌四郎、己か茅屋に案内し、看護したりしかは、彌四郎の赤心を歡喜して、手から山刀を以て阿弥陀如来の尊像を彫刻し、之を崇敬せよとて授けたり、爾後彌四郎累代之を安置したりしか、後敦賀川向町水口氏に傳え、又宮代の園林寺に安置す。寛政九年正月九日當院六世智究及園林寺住僧某共に同一霊夢に感し遂に當院に安置したりと。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 南市の主な歴史記録南市の伝説『越前若狭の伝説』浄円寺 (南市) 当院に荒血(あらち)山御霊像と称する阿弥陀像がある。親鸞(しんらん)上人三十五才のときの作である。上人が北国を巡行されたとき、敦賀郡山中(やまなか)の荒血山にて積雪数メートルの難路を歩いて来たため、足に傷ができ出血がたえがたかった。山中村の炭焼き弥四郎は、自分の家に案内して看護した。上人は弥四郎のま心を喜び、山刀で手ずから阿弥陀如来像を刻んで授けた。 弥四郎の家では代々これを安置したが、その後敦賀川向町の水口氏に伝え、さらに宮代の園林寺に安置した。寛政九年(一七九七)園林寺の僧と当院の僧が同じ夢を見て、ついに当院に安置した。 (三方郡誌) 南市の小字一覧南市 盆山越 藤内 勘田 岡谷 熊之田 仲川原 雷松 宮川 塚原 長塚 稲田 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『三方郡誌』 『美浜町誌』(各巻) その他たくさん |
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