丹後の地名 若狭版

若狭

宮代(みやしろ)
福井県三方郡美浜町宮代


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福井県三方郡美浜町宮代

福井県三方郡耳村宮代

宮代の概要




《宮代の概要》
御社(みやしろ)とも書いた(若狭国志)。耳川の右岸、御岳山の西麓に位置する。式内社弥美神社が鎮座するところから「若狭旧事考」には「弥美神社あり、ここは今耳ノ庄御社村にあり、此村の名宮代とも書り」と記している。
中世の「みやしろ」は、戦国期に見える地名で、大永8年(1528)5月21日の気山彦三郎長永の証文に、猿楽頭の気山大夫などが、楽頭の持場とみられる「みやしろ」など3か所を質に置いたと見える。弘治2年(1556)6月の明通寺鐘鋳勧進にも「みやしろ」が100文を奉加している。永禄6年越前朝倉氏の若狭侵攻の際、佐柿国吉城に籠城した者の中に「御社村白井弥太郎」が見える。弥美神社の別当寺であった真言宗園林寺には、梅本坊以下10坊があったが、朝倉侵攻の兵火に遭っていずれも焼失したという。
近世の宮代村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」に戸数32 ・ 人口164。耳庄組に属していた。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年耳村の大字となる。
近代の宮代は、明治22年~現在の大字名。はじめ耳村、昭和29年からは美浜町の大字。明治24年の幅員は東西1町・南北3町、戸数32、人口は男86・女75。


《宮代の人口・世帯数》 90・24


《宮代の主な社寺など》

弥美(みみ)神社(式内社)

御岳(おたけ)山に向かって、長い参道が続く。御岳山頂には、大岳神社・愛宕神社・秋葉神社の3社があり、4月末、7月末に各家から1人ずつ参って、お神酒を供えるお岳参りがあるそうである。

本殿。向かって右手に園林寺がある。
祭神は室毘古王、建御雷神・天児屋根命・布都主神など11神を合祀する。延喜式内社。二十八所大明神、耳の明神とも呼ばれ、「若狭国神名帳」には「正五位耳明神」とある。開化記「室毘古王は若狭の耳別の祖」とあり、弥美神社は耳の別の氏人が耳の地を領し、その祖を祀ったのが当社ではないかとする。「若狭国志」は二十八所の創始を大宝2年(702)とする、「神社私考」は、すでに衰えていた弥美神社を嘉禄2年(1226)園林寺が再興し多くの神々を合わせて二十八所大明神といったのではないかとする。中世以来、領主・国主が社領を寄進し、正保2年(1646)酒井忠勝は神殿の補修などを行い当社を保護した。
当社の氏子は、「神社私考」によれば、興道寺村・佐野村・新庄村・寄戸村・伊佐谷村・安江村・宮代村・麻生村・中寺村・細工村・河原市村・和田村・木野村・佐柿村・坂尻村の15村であった。これは「若狭国志」に出る耳庄の村名と重なり、現在5月1日(旧4月1日)に行われる当社祭礼の氏子中とも合致する。この祭礼は耳庄の惣鎮守社としての祭礼といわれている。王の舞(県指定無形民俗文化財)と獅子舞が奉納され、永禄5年(1562)の「祭礼膳之日記」(当社文書)に田楽の記事がある。麻生が王の舞を4年連続で奉納し、その次年の1回を東山が担当する。東山は麻生の枝村であったから、元来旧麻生1村の奉納であったと考えられる。現在の王の舞は未婚の青年が舞人になり、鼻高面に鳳凰の冠を着け、腰に白扇を差し、鉾を手に持つ。獅子舞は元来佐野が担当していたと考えられるが、いまは佐野と上野・野口の3集落が交代で行う。大御幣の奉納は、興道寺・寄戸・五十谷・安江で1組、河原市・和田で1組、宮代・中寺で1組、佐柿・坂尻で1組の4組が順次交代で4年に1度奉納する。このほかに「若狭郡県志」によれば「又七月二十日有神事能」とある。現在は8月20日に行われ、若狭倉座系統の能師が当社で風祈能(かざいのう)と称する神事能を奉納する。

『美浜町誌』
弥美神社
鎮座地…宮代七字森下二。現祭神…室毘古王・建御雷神・天児屋根命・布都主神・比咩大神・大山祇命。例祭日…五月一日。旧格社…県社。氏子数…七五六戸(平成五年)
県文化財指定の王の舞で知られる弥美神社は式内比定の古社で、宮代集落の背後にある御岳山の西麓に鎮座する。御岳山と当社の関係に注目すれば、祭場と神の居住地である聖なる山との関係を想起することができ、古代神社の形熊をとっている。「御岳山」という名称もまた神の居所又は神体山の響きがある。「和名抄」に「三方郡弥美郷」とみえる。この弥美郷、後の耳庄の総鎖守の社である。「弥美」は神名式諸本の訓に「イミ」とあり、『神社私考』は「ミゝ」と訓を附す。『古事記』に「若狭之耳別」とみえ、『若狭国神名帳』に「正五位耳明神」とあるように、「耳」「弥美」と表記される。弥美神社は江戸時代まで「二十八所大明神」と呼ばれていたが、明治二年に「弥美神社」と復称して現在に至っている。祭神室毘古王は『古事記』中巻の開化天皇条に、天皇の皇子日子坐王が沙本之大闇見戸売を妻として生れた御子で「若狭之耳別之祖」と見えている。「弥美神社記」に「文武犬皇の御宇大宝二年(七〇二)壬寅春、日月両輪を始め奉り、天照大神国家守護の霊社二十八所の名影を白幡にして耳の川辺帯て、深山の空地に天降らせ給ひ(中略)御敷地を宮代村と名付け候なり」とその縁起がある。また『若狭国志』に大宝二年(七〇二)伊勢内外宮を勧請したのに始まり、其後二十六所の神々を配祀としたので、二十八所と称した。また『若狭郡県志』では、宮代村に鎮座して二十八所の神を祭ると述べた後、具体的に伊勢内外の神、八幡・春日・丹生・平野・松尾・加茂・稲荷・大原・石上・大和・住吉・龍田・広瀬・梅官・吉田・広田・祇園・天満・気比・熊野・金峯・白山・熱田・十禅師・上下・日吉・三輪大明神(大神)と神号を奉げている。二十八所大明神と呼称された年代について伴信友は『神社私考』に同社の社記に
 大宝二年奉レ始日月両輪一、天照大神国家守護の霊社二十八所名影を、白幡に秘して耳の川辺帶て、山の空地に天降らせ給ひ云々。此地を籠野といふ。百年餘の後御社村に祭る云々とあるのを引いて此社記例の佛ざまにて、論ふにも足らぬ偽亊漫言どもなり。今其偽説を辨へむとて、要とある人のみ摘出たるなり
と批判する。そして二十八所の神社の中に大宝二年より後に創祀された神社も含まれているから大宝二年に神々の天降給えるというのは、妄説であるというのである。信友は弥美神社の哀退に対して、別当の園林寺が図って再興するとして多くの神々と仏を合せ祀り、総社のように仕立てて二十八所大明神と称したものとし、更に同村に地主権現という小社があり、八月十五日を祭日とするが、これは古くは弥美神社がここに鎮座して哀退したのを嘉禄(一二二五~二七)に再興して現在の鎮座地に遷座して二十八所の神と称し、其の旧地にも小祠を建てたのがこの地主神と称したのだと説いた。そして伴信友は、
 所謂二十八所大明神と云ふ社は古の弥美の神社には坐せど、しか二十八所とて祭たるは、嘉禄二年再興の時よりの事なりけり。
と断定している。これについて、青木紀元は「二十八社の神を祭った年が嘉禄二年(一二二六)であったかどうかは、なほ問題があるが、古くからあった弥美神社が二十八所大明神と呼ばれるようになった経過は信友の考証に大過ないであろう。」としている。
 さて、当社の別当寺園林寺は、弥美神社の南にある真言宗の寺院である。『若狭国志』に「耳荘数村祭祀共に、社域に寺有りて園林と曰ひ、世に社事を知る」と述べている。
 当社は古くから領家・国主等の崇敬・寄進が篤い。『若狭郡県志』によると、正保二年(一六四五)小浜藩主酒井忠勝の祈願によって、神殿を補修し、初代小浜藩主の京極忠高によって山林の寄進があった。
 『神社明細帳』には、「嘉禄二年(一二二六)以降二十八所宮ト袮せし所、明治二年小浜藩庁より弥美神社ト復称せらる。同五年に郷社に列せらる」とある。大正十四年一月八日には県社に加列。
 次に弥美神社の祭神と関係氏族についてであるが、現祭神、室毘古王は、『古事記』に開化天皇の皇子、日子坐王と沙本之大闇見戸売命の皇子で「若狭之耳別」の祖であるとみえる。この「若狭之耳別」が耳川下流域の「弥美郷」に居住して「弥美神社」を奉祀したことが推考される。「耳里」「美々里」は、藤原京跡(六四九~七一〇)出土木簡や、平城京跡出土木簡に、「耳郷」「弥美郷」とみえる。また「弥美駅」も北陸道の駅名にみえることから、古代若狭に居住した氏族「耳別」の繁栄を知ることができる。


『三方郡誌』
彌美神社。郷社、式内。宮代に鎭座す。國帳に正五位耳明神とあり、もと二十八所大明神と稱し、また耳の明神とも云へり。二十八所の神、今詳ならす。郡縣志には伊勢兩宮・加茂・松尾・平野・石清水・春日・大和・廣瀬・龍田・住吉・多賀・日隅・吉田・富士・祇園・北野・丹生・勢田・熊野・氣比・戸隠・嚴島・高良・諏訪・白山・金峯・石山とす、社記には伊勢外宮・多賀・日隅・富士・勢田・戸隠・嚴島・高良・諏訪・石山の十社なくして稻荷・大原野・石上・梅宮・廣田・熱田・十禅師・上下宮〔若狭彦若狭姫神なり〕・日吉・三輪の十社を数ふ。亦山東村佐田に二十八所社あり、本社同神を祀ると稱す、その傳ふる所は大略社記に同しけれとも、たゞ三翰なくして四大神あり。今是非を糺すに由なし。又社記に、大寶二年奉レ始二日月両輪天照大神一、國家守護の靈社、二十八所ノ名影を白幡に秘して、耳の川邊帯て、深山の空地に天降らせ給ひ云々とあれとも、春日・平野・稲荷・大原野・梅宮・吉田・祇園等は皆大寶よりは後に祭れる社なれは、此時此地に勧請する謂なし、甚妄なりと云ふへし。蓋し彌美神社は耳別の氏人か、耳地を領し給へるその祖室毘古王を祀りしなるへし。然れは社の創始も大賓よりは前なるべし。その二十八所神として祭れる年月、亦詳ならす。園林寺乾元二年の文書に中興二十八所造立事、嘉祿二〔丙戌〕九月二十三日斧始、十月十八日上棟、寛元々年〔癸卯〕三月馬庭?地造営〔中間字剥て詳ならず〕烏居立、同四年〔丙午〕四月檜皮葺、文永五年〔戊辰〕三月?地造営、同六年〔己巳〕三月瑞籬〔中間字剥〕丹二荷、墨十挺、執行沙汰也、〔中間剥たり〕十八日中鳥居立、預所石見阿闍梨源譽、同十一年〔戊子〕三月?地造營村々沙汰也、永仁七年己四月一日御前鳥居立佐野殿自願勇圓〔中間剥く〕晦、中鳥居立下司自願頼基、阿彌陀寺政所前建立、願主定〔中間剥く〕庚午八月、下司殿前渡御之處、大工宗吉重病三年、其後佛意〔中間剥落〕死去、其後孫太郎殿死去者七月、次年兵衛太郎兩所死去、次孫次郎殿死去、此は御堂祟也申之間又社頭渡奉、乾元二年二月二十六日破渡、同二十九日斧始、同三月棟上、願主阿一計也とあるを、伴信友この中興二十八所造立亊の文字を釋して曰く、再興二十八所造立事と云へるは、これより前に二十八所神と云へる社の在けるを、再興せる如く聞ゆれと、然には非ず、舊より在し彌美の神社の衰へ給ひつるを園林寺〔本社の別当〕が計らひて再興すとて、多くの神々に畏しこくも佛をさへ合せ祀り、總社の如くものして始て二十八所の大明神と稱ひ出せるものとぞきこえたる。同村に地主権現と稱ふ小社ありて、八月十五日を祭日とす、こはいにしへ彌美神社此處に在て衰へ給ひたりしを、嘉碌に再興して今の社地に移し奉りて、二十八所の神と稱し、其舊址にも小社を建て、地主の神と稱へるなるべし。そもそもむかしより僧徒か悪行として、神社の域を侵して佛堂を建て、舊より鎮座す神社を側に置き、或は本社の衰微給へるをも興しがほに、みたりに神佛を勧請して、本神を侵し、或は他に移して、其舊址には小社を造置などして、其本神を地主の神と呼べる亊、諸国の中に彼此聞えたりこゝにも思ひ合すべきなり、然れば所謂二十八所大明神と云ふ社は、古の彌美の神社には座せと、しか二十八所とて祭たるは、嘉祿二年再興の時よりの事なりけ、云々とされど今嘉祿以前の文書を得されば、この説の當れりや否やを徴するを得ず、神祇志料に曰く、初崇神天皇の御世、大彦命、越國を治めつるを以て、其族類の神、此地に在る者多し、其今二十八所神と號するは、族類の神を併せたるならんと此説の如くならば、その二十八所の神を祭るは往古よりの事なるべし文永五年の禁制文に山西鎮守二十八所大明神とあり。耳庄組十五ヶ村の産土神として祭来れり、京極忠高國主の時山林を寄附し、酒井忠直同忠囿舊に因て之を免與す。又正保二年酒井忠勝神殿を修補す。社域に園林寺あり、代々社事に預りたりき。明治二年彌美神社と復舊し、四年郷社に列せられ、五年滋賀縣再ひ郷社に列す。三十九年神饌幣帛料を供進さるべき神社に指定せられたり。陰暦四月朔日例祭たり、王舞獅々舞を奏し、同七月二十日中祀日たり、神事能あり。今は五月八日の同日を祭日とす。


『美浜町誌』
弥美神社の背後にそびえる秀峰御岳山(おたけやま)(五四九メートル)の山頂の岩場には、大岳大明神社・愛宕神社・秋葉神社の三社が鎮座する。愛宕・秋葉の二社は後世に火防の神として勧請されたと考えられるが、御岳神社は周囲に秀でたいわゆる三角錐型の神体山、神奈備、ミモロ(御諸・三諸)の山として古来崇敬されてきたものと考えられる。杉の老木に囲まれた岩場は神が降臨する磐座にほかならない。
 小浜藩の国学者、伴信友は「神社私考」のなかで、「同村に地主権現と称ふ小社ありて、八月十五日を祭日とす、こはいにしえ弥美神社、此地に在て衰へ給ひたりしを、嘉禄に再興して今の社地に移し奉りて、二十八所の神と称し、其旧跡にも小社を建て、地主の神と称へるなるべし」とのべ、二十八所神社を弥美神社の祭神として勧請するのは嘉禄二年(一二二七)以降のことであり、仏僧の妄説をきびしくいましめているが、この説が正しければ山頂の御岳神社はいわば奥宮(山宮)に当たる。山岳信仰のかすかな痕跡をここにたどることができよう。 宮代では四月二四日、七月二四日に「オタケサンノマツリ(御岳参り)」が行われる。弥美神社の宮司と村びとが、午前七時ごろに弥美神社の背後の登山口から二時問ばかりかけて山頂にたどりつき、お神酒を供えて二社に参拝する。現在は勤め人が多いことから祭日に近い日曜日があてられている。四月は大岳大明神の、七月は愛宕権現の例祭とされている。



高野山真言宗幡山園林(おんりん)

弥美神社の別当寺。
「幡山二十八所御本地大日如来縁起」に、当山幡山名事昔大宝二年春世鎮国守所神々二十八社神山頂天降玉」
「寺院明細帳」に、「古義真言宗 金剛峰寺末 創建は弘仁元年道善斎奏聞勅麻生朝臣国忠今造立」

『三方郡誌』
園林寺。眞言宗古義派。宮代に在り。幡山と號す、弘仁元年道善齊朝廷に奏請し、麻生朝臣國忠に勅ありて、造立せしめられしなりと傳ふ。寺は彌美神社の社域に在りて、同神社の社僧寺なりき、郡縣志に曰、古勅願所而後伏見院以來所レ賜之綸旨、至レ今有レ之、近世此儀絶と、現今かゝる文書一も傳ふる所なし。永享十一年の文書に梅本坊・竹本坊・成就坊・一乗坊・杉本坊・中坊・玉蔵坊・藤本坊・本坊・平等坊の十ヶ坊ありし事見ゆ。往古は盛なる寺院なりしなるべし、同し宮代に明治五六年頃まで成就院といへる寺ありき、是本寺の末寺にて、もとは十ヶ坊の一なりき。永正十五年守護武田元信祈願寺として封戸山林先例に任せて寄附す、天正年中織田信長執柄の時、寺院を没し、或は廢替し、或は他山に移し、僅に諦澄留錫の一坊のみを存せり。是今の園林寺なり。本尊十一面觀音は諦澄手自ら彫する所なり。元和六年京極忠高山林寺院境内の安堵状を賜ひ、後の國主酒井氏累代亦黒印状を賜はる。境内に大日堂あり、大日如來を安置す。寺に建暦、承久以後の文書百餘通を傳へたりしか、維新の後散逸して、今僅に十一通を存す。紀伊金剛峯寺末なり。

一石六体仏、ハッタイ地蔵
園林寺には子院がたくさんあったが、そこに祀られていたと伝える石仏300体あまりが現在公会堂前の広場に集められ、7月23日にはハッタイ粉を一体ずつの地蔵に供えてまわる習わしがあり「ハッタイ地蔵」という行事が続けられている。また地内には大永8年(1528)の紀年銘がある大きな一石六体仏がある。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


宮代の主な歴史記録




宮代の伝説・民俗

両墓制
三方郡内で唯一、両墓制を温存するという。



宮代の小字一覧


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『美浜町誌』(各巻)
その他たくさん



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