丹後の地名 若狭版

若狭

中寺(なかでら)
福井県三方郡美浜町中寺


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福井県三方郡美浜町中寺

福井県三方郡耳村中寺

中寺の概要




《中寺の概要》
町の中央部。耳川の右岸で、興道寺の対岸側に位置する。中寺という寺院名が地名に転化したという。
中世の中寺は、鎌倉期に見える地名で、嘉元元年(1303)12月に織田荘の下司惟宗頼基が領家の命令を受けて山西郷内で京上夫以下の在家役を免除した寺院のうちに中寺が見える。応長元年(1311)9月の山西郷内仏神田のうちにも中寺2反が記され、同年9月18日に政所が山西郷二十八所社附鐘田に寄進した1反の地は「枝吉名内中寺西元温屋田」にあるとされている。永禄6年(1563)に佐柿国吉城に籠城した武士のうちに中寺村北条殿(あるいは本条殿)があり、「若狭郡県志」に「中寺村有二宅地一、相伝、此辺有二禁裏御領一、本条某掌レ之矣、本条殿未レ詳レ為二何人一也、一説堂上近衛家之弟也、永禄六年朝倉氏攻二佐柿国吉之城一時、本条某亦加二勝久軍一、而防レ兵云」とある。
近世の中寺村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「三方郡誌」に、酒井忠勝入国後、寛永12年(1635)8月、河原市・中寺両村を検地し、その時中寺本高250石余のうち210石余を毛付として、40石余を永荒としたという。「雲浜鑑」に、戸数25・人口110。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年耳村の大字となる。
近代の中寺は、明治22年~現在の大字名。はじめ耳村、昭和29年からは美浜町の大字。明治24年の幅員は東西2町・南北3町、戸数27、人口は男66 ・ 女67。


《中寺の人口・世帯数》 85・24


《中寺の主な社寺など》

西宮神社

集落のなかほどに鎮座。
『美浜町誌』
西宮神社
鎮座地…中寺七-一九。現祭神…蛭子命・市杵島姫命・秋葉大神・天神大神。例祭日…三月二八日。旧社格…無格社。氏子数…二一戸(平成五年)。創祀の年月不詳。『福井県神社明細帳』に「明治四五年六月六日に本殿を改築した」とみえるのみである。社号からみて近世後期以降の勧請社であろう。


『三方郡誌』
西宮社。中寺に鎮座す。蛭子神を祀る。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


中寺の主な歴史記録




中寺の伝説・民俗


毎年12月23日未明にダイジゴという民俗行事が行われる。
『美浜町誌』
中寺のダイジョコ
 当区のダイジョコは一覧表の通りいずれも前栽か屋敷地の一角、旧宅跡に祀られており、毎年十二月二三日の早朝、赤飯を供えて家内安全を祈る。小祠や自然石、五輪を安置するが、水田喜右衛門家の場合、旧宅跡のタモの古本の根元に毎年新藁で小祠の屋根を葺き替えていた(現在は鉄製の祠に変更)。ダイジゴと称し「大地権」の字を当てるとされ、先祖よりも古い土地の神だという。当日六時ごろ、提灯をともして家族一同が参拝し、赤飯と大根二本、お神酒、塩を供える。
 なお、成田宗兵衛家は旧家で成田一族の本家に当り、敷地の一角にタモの巨木があり小祠を構えて八幡社を祀っている。祭日もダイジョコと同じ十二月二三日(八幡は九月十五日)で、その祭祀形態からして元来はダイジココが祀られていたとも考えられる。





中寺の小字一覧


中寺  藤ノ木 欠頭 猿橋 出口 窪田 東窪田 宮ノ下 早稲田 東街道 的場 前田 仁王田 上河原 樋ノロ 樋掛 中河原 西河原 古川 石田 下河原 河端 上井

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『美浜町誌』(各巻)
その他たくさん



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