丹後の地名 若狭版

若狭

丹生(にう)
福井県三方郡美浜町丹生


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福井県三方郡美浜町丹生

福井県三方郡山東村丹生

丹生の概要




《丹生の概要》
敦賀半島の西部の若狭としては最北端。西方岳と蠑螺岳の山麓に位置し、若狭湾に面する。関西電力美浜原子力発電所があるところ。集落は丹生の浦と呼ばれる波の穏やかな天然の良港の奥に立地。地名は古代の朱の産出と関連するものであろう。

原発と生活はこれほどに近い。世界に類例のない世界遺産級の景観であろうか。大阪万博に電力を送った1970年に始まっているから、もう50年超にもなる、それで原発で村が豊かになったというのならまだしも、ちょっと路地裏に入ると、そうとも見えない。「丹生千軒」の繁栄はまったく見えない。原発マネーは村とは関係ない所ヘ流れているのではなかろうか。こうした「ドル箱」では村は決して豊かにはならない、という見本を見るような気持ちになる。特にこうした村では村人を見かけると、「ニンチハ」とワタシは声かけするのだが、まず返事はない、横向いて無視、コミュニケーションがとれない、原発の50年は心豊かな村を築いてきたようである。別にこの村だけのハナシではないのが…

古代の丹生浦は、平安期に見える浦名。延喜19年(919)、渤海使が若狭国の「丹生浦」に漂着したと見え、一行105人は越前敦賀の松原駅へ送られたとある(扶桑略記延喜19年11月18日条・同21日条・同25日条・同12月24日条)。丹生湾に比定されていて、写真のその辺りであろうか。
『扶桑略記24』675
○(十一月)廿一日。客徒牒状云。當二丹生浦海中一浮居云々。而無二着岸一之由。又牒中雖載下、人数及有二来着一由上。未レ有二子細状一。
渤海はこのあとすぐに滅亡するので、これは最終34回目の渤海使となった。総勢105名を「松原駅館」に移送したという。
926年に、渤海が滅亡する。
930年(延長7年)には、 東丹国(渤海の故地に成立した国)の使節が丹後国に来着した。
『網野町誌』
(史料三)
唐客称東丹国使、着丹後国、令問子細、件使答状前後相違、重令復問東丹使人等、本雖為渤海人、今降為東丹之臣、而対答中、多称契丹王之罪悪云々、一日為人臣者、豈其如此乎、須挙此旨、先令責問、今須令進過状、仰下丹後国已了、東丹国失礼儀、  (『扶桑略記』延長八年四月朔日条)
 これらの史料によれば、文籍太夫斐璆の率いる渤海からの使節団が丹後国竹野郡の大津浜という所に漂着したのは、延長七年一二月二三日のことであった。おそらく冬の日本海の時化によって方向を見誤り丹後国に漂着したものであろう。このことは地元の人々から早速に丹後国府の国司のもとに伝えられたであろう。国司らは年末から年始にかけて渤海使の一行九三人が到来した由を朝廷に報告し、これらを朝廷に召すかどうかで問題となった。結局は朝廷に召し出して、尋問をしたようである。彼らは「東丹国使」と称しており、子細を尋ねたが、その答えの前後のつじつまが合わないので再度尋問したところ、もとは渤海人であるが、九二七年渤海国が契丹(後の遼)に滅ぼされてからはその臣下に降っているという。ここで日本は初めて渤海国が東丹国に滅ぼされたことを知るのである。しかし彼らのいうことは契丹王の罪悪のことばかりである。いったん契丹の臣下となっていたものがどうしてこのようなことを言うのであろうか。丹後国司に命じてもう一度責問して過状(過怠を謝る書面)を提出させよというものである。
 文籍太夫斐璆ら一行九三人がなんの目的で来日したのか詳しいことは不明であるが、おそらく渤海の滅亡後、一度は契丹の臣下に降ったものの、それを嫌ってかつて来朝渤海使として二度来日したことのある日本へ亡命を企ててやって来たのかも知れない。
 大陸から我が国へやって来る人々は、必ずしも正規の使節だけではなかった。正式の来朝新羅使や来朝渤海使以外に、平安時代に中国や朝鮮から丹後国に流れ着いた漂着船をみると、その多くが竹野郡となっているのである。


中世の丹生浦は、鎌倉期から見える浦名。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案の国衙領のうちに丹生浦3町6反240歩が見えるのが初見で、刀禰給も1町が認められている(京府東寺百合文書ユ)。同惣田数帳案の元亨年間(1321~24)頃の注記に「国領」と見える。年未詳の賀茂御祖社諸国荘園御厨所目録に当浦が見える(賀茂社古代庄園御厨)。文和3年(1354)9月に守護細川清氏が給人を付した8か所のうちに丹生浦田が見え、国衙領が守護領化されたものとみられる(紀氏系図裏文書)。当浦の領する山のうちを南接する竹波に売却した応永31年(1324)7月3日の注文があり、これに関連する絵図が作成されている。そこには浦の浜を「雪の白浜」と記しており、美しい浜であったと推定される(丹生区有文書)。同注文には「なしま山」「ミや谷山」「うはか谷山」「田の谷山」「かしの木谷山」「あかさか山」「たかはま山」「なかはせ山」「はちのおか山」「いいかしき山J 「いさゝやな山」「かさおれ山」などの当浦の山が見える、特に「いいかしき山」は当浦の「しやうりん入道」の山であったが、丹生浦の地頭代官によって没収され公領になったという。丹生浦の奥山をめぐって文安6年(1449)3月に竹波・馬背と争い守護武田氏の裁決によって当浦は馬背・竹波の住民から山代を取ることが認められている。永正17年(1520)には網場をめぐって竹波・馬背と争ったが、この争論は武田氏の裁判では決着がつかず、幕府奉行人のもとで三問三答を遂げた結果、丹生浦の勝訴とされている。この争論のとき見える「伊長殿」は鴨伝奏甘露寺伊長のことであろう。その後も山について紛争があった大永5年(1525)12月20日に当浦の池原山を宗庵より安堵される。天正7年(1579)4月23日付丹羽長秀判物は当浦山海の境目を先々のごとく認めて他所よりの網立などを禁止している。寛永18年(1641)10月19日の丹生浦惣百姓竹波村と漁場出入ニ付返答書には、「たちのの少将様(木下勝俊)御代ニ、高らい陣にも丹生浦寄海上之役として、十六人之舟頭を高らいまて被召連候」、秀吉の朝鮮出兵のとき水夫として16人の丹生浦舟頭が高麗まで出陣、また大坂城や小浜城の普請にも多数の舟頭が夫役しているが、竹波からは一人も出ておらず、したがって竹波には海上の持分がないとしている。寛政2年(1790)8月の丹生浦惣百姓竹波村鰯網差止方ニ付願書には「浦と村と之儀も御座候ヘハ、丹生浦ハ往古より沖猟・磯猟共家業ニ致来り候」と述べ、竹波浦はもともと村で漁業権はないとしている。伝承によれば往古は「丹生千軒」と呼ばれ繁栄したという。
近世の丹生浦は、江戸期~明治22年の浦名。小浜藩領。「雲浜鑑」では、戸数56・人数315。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年山東村の大字となる。
近代の丹生は、明治22年~現在の大字名。はじめ山東村、昭和29年からは美浜町の大字。明治24年の幅員は東西6町余・南北1町余、戸数68、人口は男196・女222、学校1、小船79。


《丹生の人口・世帯数》 409・237


《丹生の主な社寺など》

阿弥陀寺裏山古墳群(4基)
浄土寺古墳群(3基)
二・三号墳は石棚付きの石室古墳。7世紀中頃。
一号墳(消滅)は縄文遺跡の上に構築されており、付近は浄土寺遺跡とよび縄文前期ー後期にわたる土器・石鏃・石錘などが出土。当古墳群は、周辺にある土器製塩遺跡と関連があろうといわれる。場所は丹生の入り口の竹波との境付近。

製塩遺跡
阿弥陀寺遺跡・丹生オクノウラ遺跡・丹生小学校校庭遺跡は奈良・平安期の製塩遺跡

丹生神社(加茂神社)(式内社)

少しわかりにくい所に鎮座ある、丹生川河口より200メートルほどさかのぼった所から、細い道をいく。祭神は別雷命。しかしこれは加茂神社の祭神であろう。「延喜式」神名帳に記す「丹生神社」を「三方郡誌」は当社に比定。地名が地名だから、これでよいと思われる。境内社として十善社・天満社など21社を祀る。例祭は6月19日。享禄5年(1532)の神名帳写の三方郡に「丹生明神」とあるが、「若狭郡県志」は「在丹生浦、六月十九日有神事能、又十一月朔日有祭、又別有春日明神天神等之社、同日祭之」とある。「雲浜鑑」にはこのほかに児子神・山ノ神・十善宮・明神・御姥宮・神明・多賀・木船・今宮・角権現・住吉・八幡・若宮・愛宕などの末社が記されている。「旧藩秘録」には「六月十九日能、十一月朔日ミキコクウ翁面」とあり、11月1日の神事には湯立も行われた。現在12月1日にトワタシの神事があり、握ったゴクを鳥居の方に向けて投げ上げる。これは「貧しいものへの神のほどこし」とされているが、烏勧請の名残と考えられている。

『美浜町誌』
丹生(にう)神社
 鎮座地…丹生三三-八。現祭神…別雷命。例祭日…六月十九日。旧社格…無格社。氏子数…六五戸。
 祭神は本来不詳というべきで、現祭神は『若狭国志』に「丹生神社、在二丹生浦一。今称二賀茂明神一蓋此。」とみえるようにのちに賀茂明神となり、社号が更に丹生神社にもどったものとみられる。JR東美浜駅より北十三キロメートルほどの丹生集落から少し離れた山裾にある。「丹生」はもともとの地名であろう。『若狭国神名帳』に「正五位丹生明神」とみえているがその後「賀茂明神」と呼ばれた由緒は不明である。『若狭郡県志』に祭礼日六月十九日、神事能があり、また十一月一日にも祭礼があると記している。古くは猿楽能が行なわれたが後に廃絶した。
 境内の集会所に嘉永七寅年(一八五四)の絵馬等があり、また境内に数基の燈籠がある。


『三方郡誌』
丹生神社。式内。丹生に鎭座す。國帳に正五位丹生明神とあり、もと加茂明神と稱す、後に合せ祀れる神名を以て主と稱しならへるなるへし。祭神詳ならす。


田口と奥の浦の間の波打ち際には、かつてアイノカミの祠が祀られており、2つの字の間にあるから間の神との伝承がある。荒長谷(関電美浜原子力発電所構内)にはサブトネ長者の墓があり、毎年5月に定置網をたてる前に施餓鬼を行う。伝説では浄土寺川のほとりに業欲な長者がいて村人に暴言を吐いたため、地引網にくるんで海に投げ込んだところ、以後不漁続きとなった。サブトネのたたりを鎮めるための供養をすると,近来にない大漁になり、それ以後毎年施餓鬼が行われているという。


曹洞宗放光山阿弥陀寺

「寺院明細帳」に、「曹洞宗 遠敷郡国高村長英寺末 大本山能登国鳳至郡門前村 遠敷郡国富村多良庄所在の処明治三十年十二月二十三日福井県の許可を得此地に移転す」とある。
『三方郡誌』
阿彌陀寺。曹洞宗。同區にあり、遠敷郡長英寺末なり


曹洞宗金照山龍渓院

建て替え中の様子。曹洞宗竜渓院は芳春寺末、十一面観世音・脇立地蔵菩薩・不動明王を安置。「寺院明細帳」に、「曹洞宗 芳春寺末 天文十五年五月創立明治七年六月中無住の故を以て旧敦賀県に於て廃院とす 明治十七年八月一日福井県の許可を得て再興す」。「芳春寺記」に「開基天正十一年」。
『三方郡誌』
龍溪院。曹洞宗。丹生に在り。十一面觀世昔、脇立地蔵菩薩・不動明を安置す。芳春寺末なり。境内三百三十四坪あり。


真宗大谷派大閤山恵誓寺

弘治元年桑村左衛門光栄の開基。文禄3年太閤山橘堂恵誓寺と号する。伝太子作の聖徳太子木像は丹生の海中より発見したと伝えられている。
『三方郡誌』
惠誓寺。真宗大谷派。同區に在り、弘治元年、桑村左衛門光榮開基にて、文祿三年、太閤山橘堂惠誓寺と號す。寺に丹生海中より發見せし聖徳太子の木像〔太子自作と傳ふ〕を藏す。境内二百八十坪。


《交通》


《産業》
美浜原発

美浜原発の構内へワタシは一度入った覚えがあるが、詳細なことはみな忘れてしまった、だいぶに昔のことであったよう。ゲートの先は海に架かる橋になっている、その上を走った記憶くらいしかない。
美浜原発


《姓氏・人物》


丹生の主な歴史記録

『美浜町誌』
阿弥陀寺古墳群(一~四号墳)
敦賀半島西岸の先端部、丹生湾を望む山間部の谷筋、阿弥陀寺裏の標高約四四~四八メートル付近に所在するが、古川・大森宏氏によって横穴式石室を内蔵する四基の円墳が確認されていた。樹木の根が石室壁面を押し、一部崩落する状況を確認したことが契機となって、美浜町教育委員会が測量調査を実施している。以下、古墳群の概略を記述する。
 四基の古墳は、東西五十メートル、南北三十メートルの範囲に密集しており、いずれも大方南向きに開口している。一号墳は、南北十一・二メートル、東西八・四メートル、高さ二・○メートルの円墳で、石室の上部が露出している。奥壁幅〇・六メートルで、もっとも小規模な石室である。奥壁は一石で構成されると推定されている。二号墳は、南北十一・九メートル、東西十三・四メートル、高さ一・九メートルの円墳である。奥壁幅一・〇メートルで、石室の積み方は基本的に横位である。奥壁は、基底石として一石を縦位に据え、その両側面と上段に石材を配している。三号墳は、南北十二・三メートル、東西十二・八メートル、高さ二・○メートルの円墳で、古墳群中最大の規模をもつ。石室は、奥壁幅〇・七七メートル、奥壁は鏡石状に大石材一石を配し、天井石との間に横位に石材を一段積んでおり、側壁は、基本的に横位に積んでいる。四号墳は、南北十三・九メートル、東西十三・八メートル、高さ一・八メートルの円墳で、墳丘北西側、墳丘背後の緩斜面を周溝状に削り出して墳丘裾部を造っている。墳丘の南東裾部には、人頭大の自然石を横位二段に外護列石がめぐる。奧壁は、幅一・〇五メートル、三段の石禎みが確認できる。側壁は、基本的に横位である。
 本古墳群は、墳丘の大きさに比して横穴式石室の規模が小規模という印象をもつ。調査が実施されていない段階では憶測の域を出るものではないが、あえて述べれば、本古墳群は、六世紀後葉~七世紀前半にかけて築造された二号墳→一号墳、四号墳→三号墳と変遷する二家族の二世代にわたる墓域を想定することができる。水野正好氏が案出された墓道の概念にしたがうと、居住地から古墳群にいたる根道(集落から古墳への道)を経て、緩斜面南側の谷筋三号墳と四号墳の間)に幹道(古墳群のなかを通る道)がとおり、枝道(幹道から古墳の側にいたる道)を経て、さらに茎道(横穴式石室にいたる道)にいたる墓道を復原することができる。グルーピンクの根拠は。前列(二号墳・四号墳)に比して後列(一号墳・三号墳)が、①墳丘規模が小さくなること、②連動して石室規模が小さくなることによる。この区分は、奥壁の前列が複数積み、後列が一石積み、あるいはそれを志向している様相がみられる特徴がある。この方向性は、そのまま時期差を表出しているものと推測されるのである。
 墓道の復原は、以前どこの集落でもみられた、段上に造られていた墓参りの様子を思い出していただければ理解していただけると思う。



『美浜町誌』(図も)
浄土寺古墳群
浄土寺古墳群の調査
敦賀半島西側の先端部に近い竹波区の集落北側の地域に、縄文時代前期~中期にかけての浄土寺遺跡があり、この遺跡の上方に五基からなる古墳群がある。これらのなかで、古墳であることが確実な三基の古墳をとりあげる。竹波区と重なるようにして製塩土器を伴う竹波遺跡が存在するが、二号墳の墳丘背後から祭祀に使用された製塩土器が出土していることを勘案すると、当遺跡が古墳時代後期を中心とした時期に操業していた製塩遺跡である蓋然性が高い。
 一号墳は、土取り工事の犠牲となって現存していない。建物建築に伴う尾根先端部分が削平されたことで、昭和五一年(一九七六)偶然発見されたが、その後も土取り工事が計画されたため、事前調香として翌年五月に若狭考古学研究会によって調査が実施された。本来の墳形や墳丘規模・石室規模は、不明である。残存部分の石室は全長三・四メートル、幅一一○目へ取る、最大高一・七メートルの規模をもつほぼ真南に開口した横穴式石室で、本来羨道部が備わっていない無袖式のプランであったようである。奥壁は鏡石状に一石を縦長に据え、側壁は目地を揃えながら六段目まで積まれていた。床面には、棺台として用いられた人頭大の礫が奥壁側に二石、開口部側に三石が平行して配置されていた。副葬品としては、須恵器ハソウ(1)・椀各一点、鉄鏃一点、刀子一点、管玉一点、棗玉一点が出土している。古墳が築造された年代は、六世紀後半(TK43型式)に帰属するハソウが出土していることから、この時期に求められる。
 二号墳は、一号墳の調査時に乱掘された状況で発見されたことから、引き続いて、六月に若狭考古学研究会による石室図化を目的とした訓査が実施された。その後は、昭和五八年(一九八二)六月に筆者らが墳丘・石室実測調査を実施し、平成十七年(二〇〇五)八月~十一月にかけて、美浜町教育委員会による墳丘周辺部と石室の実測調査が実施されている。
 一次調査では墳丘へのトレンチは入れられていないが、墳丘が七メートル規模をもつことが明らかにされた。筆者らは、墳丘の外護列石が開口部と墳丘東側が部分的に直線にめぐっていたことから、方墳である可能性に期待して細かな間隔で等高線を引き、墳丘測量図を作成しているが、石室の企画についても関心をもっていたのである。美浜町教育委員会の発掘調査の結果、墳丘規模は石室主軸方向で七・四メートル、石室直交方向で六・八メートルのやや楕円形を呈した円墳であることが確定している。併せて、墳丘東側の堅固な外護列石は土留めの機能をもつものであること、墳丘背後の岩盤掘削による周溝状施設を墳丘外部施設にもつことが明らかにされた。
 本墳の埋葬施設は、玄室内に石棚を架設する両袖式の横穴式石室である。石室規模は、全長五・六メートル、玄室規模は玄室永二・一メートル、玄室幅は奥壁付近一・〇六メートル、玄門付近一・一四メートルあり、ほぽ南方向に開口した横穴式石室である。羨道部は、羨道長三・二メートル、羨道幅は玄門付近一・〇六メートル、開口部付近一・〇四メートルあり、玄室幅と羨道幅がほとんど変わらないところから、立柱石のみで袖部を椎成していることがわかる。石棚が架設された両側壁は、切石状に平滑に調整された加工石材であり、棚下の空間は、一種の石槨(棺を置く施設)の意味をもっていたのである。
 本墳から出土している須恵器の時期は、後述する石室から導き出された年代と矛盾するものではない。副葬品として、石室羨道部の閉塞石下から須恵器杯G(蓋に宝樹つまみをもつ形態の杯)二点(4・5)、杯G蓋二点(2・3)ほか、鉄器などの出土があり、排土から三点の須恵器、墳丘背後の裾部から溝の底面にかけて須恵器杯G蓋一点、土師器甕一点、製塩上器図34(11・12)二点が出土している。本墳に関連する須恵器は、いずれも杯Gのみで構成されており、飛鳥Ⅱ(TK217型式、七世紀中葉の年代が与えられる。
 三号墳は、二号墳から約二六メートル南西、同一支尾根から東側に若干外れた地点に所在する。墳丘規模は、石室主軸方向八・二メートル、石室直交方向八・一メートル、径八・二メートルの円墳である。墳丘に外護列石と墳丘背後の岩盤掘削による周溝状施設を墳丘外部施設にもつところは、二号墳と同様であるが、二号に比べると外護列石は形骸化したものであった。
 本墳の埋葬施設は、二号墳同様に玄室内に石棚を架設する両袖式の横穴式石室である。石室規模は、全長五・六メートル、玄室長二・二メートル、玄室幅は、奥壁付近で一・一六メートル、玄門付近一・〇四メートルあり、ほぼ南方向に開口した横穴式石室である。羨道部は、羨道長三・○メートル、羨道幅は玄門付近一・〇五メートル、開口部付近一・三四メートルある。
 本墳からは、須恵器・土師器が羨道部、墳丘、石室開口部、墳丘背後から出土している。それらの土器は、飛鳥Ⅱ型式(七世紀中葉)と飛鳥Ⅲ~Ⅳ型式(七世紀後半)の範疇に入る。羨道部から出土した須恵器杯G二点(6・7)は、二号墳出土の杯Gに比して粗雑化か認められ、若干後出するものとされる。石室開口部から出土した須恵器杯B蓋(11)は、飛鳥Ⅳ型式(七世紀第Ⅳ四半期)まで墓前祭祀が継続していたことを示している。
浄土寺二号墳の横穴式石室の系譜
以上のように、浄土寺古墳群では三基の横穴式石案が調査されているが、墳丘・横穴式石室の保存がよくて、多くの情報を引き出すことが可能な二号墳について、多角的な視点から検討しておこう。まず、横穴式石室に関する二点の特色をとりあげる。一点目は、袖部が立柱石のみで構成されていることから、羨道と玄室を区別する立柱石を除くと、無袖の横穴式石室の形態を呈していることである。この立柱石をもつ石室構成は、日本海を介在して北部九州地方からの影響下にあり、越前地城の敦賀半島東部地域に所在する沓丸山古墳(敦賀市)をはじめとして、三室まどかけ一・二号墳(能登)など北陸地方の日本海側に広く分布している。
 二点目は、石室の奥部に設置された石棚の存在である。調査当時(一九七六)は、全国で百例あまり集成されていたが、現在では環瀬戸内海を中心にした西日本地域に百四十数基近く存在することが知られている。そのうち浄土寺古墳群に二基、敦賀市域に三基が現存し、日本海側の密集地域となっている。石棚が全国に展開していく過程について藏冨士寛氏は、Ⅰ期=六世紀前半~中葉(MT15型式~TK10型式)石棚が出現する時期(和歌山県紀ノ川流域・福岡県下で出現)、Ⅱ期=六世紀後葉(TK43型式)近畿地域に展開する時期、Ⅲ期=六世紀末~七世紀(TK209~TK217型式)石棚が広範囲に拡散する時期、Ⅱ・Ⅲ期段階は、地域ごとの横穴式石室に石棚のみが採用されている段階として整理している。福井県域の石棚墳は、近隣地域の丹後・丹波・近江地域の石棚・石屋形墳との関係を考慮する必要があることを指摘している。現時点においては、北部九州から丹後まで空白地帯が続いていることと、福井県域がもっとも降った時期の石棚が密集していることとを勘案すれば傾聴すべき意見と思われる。ただ、横穴式石室の形態とセットのあり様からすれば、日本海ルートを経て九州中・北部地方からの伝播を想定することも可能と考えられる。I期段階に越前北部地域に石屋形墳が二基出現していること、北部九州系横穴式石室に出雲系の横口式石棺が設置された春日山古墳(永平寺町、旧松岡町)の存在は、山陰伝いに伝播ルートがすでに存在していたことを傍証する事例である。
二号墳の横穴式石室の時期について、石室のもっ属性から検討してみると、
①畿内の終末期古墳では、墳丘の中心と玄室の中央を一致させる例が多くなることが知られているが、本古墳もこの事例に当てはまる。
②奥壁が二段積みで、上段の石がわずかに内傾ぎみである(報告書は垂直と記述する)。
③玄宰基底石の表面が切石状に平滑に調整された加工石材であり、右側壁の棚石をはめ込む部分が逆L字状に整形されている。
 ①の特徴は、墳丘規模と石室規模の比率に連動して決定されるものであり、②の特徴の当否はともかくとしても、奥壁を二石で積むことや、③の花崗岩を切石状に加工する技術などについて過大に評価すると、畿内の終末期古墳の築造技術に通じるところが指摘できる。たとえば、平尾山古墳群(大阪府柏原市)第四号墳、第一三二号墳などの横穴式石室は、玄室と羨道の境があまり明確でなく、石室高が低く造られて石室空間が狭い、奧壁は二段積みしているところなどの点で類似している。石室規模が異なり、単に当該期の群集墳の普遍的な形態の一端を示しているにすぎない可能性もあるが、①~③の特徴は、いわゆる岩屋山式系統の石室(奈良県明日香村に所在する古墳の横穴式石室)をミニチュアにした形態ともいえ、この古墳に近い時期の築造になることが想定できる。大和では岩屋山亜式を含めて、白石太一郎氏は、岩屋山式の石室は、天皇家および朝廷権力の中枢部を構成していた中央豪族たる、中臣・物部・平群・阿倍氏などの古墳に採用された横穴式石室の形態であることを指摘している。
 七世紀代に入って国家体制の整備が進む段階に、東北経営は重要な課題となっていた。「日本書紀」には、阿倍比羅夫が斉明四年(六五八)に水軍一八〇艘を率いて蝦夷(粛愼)を討ち、翌年再び蝦夷を討った記事の記載がある。憶測をたくましくすれば、浄土寺二号墳の被葬者については、土器製塩の管理者としての位置づけにとどまらず、阿倍氏と擬制的な同族関係を結ぶことによって、水先案内などの役割を担い、束北海域での軍事行動に参加した人物の一人と想定することも可能であると考えている。そのことが、畿内の終末期古墳の石室形態の影響を受けた石室を採用する契機となり、岩盤掘削した周溝状施設や類をみない堅固な外護列石を整備する端緒となったことが考えられるのである。
 併せて石棚・立柱などが整備されていることは、七世紀前半期において敦賀半島を拠点にした古墳被葬者レベル層の連携を表象していることは明らかである。二号墳が一号墳のもつ属性に比して大きな飛躍がみられるのは、時期差の問題だけでなく築造契機が大いに関わるのである。ある意味、造墓の契機を同じくし、製塩遺跡の背後に立地する傾古墳(小浜市)・吉見古墳(おおい町)と比較しても、古墳がもつ属性に差が生じているのである。
 美浜町教育委員会による浄土寺古墳群発掘調査の報告に際して、敦賀半島周辺に所在する横穴式石室について比較検討され、六世紀後葉段階、七世紀以後にはじまる横穴式石室の系譜をめぐる研究成果がまとめられている。それに拠れば、前者の横穴式石室は、①無袖型のプランをもち、②基本的には奥壁を鏡石状に一石を配置し、③同法量の石材を明確に目地を揃えて横長手積みする、という共通性がある。これらのことは、ともすれば、「同一石室造営者の手によると思えるほど酷似している」と評価され、穴地蔵三号墳を起点として、尾尻一号墳、名子古墳、色古墳とともに浄土寺一号墳が造られるという築造順序が想定されている。この石室定型化の背景には、浄土寺一号墳、六世紀後葉から続く小地域ごとの紐帯が引き継がれているものと理解されている。
 後者の横穴式石室は、六世紀後葉段階の横穴式石室の系譜上にある穴地蔵一号墳の横穴式石案に石棚が導入されることからはじまり、白塚古墳・鳩原二号墳においては、①石室が小規模になり、②羨道・玄室とも法量を統一した石材を縦位に据える、という傾向があることを指摘する。横穴式石室の築造順序については、七世紀以後の石室構造は、穴地蔵一号墳から白塚古墳(鳩原二号墳)へと継続し、以後浄土寺二号墳、浄土寺三号墳へと展開していき、白塚古墳の玄門立柱で疑似両袖を形成する属性を浄土寺二号墳に伝えるのは、石棚の架設と連動するとしている。
 ところで、敦賀半島周辺部の棚を架設した横穴式石室の位置づけを考えるとき、杯Hと杯Gの両者の須恵器を保有する横穴式石室と、杯Gのみの須恵器を保有する横穴式石室の形態差については、もちろん時期の差は若干あろうが、むしろ横穴式石室の系譜の違いにあるように思われる。ともに石棚が架設された古墳であっても、穴地蔵一号墳が在地の横穴式石室であるのに対して、浄土寺二号墳のようなタイプの横穴式石室については(両種の石室構成を保有するとされる、白塚古墳を念頭に置かねばならないが)、漸次変化していくと考えるよりも、他地域からの影響のもとに導入されたものとする方が理解し易いのではないかと考える。
古墳から製塩土器が出土する意義
さらに二号墳で特筆されることは、墳丘背後の墳丘裾部から溝の底面にかけて二点の製塩土器が出土していることである。製塩土器が主体部や墳丘などから出土している古墳は、全国で百例余り知られている。それらの古墳は、①製塩遺跡内、あるいはその付近に所在する古墳、②製塩遺跡から近い距離に所在する古墳で③臨海部からはるかに離れた内陸部の古墳、と立地によって大きくは三分類できる。製塩土器を副葬品にもつ古墳の被葬者は、土器製塩の生産工程を管理する立場にある人とされるのが一般的であるが、そうともいい切れない。少なくとも③の古墳については、中国山地や海岸から遠く離れた内陸部に所在する古墳からの出土事例があり、これらの古墳から製塩土器が出土したからといって、被葬者に製塩集団の管理者や製塩集団と関わりがある人物を想定することは適当とは考えられないからである。
 製塩土器が古墳から出土するのは、時期的には古墳時代をとおしてみられることで、衣掛山三・一五号墳(敦賀市)のように主体部から出土するほか、本墳のように周溝、さらに墳丘内から出土することもある。これらのことは、第二義的には塩が古墳の祭祀儀礼に際して用いられる習俗が普遍的に存在していた可能性が高いことを示唆している(だからといって二号墳被葬者・古墳出土の製塩土器と竹波製塩遺跡操業者との関係を否定するものではない)。おそらく儒教との関わりがあり、岡本明郎氏は「魄(はく)」の憑依物の一つに塩塊を想定している。魄の浄化のために塩を必要としたのである。おそらく、大半の古墳において、塩・製塩土器が葬儀の場で用いられる習俗があったことが想定されるのである。



丹生の伝説

『越前若狭の伝説』
さぶとねさん   (丹生)
 今から二百五十年ほど前に丹生にサブトネという人がいた。浄土寺川(落合川)のほとりに広い田畑をもった長者であった。情深く、お寺にもよく寄付をした。あるとき凶作が数年続き、村の人は生活に困ってサブトネさんから金を借りた。だんだん金額が増して払えないようになってしまった。
 村の人はサブトネさんを網引きにさそった。アラハセという所で網の用意をしているときサブトネさんは、「このアラハセの砂や石が絶えても、わしの金は絶えないぞ。」といった。それで村の人はカッとなって、地引き網でサブトネさんを巻きこみ、アラハセに投げこんでしまった。これで借金は帳消しになったと村の人は喜んだ。
 翌年の五月になり、大網を立てたが、どうしたことが、何度網を引き上げても魚はさっぱり取れながった。「サブトネさんが、ほうきを手にして網の口に待っている。」とか「サブトネさんがうなぎのような魚になって、網の口を泳いでいる。」とかいう者があった。
 それで、これはサブトネさんのたたりであるから、供養をしようということになり、竜溪院のおしょうに頼みにいった。アラハセで施餓鬼(せがき)をすると、今まで静かだった海に南風が強くなり、波も立ってきた。しかしその日の午後は大漁であった。
 そこでアラハセにサブトネさんの墓を立て、毎年大網を立てるときは、竜溪院のおしょうを招いて、サブトネさんの霊にせがき(施餓鬼)をすることになった。ふしぎにその日は必ず南風が吹き、大漁になる。  (武田久二)




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『美浜町誌』(各巻)
その他たくさん



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