丹後の地名 若狭版

若狭

太田(おおた)
福井県三方郡美浜町太田


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


福井県三方郡美浜町太田

福井県三方郡山東村太田

太田の概要




《太田の概要》
JR東美浜駅↓がある集落。佐田の奥の山あいの集落だが、JR小浜線、国道27号バイパス、舞鶴若狭道が東西に通る。字上野・門前・中筋・山本からなる。

乗鞍岳と岳山の山麓、太田川と金瀬川の上流域に位置する。山本・中条・門前などの小村を合わせて太田村としたという。
「親元日記別録」政所賦銘引付の文明10年(1478)9月21日条に収められた田辺四郎右衛門尉貞次の訴状に「太田極楽寺」とみえるが、「太田極楽寺」は当地の寺か、という。永禄7年(1564)朝倉義景は若狭に侵入し、太田に砦を築いたが、同8年国吉城主粟屋勝久の攻略により焼失した。社倉が置かれていたとの伝承があるが不詳。永禄6年(1563)越前朝倉勢の若狭攻めのとき大田村の地侍粟屋豊後が国吉城籠城に加わっている。戦国期に「山東郷小田村」が見えるが(田辺半太夫家文書)、当地のことと推定されている。
近世の太田村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜繿」は、戸数72 ・ 人口341。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。明治22年山東村の大字となる。
近代の太田は、明治22年~現在の大字名。はじめ山東村、昭和29年からは美浜町の大字。明治24年の幅員は東西8町余・南北2町余、戸数72、人口は男162 ・ 女163。


《太田の人口・世帯数》 235・81


《太田の主な社寺など》

八幡神社

神社は山王社と八幡社がある(旧藩秘録)。「三方郡誌」には「山祗神社、日吉社、八幡宮社。共に太田鎮座。明治四十一年十月十日、織田神社〈佐田〉に合祀す」と見える。現在清芳院横に八幡神社が祀られている。また谷の入口に山の神の祠が2か所、ほかに神明社がある。当集落は郷社織田神社の祭祀圏に属し、5月11日の春祭には獅子舞を奉納する。


曹洞宗金亀山清芳院

寺院は曹洞宗清芳院。清芳院は天正3年(1575)に山東十郎が開基、十郎の墓がある。芳春寺末。「若州管内社寺由緒記」に「芳春寺三代の住持逸材和尚隠居所也」とある。

廃寺
『三方郡誌』
芳傳院。曹澗宗。大田に在り、天正十八年の創立にして、開山は僧觀雲慈音なりと云ふ。芳春寺末なり。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


太田の主な歴史記録




太田の伝説


『越前若狭の伝説』
飯守(いもり)松  (太田)
 水田のあぜに松がある。この松の枝を切ると、血か流れ出るという。このあたりの田にひるが多いのに、この松の下の田だけひるが住まない。   (若狭郡県志)
 一書には飯盛松と書いている。枝葉の形が飯を盛ったのに似ているからだという。
 (若越宝鑑)


太田の小字一覧


太田  下野松 野松 下反橋 反橋 赤谷口 吹道 下山腰 気屋尻 奥ノ丁 池ノ後 山本 竒京 北山 山腰 下沢 下前田 前田 長見 世久保 久保 須磨田 滝ノ下 滝ヤ谷 井根口 船谷 船谷口 畦高 小谷口 東畦高 細道 上中筋 立畑 中道 下中筋 中沢 上沢 西堀 水上 片山腰 大津 林口 東片山 堂ケ谷 堂ノ前 中田 大曽 山口 門前上 中堀 門前 堂浄ノ下 西森花 東森花 繁則 五反田 上野田 笹小谷 坊ケ市 則友 松尾 上松尾 井向 大平 桃谷口 足谷口 柳谷 向イ山 大平 桃谷 芦谷 真谷 大岩 乙林 戸ノ谷 胡桃谷 西谷 滝ヤ谷

関連情報





資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順


若狭・越前
    市町別
 
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市

丹後・丹波
 市町別
 
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市




【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『美浜町誌』(各巻)
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2021 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved