丹後の地名 若狭版

若狭

大藪(おおやぶ)
福井県三方郡美浜町大藪


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福井県三方郡美浜町大藪

福井県三方郡南西郷村大藪

大藪の概要




《大藪の概要》
久々子湖の東側、集落は国道27号とJR小浜線沿いに立地する。
中世の大薮村は、戦国期に見える村名。若狭国三方郡耳西郷のうち。戦国期の耳西郷惣田数銭帳には「大藪村分田数」として禅栖庵分・長禅庵分・竜泉庵分・真宝庵分・永殊坊・田辺方・地蔵田・経田・上瀬ノ宮王田など6町8反120歩が見え、うち6町2反60歩分の年貢を農民が負担していた。大永2年(1522)3月の上瀬宮(宇波西神社)祭礼神事次第にも3月6日の御供を負担する村のうちに「大やふ村」が見える。弘治2年(1556)6月の明通寺鐘鋳勧進に「大やふ村」は50文を出銭している。
近世の大籔村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」では村高151石余、戸数32・人口159。延享6年(1748)、藩主酒井忠用が社倉米500俵を三方郡に貸与、社倉を当地に建てた。
宇波西神社の祭礼には4年目ごとに王の舞を奉納する。牧口との間にある頭瀬の坂で御幣を3回あげて、再び行列を進める。これは昔大雪のため参詣できず、やむなく遥拝して帰ったという故事に由来し、他区の行列もこの坂で幣を振ることになっている。明治4年に小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年西郷村の大字となる。
近代の大薮は、明治22年~現在の大字名。はじめ西郷村、明治31年南西郷村、昭和29年からは美浜町の大字。明治24年の幅員は東西8町余・南北4町余、戸数44。人口は男125 ・ 女121、小船2。


《大藪の人口・世帯数》 166・65


《大藪の主な社寺など》

広峰神社

国道27号沿いに鳥居がある。当社は建暦元年(1211)、疫病が大流行したため、播磨広峰山の牛頭天王を勧請したものという。「若狭郡県志」には牛頭天王社として出ており「六月十四日有祭」、「旧藩秘録」にも「牛頭天王六月十四日」の記事がある。
『美浜町誌』
広嶺神社
鎮座地…大薮三五-一。現祭神…素盞嗚命・大川大神・大日?貴命・伊弉諾尊・兵主大神・菅原道真。例祭日…七月一日。旧社格…無格社。氏子数…四五戸(平成五年)
社伝によれば、延暦年間(七八二~八〇六)若狭国守岩淵王が創立という。延暦元年(一二一二)に疫病が流行した際、若狭国守護津々忠孝が勅使として奉幣し、翌年朱塗の礼殿を建立したと伝える。素盞嗚命以外の現祭神は明治の合祀による。

延暦元年とあるが建暦元年であろうか。

『三方郡誌』
廣峯神社 大薮に鎮座す。傳云ふ、建暦元年、疫病大に流行し、村民困厄す、因て播磨廣嶺山の牛頭天王を勧請したりと。


曹洞宗金光山久昌寺

久昌寺には金焼き地蔵が祀られている。木の本の浄信寺の地蔵と同じ木で作られたとされ、金焼き地蔵の伝説がある。「旧藩秘録」には「金焼地蔵 六月十三日コクウ」とある。
『三方郡誌』
久昌寺。曹洞宗。大藪に在りき。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


大藪の主な歴史記録



大藪の伝説

『越前若狭の伝説』
金焼き地蔵  (大藪)
 河原市から三方へ向かう県道のわきに久昌寺という寺がある。ここに金焼き地蔵というのがまつられている。
 むかしこの辺のある農家に若い女がやとわれていた。彼女は毎朝飯をたくと必ず握り飯をひとつ作って、どこかへこっそりと持っていった。主人はこれを知って、下女にかくし男でもできているのであろうと思い、下女を呼んで、相手は誰かとたずねた。下女は答えようとしなかった。
 短気な主人は腹立ちまぎれに、かたわらの火おけにさし入れてあった焼きごてを、いきなり下女の顔におし当てた。下女は悲鳴をあげて逃げていった。主人は、ひどいことをしたと後悔した。そのあとで下女が用を聞きにきたので、顔を見ると、やけどの跡かない。主人は下女に尋ねてみたが、彼女もわけがわからないという。
 そこで下女は、今まで自分が握り飯を運んでいたのは。日ごろ信仰している地蔵さまであると告白した。主人は下女に案内させて、地蔵堂へきてみると、地蔵さまの額が焼けただれていた。主人は恐れ入って信者となり、新たにりっぱなお堂を建てた。
 有名な江州(滋賀県)木の本の地蔵さんとは兄弟分で、木の本の方は一本の本の元で作られ、こちらは末で作られた。  (若狭の伝説)


『新わかさ探訪』(写真も)
久昌寺の金焼地蔵さん 若狭のふれあい第80号掲載(平成5年10月26日発行)
*主人に疑われ火傷を負った娘の身代わいに-
 美浜町大薮にある曹洞宗久昌寺の地蔵菩薩像(平安時代の作、桧の一木造り、像高94・2㎝)は、「金焼地蔵さん」とか「身代わり地蔵さん」と呼ばれています。享保15年(1730)に方湖遜菴という人が書いた『金焼地蔵尊縁起』には、その由来が次のように書かれています。
  菩薩像は、弘法大師(空海)手彫りの作と伝えられる。
  昔、村から山を 眺めると、毎晩光を放つものがあり、不思議に思って尋ね探すと、岩の上に地蔵菩薩像が立たれていた。村人は喜んでふもとに下ろし、粗末なお堂を建ててまつった。その後、年月を経てお堂は荒れ果ててしまった。
 あるとき、村の庄屋に奉公する若い娘が、弁当を田んぼで働く男たちのところへ運ぶ途中、地蔵様へのお供えの器がとり散らかされているのを見てあわれに思い、何人分もの弁当から少しずつへずってお供えした。それが何度か続くと、男たちは娘が盗み食いをしていると主人に告げた。短気な主人は、わけも聞かず、娘を木の枝で打ち、焼け大ばしをその顔に押し当てた。しかし、翌朝、娘の顔を見ると不思議なことに傷の跡はなく、時を同じくして菩薩像の眉間にやけどの跡が現れていた。驚いた主人は、娘から話を聞き、自分の過ちと、地蔵菩薩が娘の身代わりになられたことを知った。
 このことが評判となって、大勢の人が再びお参りするようになった。村人は、菩薩像の傷に粉を塗って修理しようとしたが、何度繰り返しても傷が現れたので、「なおすことは菩薩の御心にそわないのだろう」と、そのままにしておくことにした。
  金焼地蔵は、元禄のころには、諸国の霊験あらたかな24地蔵尊の一つに選ばれた。村の信心深い三宅氏は、お堂を修理し、地蔵菩薩の由来が間違って伝えられないよう、この記録を残させた。
 金焼地蔵尊は、年に1回、7月23日だけ開帳され、拝観することができます。ご開帳の日は、「地蔵まつり」として、地区の人たちは親戚を招いてお参りし、民謡を踊り、ごちそうを食べます。普段見ることのできない地蔵尊の姿は、その左隣に安置されている「お前立さま」にそっくり写されています。昭和60年には、金焼地蔵尊奉賛会が大薮区全戸の参加で設けられ、交代で毎月23日にお大師講がもたれています。また、平成3年には、浅妻茂美さんらの手によって絵本『かなやけじぞう』が発刊されました。




大藪の小字一覧


大薮  野寺磯 車屋磯 新五郎磯 西磯 辞世山 池ノ谷 永長 大谷 樽見 大乗子 陽治場 栗ノ本山 中新田 大手 南戸崎 北戸崎 下杉谷 中杉谷 上杉谷 南中野 北中野 五良谷 南下野 北下野 西釈迦窪 中野 大門先 東中野 金山先 節田山 島田 北上ノ谷 南上ノ谷 上田 上宮ノ脇 北山田 山ノ神 南谷 戸芝 八鬼山 西山田 下宮ノ脇 窪田 中嵜 山口 後山 尻江 上ノ谷 竹屋谷 南谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『美浜町誌』(各巻)
その他たくさん



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