丹後の地名 若狭版

若狭

佐柿(さがき)
福井県三方郡美浜町佐柿


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福井県三方郡美浜町佐柿

福井県三方郡耳村佐柿

佐柿の概要




《佐柿の概要》
耳川流域の最も東部。御岳山の北西麓に位置し、西は河原市に接する。旧丹後街道が集落の中央部を横断する。標高60mの椿峠は北にある天王山と御岳山の山すそが出合うところにある。古くから若狭に入る交通の要衝として重要視され、集落のすぐ東側にある御岳山の小尾根が北に走る標高197mの頂上に、中世末から近世初頭にかけて山城が築かれ、東方からの侵攻に備えられていた。常国国吉が築城したと伝えられ国吉城と呼ばれる。その麓に有る城下町由来の集落。
集落なかほどに、こんな案内板がある。↓

佐柿の町家と町並み ~歴史と伝統が息づぐ町~
 美浜町佐柿は、国吉城の城下町を起源としている。豊臣秀吉の家臣である木村常陸介定光が、国吉城主となった天正十一年(一五八三)から整備を始めた。それまでも集落は存在したが、国吉城の麓を通るように丹後街道の向きを変えて、新たに街道に沿って短冊型に区画された町割を整えた。そして、税金や使役(労働)を免除するといって近隣の民衆を集めた結果、百戸以上の町家が建ち並び、多数の寺社も整備された。
 慶長五年(一六〇〇)、若狭国の領主となった京極高次は、若越国境の重要な場所ということで、往来監視の関所を設けた。同九年(一六〇四)、大火によって町の多くが焼失したが、後に復興された。その後、小浜藩主となった酒井忠勝は寛永十一年(一六三四)、佐柿に町事行を置き、三方群一帯を治めた。


中世の佐柿は、戦国期に見える。弘治2年(1556)6月の明通寺鐘鋳勧進算用状に130文を奉加した「耳庄さかき」が見える。御岳山の国吉城に籠城した粟屋勝久は永禄6(1563)~12年の朝倉氏の再三の攻撃にも屈しなかったという。このとき佐柿村の常国十郎左衛門と杉谷内蔵助も籠城したと伝える。元亀元年(1570)4月、織田信長は越前へ向かうとき近江より若狭へ入り当村の国吉城に宿した。国吉城のことを「沙木ノ城」とも称している(朝倉始末記)。柴田勝家と羽柴秀吉の決戦を目前にした天正11年(1583)2月27日に、若狭を領した丹羽長秀も秀吉方として佐柿を防備している。勝家の滅亡後は佐柿は「木村隼人佑秀晴」に与えられたと伝え、「若狭守護代記」に「秀吉公木村常陸介ニ命シテ曰、我先年信長公に属シテ佐柿ニ宿セシニ城下ニ町家ナクシテ万事不自由ナリシ也、此度町家ヲ申付ヘシ、是軍用ノ為ナリト、因之木村、近辺ノ者ヲ招テ諸役ヲ免シ町家ヲ作シム、是佐柿町家ノ始ナリ」とある。「国吉籠城記」に、木村常陸介は佐柿の南北に道をつけ、諸役・地子などを免除して100軒の町を作ったという。北町・横町・南町・殿町・堅(竪カ)町・野瀬町の名が今もその名を伝える。文禄3年(1594)以降は木下勝俊の支配下で佐柿には三方郡伝馬が置かれ、佐柿町与兵衛は久々子村や松原村の馬借を動員して浦の荷物を敦賀や近江国今津まで運送するよう命じられている。
近世の佐柿村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「若狭国志」伴信友注に「佐柿 町名六 野瀬町・南丁・竪丁・横丁・中丁・北丁」と見え、小規模ながら町並みが発達している。「雲浜鑑」に戸数108、人口426。慶長5年(1600)入封した京極高次は、重臣多賀越中守を配して国境を固めた、寛永11年(1634)酒井忠勝が入封すると陣屋を設けて奉行をおいた。陣屋は字旭谷にあり奉行1人・足軽20人が配置され、女留番所も併置されて婦女の出国を取締まったという。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年耳村の大字となる。
近代の佐柿は、明治22年~現在の大字名。はじめ耳村、昭和29年からは美浜町の大字。明治24年の幅員は東西10町・南北3町、戸数113、人口は男265 ・ 女258。


《佐柿の人口・世帯数》 264・90


《佐柿の主な社寺など》

日吉神社(和邇部神社)

藤原京址出土木簡に、「三方評/竹田部里人/和尓部大伴塩二斗∥」。平城宮址出土木簡に、「若狭国三方郡竹田郷/丸部里竹田部首乙/○知○志○御○調○塩○五○顆∥」とある。竹田郷とか竹田部郷というのは『和名抄』には見えないが、このあたりであろうか、史料には何もないが、建部の前身かも、古くからの軍事基地だったのかも、と想像してみるしかない。丸部里は和邇部神社が鎮座の当地の一帯と思われる。塩を納めていた。

『美浜町誌』
日吉神社
鎮座地…佐柿二九-二。祭神…大山咋命。例祭日…四月十四日。旧社格…無格社。氏子数…八十戸(平成五年)。「若狭郡県志」の「山王社」条に、「在二佐柿村一。四月十四日、有レ祭。産神也。正保二年酒井忠勝公、有二祈願事一、而造二常神殿一。」とみえる。しかし、『普光山記残片』に、當地ノ産土神ヲ和爾部神卜云。斉神ハ和爾部ノ祖ヲ祀ル。慶雲元年四月十四日創建ナリ。宇多天皇寛平元年、近江国坂本山王宮ノ御分霊ヲ合祀ス。之レヨリ山王大権現卜崇號ス。當寺青蓮寺ニテ社務ヲ司ル。
 道勝案スルニ、和爾部神社ハ延喜式ニ有リ。正保二年、酒井若狭守忠勝公御祈願ノ事アリテ、社殿ヲ御造営アリ。
ここに登場する普光山とは当社佐柿日吉神社の東隣に現存する真言宗青蓮寺のことである。また道勝とは、「普光山記残片」の筆者で江戸時代初期の人である。これによると、佐柿日吉神社は、もとは和爾部神社であって和爾部の祖神を祭るのだということである。しかも慶雲元年(七〇四)の創祀であるという。日吉神社と改称されたのは宇多天皇の寛平元年(八八九)に近江の山王宮(日吉神社)の分霊を合祀したことによるという。和爾部神社の社号はこれより失われたとみられる。本殿の下位(向って左後方)に小祠あるがこれが本来の和爾部神社の名残りと推測する向きもある。和爾部神社は式内社であるが、他に和爾部神社と袮する神社は、現在郡内に存在しない。「神社私考」も「此社今詳ならず」と述べる。唯一この佐柿日吉神社がその縁起を残している。
 「和爾部」は「ワニベ」と訓じて何ら問題はない。『神社私考』にある「当国に住りし和爾部臣等が氏神として、日子国意祁都命」は「古事記」中巻に、大倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が丸邇臣之祖、日子国意祁都命之妹意祁都比賣命を聚って生れたまいし子が日子坐王であるとみえる。この「日子坐王の父である「室毘古王」は弥美神社の祭神である。鎮座地は、平城宮址出土の木簡に、「若狭国三方郡竹田郷丸部里」の記述がみえるからこの「ワニベノ里」は和爾部神社の鎮座地と関係が深いとみられる。『若狭国神名帳』には、「正五位丸部明神」とある。「丸部」は「ワニベ」と訓むから、これが式内社である和爾部神社に他ならない。さて、「ワニベ」は古代において「和珥部・和爾部、和爾部・丸部」と作るが、いずれも同族とみられ、「新撰姓氏録」に、「右京皇別」として「和爾部朝臣」・「和爾部宿袮」・「和爾部臣」・「丸部」がみえ、右京皇別・山城国皇別・摂津国皇別にそれぞれ「和爾部」が見えている。また越前国では、足羽郡や坂井郡の戸主や「東大寺領道守村開田図」の「東大寺古定部分」に「丸部」氏の人名がみえる。このように「ワニベ」は秦氏のように諸国に広く分布していたようである。壬申の乱の功臣に和珥部臣君手がおり、開化・応神・反正・雄略・仁賢・継体の各天皇の后妃を出したワニ氏の氏神が、かつて若狭にあったことは注目されるべきことである。


本殿の左奥の2社、神額がない。

『三方郡誌』
日吉神社。佐柿に鎮座す。もと山王社と稱す。産土神なり。正保二年酒井忠勝神殿を造營す。普光山記に曰、當地ノ産土神ヲ和爾部神ト云、齊(祭)神ハ和邇部ノ祖ヲ祀ル、慶雲元年四月十四日創建ナリ。宇多天皇寛平元年、近江國坂本山王宮ノ御分靈ヲ合祀ス、之レヨリ山王大権現卜崇號ス、當寺〔青蓮寺〕ニテ社務ヲ司ルと、此書は承應二年僧道勝の寫す所なり。當時かゝる傳ありたるか。和爾部神社は式内にして、國帳には正五位丸部明神とあり。和爾部の祖は丸邇臣の祖日子國意祁都ノ命なり。日子國意祁都命は耳別の祖室毘古王の父彦坐王の外舅なり。



広峰神社
国吉城の登り口にある祠がそれか。
『三方郡誌』
廣嶺神社。同區に鎮座す。もと天王社と稱す。明治二年小浜藩より廣嶺神社と改稱せらる。

愛宕神社
『三方郡誌』
愛宕神社。同區に鎮座す。傳へ云ふ、もと國吉城中に祀りし鎮守社なりしを、廢城の後、今の地に移し、再建すと。


曹洞宗陽光山徳賞寺

国吉城資料館の奥にある大きな寺院。本尊は釈迦如来。天文年間(1532-55)祐という僧が当地に結んだ徳賞庵を、永禄6年(1563)粟屋越中守勝久が改築、徳賞寺と号し、聖徳太子作と伝える本尊釈迦像を安置して山林田畑を寄進した。越前盛景寺八世機山祖全を開山とする。「若州管内社寺由緒記」に「陽光山本尊釈迦脇立文珠普賢、雲(運)慶の作、開山□(機カ)山和尚越前盛景寺の住持に候、天文十七年の比当国へ来り当山開伽藍建立也、開基の施主徳賞祐と申候」とある。歴代の領主は旧によって境内山林の租を免じた。国吉城主粟屋越中守の墓がある。国吉城主の檀那寺。

『三方郡誌』
徳賞寺。曹洞宗。佐柿に在り。永祿六年粟屋越中守勝久の開基なり。弘治二年守護武田義統國境の防禦として城廓を國吉山に築き、粟屋越中守勝久を城主となす。時に勝久思へらく、兵家の慣ひ戦備と戦死追福の法なかるへからすと、此より先き天文年間、沙門祐者と云へるものあリ、旭渓の上に草庵を桔ひ、徳賞庵と號して居る。勝久其庵を改造して巨刹となし、陽光山徳賞禪寺と稱し、趙前盛景寺八世機山祖全を聘して開山となし、聖徳太子御作釈迦佛の像を安置し、山林田甫を寄進して寺領となす。木村常陸守、國吉城主たる時、下馬臺を建設し爾後の國主歴代、亦舊に據で境内山林の租を?く。寛永年開火災に罹り、慶安元年より再建と経営して寶永二年十一月に至り、堂塔法器完成す。盛景寺末に属す
 「陽光山記」 …



高野山真言宗普光山青蓮寺

青蓮寺は養老5年(721)泰澄の創建といわれ、本尊聖観世音菩薩立像は国宝級といわれているが未指定。
案内板がある。
普光山青蓮(しょうれん)寺(真言宗古義派)
 『普光山記』によれば、三方郡最古の古刹で、その由緒は霊亀二年(七一六)丙辰五月の創立で、開山は勅賜禅師神融泰澄大師といい、大師自作の不動明王の木像があったとある。その後、貞観十八年(八七六)山城国嵯峨野大覚寺草創ののち、末寺となったとある。
 また、寺の西には日吉神社がある。当地産土神を和爾部神といい、祭神は和爾部の祖を祀る。慶雲元年(七〇四)四月十四日創建といい、宇多天皇が寛平元年(八八九)に近江国坂本山王宮の御分霊を合祀し、以降は山王大権現と称して、当寺が社務を司ったという。
 元の青蓮寺は、国吉山麓の「青蓮寺谷」と称する谷間にあったが、寛永十二年(一六三五)に小浜藩主酒井忠勝が佐柿町奉行所(御茶屋屋敷)を建築する折に、現在地へ移転した。
 国吉城主粟屋勝久は、東田信長に加勢して越前国一乗谷の朝倉氏を攻めた時に持ち帰った「五百体愛染明王図(伝弘法大師)と青磁浮牡丹皿を寄進しており、この他に、平安時代から鎌倉時代にかけて創作された涅槃図、不動明王図、聖観音図などの仏画や、聖観音立像(国重要文化財)が伝わっている。また、境内の北隅に聳え立つ大銀杏(町天然記念物)は、小浜藩二代酒井忠直の手植と伝えられている。美浜町教育委員会


『三方郡誌』
青蓮寺 眞言宗古義派。佐柿に在り。普光山と號す、本尊正観世音なり。傳へ云ふ、斯像霊亀年中青蓮花に乘して此に現はる、故に一宇を建てゝ之を安んじ、青蓮寺と名くと、又傳へ云ふ、養老五年僧泰澄の創建なりと今洛西大覚寺末なり

和邇部神社の別当寺であろう。


日蓮宗神力山光明寺
康永元年(1342)創建。由緒不詳。
『三方郡誌』
光明寺。日蓮宗。佐柿にあり、敦賀妙顕寺末なり。


浄土真宗本願寺派円行寺

寛永三年(1626)創建と伝わる。由緒不詳。
『三方郡誌』
圓行寺。眞宗本願寺派。佐柿に在り。寛永六年火災に罹り、由緒詳ならす。

真宗大谷派寿光山了賢寺

「神社明細帳」に、「東本願寺十一世顕如法主弟子了玄創立年月不詳。」
『三方郡誌』
了賢寺。眞宗大谷派。佐柿に在り。東本願寺十一世顕如の弟子了玄の創立と稱すれとも年月詳ならす。

曹洞宗無量山福寿院


浄土宗大原山光称寺
『三方郡誌』
光稱寺。淨土宗佐柿に在り。慶安年中僧良如の開山なり、蓋、寺は原より在りたるを、此時改宗して良如を開山としたりしならん。傳云ふ、往古の寺地は四町四方の境内なりしを、國吉城下に町屋を立てられし時、町民の屋敷とたしたりしと。敦賀原西福寺末なり。

妙見堂
『三方郡誌』
妙見堂 佐柿に在り。邑人杉本嘉一の祖先某安置す、明治二年頽敗し、光明寺に預け置しを、十三年九月許可を得て再建す。


国吉城

集落から登る大手筋のようで、駐車場もある、草木の葉が全部落ちた、下に雪のない晴れた日が登り時。城山頂上の本丸跡の標高は約200メートル、ゆっくり登っても1時間ほどのよう。

駐車場から国吉城を見る。左手の少し高い所。もう少し葉が落ちたほうがいいよう。今は城のま下を国道27号がトンネルで抜ける。



国吉城は、中世~近世初頭の山城。城は御岳から北西に延びて下降する山系のやや突出した城山(197.3m)に主郭を配し、それより直線に下降して階段状に連郭を構成する。
尾根の東西は急峻な要害で、北は低い尾根で天王山と連なり、その低い部分に丹後街道の椿峠がある。
北側には機織池と称する沼地があって天然の要害となっていた(今は水田)。
この山系が若狭の東側防壁となり、中世では山系の東を山東郷、西は山西郷と呼ばれていた。

城は永禄年中(1558~70)に三方郡東部で大きな勢力を持っていた若狭守護武田義統の有力被官粟屋越中守勝久が古城を手直しして築城したもの。
ここからは美浜町域が一望され、両郷を守備する本拠地として最適の場所である。また隣国越前からの侵攻を防禦するためには絶好の場所で堅固の城であった。
最高所の主郭は石垣をめぐらし南西隅に櫓台を持ち、背後は3条の堀切りで遮断。北西部は3段の小郭を配し先端部は石垣。これより6段の郭が連続し、郭の段差は4~6mとかなり高い。先端には竪堀もあり比高差は72m。さらに主郭の西側に張り出す枝峰中段にも一郭をつくり土塁が残る。全長260m、最大幅40m。これより山麓への道があり館跡にいたる。
永禄6年(1563)から数年間、越前の朝倉氏が粟屋氏を攻めたが落城しなかった。江戸初期成立と思われる佐柿国古之城粟屋越中以下籠城次第、「永禄六年八月下旬に越前之朝倉左衛門義景若狭国をせむへしとて初手に国吉之城をふみおとし申すへしとて敦賀天筒の城主朝倉太郎左衛門、半田又八軍奉行にて大勢急に攻め来るよし風聞いたし申し候」「西郷耳之庄山東の地侍は不残国吉の城え集り」と述べ、籠城の軍勢は侍200人、、百姓600人と伝えている。この合戦で朝倉軍は260人の死者を出し半数が傷を負った。朝倉軍は同7年・8年・10年・11年と若狭へ攻入ったが、国吉城は落城しなかった。若狭の戦国史上粟屋勝久の国吉籠城として高く評価されている。
元亀元年(1570)4月23日、越前侵攻の拠点として織田信長がこの城に入った。粟屋勝久は以後一貫して信長の与力として働き、のち豊臣秀吉に仕え他国で所領を与えられた。天正11年(1583)木村常陸介定光が城主となり佐柿城下町を形成したが、寛永11年(1634)酒井忠勝入部以後廃城となった。
酒井忠勝入部後、寛文11年(1671)の佐柿町中からの申上書に「佐柿町地子諸役、如先規御免許、恭難有奉存候」とあり、代々領主より地子諸役免許を受けていることがわかる。同文書によれば、「慶長九年きのへ辰ノ六月晦日大火事」で以前の免許状を焼失した後も、藩から特別の保護を受けている。また、酒井氏入部後に佐柿字旭谷に代官所が創設され、奉行1人・武士20人が置かれた。「雲浜鑑」に「佐柿御陣屋地坪凡二千四十三坪、御屋形台所長屋番所共建家百六十三坪、外に表門一ケ所、露徐三ツ、奉行役宅四十七坪、制札場一ヶ所、但四方柵有リ、女留番所三坪半木戸門柵有リ」とある。代官所は幕末まで存続した。最後の奉行は安政元年(1854)10月19日就任の小浜藩士粕屋四郎兵衛である。

『三方郡誌』
國吉城址。佐柿の東方城山に在り。北は機織池に臨み、南は深壑を隔てゝ御嶽を控へ、山背は岩出鼻及ひ椿峠に連る。佐柿よりと山上よりとの二條の登路あり、佐柿よりするは所謂大手筋なり。城は天文弘治の際、守護武田氏の臣粟屋越中守勝久之を築き、國吉と名けて之に據る〔國志に云、往古某姓國吉の築くところ、勝久之を再興し、故らに舊名を稱す〕永禄六年以來、累年朝倉氏の兵来り浸すや、勝久城に據て固守す。元龜元年四月、織田信長、朝倉義景を伐んとす、即ち近江より若狭に入りて熊川に次す、勝久之を城に迎ふ、信長及豊臣秀吉は城に入り、徳川家康は別所か原に陣す、信長、逗留二日、此に軍議し、敦賀郡に向ひて天筒及金崎の二城を陷る。天正元年、朝倉氏の兵また來り浸し、城の近里に放火す。同十一年、木村隼人佐定光、三方郡に封せられ、此に居る。後堀尾可睛亦暫く此に居り、丹羽長重の臣江口三郎右衛門、浅野長政の臣浅野平右衛門、木下勝俊の臣松平三左衛門、京極高次の臣多賀越中、〔一萬三千石を領すと云〕相継て此を守る。酒井氏の時に至り、城を廢す。
〔佐柿國吉城籠城次第〕…



佐柿関所

道は旧丹後街道、集落の東のはずれにある。
案内板に、
佐柿関所は、関ヶ原の合戦後に若狭国の領主となった京極高次によって、丹後街道の往来監視などを目的として設置された。東西約二十三メートル×南北約十三メートルの空間の周囲に高さ約一・二メートルの土手と生垣を廻らし、北側に木戸を構え、その内側に番所が設けられていた。
 明治元年(一八六八)、太政官令として全国の街道筋にある関所・番所が廃止となり、この折に廃された。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》



若狭国国吉城歴史資料館(奉行所跡)

案内板に、
佐柿町奉行所(御茶屋屋敷・御陣屋)跡
 ここは小浜藩主酒井忠勝が開いた佐柿町奉行所(御茶屋屋敷・御陣屋)跡である。小浜より町奉行と与力が派遣され、佐柿の町を治めた。享和3年(1803)に「佐柿御陣屋」と改められた。当地には現在、若狭国吉城歴史資料館が建ち、近世城郭に見られるような見事な石垣や池泉.水路跡などが残されている。
存在した建物の様相は明らかでないが、「佐柿村絵図」(19世紀初頭頃)には、現存する石垣付近に「御茶屋御門」の位置が示されているほか、「佐柿村大絵図」(幕末~明治初期頃)には、石垣上には狭間を設けた塀や長屋状の門、2棟の大きな書院建物の姿が猫かれている(いずれも資料館内に展示中)。
 また、「雲浜鑑」(文化4年・1807)によれば、「佐柿御陣屋地坪二千四十三坪、御屋形御台所長屋番所共建家百六十三坪、外に表門一ヶ所、露除三ツ、奉行所役宅四十七坪、御札場一ヶ所但四方柵有り、女留番所三坪半、木戸門柵有り」とある。これらの建物は廃藩後に破却されたが、各地の有力者などに払い下げられて移築された。
現在、資料館の一部として書院(美浜町佐田、旧田辺半太夫家住宅一部)と表門扉(美浜町郷市、旧田辺四郎兵衛家門)が再移築され。公開中である。


佐柿の主な歴史記録



佐柿の伝説






佐柿の小字一覧


佐柿  椿峠 坂本 杉谷 柳谷 天王口 瀬戸 大黒 薬師下 中島 木下 山本 城下 岩清水 黒町 中縄手 寺屋敷 大坪 西之木 鐘築 立町 中組 山ノ神 殿町 馬場下 旭谷 川上 宮本 宮ノ腰 山王 南町 大原 野瀬谷 野瀬町 左衛門辻 硲 岡本 野本 町分 折橋 畔田 狐穴 狐越 横枕 山ノ花 日影 町田 白髪田 塚ノ町 本町 川添 中道 末清 清原 火打谷 葭原 流田 穴田 開田 西ノ川 川末 塔ノ下 塔ノ上 東山谷口 清水 鍛冶屋岸 村中 堂ノ下 宮野脇 宮西 天水口 小山越 堅ケ谷 波賀曽 向山 小倉山 十次郎谷 西谷 上山 大谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『美浜町誌』(各巻)
その他たくさん



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