坂尻(さかじり)
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福井県三方郡美浜町坂尻 福井県三方郡山東村坂尻 |
坂尻の概要《坂尻の概要》 旧国道27号の椿トンネルの東入口にある集落。地名は椿峠の登り口にあたる地形によって名付けられた。 中世の坂尻は、戦国期に見える地名。弘治2年(1556)6月の明通寺鐘鋳勧進に「さか尻」は153文を奉加している。中世は織田荘のうち山西郷に属していたと考えられている。「若州国吉騒動記」(一向一揆資料)によれば、永禄11年(1568)8月中旬、朝倉勢が大勢で「坂尻浦」におし寄せたという。 近世の坂尻村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。天和元年(1681)の坂尻浦庄屋仁兵衛鰺網場年期請状には、銀200匁で早瀬の鰺網場を5年間買い受けたことが記されている。「雲浜鑑」に、戸数46・人口229。文政3年(1820)伊藤正作が山腹に沿って道路を開削するまでは、腰越坂が主な街道であった。のち明治18年、若越二州の車道開削の時、道路を拡幅し車馬の往来が自由となり、以後国道に昇格。椿峠も同年車道が開削された。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年山東村の大字となる。 近代の坂尻は、明治22年~現在の大字名。はじめ山東村、昭和29年からは美浜町の大字。明治24年の幅員は東西2町・南北1町余、戸数50、人口は男112 ・ 女130、小船31。 《坂尻の人口・世帯数》 179・56 《坂尻の主な社寺など》 機織池 旧国道27号(丹後街道)沿いに千鳥苑というドライブインがあるが、その駐車場から↑。 正面の高い山が国吉城で、その東北麓に機織池があった、今は旧国道27号の南側に真っ平らな水田として残っている(一部に池が残る)。冬のなると農業用水が高潮によって逆流し、このあたりは天橋立に似た景観を呈するという。機織池は、もともとはラグーンだったのであろうか。ドライブインがあるあたりは砂嘴であったものか。織田湾の一番奥である。 約21町ある水田は海抜0メートルの低湿地のため、冬季に海が荒れると高潮で河口がふさがれて水田一面が池となるという。古来機織池と呼ばれ、国吉城の天然の濠であった。聖護院道興准后も「蝉のはの衣に夏は残れとも秋の名にたつはたをりの池」と詠んでいる(廻国雑記)。機織姫の伝説が伝えられ、池のなかにはかつて機織姫神社が祀られていたが、現在氏神一言主神社に合祀。丹後街道沿いに松林があり、海と池の間にひろがる景観は、ミニ天橋立といわれる。 一言主神社 集落の東麓に鎮座する。大和葛城と何か関係ある地なのであろうか。 『美浜町誌』 一言主神社 鎮座地…坂尻一四村内二一。現祭神…一言主大神・迦具突智神・市杵島姫命・大山祇命。例祭日…十月二五日。旧社格…無格社。氏子数…五十戸(平成五年)。「若狭郡県志」に「一言主神を祭る。九月二十五日に祭礼がある。」と記載する。明治四二年五月三一日に山神社・宗像社・愛岩社を本社に合祀した。一言主大神は、雄略天皇が葛城山に行事の折、「悪事も善事も一言で言い離つ神だ」と自称された神である。「一言」というのは「一言で託宣する主の神」の意をみられる。その他の現祭神は合祀による神々とみられる。 『三方郡誌』 一言主神社 坂尻に鎮座す。もと一言明神と稱す。郡縣志に曰、祭一言主神者乎、九月二十五日有祭と、今一言主神社と稱するは、郡縣志の説に據れるなるべし、一言主とは味スキ高日子根神の事にして、大國主神の子なり。産土神にして、境内五百七十六坪あり。八幡社・機織姫社・金幤社・西宮社及ひ山神社・宗像社・愛宕神社を合祀す。 神社は「若狭郡県志」に明神社・一言明神社、「雲浜鑑」には織姫・若神(岩神か)・愛宕・山神・一言明神の各社が見える。「旧藩秘録」には「明神八月十五日ゴクウ御幣湯立一言大明神九月廿五日上ニ同」とあるが、現在は一言主神社が主神となっている。ほかに宗像社・八幡宮社・金幣社・西宮社を合祀している。 弥美神社の祭祀圏に属し、5月1日(旧4月1日)の例祭には佐柿とともに幣組を勤め、4年に1度大御幣を奉納する。地形上は山東郷に所属しているが、中世には山西郷に含まれていた名残であろうという。 曹洞宗天王山龍海寺 一言主神社の隣り。佐柿の徳賞寺末。本尊は釈迦仏で京都無学寺より移したものという。 『三方郡誌』 龍海寺 坂尻に在りき、曹洞宗徳賞寺末本尊釈迦佛は、もと京都無學寺にありしを、之に移し置たるなりき〔この本尊記、晃巌語録に見ゆ〕 〔霊山晃巌和伺語録〕… 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 坂尻の主な歴史記録坂尻の伝説・民俗ガリアイ1月14日の夜、ガリアイと呼ばれる子供組による民俗行事が行われるという。「狐のすしは七桶ながら八桶にたらいで、地頭殿のおおせで狐狩りをするといの。ガリアイ、ガリアイ」と大声ではやしながら祝槌で地面を激しくたたき、村通りを隊列を組んで回り、狐を村境へと追い払う。各家では「今年の年はめでたい年で、かどには門倉、せどには銭倉、なかには不動の宝倉」と祝言をとなえ、なにがしかの駄賃をもらう。民俗学上「小正月の訪問者」と呼ばれる狐狩りと戸祝いが習合した行事だという。 『三方郡誌』 機織池 坂尻の東南、國吉山麓の北の水田は、往古は一面の池なりき、後漸次水涸れて水田となれり、傳云二、一婦あり、冬日機具を携へて此池の氷上を過きしに、氷破れて陷り死す。のち屡水中に機聲を聞けり、因て邑人之を愍み、その靈を祀りて祠を池の頭に建てゝ、機織姫神社と云ひ、池を機織池と云ふと、祠は後に池畔耕地となれるを以て、坂尻の邑に移し、今は一言主神社に合祀せり。 〔廻国雑記〕淮后道興 此所々〔戀の松原、浦見坂を云ふ〕を打過て、はたをりの池といへる所に休て、 蝉のはの衣に夏は殘れとも秋の名にたりはたをりの池 『越前若狭の伝説』 機織り池 (坂尻) むかしある女が、冬の寒い日機具(はたぐ)を背負ってこの池の氷の上を歩いた。すると氷か割れて、池の底に沈んだ。その後池の中から機を織る音が聞こえる。池のほとりはい草か多くはえていたが、今は水田となっている。 (若狭郡県志) 村の人は女をあわれみ、池のそばに社を建て、機織り神と称する。後世に池が耕地となったので、社を人家のそばへ移した。 (若狭国志) 註 機織姫神社は、今は一言主神社に合祭してある。(三方郡誌) 大津波 (坂尻) 古代の坂尻は数百戸の部落であったが、大津波のために海中に没して跡方もなくなった。この大津波のとき坂尻の天王山(約一八〇メートル)へ逃げた者は腰まで水につかり、山上(やまがみ)の御嶽(おんたけ)山(約五二〇メートル)へ逃げた者は水に足がつかったという。 (永江秀雄) 坂尻の小字一覧坂尻 西椎本谷 椎本谷 北椎木谷 生水谷 北後 苧畑 黒坂 山神 水上 堂上 西堂上 古堂 谷 村内 岸上 浜屋敷 浜畑 横浜 細門 前田 村下 北茂谷 茂谷 長ヲサ 坂畑 相古谷 西大谷 東大谷 大谷 広畑 東広畑 城ノ下 柳田 西ヒヱタ ヒヱタ 東ヒヱタ 腰越 東腰越 浜田 岩出 東岩出 浜松原 岩出浜 押止谷 大山谷 船寄合 白クリ 黒嵜 七日下シ 相古谷 平田 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『三方郡誌』 『美浜町誌』(各巻) その他たくさん |
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