丹後の地名 若狭版

若狭

菅浜(すがはま)
福井県三方郡美浜町菅浜


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福井県三方郡美浜町菅浜

福井県三方郡山東村菅浜

菅浜の概要




《菅浜の概要》

敦賀半島の西、西方岳山系の三内山麓に位置し、若狭湾の中の織田湾に面する。伴信友は「神社私考」の中で、「多遅摩毛理が三男を清日子、其子を酢鹿之諸男、次に妹菅竃由良度美と称して、みな須賀といふ言を名に負ひたるを准へ按ふに、須賀は菅浜のもとよりの地名にて、菅浜はその浜辺をいへるか、後に里名をも菅浜と呼へるなるべし…由良度美の名に冠たる菅竃は、菅浜の約まれるなるべし」と述べている。砂の堆積した地形を意味する「スカ」に由来するという説もあるが、宮山裏の茶谷には須恵器を焼いたという竃跡の伝承があり、菅浜という地名や菅竃明神という神名との関わりから注目される。
中世の菅浜浦は、鎌倉期から見える浦名。戦国期には菅浜村とも見える。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案の山門(延暦寺)沙汰分所領のうちに「菅浜浦」5町5反130歩とある(京府東寺百合文書ユ)。建暦3年(121)2月の慈鎮(慈円)譲状に見える山門常寿院領「織田庄同浦三所」の浦の1つであった。応安2年(1369)より守護一色範光に反抗する国人の動きがあり、当浦も山門領としてこの反守護勢力の拠点となった、 「若狭国守護職次第」によれば、応安3年(1370)守護使壱岐太郎が夜討に遭い、それを聞いた守護代は西津を立って、山東・山西の両郷に攻入り、菅浜において合戦しし、守護代方が勝っている。文明10年(1478)9月21日に田辺四郎右衛門尉貞次が幕府に安堵を求めた買得地のうちに「菅浜福林寺田」が見える。文亀元年(1501)8月10日に山東郷菅浜村清勝庵領貞広名をめぐる争いがあり、山東孫四郎の地として認められていたが、翌年4月23日に改めて領主青蓮院より補任状が出されている。永禄6年(1563)に佐柿国吉城に籠城した者のうちに菅浜村の弥六と長助がいたと伝える。
近世の菅浜村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」では戸数122 ・ 人口531。山東組内最大の集落。塩・黒碁石を産出する。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年山東村の大字となる。
近代の菅浜は、明治22年~現在の大字名。はじめ山東村、昭和29年からは美浜町の大字。明治24年の幅員は東西8町余・南北3町余、戸数114、人口は男288 ・ 女300、学校1、小船52。民宿業も増加、竹波との中間にある水晶浜海水浴場は町内有数の観光地となっている。

綺麗な浜。名の通りの水晶(石英)の砂。裏山の花崗岩が砕けて砂になったものだろうか。


《菅浜の人口・世帯数》 441・139


《菅浜の主な社寺など》


須可麻神社東古墳
須可麻神社前の田中に「平石の塚」と呼ばれる古墳があり、付近の安丸カイト(班)が貧乏したら塚を掘ると金の鶏が埋められているとの金鶏伝承が伝えられている。

菅浜製塩遺跡
奈良期の製塩遺跡菅浜遺跡がある。

須可麻(すかま)神社(式内社)

菅浜小学校の跡地だそうで、グランドがあるが、その隅っこに鎮座。西向きの神社が美浜町あたりには多いが、当社も西向きである。案内板がある。
須可麻神社由来書
御祭神
 世永大明神(菅竈由良度美姫)
 麻気大明神
祭例
 暦年五月二日
由緒
敦賀半島及び、美浜町東部(旧山東村)は、古朝鮮(新羅)の王子であった天日槍の一族が集団渡来(亡名帰化)した地点とされ、それにまつわる地名の多い地域とされています。菅浜には、その天日槍の子孫である菅竈由良度美という人が住みつき、焼き物作りをされ、若狭地方に焼き物を広められたと言われています。その焼竈をお祭りした社を菅竈神社と定めたのが須可麻神社のはじまりと推定されています。又、菅竈由良度美は敦賀の気比神社や常営神社に祀られている神功皇后の祖母に当たり、菅浜には神功皇后や夫の仲哀天皇、その子応神天皇にまつわる神話も伝えられています。
神職
織田神社宮司が兼務
祭祀
古くは四月二日に行われてぃたが、太陽暦になって五月二日になりました。手作りの子供神輿や青年御輿が村内を練り歩きます。
社殿
以前は神社、寺社が同一場所に建設されていたと言われていますが、明治初期に分割され寺社は山の方に移転しました。現在の社殿は、昭和五十年(一九七五年)に改築されました。本殿は流造、西向き、明神鳥居。
本殿の正面に向かって左側に式内須可麻神社 右側に麻気神社が鎮座されています。村民の信仰は深く、現在も毎月、月次祭が祀られています。(平成十二年五月作成)


「延喜式」神名帳の「須可麻神社」に比定される。「正五位菅竈明神」(「若狭国神名帳」)、「世永明神」(若狭国志)とも記される。境内に稲荷神社・大川神社・日吉神社・麻気神社・広嶺神社・塩竈神社を祀り、菅浜の産土神。「若州管内社寺由緒記」に、「世永明神、本地薬師如来、古来より所の氏神、由来不知、丹波猿楽梅若太夫、毎月十八日参神事能仕候、今以倉太夫参り神事能仕候」とある。
伴信友は「若狭国神社私考」の中で当社を「菅竈由良度美姫を祭り給へるにもやあらむ」とし、「古事記」応神天皇の段にみえる新羅より渡来した王子天之日矛の7代目が菅竈由良度美姫にあたるとし、また、仲哀天皇の段にみえる「高志の前の角鹿に仮宮を造りて」禊をした時、太子(応神天皇)の外戚の曾祖母にあたる菅竈由良度美を当地に祀り始めたのではないかという。
「若狭国志」には「在菅浜村、今称世永明神、蓋此也」。「若狭郡県志」には「世永明神社 在菅浜村、四月二日・六月十八日・十一月朔日有祭」「麻気明神社 在同村祭日同前、六月十八日有神事能」とある。麻気神社はもと字南文珠に祀ってあったもので、明治41年須可麻神社に合祀。麻気神社については、「若州管内社寺由緒記」に「本地薬師如来 江州まけ大明神を勧請申由由来不知」と記されている。

『美浜町誌』
須可麻(すがま)神社
鎮座地…菅浜九八-三。現祭神…須可麻大神。例祭日…六月二日。旧社格…無格社。氏子数…一二五戸(平成五年)
 JR東美浜駅から北五キロメートルほどの所、敦賀半島の西側海岸の菅浜に鎮座する。
 式内比定社で、『若狭国志』に
  須可麻神社、在二菅濱村一、今称二世永明神一蓋此也。祭神不レ詳。
とあるように当社は「世永明神」と呼称されていた。「須可麻」は「スカマ」と呼んでよいであろう。『若狭国神名帳』に、「正五位菅竃明神」とあり、伴信友の『神社私考』では、当社の祭神は『古事記』にみるアメノヒボコの子孫菅竃由良度美で、神功皇后の母葛城之高額比売命の毋、つまり神功皇后の祖母になる命であるとする。しかし、「スカ」は「州處」(スカ)であって、「川や海の水などで推積した砂地。河海にのぞむ砂地や砂丘」(「日本国語大辞典」)の意とするのが自然で、『若狭国神名帳』に「菅竃明神」とあるのは、「須可麻」と「菅竃」とを結びつけることによって縁起が形成されていたのであろう。伴信友が、「須可麻神社」と「菅竃由良度美」とを訓の上から結びつけて「古事記」の天之日矛や神功皇后をも安易に結びつけることは無理があるといわねばならない。


『三方郡誌』
須可麻神社。式内。菅濱に鎭座す。國帳に正五位菅竃明神とあり、もと世永大明神・麻氣大明神とて、二座を一社に祭れり、その孰か一座なるべし。國志には今稱世永明神盖此也と。今も世永明神を本神となすは、國志に據れるなるべし、麻気・世永の御號の起因も詳ならす。越前丹生郡足羽郡に麻気神社あり、又郡内世久見に世長大明神あり、濱の宮と稱す大飯郡にも余永明神と云ふあり、同神なるべし。本社の祭神は傳ふる所なし。神社私考に曰く、今按に、當社の祭神は古事記に昔新羅国王か子天之日矛、參渡來たる傳を記して、其子多遅摩母呂須玖、その子多遅摩斐泥、その子多遅摩比那良岐、その子多遅摩毛理、次に多遅摩比多訶、次に清日子其子酢鹿之諸男、次に妹菅竈由良度美と見え、さてその比多訶、姪菅竈由良度美に婚て生る女子葛城之高額比賣命、息長宿禰王の御妻となりて、その腹に神功皇后生れさせ給へる由みえたり、その御縁に由て菅竃由良度美姫を祀れるにやとおぼし、其はまつ書紀に、垂仁天皇の御世、三年春三月、新羅王子天日槍、來歸焉云々、初天日槍乗艇泊于播磨國云々、天日槍啓之曰。臣将住處。若垂天恩聴臣情所地者、臣親歴視諸國則合于臣心欲被給乃聴之、於是天日槍自菟道河沂之、北入近江圃吾名邑而暫住復更自近江經若狭國西到但馬國則定住處也。是以近江國鏡谷陶人、則天日槍之従人也〔自近江經若狭國とあるは全文を熟考るに、徒に經通りたるには非らで、若狭にも又暫逗留住たる由の文なり〕とあるに古事記に神功皇后忍熊王を亡し給ける後の文に、故建内宿禰命、率其太子〔応神天皇〕爲将禊而経歴淡海及若狭國之時、於高志前之角鹿造仮宮而坐、爾坐其地伊奢沙和気大神之命、見於夜夢云、云々、とあるをおもふに、此度皇后、建内宿禰命に詔ひつけて、太子に御禊爲させ給へるに仕奉りて、若狭に坐まつれる時、皇后の御祖母〔太子には外戚の御曾祖母〕の菅竃由良度美姫を祭り給へるにもやあらむ。然思はるゝ由は、其遠祖天日槍、はじめ當國に逗住たりつる所縁にて由良度美姫この菅濱わたりに住て、地名をもて菅竃と名にも負給ひたりけむ。さるは上に挙たる如く、日槍か子多淫摩母呂須玖より其住處の但馬の地名を名に負て、世々多淫摩某と稱ひ、多遲摩毛理か三男を清日子、其子を酢鹿之諸男、次に妹菅竈由良度美と稱ひで、みな須賀といふ言を名に負ひたるを准へ按ふに、須賀は菅濱のもとよりの地多にて、菅濱はその濱邊をいへるが後に里名をも菅濱と呼へるなるべし。清彦をの須賀に住たりしか、又山ありて名にも負ひ、その男女の子の名にも負たるなるべし。但し由良度美の名に冠たる菅竃は、菅濱の約まれるなるべし云々と。現今、境内四百九坪、大川社・稲荷神社・日吉社及ひ麻氣神社・廣嶺社・鹽竈社を合祀す。菅濱の産土神なり。

『大日本地名辞書』
神祇志料云、須可麻神社は今麻気世永明神二座とす、其一座は後世の追配なるべしと云ふ、〔若狭国志、官社私考〕蓋新羅の天日槍七世の孫菅竃由良度美を祭る、是は息長帯姫命の御祖母に坐り、仲哀天皇の御世息長帯姫命其太子を建内宿禰に率奉らしめて、気比大神を拝給ふ時、淡海より此国に至坐るは、蓋天日槍の国覓の時経歴の地にして太子外曾祖母の神あるを以て也。〔斟酌日本書紀、古事記大意〕
補【須可麻スカマ神社】○神祇志料、按、若狭神階記須可麻を菅竃に作る。並同、今菅浜村に在り、麻気世永明神と云(若狭国志・官社私考)、按、麻気明神・世永明神二座を一所に祭ると云り、されど其一座は蓋後世配祀の神也。



麻気(まけ)神社と当社は無縁のものでもなさそう、麻気神社の性格がわかれば、須可麻神社もだいたいわかると思われるが、その麻気神社もよくわからない。
マケとかマキというのでなかろうか、槙山、牧山と、マキのつく山があり、鉱山である。「菅」と「麻」は何か鉄と関係がありそうである。いずれも低湿地に生える草だが、それは砂鉄から作る方法よりも古い方法という。
『古代の鉄と神々』
麻はじつはタタラ師の間では禁忌となっている。タタラ場に麻を持ち込むことは絶対に許されないのである。その麻を名とする神社に鉄が関係あるとするのは、一見不思議なようであるが、そうではない。
 「おすず」の名の泉から湧く清水が鉄分を含んでいるとするなら、かってはこの沢に生えた植物、麻にしろ菅にしろ、その根には褐鉄鉱、すなわち「スズ」が形成されたはずである。したがって砂鉄採取より一段と古い「スズ」を得て製鉄する技法が生きていたのであろう。出雲や吉備の中国地方のタタラ師仲間では禁忌となった麻は、やはり古い技法を意味したのである。

式内社・鏡作麻気神社(田原本町小阪)の祭神は、天麻比止都命だそうで、唐古・鍵遺跡の1㎞ばかり南に鎮座、銅鐸など金属鋳造技術集団が、古墳時代になり鏡作部に継承され、この鏡作郷の地で金属鋳造が行われてきたことに由来するとされる、という。須可麻、麻気とも金属関係の古い神社でなかろうか。


曹洞宗瑞雲山長継寺

もと真言宗。開山は筑紫人招輪和尚と伝え、寛永10年(1633)に徳賞寺の陽岩が曹洞宗として中興し、寛永17年芳春寺末となる。
保延年中(1135~41)の開基と伝わる。「若州管内社寺由緒記」に、禅宗 古は済家にて開山は筑紫人招輪和尚と申由百年以来澗家に成芳春寺の末寺にて御座候。

『三方郡誌』
長継寺。曹洞宗。菅濱に在り。瑞雲山と號す。往古は眞言にして領地も三百石ありしか、豊臣氏時代に沒收せられ、遂に頽廃したりしを、寛永十年、徳賞寺陽岩、曹洞宗として中興す。其後、寛永十七年、芳春寺末と定り、今に及ふ。


曹洞宗光明庵
同宗光明庵は寛延2年に魯道孝順が開基。芳春寺末。
『三方郡誌』
光明庵。曹洞宗。同區にあり。寛延二年の創立にして、開基は魯道孝順と云ふ。芳春寺末なり


地内松崎に小松殿、梅崎に丹後守の堡跡と梅津少将の居館跡と伝えるものがあり、梅崎の城跡は朝倉氏の塁の跡という(若狭郡県志)。
菅濱堡址 梅津宅址
『三方郡誌』
菅濱堡址。菅濱に堡址二あり。一は松崎に在り、小松某之に據れりと、二は梅崎に在り、丹後守之に據れりと、共に實名及年代詳ならす。或は云ふ、梅崎の址は朝倉氏の塁址なりと。
梅津宅址。菅濱の梅崎に在り。梅津少将此に居れりと傳ふれとも、事蹟詳ならず國志に云ふ、宅址は滄海に臨み、最も狹少に、且民居に遠し疑らくは是れ此に謫せられたるかと。

《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


菅浜の主な歴史記録




菅浜の伝説・民俗

精霊船送り
8月15日の夕方、集落の下の浜辺で精霊船送りが行われる。カヤ・麦藁・竹で作った船に、切紙細工や施餓鬼幡をかざりたて,盆菓子・水の子を積みこんで、ウリオイと呼ばれる新仏を出した家の者が乗り、老婆たちの浜念仏が流れる中を精霊を沖まで送っていく。以前は南北に分かれて、若衆が伝馬船で引き速さを競い豊凶を占ったという。



菅浜の小字一覧


菅浜  坂下 上狼谷 上谷越 下狼谷 切割石 塩コボシ 上縁谷 上草縁 下草縁 縁谷 野瀬 渡り所 沓見尻 仲原 川原田 鍋谷 大河原 下り谷 上り谷 上登尾 下登尾 弐ノ谷 壱ノ谷 上原 イガミ谷 上イガミ谷 上足谷 足谷 辰ケ谷 桃木谷 海老坂口 大平 頭ケ谷 下頭ケ谷 下原 棚田 ヨキ峠 新成谷 念仏谷 高良 上高良 岩坂 耳谷口 馬ケ谷 打落口 大寺 大力月 小力月 砂木原 米ノ谷口 赤坂 山田 桑原 小坂 奥坂 口坂 井根口 山ノ神 上辻 山木戸 梅原 鳥越 寺山 寺所 大門 漆ケ谷 中河原 寺ノ下 上横枕 三赤 平松 黒金 黒藤口 粟谷 庄山 野田 茶ケ谷 矢瀬ケ谷 奥ノ谷口 梨木谷 上片山 北繩手 南縄手 横枕 妙蓮 片山 丸山 城ケ崎 松下 北長谷 北所 仲所 土所 仲田 平石 居附 愛宕 宮山 清水ノ上 南所 小谷口 生蒲谷 元山口 中茶谷 奥茶谷 茶谷 山名越 杉谷 宮越 文所 地蔵ケ崎 南長谷 滝谷 坂ノ上 北山奥 藤谷 壱番坂 今日 乙見 塩ケ崎 茶谷 愛宕 米ケ谷 耳谷 越地 馬石 甲黒藤 乙黒藤 粟谷 茶奥谷 竃ノ上 城ケ嵜 長谷山 黒藤尻

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『三方郡誌』
『美浜町誌』(各巻)
その他たくさん



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