丹後の地名 若狭版

若狭

阿納(あの)
福井県小浜市阿納


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福井県小浜市阿納

福井県遠敷郡内外海村阿納

阿納の概要




《阿納の概要》

国道162号「阿納トンネル」を抜けたところに集落。若狭湾の内湾である田烏湾に面して位置する。小浜でも有数の古い土地で、遠賀川式土器、浜禰式製塩土器、和銅開珎などが出土している。
中世の阿納浦は鎌倉期から見える浦名。建久6年(1195)12月4日の太政官符に、国富保の四至を定めた「榜示伍本」のうち北の1本を「阿那尾山并同尻山与当保三辻峰」に打ったとあり、また犬熊野荒浦の四至として「西限阿那尾崎」とある。文暦2年(1235)・文永6年(1269)には刀禰重次の子孫かと思われる「阿納浦重延」「阿納尾浦刀禰重延」が宮河保内黒崎山を預かっていたと見え、製塩が行われていたと推測される。文永2年(1265)11月の若狭国惣田数帳案によれば、国衙領に含まれ国衙の税所の管理下に置かれており1町8反70歩の田数がある。貞和4年(1348)の田烏浦天満宮造営助成注文案には「酒坪(壺)一 自阿納浦也」と見えて、他浦との結び付きの一端がうかがい知れる。
近世の阿納浦は、江戸期~明治22年の浦名。小浜藩領。慶長7年(1612)の若狭国浦々漁師船等取調帳では船数13、うち4人乗2、3人乗3、2人乗5、1人乗3ですべて個人有。海岸線の長さは8町20間で漁場が狭隘であったため和田戸崎の領有をめぐって西小川浦と境目争論が起こった。中世から江戸期を通じて製塩が盛んに行われた。「雲浜鑑」によれば家数22・人数114。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年内外海村の大字となる。
近代の阿納は、明治22年~現在の大字名。はじめ内外海村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西50間・南北2町、戸数19、人口は男71 ・女74、小船21。

阿納という地名。
伊勢国安濃(あの)郡の安濃津は単に津とも呼び、今もそうであるが、坊津、博多津とともに日本三津と呼ばれている。安太、安濃、賀名生などとも書かれるが、穴太積み石垣の穴太衆は滋賀県大津市の坂本穴太町の氏族だが、あるいはこの氏が移動してきたものか、あるいは当地から移動していったものかも知れない。元々は加耶の安耶(安羅・阿那)国からの渡来氏族とされるが、石積以前は採鉱鍜冶の氏族ではなかろうか、隣の阿納尻(阿奈志)とともに今後の研究が待たれる。


《阿納の人口・世帯数》 86・19


《阿納の主な社寺など》

阿納塩浜遺跡
阿納集落北方の小砂丘に展開する縄文中期~弥生前期・中期・後期の集落跡および古墳前期・後期、奈良・平安時代の土器製塩を中心にした漁村集落跡。中世の埋葬人骨の出土もあり、若狭地方でこれほど各時代の遺跡の重複する所はほかにないという。
昭和44年から同57年にかけて6次にわたる調査が実施されている。遺構は縄文時代中期末(約4,000年前)と思われる住居跡が1基検出された。石囲い炉を中央にもち、4個の柱穴を配する1辺約5mの方形の住居跡である。遺物は多量の土器と石器が出土した。土器は中期末が主体を占め、後期初頭と極少量の中期前・中葉の土器が混在している。中期前葉(約5,000年前)は西日本に広く分布する船元Ⅰ式と北陸系の新保式が出土している。中葉は新崎式や上山田式など北陸系の土器をみるが、西日本的な土器はない。中期末はこの遺跡の最盛期で北陸系の土器をまじえつつ、近畿地方と同じ北白川C式が大量に出土し、後期前半福田KⅡ式まで遺跡は存続する。石器には石鏃、石匙、磨製石斧、石錘などがある。若狭の縄文時代中期末は最も遺跡数が多く、三方町藤井遺跡、高浜町立石遺跡、名田庄村岩の鼻遺跡など遺跡規模もまた大きい。海岸部、山間部を問わず良好な自然環境のなかで、東日本からの加曽利E式の波及という文化的変革が適応して安定した採集社会が展開したものであろうという。
弥生前期の遠賀川式土器片3点のほか弥生中期・後期の土器片も発見されている。
製塩遺跡は南側海岸部に集中しており、大島半島浜禰遺跡に標式の求められる若狭湾最古の浜禰Ⅰ式製塩土器が検出され、4世紀末~5世紀初頭頃に土器製塩の行われていたことが判明した。この時期の遺跡は若狭湾沿岸一帯では浜禰と当所しか発見されていない。敷石製塩炉跡は、6~7世紀の浜禰ⅡB式、9世紀の傾式、10世紀末~11世紀初頭の塩浜式が各1、8世紀代の船岡式2面が検出されている。傾式に伴う製塩土器は船岡式の平底とは異なり丸底となって、径5cm,高さ10cm内外の支脚に乗せて煎ごうしており、熱効果の増大を徂った手法をとり入れた新しい方法。塩浜式ではコップ状のうすい製塩土器で、支脚は径3cm、 高さ20cmのものを併用する。9世紀以降ではすでに鉄釜が普及したと考えられるが、若狭湾では旧態どおりの土器製塩を行っているのが特徴。船岡式製塩土器は山を越えた内陸部の小浜市大谷で製作されたものが使用され、農・漁村連携の製塩活動をうかがわせている。燃料は雑木の細いものを用いた。遺跡は内外海半島の拠点的な性格を有し、原始・古代から現代までその生活跡の判明する稀有の遺跡とされる。

『内外海誌』
阿納遺跡。小浜市阿納、棹指神社址。
縄文時代中期、後期、弥生時代、古墳時代、歴史時代にまたがる包含層を有する。なお最近(昭和44.6)遠賀川式土器が発見された。
出土品、縄文中期後期土器片、石斧
    遠賀川式上器片
    弥生後期
    須恵器
    製塩遺物(土器片)奈良、平安
    和同開称(711年のもの)
    その他、祥符通宝 北宋銭(中国)
    祥符元宝


春日神社

集落の西はずれの山裾に鎮座。
『内外海誌』
春日神社
所在 小浜市阿納16号23番地
祭神 武甕槌命 斎主命 天児屋根命。尚指指神社(祭神蛭子命事代主命)
大正元年合祀。例祭 10月15日
本殿 神明造5.5坪向拝1.3坪計6.8坪。拝殿 6.9坪。鳥居木造一基。長床7.5坪
境内神社 白山明神社(祭神伊弉諾尊菊理姫命伊奘冉尊)
氏子数 19世帯
境内地 1193.275坪(被譲与国有地)
境外地 山林1畝24歩。原野 9畝5歩。雑種地 2反7畝15歩
天徳二年勧請(若狭国祭神記)
阿納の氏神
「白山権現 阿納浦にあり、9月初亥の日祭礼あり」若狭郡県志。註、前記境内神社白山明神社あり。
「阿納浦 権現 若州遠敷郡阿納浦権現両社共所の氏神にて開闢は時代不分明 阿納立初りより御座候と申伝候 神主は背戸仕候 阿納浦 袮宜 背戸」若州管内社寺由緒記。
「春日神社 村社にして同村阿納浦滝倉谷にあり(略)文永二年大田文神田の内に滝蔵宮二反阿納浦とあるは此社なるべし、若狭国祭神記に、天徳二年勧請とあり(略)」若狭遠敷郡誌。


『遠敷郡誌』
春日神社 村社にして同村阿納浦字瀧倉谷にあり、祭神は武甕槌命齊主命天兒屋根命姫御神なり文永二年大田文神田の内に瀧藏宮二反阿納浦とあるは此社なるべし、若狹國祭神記に、天徳二年勧請とあり、境内にある白山明神社は祭神伊弉諾命伊弉冊命菊理姫にして元より境内神社たり、棹指神社は祭神蛭子命事代主命にして同村阿納浦字鹽濱より大正元年合併さる。


臨済宗南禅寺派蓮性寺

国道162号沿い。境内に観音堂がある。
『内外海誌』
蓮性寺
所在 小浜市阿納11号1番地
木尊 十一面観世音菩薩。
臨済宗南禅寺派
本堂 34.32坪。庫裡 24.46坪。観音堂 21.71坪。薬師堂 13.05坪。納屋3.29坪。表門 1.63坪
境内地 255坪。山林 3町3反6畝12歩
堂内仏像 本尊仏像の他、仁王尊(2)薬師如来(1)地蔵尊(1)達磨像(1)誕生仏(1)不動明王(1)毘沙門天(1)韋駄天像(1)他観音堂に十一面観音像、薬師堂に阿弥陀仏各一体
檀徒 内外海31戸他計33戸
天文年間小本寺高成寺法孫陸裔顧禅師ヲ請シテ開山トス明治21年2月28日区内大火ノ為メ寺誌記録ヲ烏有ニ帰ス其後再蓮(寺記)
「同所(註阿納浦)蓮性禅寺 禅宗高成寺末蓮性寺開基は天文十三甲辰年と申伝候 当年迄百二三十二年代々高成寺末寺にて御座候
    年号  月  日  蓮性寺住持 恵春」若州管内社寺由緒記。


『遠敷郡誌』
蓮性寺 右同前本尊は觀世音にして同村阿納浦字間谷に在り、天文十三年高成寺陸裔の創建なり。

観音堂

『内外海誌』
観音堂
所在 小浜市阿納11号1番地蓮性寺境内。
本尊 十一面観音菩薩座像
由緒。当寺(註蓮性寺)観音堂ニ安置セル十一面観世音菩薩ハ春日ノ作ニシテ養老元年越洲高岡在ノ牧原伝五郎ト云ヘル人アリ 此ノ地来ツテ住ス 彼ノ伝五郎氏尋常観世音菩薩ヲ念ズ 一夜不思議ノ霊夢ニ依ツテ大悲ノ像ヲ此ノ土地ニ安置シ以テ渡海ノ商船近村漁舟ノ海上安穏ヲ祈願セルモノナリ 往昔は海福山潮音寺ト稱シタル事有ルモ 現在ハ小堂一宇現存シテ観音ト称ス。三十三ケ年日ニ御領主へ御達ヲ為シ開帳ス。近年ハ十七年目毎ニ開帳ヲ行イ区内安全国土昇平ヲ祈願ス。昭和40年迄ハ小浜市阿納11号5番地ノ1阿納共有地ニアリシモ、同年蓮性寺境内ニ移転ス。(寺記)



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


阿納の主な歴史記録


『小浜市史』
食見の里謡
今立郡粟田部出身で、昭和四年(一九二四)より、二十二年まで旧小浜高等女学校教諭であった辻市郎の「若狭における製塩業」は、近代の若狭の塩田による製塩業を足で歩いて調査された名著である(『若狭における製塩業(再版)』)。
 辻の前述の研究報告に採録されている三方町食見の里謡は、今となってはどのような節をつけたのか不明のようであるが興味深いものがある。
 「片食食わえども 片袖着でも 嫌ぞや 食見の塩垂れは」、「嫁にやるまい 海辺の村へ 夏は塩垂れ 冬は苧の根を叩く」
 この里謡は食見のみならず、若狭各地の塩作りの苦しみを歌っており、古代における土器製塩にも、この里謡は通ずるものがある。
 古代の塩作りにも男性と女性それに子供の作業分担というものが充分に考えられ、海水を汲む作業は、女性と子供の作業であった。
塩汲み女
昭和四十四年(一九六九)に、阿納海岸で船小屋建設作業中に、スコップで穴を掘っていた地元民が人間の頭骨を掘り出し、市教育委員会に通報があり、埋葬の可能性を考え調査を実施した。
 その結果明らかに人為的に埋葬されたもので、その方法は身体の左側を下にして、足をおりまげた屈葬を示していた。腹部には六文銭が重なって残存し、これだけが唯一の副葬品であった。角釘が検出され、木棺が使われたことも判明した。
 六枚の銅銭は、元豊通宝三枚、至和元宝二枚、皇宋通宝一枚であり、いずれも北宋銭である。従って埋葬の推定年代は、鎌倉時代を考えている。
 人骨については、京都大学名誉教授池田次郎の鑑定を受けた。推定年齢三四・五歳前後、身長一四五センチの女性であるとの結果が出された。池田次郎博士の人骨についての所見で興味深いのは、人骨の腕の前後骨などに筋肉付着物が認められ、かなり肉体労働に従事していたことが伺える。調査に従事した者からは、博士の人骨の所見を聞いて反射的に「塩汲み女」だという声がおこったものである。
 万葉の塩作りの時にも体験したことでもあり、前述の食見の里謡にもある塩汲み作業の過酷さは、言葉ではいい尽せぬ重労働であった。恐らく、女性や子供の分担だったのであろう、山椒大夫の話を思い出す。阿納の中世の女性は、三四・五歳でかなりの重労働に従事していたことが指摘されたが、多分塩作りに加わっていた女性で、真夏の炎天下、天びん棒に桶をかついで、塩汲みに従事していた女性であろう。


阿納の伝説






阿納の小字一覧


阿納  大平 清山 箕窪 枕口 湯ノ山 橋ノ下 下内野 塩浜 間浜 堂ノ前 間谷 中内野 上内野 高田 竹ノ腰 滝倉谷 滝ノ下 清水原 口奈袋 大附合 奥名袋 柿木谷 ヲシヤラ 西山谷 蒋谷 阪尻 北高平 中高平 大谷 八窪

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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