丹後の地名 若狭版

若狭

阿納尻(あのじり)
福井県小浜市阿納尻


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福井県小浜市阿納尻

福井県遠敷郡内外海村阿納尻

阿納尻の概要




《阿納尻の概要》
小浜湾の最東北の隅に位置する入江(古津)に臨む集落。縄文前期から人々が暮らしていた。入江には多数の釣り用の筏が浮かんび、冬になるとカモが渡って来る。

古くは阿奈志と書いた。元々はアナシという集落名だったが、アナシを漢字で阿納尻と書くようになり、次はその漢字をアノジリと読み、やがて地名もアノジリとなったものと思われる。

阿納尻は、鎌倉期から見える地名で、建久6年(1195)12月4日の太政官符に国富保の四至を定めた「傍示伍本」のうち北の1本を「阿那尾山并同尻山与当保三辻峰」に打ったと記すが,ここに「同尻山」(阿納尻山)とあるのが初見。南北朝期末の永和年間~明徳2年(1375~1391)に国衙税所領のうち阿納尻4名などを山名修理亮が知行したと伝える。文明2年(1470)には甲崎とともに所領として畑田弥五郎賢清に宛行われたらしい。室町期から戦国期にかけて西津を本拠とし当地もその領有下に置いていたとみられる武田氏家臣内藤氏が被官畑田氏に宛行ったものと推測される。天文年間に入って新田が開かれたらしく天文9年(1540)には「阿納尻新田」を耕作する百姓は羽賀寺の要求に応じて、初めて100疋ばかりの請料を納めたという。その後年貢徴収単位としては、慶長3年(1598)10月15日の代官所物成目録から隣村甲崎の内に含まれていたことが知られる。
近世の阿納尻村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。慶長7年(1612)の若狭国浦々漁師船等取調帳には近隣の浦々の中で唯一船数の記載がない。海に面しながらほとんど漁業は営まれていなかった。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年内外海村の大字となる。
近代の阿納尻は、明治22年~現在の大字名。はじめ内外海村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西2町余・南北1町余、戸数27、人口は男91 ・女70、学校1、小船12。現在産業の中心は農業で,漁業は全く行われていない。


《阿納尻の人口・世帯数》 138・29


《阿納尻の主な社寺など》
阿納尻遺跡
阿納尻縄文遺跡
集落の南にあり、昭和51年構造改善事業の水路設定の際、地下1・5メートルから遺物が出土して発見された。縄文前期の北白川下層Ⅰ式およびⅡ式に属する土器・磨製石斧・石錘・石鏃などの石器が採集されている。遺構は明らかでないが、縄文時代の遺物包含層は現海水面より下にあり、低湿地遺跡の可能性があり注目される。当遺跡の南には古津遺跡(縄文中期)がある。
『小浜市史』
阿納尻遺跡
遺跡は、阿納尻集落の西方、小浜湾を臨む水田にあり、立地が極めて特異なので注目される。
遺物が現在の海水面下にあり低湿地遺跡の様相を呈する。昭和五十一年(一九七六)夏の土地改良の際の排水路工事で、おびただしい土器が散乱して注目された。
 市教育委員会により対策が講じられ、水路部分を除いて遺物包含層が深いので保存することにして、簡単なボーリングによる遺跡の範囲確認調査などが実施された。水路部分からは層序の観察、遺物採集がなされ、トロ箱大のコンテナー一箱の土器片、石器などが採集されている。
 水路部分の地層断面の観察では、水田下約一・五メートルに砂質の有機物層が厚さ約三〇~四〇センチあり、前述のように現海水面下で、この層に遺物が包含される。有機物層は、分解が進み、保存状態は良好とはいえない。数点のクルミ、動物骨細片が採集されている。おそらく、部分的に貝層があるのかも知れない。有機物層の広がりは、東西、水路に沿って約三〇メートル、南北約三五メートルを確認している。本遺跡の東方に縄文人の集落が広がることを想定している。
 本遺跡の土器は、縄文時代前期前半から後半にかけての北白川下層併行諸形式を主体としており、一片ではあるが、縄文時代中期、船元I式併行の土器も出土している。石器は、石鏃、石錐、石匙などの剥片石器、磨製石斧、石錘、石皿、磨石などの礫塊石器などがある。これらのことから本遺跡は、今から約六千年前~五千年前頃を中心に集落が形成されたと言えよう。

阿納尻製塩遺跡


白山神社

古くは阿奈志(あなし)神社と言ったという。阿奈志それを阿納尻と書くようになり、村の名にもなったという社である。遠敷郡式内社の阿奈志神社は当社でないかの説がある。阿奈志は穴師(鉄穴師)であろうから、当地に鉱山があったのではなかろうか。
『内外海誌』
白山神社
所在 小浜市阿納尻29号1番地
祭神 大己貴尊、伊弉諾尊、伊奘冉尊、菊理姫尊。山神社祭神大山祇命合祀。例祭 4月3日
本殿 流レ造5.5坪。拝殿 5.5坪。鳥居石造一基
境内地 831.14坪(被譲与国有地)
境外社地 畑1畝12歩。山林 6町8反3畝12歩。氏子数 25世帯
天元元年戊賞11月勧請
「当社は往古、阿奈志神社と称し、後ち阿納尻神社に改め、又阿納尻山王宮とも尊称せり、人皇64代円融天職の御宇更に白山社と改む」福井県神社誌・福井県神職会編。現在小浜市阿納尻の氏神
 「白山権現 阿納尻村に。あり、4月3日祭礼あり」若狭郡県志・牧田近俊(延宝年間)
 「右同所(註阿納尻村)白山権現 往昔の草創は正慶2己酉年、雲州より商買のために藤左衛門と申者この浦へ着船の処、ある夜夢想を蒙りしに、海中に泛びてこの湿地に影向を垂れたまふ。これによって取ってこれを揚げ、そこに叢祠を卜し候。その時同村の刀袮は倉谷兵部少と申し候由申伝え候。当社は甲ヶ崎、古津、高屋、当村四ヶ村の氏神にて崇び来り候。それより当年まで三百六十七年なり。延宝3 9月25日 白山権現別当 海蔵寺宗微謹書」若州管内社寺由緒記(本郷村松喜太夫家所蔵古書・山口久三・堂谷憲勇編集)。
 「社伝」。貞元元丙子初夏 此村湾内放レ光 其初隔二数日一見之後毎夜灼々焉 村民為二以怪物所一 而泊二舟此処一則夢有神曰 吾漂二海中一久矣 今上レ地護二爾等一焉 衆人之夢殆帰二干一一此年六月雲州商賈伝藤佐衛門者 来泊舟湾中 視奇光則其必夢亦相同 則告二村民一 以レ実 於是村民與二商賈一相議 捜二海中一 果得二一鏡一 其形奇異莫二能名一其後復莫二海中之霊光村民異夢一至二今年一以二此鏡一為二神霊一議当奉祀 此地素有レ祀二大己貴尊一 山王祠称二阿納尻山王一 阿納尻国音阿奈志也 其祠経二数百年一殆頽 更建二造之一而令二祀海中所レ獲之一境一 改称二白山大権現一 為二大己貴尊伊弉諾尊伊奘冉尊菊理媛尊四座合祀之社一 于時天元元年戊寅六月廿五日也(前記高田一海由緒調査書)古老伝説。当村鎮座白山神社、々号ハ往古阿奈志神社ト称シ即チ延喜式第十巻北陸道若狭国遠敷郡ノ部ニ載スル阿奈志神社是ナリ然ルニ阿奈志ノ字ヲ阿納尻神社ニ改メ後又阿納尻山王宮ト称スルニ至リシモ其年代詳カナラズ天祿二年辛未歳三月薬師堂奉移之記ニハ已ニ産神阿納尻山王神祠トアレバ天祿以前ノ改称ナリ云々(同高田一海由緒調査書)


『遠敷郡誌』
白山社 村社にして同村阿納尻字鳥居元に在り、元白山權現と稱し祭神は伊弉諾尊伊弉册尊菊理姫命にして天元元年勘請すと傳ふ。産神なり、山神社祭神大山祗命長保四年勧請阿納尻字清水森より大正二年合併。


若宮八幡神社

内外海小学校の脇から入った集落(古津)の山に鎮座。
『内外海誌』
若宮八幡神社
所在 小浜市阿納尻65号2番地
祭神 仁徳天皇。山神社祭神大山祇命合祀。例祭 4月3日 宵宮祭 4月2日
本殿 流レ造4.6坪。拝殿 2.25坪。鳥居石造一基
境内地 142.98坪(被譲与国有地)。
氏子数 24世帯
天元元年戊寅年勧請。天文年中内藤重政西津、甲ケ畸、阿納尻、古津を領し、城を天ケ城に築き当社は艮の方に一当るので鬼門除けの神として深く崇敬したという。現在小浜市阿納尻古津の氏神。
社伝。若宮八幡神祠之地也、仰則久須山嶽、俯則内莊港湾、峨々山嶽、紫雲呈レ祥、漫々港湾、緑波浮レ瑞、真勝地。神祠創立人皇六十四代円融天皇天元元年戊寅歳 此地村民慕二仁徳天皇之徳一 遂至レ建二此神祠一 其後百九十有六年之間事蹟不詳 至二人皇八十代高倉天皇之世一 港湾変而不レ堪レ泊レ舟 船舶輻湊漸減 不レ得レ比二川路時一 海辺多移レ居 人家已稀少津名不レ得二其実一 人呼二此地一 以二古津一 当此時 院公卿三郎時通左遷在二此地一 称二古津三郎一 相伝三郎仁愛而懐二千民一 承安癸巳歳 官任二税所代一 去二此地一 三郎行李已整出二干海辺一 将二登レ舟而去一 村民男女老幼 送三之干二海浜一 悲泣惜別 三郎亦合レ沸而去云 古津三郎素通二古典一 村民受二其教一 定二祭典之式一 即毎年仲春朔日与二季夏旬六一 ?二幣帛一献二青酒一 此両日村民男女 会二合社前一 鐘鼓爾笛箜篌 以和二舞楽一 讃二頌神徳一而祈二五穀豊穣- 其後人皇百一代後小松天皇明徳元年国主一色詮範構二舘于于地一 人称二西御所一 詮範時来愛二 四時之勝一此地春樹頭欺レ雲之桜 啼鳥縫レ之来 夏海辺洗レ肌之風帆船破レ之去 秋風徐来而月色照レ波 冬雪花飛而山光映レ檐也 明徳三年一色詮範慨二神殿頽敗一 改造欲三以極二輪奐之美一 村民聞レ之 斎戒沐浴而入二深林一自伐二良材一而献レ之 於レ是新造二神殿一 更創一建二能楽堂一 六月旬六工成行二 遷宮之式一 此日天気晴朗 朝来村民群二集于殿前一 酉刻掌レ殿者自二仮殿一 泰二神霊一進二于正殿一 其闘奏楽 擁二護神霊一 遷レ之人レ夜為二舞楽一 翌旬七日献二能楽一 近郷男女群一集賽レ于レ此 其盛称二未曾有一 此時詮範献二納神鏡一面一 伝二于後世一 于レ茲記二 神殿改造来歴一 併及二神殿創立之由来一 云爾。(明治12年社掌高田一海の由緒調査書による)

『遠敷郡誌』
若宮八幡社 祭神仁徳天皇、天元元年勧請と傳へ同區字若宮にあり、境内に山神社あり、祭神は大山祗命なり。


臨済宗南禅寺派凌雲山海蔵寺

白山神社の隣り、小学校跡の隣り。「若州管内社寺由緒記」によれば、海蔵寺は応永2年草創。明治10年頃宝珠寺・妙音寺を合併し宝珠寺の境内地に再建された。
『内外海誌』
海蔵寺
所在 小浜市阿納尻29号10番地
本尊 釈迦牟尼仏
臨済宗南禅寺派
本堂 22.18坪。庫裡 30.57坪。納屋他 10.75坪
境内地 263.00坪。所有山林 6町8反9畝8歩。原野 1反9畝24歩。墓地 2畝4歩
堂内仏像、木尊の他千手観音座像(l体)釈迦三尊厨子入(1)薬帥仏座像(1) 12神将像(12)韋駄天像(1)誕生仏像(1)
壇徒 阿納尻20戸他計21戸
応永二乙亥年建立。開山は遠敷郡今富村高成寺の第二世雲岩禅帥(永徳2年2月21日遷化)と伝える。
当山第十世悦道和尚の代(明治10年頃)、同じ高成寺の末寺である阿納尻区内の妙音寺及び宝珠寺の二寺を合併し、宝珠寺の境内地(註、宝珠寺は古津とあるからこの寺記誤ならん)に当山を再建し今日に至る。
 「阿納尻村 高成寺末 凌雲山海蔵禅寺
疇昔の草創は応水二乙亥年、天下城主家臣内藤筑前守隆之の遠孫隆玄の建立にして、開山は高成寺第二世空厳和尚、この山に隠居せるがゆゑに海蔵をもって高成寺末派第一の寺位となす。則ち天下太平、国土安泰のために、しばらく祈祝を望むこと本山の如し。それより当年に至るまで二百八十一年なり」若州管内社寺由緒記。
「義満公は此寺(註安国高成寺)を以て若狭の官寺となし(略)又所々末派の小寺あり、所謂谷田部村雲外寺(略)、阿納尻村海蔵寺、古津宝珠寺、若狭浦法雲庵、仏谷浦仏谷寺、堅海浦長慶院、宇久浦長福寺、加尾浦奥林庵、阿納浦蓮性寺(略)等なり」若狭郡県志。


『遠敷郡誌』
海蔵寺 曹洞宗空印寺末にして本尊は地蔵菩薩なり、同村西小川浦字南堂ノ上に在り、神亀年中より天台宗なりしと傳ふ、空印寺第九世慧仁再興、境内佛堂に観音堂あり。

薬師堂
白山神社境内としているが、白山神社境内には見当たらない、海蔵寺の境内にそのような建物があるが、それではなかろか。
『内外海誌』
薬師堂
所在 小浜市阿納尻29号1番地白山神社境内 坪数 13.5坪(間口3.5間奥行3.5間)及廂1. 25坪
本尊 薬師如来座像
「往昔開闢は天慶三庚子年の由 不分明其時代隔後天下城主 依レ相二当鬼門一為二祈願所一倍覃二信仰一候 其上数度為顕寄得霊仏の旨伝承也
従レ夫今年迄凡三百三十六年と申候
    年号  月  日 阿納尻薬師堂別当 海蔵寺 宗 微」若州管内社寺由緒記。




《交通》

国道162号の阿納トンネル↑
阿納坂
阿納坂は、阿納尻から阿納に越える坂。標高約30m。坂の名は阿納へ越えることによるか。若狭湾に突き出る内外海半島の根元に位置する。「若狭国誌」に「阿納坂 阪路十三町余 至阪頭則前後臨海湾」とある。現在は直下を阿納坂トンネル(昭和40年完成)が通じるが、それまでは峠越えの細い道が1本あるだけであった。かつて阿納・犬熊・志積各浦の婦人たちは、魚かごを天秤棒でかつぎ、徒歩で急な坂を越えて小浜の魚市場へ運んでいたという。

←写真は『新わかさ探訪』(観光パンフなどでもよく見る写真)

昭和30年ごろにこの年格好なら、ワタシの母親くらいの生まれであろう。今ご健在なら百歳くらいか。ワタシの母親は名田庄村だが、子供のころの記憶にある親類や隣近所のオバちゃんたちの顔と同じである、今もこうした顔を見ることがあるが、海辺も山奥も元々は同じ集団が広がっていったものだろうか。



《産業》


《姓氏・人物》


阿納尻の主な歴史記録




阿納尻の伝説


『越前若狭の伝説』
古津三郎          (阿納尻)
 阿納尻の古津(ふるつ)というところは、昔にぎやかな港町であった。奈良朝の時、若狭国の税所を今富庄においた。のち市街は、小浜に移った。
 古津三郎頼通(よりみち)は、今富税所の出張所として、この古津にやかたを建て、船の出入りを監視した。現在の古津は、古津三郎の屋敷あとである。
 神功皇后が、角鹿(敦賀)から筑紫にむかうとき、海が荒れたので、この港に寄港したといわれている。
 この区の宮川家に一升五合(二・七リットル)ぐらいのかまがある。これを使用すると、たたりがあるといって、とこの間に置いてある。これは古津三郎の遺品である。     (福井県の伝説)

南蛮船            (阿納尻)
 応永十五年(一四〇八)六月二十二日、南蛮船か小浜に着いた。この時泊浦の沖の岩に船をつないだ。このことから、その岩を唐船(からぶね)島と呼んだ。
 この南蛮船から、黒象一匹、山鳥一つがい、くじゃく(孔雀)二対、オウム二対をたずさえて、将軍義持(よしもち)にさしあげるため、蛮国(ばんこく)の王、亜烈進卿(あれしんきよう)の使者が小浜へ上陸した。
 このみつぎ物を小浜から京都の将軍へとどけ、この年十月、使者は小浜を出て帰国したか、途中十月十八日中湊(みなと)浜で船がこわれ、船をなおして、十六年十月一日再び小浜を出て帰国した。
 また、応永十九年(一四一二)六月二十一日にも南蛮船二隻が小浜へ着き、同年八月二十九日小浜を出て帰国した。
 これらの船は、みな唐船島に船をつなぎとめて、上陸したといわれている。         (若狭郡県志)

 亜烈進卿の使者、問丸、十河のふたりが、日本皇帝へ進物として、墨山鳥一双、孔雀二対、オウム二対、その他いろいろのものを持ってきた。      (若狭の伝説)

 むかし若狭小浜の港は、現在の小浜の市街地より東にあたる古津(ふるつ)というところにあった。南蛮船か渡来し、上陸した時に、象をつないだという石か甲が崎(こがさき)にある。 (小畑昭八郎)


白山権現          (阿納尻)
 正慶二年(一三三二)出雲国(島根県)から藤左衛門という者か商売のためこの浦に着船した。ある夜夢想にて、神か海中に浮かび、この湿地に姿を現わした。よってこれを拾い上げ、社を建てた。    (社寺由緒記)





阿納尻の小字一覧


阿納尻  鳥越両下 鳥越 宇久坂 槙谷 片辺山 佐古 中ノ谷 高屋 水谷 猪ノ尻 加尾坂 南加尾坂 坂尻 長通 尾鼻 禅ケ谷 下開地 黒之下 笹花 中道 大溝 久保瀬 片山 蔵谿 大畑 木坂 四町田 大将軍 鳥居元 寺之貞丸山 坂脇 阿納坂 黒林 大谷 大谷口 小屋ノ奥 清水森 村中 坪ノ下 京三田 赤崎 谷田 曲里田 稗田 中川 古津 岡 丸尾 小山 落合 東谷 奈胡坂 清水谷 天下城 若宮 平畑 宮ノ下 久保 椿前

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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