丹後の地名 若狭版

若狭

青井(あおい)
福井県小浜市青井


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福井県小浜市青井

福井県遠敷郡今富村青井


青井の概要




《青井の概要》
市街地の南西端。舞鶴の方から行けば国道27号の後瀬山トンネルに入る手前の町々である。
青井は、南北朝期から見える地名で、年未詳5月13日の大高重成書状に「青井山堂」とあるのが初見。若狭国守護として入部した大高重成が康永3年当地に再興したと伝える高成寺は、その後も「青井山高成禅寺」。「アヲ井寺」。「青井高成寺」と呼ばれていたことが知られる。戦国期の永禄年間には青井山に武田氏家臣柄神(韓神)庄司介の山城があったと伝える。
近世の青井村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」に、家数19・人数107。小浜城下の西側入口にあたり、青井口木戸が設置されていた。また丹後街道沿いの城下との間に断罪場があった。
丹後街道は村内をほぼ東西に貫いき、西は勢坂峠となり江戸期にはこの峠が大飯郡との境になっていた。
元禄15年の年貢免状では高137石余、うち24石余が寺屋敷、27石余が町屋敷、14石余が高成寺領とあって、町家・寺院・農家が混在し、集落の一部が城下町に含まれていたことを示す。「雲浜鑑」に記される当村の小字の中には寺町・柳町・猟師町・常在小路・浜浦町などの町名が見え、柳町以下の町名は江戸期には小浜城下の町として扱われている。高成寺裏山から小浜湾海浜部は高成寺領となっており猟師町の漁夫は磯稼ぎの漁場として借り請けていた。神明神社境内は江戸中期以降遊興場となっていたらしく出合茶屋などがあってにぎわったが天明3年自粛している。
町場の部分は明治7年飛鳥町の一部となる。残余は明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年今富村の大字となる。
近代の青井は、明治22年~現在の大字名。はじめ今富村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西5町余・南北3町余、戸数23、人口は男94・女71。同45年伏原の火力発電所が火災で焼失したため地内に移転した。大正3年小浜公園開設。同9年国鉄小浜線開通。昭和42年国道27号開通。近年住宅が急増した。


《青井の人口・世帯数》 550・226


《青井の主な社寺など》

青井山
青井山、熊野山、後瀬山は、ちょっとややこしいのだが、青井山は高成寺山ともいわれるように高成寺の裏山で、小浜市街の西の海岸にそびえる山。標高152m。南の鞍部勢(せい)峠を丹後街道が越え、下を国道27号・JR小浜線がトンネルで通過する。
遠敷郡と大飯郡の郡境の山で、戦国期守護として若狭に入った武田信賢が築城、高成寺付近に居館を置き、後瀬山に城が移るまで続いた。今は寺の北一帯は小浜公園となり、山頂からの尾根が青井崎となる付近には国民宿舎などもある。

『今富村誌』
青井山 青井山は後瀬熊野山に続き小濱灣に突出したる山角にして山麓に高成禪寺あるを以て一に高成寺山といふ 登るこ乙と約四五町青井城趾あり、小濱、雲濱、西津の市街を眼下に見るを得べし風景絶佳東北には近く天ケ城山の聳ゆるあり久須夜ケ嶽は高く山嘴延びて松ヶ崎となり大島半島海中に突き出で鋸崎となり相對しで湾口を扼す、湾の東部は即ち小濱港にして西部を青戸の入江といふ。小島(昔は本村府中領なりしと。府中城主小島紀伊守以来か)両児島青島等あり、古人双子歸帆、蒼島漁火、久須夜雨、雲濱秋月、青井晩鐘、後瀬春望、多太睛雪、津田落雁(津田は伏原區に属す)を合せて雲濱八景といふ、近年小濱町の有志相謀り數萬金を醵出して附近の山を拓き海を埋めて公園となし青井の溪流に梅、松、佐久良の三橋を架し楓櫻を移植し名づけて小濱青井公園といふ。梅田雲濱先生の碑の傍ら礑道を登れば殉難艇長佐久間大尉の銅像あり像は海内有志の建設に成る、大正三年八月三日除幕式並に開園式を擧ぐ

青井坂 熊野、青井南山の間は青井坂なり。南して谷田部坂を越ゆれば所謂名田莊七里が谷に入るを得べく、西に折れで峠に至れば遠敷大飯の郡界にして有名なる勢濱の入江を下瞰するを得べし


熊野山
熊野山は青井山と後瀬山の間にある山で、神明社の裏山である。後瀬山の西側続きの山になる。世に知られた有名な山である。これらの山々はみな葬送の山ではなかったとワタシは勝手に想像している。
『大日本地名辞書』
補【熊野山】遠敷郡○郡県志、後瀬の連峰にして而して西南に在り、山腹に熊野十二権現の社あり、其中間の役の小角の像を安ず、今の山伏なるもの小角の末徒なり、故に国中の山伏之を尊崇す、凡そ国中の山伏五六十人あり、○貞享四年秋三方郡早瀬浦の三光院、洛東聖護院門主に訟へ、請ふて国中一方の山伏の長となる、聖護院に属す、また小浜行蔵院、竹原泉蔵院、野代村西蔵院、多良庄村福寿院等は三光院に与みせず、別に聖護院に属し而して国中一方の長となる、皆真言の山伏なり。

『定本柳田国男集第七巻』「東北文学の研究」「清悦物語まで」
八百比丘尼の事
若狭の方面には「沖のすさび」より少し後に、貝原益軒の西北紀行があって、忠實に土地の所傳を録して居る。小濱の熊野山の神明社に、其頃は既に比丘尼の木像と稱するものがあり、しかもその由来記はまた別箇の趣を具へて居た。昔此地方に六人の長者、折々集まって寶競べの會を催して居たが、其一人人魚を調味して出したのを、五人の客疑って食はなかった。それから家に持歸って少女が食ったといふ段は、すべて他の例と一つである。


『今富村誌』
熊野山 熊野山は後瀬山の西に連り山麓に神明神社あり(昔は山の半腹にあり維新後茲に移す)健保年間の創建に係り淺野、酒井の國主崇敬淺からざりしと、山麓一帶の地は往古海岸の地にして後瀬の浦と稻したる處なり。'八百比丘尼洞、船止巖、帆着谷等の以て富時を語るもの多し


神明神社

今の国道27号から谷田部峠へ向かう旧道を入った所の山麓に西向きに鎮座、背後の山を熊野山(神明山・白椿山)という。祭神は天照皇大神・豊受姫命二神。中世・近世には太神宮・青井明神などともよばれ、また「女伊勢神宮」と称したという(若州管内社寺由緒記)。「神明宮草創記」(社蔵)は豊受大神が丹後の与佐宮から伊勢山田に向かう途次舟で当地に立寄り、翌年大倭姫が当社を創始したという草創伝承を記す。「若州管内社寺由緒記」は建保年中(1213-19)の創建と伝える。今は忘れられたような社で荒れているが、「親元日記」の文明13年(1481)8月3日条に「若州小浜神明神主赤坂豊前守氏久貴殿へ御祓一合三百疋進之、杉江方ニ渡」とみえ、大永2年(1522)には当社禰宜赤坂氏親が当社境内地を西福寺に道場建立地として寄進している。享禄2年(1529)7月19日付棟札に、この時若狭守護武田元光が社殿を造立した。また織田信長の若狭入国後、明智光秀・中川重政・丹羽長秀・木下秀吉連署の社領安堵状(年不詳、社蔵文書)が出されており、天正13年(1585)に丹羽長秀の禁制が出されている。同15年には浅野長吉が二石余を寄進した。江戸時代にも小浜藩主酒井氏歴代が禁制を下している。
境内は男女の出会いの場として利用されたこともあったらしく、天明3年(1783)正月の魚屋権兵衛等連署誓約状に「神明宮境内ニおゐて、男女出合客家仕間敷候、夜ふんよふけてにきやしき事御座候ハゝ、組内たかいに詮義致合早速可申上候」とみえる。境内摂社に八百姫神社↓・熊野十二所権現(どこにあるのかわからなかった)がある。

『今富村誌』
無格社 神明神社(青井字玉椿)
一、祭神 天照皇太神、豐受皇太神
一、由緒 社記に曰く應永十四年の創立古神領一千石ありきといふ。天正十七年國守浅野長政以末代々崇敬神領二石餘を寄附せられ且つ年々祭典料を賜はる。明治三年社地改正の際上地となり明治二十八年九月二十四日福井県の許可を経て大字谷口より本地へ移轉す
一、社殿 間口 三間  奥行 二間三尺
一、境内神社 一社
   八百姫神社
    祭神 倭姫神
    建物 三間四方
一、境内坪数并地種 百二十五坪 民有地第一種


『小浜町誌』
神明社
 小濱西郊熊野山ニ在リ。姫大神ヲ祭リテ内宮ト稱シ、内宮ヲ距ル山上数百歩ニ豊受太神ヲ祀リテ外宮卜稱ス。順徳天皇ノ御宇建保年中ノ創建ニ係レリ。傳言フ、筑紫ノー女子霊夢ニ感シ神託ヲ受クト、或ハ伊勢太神白椿山ニ降臨スト。附曾ノ説取ルニ足ラス。應永十七年守護一色義範華表ヲ造立シ、享禄二年國主武田元光神祠ヲ修造ス。其他浅野・酒井各國主亦奉供少ナカラス。昔時ハ神領北方宇見ノ荘、西方小堀村及内ノ浦ノ三所ニ在リト云フ。


『遠敷郡誌』
神明神社 同村青井字玉椿にあり、祭神は天照皇大神、豊受皇天神なり、社傳に曰く応永十四年創立天正十七年浅野長政以来代々國主崇敬ありと、建保年中の創建にして応永十七年守護一色義範華表を造立し、享祿二年武田元光修造し近世に至る迄伊勢大廟を代表する神社として崇敬され来れり。
 境内に八百姫神社あり、祭神は倭姫命なり、元丹後街通より東の山麓に内宮と俗稱する社殿あり、更に数十間山中に登りて外宮と稱する社殿あり、今の街道は昔より十餘間東に転じて舊社地を横断し、社傳も合一して元の内宮と稱せし地點にあり、菊池氏代々祠官にして武田氏以来の名家なりと云ふ、傳説に曰く昔筑紫に王孫なる者あり、其の女十七才の時霊夢に依って伊勢大神宮に詣で菊池武弘なる者之が供たり、女官中に入りて七日を經て出で神託なりとて船を海上に浮べ其到着する所を居住の地となさんと云ひ、風浪に隨って漂流し船終に熊野山麓に漂着す、其時纜を繋ぎしものは即ち船留岩なり、上陸して熊野山に登り白馬の来り告ぐるに依て一石上に至り、十二子を産み伊勢大廟を祀り十二所権現を合せ祀り菊池武弘祠官となる。



臨済宗南禅寺派青井山高成寺



安国高成禅寺のいわれ
 此の地には平安期より天台系の寺院があったと推測されます。
 下って暦応二年(一三三九年)将軍足利尊氏公は天下泰平を祈願され、一国一寺一塔全国六十餘州に安国寺と安国利生塔の建立を起願。当若狭の国においては此の地の寺院を改名され安国寺とされました。これを以て当寺建立の時としております。その後康永三年(一三四四年)足利家一族の大高重成公が若狭の守護職となり、安国寺を再建立されました。
 大高重成公は夢想楚石禅師の夢中問答の著作者で、深く禅に帰依された優秀な武将でした。この再興の功により大高重成の高と成を寺名に入れ安国高成禅寺と称することになりました。
 当時の開山和尚は大年法延禅師で中国よりの来朝僧、竺仙梵僊禅師(南禅寺住持)の法を嗣いだ方で伊予の人です。往時は、浅間区と鹿島区の接点に総門が存したと伝えられ塔頭四十余院が存在したどいわれています。
記録による寺名は、
 一、兜率院  一、瑞雲院  一、福聚院  一、知足軒  一、萬松院
 一、栄昌院  一、普明院  一、回春院  一、楞枷院  一、常照院
 一、正続院  一、衡梅軒  一、也足軒  一、竜吟庵  一、普門院
 一、江西菴  一、意足軒  一、虎岩軒  一、吸西菴  一、遠響軒
 一、成就菴  一、保寧院  一、大慈菴  一、大佛菴  一、嶺松院
 一、三曾院  一、海岸院  一、正法菴  一、長慶院  一、一萃院
 一、恵林菴  一、大竜院  一、大通院  一、竹林院  一、霊梅軒
 一、久昌院  一、雲洞院  一、松葢院  一、瑞光院  一、真如院
 一、金剛院  一、常泉院  一、梅塢軒  一、盆陵軒     以上
 その後応仁の乱、又度重なる火災等によって荒廃の時期もありましたが、今日まで法灯を護り続けてきました。一時、松島の瑞巌寺中興開山の雲居禅師も当寺に三年余り看護された由伝えられています。
 江戸期には京極家の帰依を受け、高政公(丸亀藩初代高和公の父)のお墓も祭祀されています。又当藩酒井家家老職酒井伊織家、都筑家、梶原家の菩提も弔われています。
 現在の建物は江戸後期から明治初期に亘って再建され、昭和六十年代の大修理、及びその後の普請によって今日の景観を維持しております。
 尚、本尊十一面千手観音菩薩は遠敷下宮に鎮座されていたといわれ、何らかの理由により此の地に遷座されたもので、平安初期の立派な容姿を今なお残しておられます。  当山三十三世太嶺 畧記


小浜公園の少し奥側、青井山(高成寺山)東側山裾にある大きな寺院。本尊釈迦如来。暦応2年(1339)足利尊氏・直義兄弟の発願で全国に建てられた安国寺の1つと伝える。康永3年(1344)若狭守護大高重成が再興、大年法延を招いて開山とし、寺名は大高重成の二字をとり高成寺と改めた。堂舎建立にあたって重成は「御札委細拝見仕候、抑青井山堂事、尤寺乃地相応事候者不可有子細候、御座可然候、其間事代官許へ委細申遣了、其上僧委申候了」という書状を法延宛に出している。法延は元(中国)より渡来した竺仙梵僊に師事し、建武4年(1337)印可を受け法嗣となった僧で、貞治2年(1363)没。
かつて七堂伽藍を具備し、塔頭は潤甫周玉(若狭守護武田氏一族)を開祖と伝える知足軒をはじめ44院を数え、寺領も当初3000石、足利義稙の時代にも700石あったが、太閤検地で収公されたという。
現存建造物は本堂・普門堂(観音堂)・地蔵堂・山門、塔頭では法延の法嗣雲岩の開山という瑞雲院のみである。住職は「鎌倉十刹之第一禅興寺、鎌倉五山第一建長寺、京都五山之上南禅寺迄」転任出世の格式をもち、徳川秀忠・家光・家綱・綱吉ら歴代将軍家の公帖が出されている。小浜藩主酒井氏歴代は観音灯明料として14石4斗4升を寄進している。
山林境内は広大で古証文写に「青井崎より勢坂道堺峠迄、裏表峠より谷堺海辺迄、峠下谷ニ田有之、寺山付ニ而御座候、尤下作米八升、下中郡大飯郡堺ニ而御座候」とあり、青井山全域を寺領とし、この山は俗に高成寺山と称される。小浜湾に面する青井山北側海辺も当寺支配で、小船をもつ猟師町(現香取)の漁夫は1年切りの海磯稼を願出、国法度を守り、用事ある時はいつでも出船し、寺山へはいっさい入らないなどの1札を入れている。
当寺には前出以外に観応2年(1351)法延が当山寺僧の遵守すべき規律を記した語録、紙本墨書履践集(重文)や紙本著色西天廿八祖之肖像・元方守端墨跡(市指定文化財)があり、多くの古文書も残る。

『今富村誌』
高成寺(青井にあり古文書緑起の章大字誌参照)
高成寺は臨済宗南禪寺派の別格地にして青井山安國寺と號す。青井山麓にあり暦応二年足利尊氏之れを創建す。開祖は有名なる大年和尚なり、當時元の僧竺仙来朝して此の寺に寓す。堂宇壯巌七堂伽藍悉く備はり塔頭四十九院総門に北海第一位禅林と 後小松天皇の勅額を掲ぐ。境内に十景あり、僧徒六百、寺領三千石ありきといふ。康永三年本堂大伽藍祝融の禍あり国主大高重成之れを再建し氏名の二字を取りて安國高成寺と改む。嘉永六年三月十日小濱大火ありて再び炎上し規模大に縮少す。近時山を開き三十三所の観世音を安置す、附近は即ち公園なり。梅田雲濱先生の碑、佐久間大尉銅像あり。境内普門毆本尊千手觀世音は往時遠敷下宮の傍にありきと傳ふ。本寺の寳物中大正三年五月七日國寶となりしもの四あり
  一、紙本墨書 建武四年十二月梵竺汕印可状    一軸
  一、紙本墨書 五月十三日大高重成書状      一軸
  一、絹本着色 大年和尚像 弘安二年の賛あり   一軸
  一、履踐集  大年禅師語録           一冊
築山は高成寺の今門前にあり。傳へ曰ふ古高成寺の封境廣大にして、今道町に総門あり之れを大海門と謂ふ。斯門に入れば則観音堂直ちに相向ふ故に一小山を築き樹を栽して之れを遮隔す是樹門を塞ぐの義なり。開山大年之れを名けて熊野峯と云ひ、共處に社を建て熊野権現を祭る、是れ十境の一にして熊野廟と謂ふ。故に斯山も亦熊野峯と號する者か、今築山と稱す。又曰く「別墅薬師堂は小濱今道町に在り始め伏原村発心寺境内に在り今高成寺僧之れを知る」と(郡県志)


『遠敷郡誌』
高成寺 臨済宗南禪寺派にして本尊は釋迦如家なり、今富村青井字寺ノ内に在り。
 暦応二年の創建にして足利直義が六十六國に建立せし安國寺ノーにして当初安國寺と號す、寺領三千石七堂具備し塔頭四十餘院有りしと傳ふれども今其舊記を存せず、康永三年大高重成當國の領主と成るや此時既に破壊せし寺塔を再興し、爾来安國高成寺と稱し来る開山は大年法延禪師にして、南禅寺附庸の地として此國に重きを爲し来りしが、嘉永六年火災に罹り今の堂舎は第二十六世圓州和尚の再興せし者なり。
 大正三年五月左の四點の什物國寶となる。
 一 建武四年十二月梵僊竺仙印可状    紙本墨書 一軸
 一 大高重成書状                紙本墨書 一軸
 一 大年和尚像弘安二年の賛あり      絹本着色 一軸
 一 履践集火年禪師語録               一冊
 境内佛堂に観音堂地蔵堂二宇あり、観音堂に安置せる觀世音は遠敷若狭彦神社に在りしを、山伏盗み出し途中に捨てしが後此寺に安置すと傳ふ。


境内に「解体新書」を著した小浜藩医中川淳庵顕彰碑がある

ワタシなどは小学校の国語だったかの教科書で習った記憶がある。『ターヘル・アナトミア』に「鼻は顔の正面にあって※※なものである」と書かれていた。その蘭語の※※の意味がわからない、蘭蘭辞書には「枯葉を集めると※※形状となる」とある、3人で一日中考えたという、何日目だったかふと誰だったか「うずだかい」という意味でなかろうかと言い出して、それだと、納得し翻訳ができたというハナシだったと覚えている。しかし彼や杉田玄白が隣町の小浜の人とは習わなかった、ブンカ高いマチのことであるから小学校先生も知らなかったのでなかろうか。
当寺に関係がある人ではないようであるが、いまはこうした碑がある。

医師中川淳庵(なかがわ じゅんなん)
Nakagawa Junnan
the doctor who contributed to the
translation of Kaitai Shinsho
 1739年(元文4)小浜藩医中川仙安の子として江戸に生まれた淳庵は、1770年(明和7)に小浜藩の奥医師となりました。幼少の頃より薬学や博物学といった本草学に興味を示し、その分野では、ヨーロッパにもその名が知られる程でした。また、『解体新書』刊行の発起人の一人で、杉田玄白著『蘭学事始』によると、前野良沢、杉田玄白、淳庵の三人は、1771年(明和8)3月4日江戸小塚原刑場で行われた人体腑分けに立ち会い、人体の中がオランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』の解剖図とあまりにもよく似ていることに驚き、同時に強く啓発され、早速その翌日から翻訳を開始し、1774年(安永3)『解体新書』として発刊しました。が、その後、淳庵は、1785年(天明5)に発病し、江戸へ戻り、48歳で亡くなりました。



中川淳庵先生之碑
小浜藩主 酒井忠貫侯の奥医にして、杉田玄白、前野良沢と共に解体新書出版の功労者である。併せて当時本草学(薬草学)の第一人者といわれており、又、科学者としても海外にまでその名が知られていた人で、平賀源内に火浣布(かかんふ・石綿)製造を教えたことでも知られている。四十八歳を一期として江戸小石川金剛寺に葬られたが、大正元年墓地は改葬され、無縁として取り扱われ、その跡をとどめないのは残念である。幸いこの境内に唯一先生の偉徳をたたえ顕彰碑を祀る。     山主謹白
 平成二十三年六月吉日


『遠敷郡誌』
中川淳庵
名は玄煥寛保二年家督を相續し小濱酒井侯に仕え百五十石十人扶持を食む、先代は中川仙安と稱し、本國丹波にして松平越後守に仕へしが浪人となり京都に於て醫業を爲せしが正徳五年酒井侯に召さる、淳庵は寛保二年四月江戸に勤務し明和二年奥醫となる蘭學を好み同志と其研究を怠らず、別して杉田玄白等と蘭書の飜譯に従事し、我國醫學上に貽せし功は偉大なるものあり、又治療を善くし名一時に高かりしと云ふ、明和七年隠居し家督を玄鱗に讓り天明元年四月歿す行年七十。
 附記 酒井侯は此中川家及次の衫田家を代々任用し殊に蘭學の研究を奬勵し一書の譯出完成する毎に金員等を與へて之れを賞せり。


『小浜市史』
杉田玄白と中川淳庵
杉田玄白と中川淳庵は、ともに小浜藩の藩医である。杉田玄白は、前野良沢と並んで蘭学の祖といわれ、『ターヘル・アナトミア』すなわち『解体新書』の翻訳者として広く知られている人物である。玄白は、享保十八年(一七三三)に江戸の小浜藩下屋敷に生まれた。名は翼、字は子鳳また九幸翁と号した。玄白は、父甫仙が国許詰を命じられたことで八歳から一五歳まで小浜に過ごすが、ふたたび江戸に戻り、幕府医官西玄哲の門に入り、外科を修めた。明和六年(一七六九)父甫仙が死去したあと家督を継ぎ、江戸浜町の小浜藩中屋敷に住むことになった。これと前後して玄白は同藩の友人小杉玄適を介して山脇東洋の古医道の刺激を受け、他方幕府の長崎通詞西幸作を通じてオランダ外科にも関心をもつようになっていた。
 明和八年はじめオランダ人の江戸参向に従ってき江戸本石町の長崎屋に宿していた長崎通詞からオランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』の売却を持ち掛けられた同藩の中川淳庵からそれを聞いた玄白は、江戸家老岡新右衛門を説得しその書を手にした。その直後の三月玄白は、千住小塚原の腑分を見学し、そこで『ターヘル・アナトミア』に描かれた解剖図の正確さに驚き、腑分見学に同席した豊後中津藩医の前野良沢と淳庵らとともにこの書の翻訳に取り掛かった。三年後の安永三年(一七七四)ようやくこの書を『解体新書』と名付け刊行した。その後玄白は、蘭方医としての名声を得、また大槻玄沢など多くの後進の育成につとめ、文化十四年(一八一七)江戸において八五歳で死去した。
 中川淳庵は、玄白に遅れること六年目の元文四年(一七三九)に小浜藩医の子として江戸に生まれた。淳庵は、早くから本草学に興味をもち、宝暦七年(一七五七)に平賀源内が最初に開いた薬品会に数種の薬品を出品し、また明和三年にはみずからも会主の一人となって薬品会を催している。さらに江戸にきたオランダ商館医ツンベルグに幕医であった桂川甫周とともに植物などの和名を教え、ツンベルグの『日本植物誌』の成立に寄与したように、当時有数の本草学者でもあった。また、明和元年には、平賀源内とともに石綿を使って火浣布を作るなどした。そして、明和七年からは先に述べた『ターヘル・アナトミア』の翻訳に玄白らとともに携おった。安永七年には藩の奥医となり、天明元年(一七八一)には二〇石を加増され一四〇石となったが、初めての小浜行から帰った翌年の天明六年に江戸において四八歳で死去した。
 玄白と淳庵はともに小浜藩医であり、小浜藩との関係は深いものがあったが、これまで述べてきたように彼等が学者として育ち生きた場は大半が江戸であったことも、当時の学問のありかたを考えるうえで見落としてはならないであろう。


瑞雲院

塔頭の1つ。
『今富村誌』
瑞雲院 (青井にあり)
瑞雲院は安國高成寺二世雲岩和尚の草創にして塔中四十九ヶ院の一なることは高成寺縁起に詳なり。故を以て役院と稱し、明治維新前までは末派の差配を受け役米の古制を存したり。明和五年九月二十六日郊外和尚再建、嘉永六年三月十日小濱大火あり山内の堂宇悉く焼失せしも當院は幸に其の災害を免る。明治二十六年蓬堂和尚本堂庫裡の改築をなす



曹洞宗紫玉山龍谷寺

旧丹後街道の勢坂道にある。
『今富村誌』
龍谷寺(青井にあり)
龍谷寺は青井蟻谷にあり、曹洞宗にして紫玉山と號す。青井妙徳寺の平僧地なりしが永享十年妙徳三世茂林法地開闢天和年間再建す。大明沙門慧林の額あり。薬師堂は大正二年の建築にして如来は元城内にありしものなりとか。羅漢の画像三幅あり、兆殿司の筆なリと傳ふ


『遠敷郡誌』
龍谷寺 曹洞宗妙徳寺末にして本尊は聖観世音なり、同村青井字蟻谷に在り、應永年間僧柏榮峰創立す、境内佛堂に地蔵堂薬師堂あり。


曹洞宗歓喜山妙徳寺

谷田部坂に近い山の上。
『今富村誌』
妙徳寺(青井にあり)
妙徳寺は青井轆轤谷の高所にあり、柏巌和尚(応永二年遷化)妙徳尼の爲めに開きし所にして歓喜山と號す。蓋し門前に湧泉歓喜水あるを以て名くと、曹洞宗の古刹にして東堂位の僧茲に住す、末寺二十八あり、今其の数を減ず。正徳元年六月二十五日再建釈迦普賢文珠十六羅漢の画像十九軸を蔵す。傳へ曰ふ、羅漢は顔暉の筆なりと。前備後守頼高及び酒井若狭守忠直之れを修補す(縁起の章参照)京極若狭守忠高の書翰あり。山門の額は大明沙門高泉の書なり。寺内に越前瓜生城主瓜生家の墓あり(古文書の章及大字誌尾崎の條参照)


『遠敷郡誌』
妙徳寺 曹洞宗永建寺末にして本尊は文珠菩薩なり、同村青井字文珠峯に在り、應永年中柏巖樹庭和尚の開創なり、境内佛堂に妙見堂あり。


時宗吉野山(慈渓山)西福寺

今の国道27号の山ぶちある、どこから行けばいいのやら、参道がわからない。ずいぶんと荒れているが、古い由緒あるお寺である。
本尊阿弥陀如来。「若州管内社寺由緒記」に「開山覚阿弥大永五配年より以来御墨印有レ之、従レ其以前は久敷様に承及候得共、一乱の時炎焼仕書物元レ之」とあるが、延徳2年(1490)6月3日付寺井賢仲敷地寄進状(寺蔵文書)に「寄進申若州小浜西福寺敷地事、自西光寺令買□(得)、相副売券、西福寺江為六親永代寄進申者也」とみえ、若狭守護武田氏の有力被官が敷地を寄進しているので、この頃すでに寺のあったことがわかる。永正13年(1516)には賀茂庄半済給主白井氏が同庄内半済一円散田の寄進をしているが、「直銭弐拾壱貫文永代売渡申処実正也、但徳分七石七斗五升、此内本役壱石、段銭請料七斗五升、合壱石七斗五升分、本役公事引候て、残六石徳分也」とあり、加地子得分の寄進であった。同16年には守護武田元信が神明神社の北側聖谷を寄進し、当寺道場が建立されている。大永2年(1522)には聖谷西側を神明社禰宜赤坂氏親が寄進するなど室町期を通して守護や有力被官による寺領寄進が多く、そのほとんどが守護に保証された加地子得分であった。これら権益は天正2年(1574)武田氏に代わった丹羽長秀にも安堵され、続いて浅野氏も禁制状を出している。なお同禁制に「当寺屋敷伐採竹木事、堅令停止候、并樹木茶園等」とあって、茶の栽培もしていた。

『今富村誌』
西福寺(青井にあり墓碑の章参照)
西福寺は時宗に属し吉野山と號す。正応二丑年遊行二代真教上人の創建する處なり、瑪瑙の観世音像あり。像は宝暦十二年當時の住職實門なる者生國薩摩に下りし時國守島津兵庫頭の附與せしものにして實門帰國の後同十三年四月十七日堂宇を建營し之れを安置す。堂宇荒廢今存せず傳へ曰ふ、像は宋より琉球を経て来りしものなりと。磴下の無縁堂は宝暦四年戞外なるもの附近の火葬場を伏原に移して建てたるものなり。天文前後の證状売券等の古文書数十通を蔵す。 寺内に小野鶴山西依墨山大澤鼎齋、大澤海南等藩儒の墓あり。此の寺丹羽五郎左衛門並に淺野長政京極高次及び忠高等領國の時寺中禁制免除の状を寺僧に授け酒井忠直及び忠國も亦徭役を赦すの状を賜ふ


『遠敷郡誌』
西福寺 時宗遊行派にして本尊は阿彌陀如来なり、同村青井字聖谷に在り、正応二年真教上人の創建と傳ふ、境内仏堂に無縁堂観音堂あり、由緒ある寺院にして古文書を藏し、郡内有數の根本史料たり、境内に藩儒の墓多く存す。


青井城趾
『今富村誌』
青井城趾 青井城趾は青井山上にあり。永禄元年栖神庄司助(一に韓神に作る武田義統麾下の士なり)築城す昔高成寺の境内は栢雲寺邉までありしといへば彼の武田信榮居舘を青井に構ふとあるは、今の小濱町の西部にありしならんか。郡縣誌に或は云ふ武田累世の居城は青井山に在り元光始めで城を後瀬に築きて青井山城は麾下の士をして之れを守らしむと


小浜公園

市街地の西端、青井山の麓にあり小浜湾に面する公園。昭和54年3月31日に都市公園として認められた。面積は山腹を除いて6,200m2 公園内を青井川が流れ青井山との境をなす。川沿いには小浜出身の幕末の尊皇攘夷派、梅田雲浜の碑がたつ。石段を登るとすぐに、小浜出身の明星派の女流歌人、山川登美子の歌碑がたち「幾ひろの波は帆を越す雲に笑み北国人とうたはれにけり」とある。潜水艦長佐久間大尉銅像、日本考古学に尽くした上田三平先生之碑、南北両河川の改修に尽くした山口嘉七先生頌徳碑、忠魂碑など多くの石碑が立つ。さらに登ると展望台に着くそうである。



駆逐艦榎殉難碑

青井山が海に落ちこむ断崖の先端。触雷の海を見渡せる場所である。自動車道も遊歩道もあるが、すごい岬の先端にある。榎の木の木陰に碑が建てられている。



駆逐艦榎慰霊碑
碑文
 第十一雷戦隊駆逐艦榎此地に於て終焉す 太平洋戦争の戦局急を告ぐる昭和二十年六月二十六日米軍機の投下せる機雷に触雷 艦後部を大破浸水戦斗機能を喪失しあまた尊き殉国の友を失う痛恨極まりなし
 爾来三十有余年我々元乗組員一同相諮り慰霊碑の建設を企画せリ
 願わくば此小碑が駆逐艦榎最後の地を記念し更には散花せる戦友の鎮魂の礎石として又我国の平和と繁栄を希求し萬世に亘り風光明媚な此地 小浜湾の波静かならん事を願つて 此碑を建立す    昭和五十六年六月二十六日


『国富郷土誌』
小浜湾に集結した海軍艦船
昭和二十年(一九四五)六月ごろ、海軍に残された唯一の戦闘艦隊である連合艦隊第十一水雷戦隊に所属する二等巡洋艦「酒匂」(司令官高間完少将)を旗艦として、「榎」・「柿」・「菫」・「雄竹」・「初梅」・「楠」など六隻の二等駆逐艦(舞鶴、呉海軍基地所属)が小浜湾児島周辺に集結し、最後の国土決戦に備えて特別訓練を続けていた。このことを知ったアメリカ艦載機グラマン・B29爆撃機は、猛烈な機銃掃射と、機雷を投下するなどして、激しい攻撃を続けてきた。
これに対して艦船が防戦を行い対空戦となり、急降下する米グラマン機の不気味な爆音と、警報を告げるサイレンが鳴りひびき、物凄い攻防戦が展開された。
駆逐艦「榎」は、昭和二十年六月二十六日、燃料補給のためわずかに移動したところ先に、B29の投下した機雷に触れ大音響とともに右舷艦尾を爆破され、そのまま艦首を上方に向けて沈没寸前になった。甲板は血の海と化し死力を尽して排水作業に全力をあげ、僚艦「菫」・「初梅」の曳航牽引により浅瀬に座礁し、沈没をまぬがれた。触雷爆破の際二六名の死者を出し、数日後の三十日には米軍機の機銃掃射によりさらに一〇名の死者が出るという悲惨な状態であった。
なお八月十五日の敗戦の日まで米艦載機が来襲し機銃掃射と爆弾などを「榎」の周辺に投下した。爆弾は当たらなかったが、「菫」も同時に攻撃を受け、一〇〇名にのぼる多くの怪我人が出たといわれている。怪我人は一時的に学校に収容され、軽い人は現在の小浜中学校で手当を受けた。


『積み残しの青春』
■改丁型駆逐艦 榎
 〈昭和19年10月14日起工、20年1月27日進水、3月31日竣工〉
4月8日、内海西部に回航して訓練に従事、5月27日舞鶴に戻り、6月26日、福井県小浜灯台沖で触雷、大破着底(実質は沈没)。竣工からわずか87日。我が駆逐艦の最短命記録である。昭和23年6月から1ヵ月かけて三菱・七尾造船所により解体され、海面から姿を消した。艦体の一部は海底に放棄。


『中日新聞』(2015.6.27)Web版
*乗組員も初参列 小浜で旧海軍駆逐艦「榎」の慰霊祭*
 終戦直前の一九四五(昭和二十)年六月に小浜湾で沈没した旧海軍駆逐艦「榎」の慰霊祭が、沈んだ日に当たる二十六日、湾を見下ろす小浜市青井崎の慰霊碑前で営まれた。当時を知る小浜中学校同窓会「榎会」が主催。かつての乗組員も初参列した。
 榎会は戦中の小浜中一年生による同窓生でつくっており、二〇一三年に初めて慰霊祭を開催。今年は乗組員でつくる「戦友榎会」に声を掛けた。参列したのは事務局を務めた浜野邦男さん(87)=敦賀市赤崎=ら四人。
 慰霊碑前では読経の中、集まった三十人余りが焼香して戦没者を追悼した。
 榎は出撃命令を受けた二十六日昼前、米軍機が投下した機雷に触れて爆発。乗組員三百人余りのうち、三十六人が戦死した。
 戦友榎会は八一年六月に慰霊碑を建立したが、高齢を理由に活動を休止した。
 今年は戦後七十年。浜野さんは「戦友に掛ける言葉がないまま七十年たってしまった。悔しくて安らかな眠りはなかったろう」と慰霊碑に語り掛けるとともに、式典後は「戦争への道に歩むような音がする」と話し、国政の行方を心配した。


『福井新聞』Web版
*旧海軍最後の水雷戦隊 解隊前の悲劇 貴重な詳録*(2015年7月24日午前7時25分)

 1945年6月26日、小浜湾に機雷の爆発音が響いた。停泊中の第十一水雷戦隊の駆逐艦「榎」が触雷。死者数十人を出し、「榎」は着底した。この詳細を伝える旧日本海軍少尉の回想録が冊子になった。風光明媚に見える海は米軍の機雷で埋め尽くされ、新鋭艦が格好良さを競う水雷戦隊も内実は資材不足などから演習すらできない状態。戦後70年の今年まとめられた冊子は、終戦目前の空気をまざまざと伝えてくる。
 同戦隊は45年7月15日の解隊で、旧海軍最後の水雷戦隊とされる。回想録を残したのは同戦隊の旗艦、軽巡洋艦「酒匂(さかわ)」に乗り組んでいた小浜市出身の澤田冨士夫氏。「酒匂」は「榎」の救助に当たった。冊子は遺稿を預かっていた元小浜市副市長の網本恒治郎さんが発行した。
 「榎」触雷のくだりは衝撃だ。他艦への横付け準備で多くの乗組員が甲板にいた時で、衝撃で構造物にたたきつけられた。意識を失ったまま海に落ちたり、手足を失ったりしたという。当時湾内では触雷が他にも頻発。戦隊は訓練どころかほぼ身動きが取れなかったようだ。燃料も全く足りず、「酒匂」に大豆油が補給されたと紹介されている。
 解隊が決まり「酒匂」が機雷の海を舞鶴鎮守府に向かう場面は圧巻。高速巡洋艦の性能をフルに発揮し、触雷しても爆発までのわずかなタイムラグの間に先へ進んで衝撃を避ける作戦が取られた。この回航中に小浜湾口付近で機雷2発が爆発。「酒匂」が触雷したと思われるが、爆発は艦尾後方50〜100メートル、後続駆逐艦との中間辺りで、奇跡的にほぼ被害はなかった。米軍の物量に意地と技術で対抗した回航劇といえた。
 持ち前の性格か、苦境続きの艦上生活を記す中でも澤田氏の文章は明るさが漂う。小浜赴任の途中、舞鶴の海軍機関学校に錦を飾ろうと訪れたら強引に泊まらされ、当直巡回させられたこと、ブリを「酒匂」にこっそり持ち込み仲間と刺し身で味わったことなどがユーモアを交えつづられる。 その澤田氏も、特攻隊任務(出撃前に終戦)のため「酒匂」を退艦するときは涙を流したという。回想録はそこで終わる。「酒匂」が戦後、戦艦「長門」とともにビキニ環礁の核実験標的艦にされ沈んだことは冊子後書きに記されるが、澤田氏は触れていない。また「榎」は、マストなど一部が洋上に出た状態で長く放置された。48年にようやく引き揚げられ解体された。

 移動もままならない軍艦。資材窮乏。核実験の標的。敵艦と砲撃こそ交えなかったが、第十一水雷戦隊がたどった運命は敗戦の一つの象徴のように映る。澤田氏が残した貴重な記録をしっかり記憶にとどめたい。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


青井の主な歴史記録


『今富村誌』
青井區
 青井は小濱町の西に接し小濱湾に突出したる地にして熊野山を以て伏原尾崎區に接続すと雖も別に一天地をなす。勢坂は遠敷大飯の郡界にしで谷田部坂を越ゆれば口名田村なり。戸数三十人口二百〇二、田畑段別僅に九町歩なるも山林一百十町餘歩を有し本村の第一位を占む。舊時の草高百三十七石八斗五弁
神明神社、高成寺、西福寺、妙徳寺、龍谷寺、小濱公園、雲浜先生の碑、佐久間大尉の銅像、青井城趾、船止巌、縣立小濱水産學校淡水養魚地等あり。青井の晩鐘は雲濱八景の一に數へらる
 此の地曾て後瀬浦と稱したるの一部津田の入江と相待ちて一勝地たり。古歌に
 『立帰り後こそ知りぬ後瀨山麓の岸に寄するあた波』と船止巖、帆着谷以て往事を證するに足る
神明神社は元熊野山の半腹にあり、天照皇太神、豊受太紳を祭る。應永十四年の創建に係る古神田一千石ありきといふ、天正十七年國主浅野長政以来代々奉供少なからず。境内に十景あり明治二十八年山麓に移す。俳句の碑あり
    糸ゆふやあるきあるきの夢うつゝ
         洛山口羅人翁門人 雨前齋甫人
勢坂は彼の『康安元年十月仁木三郎尾張左衝門督と本州守護細川清氏を撃つや佐分利郷より乱入し勢坂に至る小濱代官頓宮四郎左衛門出降る』とあるは此處なり龍谷寺の附近に火葬場あり近年別に小濱町営として新設せらる
高成寺境致十景の内に青井水なる古井あり今尚ほ存して渇水の憂なし。青井水は梵竺仙の附名にして山號を青井山といひ寺を安國寺といふ。後將軍尊氏より三千石を賜はり附近の百姓を青井村民と稍す云々。  當時高成寺の境内は今の小濱町の西部に及び居りしとか降りて延寶年間小濱五十二町の内に青井町の名あり。
栖雲寺は昔高成寺塔頭四十九院中の一にして潤甫和尚の開山なり。潤甫和尚は武田元信の長子故ありて出家す、洛東建仁寺の住僧たり玉長老と號す、天文十九年六月二十三日遷化
高成寺観世音菅笠は開扉毎に改製す。區内製作者は一週日齋戒沐浴日夜観音堂に參拜し之れを作る、今尚古式を存す。此れ青井に笠屋の稱ある所以なりと
郡縣志に「青井村は小濱の西に在りて今富莊に屬す山あり青井山と號す民居は其の麓に在り故に名く青井村西一里許は所謂東勢大飯郡に屬す勢坂を以て両郡の境界となす」と。青井山は下中郡青井村高成寺の主山なり山頭二筒の井あり青井と名く斯山北崖に古松あり其の西海岸に衣岩あり龍鬚(カタノリ)菜濱あり皆遊興の處なり」と
二丹橋 船留岩の南三十歩ばかりのところに在り。丹波、丹後に赴く者皆此の橋を過ぐ故に之れを名づくと
船留岩 青井村熊野山西麓にあり。相傳ふ『古築紫に王孫なる者あり其の女伊勢太神宮に詣で神託に從ひ船に乘じて海上に浮び其の到る處を以て居となさんと欲す時に其の船熊野山麓に到れば則ち斯の巖に繋る故に此の名あり然る後其の女山腹に登り十二字の子を石上に産む産岩と名づく今存すといふ』と古書にあり
庚申社 庚申社のある邊昔青井村たりしこと明かなり。 古記に『庚申社は下中郡青井村にあり慶安二年二月國守酒井家の族臣都筑秀久母(酒井忠勝公の女)祈願あるに因て之れを創建すと云ふ祭る所のものは幸神なり庚申の日夜に入り男女斯の社に詣づ』と
法華塚 青井丹後街道新舊両道の合する巌上に舊道に面して一石塔あり法華塚といふ。蓋し天明年間勢村妙見宮の信者の建つるものなりと
    南無妙法蓮華経万部
南無日蓮大菩薩五百遠忌御報恩
 天明元辛丑稔十月十三辰


青井の伝説


『越前若狭の伝説』
役の行者            (青 井)
 熊野山□(一字不明)照窟(くつ)は役(えん)の行者の草創である。大宝二年(七〇二)九月七日役の行者は五色の雲に乘って、当国へ来たり、この山に草を結んで居住した。     (社寺由緒記)

 小浜の雲浜という地名は、役の行者が乘って来だ雲にちなんで名づけられた。        (若狭守護年代年数並旧記)

神明神社         (青 井)
 熊野山神明宮は女伊勢大神宮という。健保のころ(一二一三)の草創である。健保元年から代々の神主の申し伝えによれば、九州に王孫という貴人かあった。その姫宮か十七才になったとき、ある夜「伊勢参宮をせよ。」との霊夢の告げかあった。また日向(ひゆうが)の国(宮崎県)に菊池武弘という人があり、これも夢想があって、姫宮のお供にて参宮した。
 姫宮は大神宮の内陣にはいり、七日過ぎて出て来られて、「大神宮のお託宣にて、船を飾り、十二人の女どもか奉仕し、船の着いた津を宮居に定めよとある。」とて、船を出した。
 しかるにこの船は、当国の南の入江白玉椿(つぱき)のふもとに着いた。姫宮は熊野山に登り、お産所を尋ねていると、白いかりが二羽鈴をくわえて来て、岩の上に落した。その岩の上で十二のみこが誕生した。これによりその石をうぶ(産)石といい、船をつなぎとめた所の岩を船留(ふなとめ)という。岩はその船の形をうつし、今もある。鈴も今に至るまで社中に納めてある。
 菊池武弘の郎党で熊部赤坂という者が、この由を朝廷に奏聞したところ、勅使が当山に来たり、お母宮を女伊勢大神宮と号し、十二のみこを十二社権現と号した。
 外宮内宮の宮居も白いかりが来て告げた所に社を建立した。正月・五月・九月の十五日ごとにかりが二羽当社へ飛んで来る。その羽がいの下に白い羽が一二枚ずつ必ずある。
 昔より若狭から西の国は当社へ参宮し、神明講といっている。これより東の国は伊勢へ参宮する。
 菊池武弘の持っていた弓とくらは今に社中にある。この武弘が神主の最初である。延宝一二年(一六七五)の当神主までに十五代である。      (社寺由緒記)

 古くからうぶ石に安産を祈る人が多い。    (若狭の伝説)


 白雁を「若狭郡県志」には単に白鳥と記している。(杉原丈夫)


高成寺の観音             (青 井)
 高成寺に観音像が安置してある。この像はむかし遠敷(おにゆう)下の宮のそばにあった。ある時ひとりの山伏が、これを盗んで持ち帰ろうとした。それを村人か見つけて、取りもどそうと追いかけてきたので、山伏は、その観音像を湯の川(今の湯岡)の流れの中へ投げ入れ、その像に、「後日わたしの手もとへもどりたいならば、川の流れに逆らって、この地点より上流にいてください。」と祈った。
 追ってきた村人たちは、川しもをさがしたので、仏像は見つからなかった。そのあと山伏が湯の川へさがしにくると、観音像は、川の流れに逆らって上流の水底にあった。そのところを観音ぶちとよんだ。
 山伏は、その観音像をたずさえて、青井山のふもとに安置し、この寺の本尊とした。この像は、川へ投げ込んだ時、ひたいに傷をしたゝめ、笠を頭にかぶっている。この観音さまにお祈りする人は、新しい菅笠を作り、奉納するといわれている。     (若狭郡県志)


専光寺                  (青  井)
 元亀年中(一五七〇ごろ)寺が炎焼したとき、本尊の阿弥陀仏は、みずから海中にはいって光を放った。よって専光寺と号した。 (社寺由緒記)


たもの地蔵            (青 井)
 青井の坂に大きなたもの木があって、その根元に木から首だけ出た石の地蔵さんがある。これは木が大きくなって地蔵さんの下半身を包んでしまったのである。婦人などの腰から下の病に霊験ありといわれ、たもの地域さんで通っている。      (若狭の伝説)


武田信広          (青 井)
 北海道松前藩の藩祖武田信広に関しては、三つの説がある。一つは松前藩の記録「新羅之記録」等によるもので、信広は若狭守護職武田信賢(のぶかた)の子である。(詳細は別記の註を見よ。)一つは従来俗間に伝わっている説で、信広は若狭の賎民で、北海道に渡って蠣畸(かきざき)季繁の娘に通じ、ついに入りむこになった。いま一つは、信広は南部氏の一族であったが、宗家にそむいて北海道へ渡ったので、その実をいうことをきらい、いつわって若狭武田の嫡統と称した。     (北海道史)


 武田氏は初め蠣崎(かきざき)氏を名乗っていたが、後にさらに松前に改めた。家系を尋ねると、その祖先は新羅三郎義光である。義光の曽孫信義が初めて武田を氏とした。信義十一世の孫に信繁があり、元中四年(一三八七)若狭を領した。信繁に三子あり、信栄・信賢・国信という。兄弟相継ぎて守護職になった。初め信賢に子がなかったので、弟の国信を養嗣としたが、その後信広が生れたがら、信広を国信の養嗣とした。
 しかるに信広は資性豪勇で、よく強弓を引き、材武を誇って粗暴の行いがあったから、ついに家を国信の子信親に伝え、信広に迫って自害させようとした。重臣数名は、これを惜み、信広をして難をのがれさせた。ここにおいて家臣佐々木三郎兵衛尉繁綱・工藤九郎左衛門尉祐長ほか三名を従え、夜ひそかに出奔した。時に宝徳三年(一四五一)三月二十八日にして、信広は二十一才であった。
 信広は関東に行き、足利におり、享徳元年(一四五二)陸奥の田名部に至り、蠣崎氏に寄寓した。同年八月安東政季に従いて蝦夷島に渡り、上岡茂沢にいた。長禄元年(一四五七)アイヌ叛乱のとき、抜群の功績を現わし、ついに蠣崎季繁の家を継ぎ、新館を天川(あまのかわ)の北に築いた。これを州崎館と称し、川をへだてて花沢館と相対した。信広は大功を建てたが、なお一館主として明広三年(一四九五)五月没した。年六十四才である。(北海道史)






青井の小字一覧


青井 寺ノ内 堀川原 一ノ谷 二ノ谷 狐尾 箕手 丸山 西谷 川西 川東 北聖谷 聖谷 谷口 玉椿 熊野 下勢坂 石坂 勢坂 蟻谷 下坂 飯奇谷 歓喜水 北辰 藤塚 鱇? 文珠 笹生口 笹生 狭岩 寺越 坂尻 末曽越谷 海望山 新川東 青浜

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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