丹後の地名 若狭版

若狭

羽賀(はが)
福井県小浜市羽賀


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福井県小浜市羽賀

福井県遠敷郡国富村羽賀

羽賀の概要




《羽賀の概要》


北川下流右岸の国富平野北西部、天ヶ城山南西麓に位置する。地名の由来は霊亀2年(716)当地に鳳凰が飛来し2枚の羽を残したため朝廷に献上し、これを見た行基が奇瑞のあらわれとして寺を建立し、鳳聚山羽賀寺と命名したことによるという。また霊鳥は国を富ますとの伝承から国富と称したとも伝える。
羽賀村は、戦国期から見える村名。当地には霊亀2年行基が草創したと伝える真言宗古刹羽賀寺があり、また天暦3年(949)に勧請されたという羽賀姫大明神もあることから、地名も古くさかのぼると考えられる。元弘元年(1331)10月20日に羽賀寺に寄進された地のうち「湯屋山」は村域南の小字湯ノ山に、また寄進地の北限の「文津原谷」も小字文殊原に比定される。地名としては文明8年(1476)3月16日の羽賀寺寄進札に「羽賀村西大家」とあるのが初見。建久6年(1195)立荘の国富荘内4か村の1村であった。弘治2年(1556)6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状には「百文 羽賀村永元様分」とある。なお同書に「百文 羽賀寺門前」と見え、羽賀寺の門前町が形成されているが、これは当村とは別扱いになっていたものか。西津を本拠とした武田氏被官内藤氏の支配下にあったと考えられ、元亀3年(1572)12月の羽賀村の合戦で戦死した西川久介の戦功を賞して子の徳千代に名職などを安堵した勝行は内藤氏と伝える。
近世の羽賀村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、家数52 ・ 人数237。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年国富村の大字となる。
近代の羽賀は、明治22年~現在の大字名。はじめ国富村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西2町・南北3町、戸数58、人口は男133 ・ 女139、学校1。


《羽賀の人口・世帯数》 265・90


《羽賀の主な社寺など》

古墳
小字八ッ石に古墳群がある

条里制遺構
奈胡との境に条里制遺構が残る。昭和同38~41年の土地改良事業により古代~中世の条里坪付と推定される二ノ坪・三ノ坪・五ノ坪・七ノ坪などの遺構は消滅した。


羽賀姫神社

羽賀寺参道登り口の左側に鎮座。祭神下照姫命、旧村社。近世までは羽賀姫明神と称して、「羽賀寺年中行事」に「羽賀村羽賀姫大明神宮、本地十一面観音也、天暦三己酉年中、羽賀寺時之院主勧請之也」とあり、羽賀寺の鎮守として勧請された。社領は天文18年(1549)禰宜が逐電したのち武田信豊から南部膳行に与えられたが、南部氏は翌年許可を得て姫宮へ寄進している。弘治2年(1556)に円実坊乗水が立願して因幡国で勧進し鎮守拝殿を建立したが、畑田加賀守が造営を助けた。
代々の羽賀寺院主が別当職を兼ね、正月の朝拝、1月11日には大般若経の転読もしている。地元の話では、奈胡の姫宮神社とは姉妹神のため近年まで両村民の婚姻はなかったという。

『国富郷土誌』
羽賀姫神社
羽賀第七三号田中一五番地の羽賀寺参道の登り口にある旧村社で、下照姫命を祀る。近世までは羽賀姫明神と言われていた。「神階記」に正五位羽賀姫明神と、正五位羽賀彦明神が記載されていたが、後者はその後廃絶して現存しない。また、「若狭郡県誌」には「羽賀五所神社あり、霊亀二年(七一五)行基禅師此の寺(羽賀寺)を建立する時、北野十二所の内、若殿(泥土煮尊)、禅師宮(大戸尸尊)、聖宮(面足尊)、兒宮(伊弉諾尊)、子守宮(姫大神)の五所の神を勧請し、鎮護の神となす」とある。
なお嘉暦二年(一三二七)に再興の記録が残っている。また、『羽賀寺年中行事』に「羽賀村羽賀姫大明神宮、本地十一面観音也、天暦三年中羽賀寺時の院主勧請す」とあり、羽賀寺の鎮守として勧請された。社領は天文十八年(一五四九)禰宜が逐電したのち、武田信豊から南部膳行に与えられたが、南部氏は翌年許可を得て、姫宮へ寄進している。弘治二年(一五五六)に円実坊垂水が立願して、因幡国で勧進し、鎮守拝殿を建立したが、畑田加賀守が造営を助けた。また代々の羽賀寺院主が、別当職を兼ね、一月元旦の朝拝、一月十一日には大般若経の転読もしている。
『福井県神社誌』によれば、境内三四七坪、氏子四六戸、例祭二月十一日で、境内社に安閑天皇を祀る金峰神社があると記されている。なお奈胡の姫宮神社とは姉妹神のため、近年までは両村民の婚姻はなかったという。
現在の祭礼は、一月一日に祈願祭が行われる。また二月十一日には下照姫誕生祭が行われる。例祭は五月一日と十月一日の二回で、十月には新嘗祭も併せ行われる。両日とも幟が立てられ、禰宜は前日より祭礼の準備をする。神酒やするめ、肴類を準備するほか、氏子各二個あての小餅を作る。餅は祭礼終了後全戸に配る。祭礼当日は早朝より神事が行われ、氏子全員が参詣する。なお禰宜は毎月つごもりと一日の朝、おまつりをする。現在の氏子は四二戸、総代は三名で任期は三年、一月の初総会で選出される。


『遠敷郡誌』
羽賀姫神社 村社にして同村羽賀字田中にあり、元羽賀姫明神と稱し下照姫命を祀る、嘉暦貳年再興すといふ、本国神階記に據れば正五位の神階あり、境内神社に金峰神社祭神安閑天皇あり。.

由緒がよくわからないが、鉱山や鍜冶の神様を祀る社かと思われる。味耜高彦根神の妹が下照姫というし、境内に金峰神社、奈胡の姫宮のすぐ近くに阿那志神社。
羽賀というのも、鳳凰の羽根というのではなく、鉱山に関係した意味があるのかも知れない。白山、羽黒山のハクはハク(カネ偏に白)は銅鉱石のことで、羽賀はその転訛したものか。


高野山真言宗本浄山羽賀寺
羽賀寺本堂
集落奥の山腹にあり、霊亀2年(716)行基の創建と伝える。本尊は旧国宝の十一面観音。かつては寺坊18を数えたというが、今はこの本堂一宇を残すのみ。寺蔵の伝伊予法眼筆「本浄山羽賀寺縁起」に
  粤霊亀二年丙辰春二月、神鳥来儀止此山頂、頡頑有日
  羽毛五彩、鳴加律呂之声、聞者感之、共到忘欲未有
  人聞之三日而沖天去、人躋見山嶺、剰其羽毛二牧(ママ)、
  其色如煉紫金、其赤無譬物、時当国目代挙而献之、
  朝帝示之左右検官、無敢名者、勅問行基菩薩、行基
  曰、是鳳鳳翼羽也、鳳鳳出世天下有慶、是太平之標
  幟也、夫鳳鳳降処其地必生玉、来護(の金偏)地可三尺、得一
  顆之玉献納干帝、帝於是有叡信、賀羽毛祈福、就地
  剏寺、山名曰鳳聚寺、称曰羽賀、
とあり、山号寺名の由来を述べる。寺は天暦元年(947)8月下旬の洪水で埋没、翌年雲居寺の浄蔵が再興して勅願所となり、同4年寺領四町三反が寄進されたという。「若狭守護代記」には「頼朝公若狭遠敷郡国富庄羽賀寺ノ霊勝タルヲ聞召テ、三重ノ塔婆ヲ建立シ玉ヒ、国富庄ニ於テ田五町ヲ寄附シ玉フ」とある。
南北朝期には斯波氏頼が田三反・畠二反を寄進、貞和3年(1347)には細川清氏が大飯郡本郷内の田三町を寄付するなど、守護の庇護も受けていた。さらに税所今富名竹原天満宮の供僧職所職の進退も手中にして、大勢力を保持していたと思われる。元弘の乱以後は兵乱で大破したが修理も思うにまかせず、延文4年(1359)沙弥朝仏が細川清氏の助力で修造した堂舎も応永5年(1398)には再び焼失した。永享7年(1435)には観音堂が焼けて仮草庵に尊像を安置したが、後陽成天皇勅筆「羽賀寺縁起」に「(永享)同八年四月サンズイに存建本堂、然奥州十三湊日之本将軍為檀越、捧加莫大之貨銭、(中略)造畢後、文安四年十一月十八日、本尊令遷座也」とあり、8年の歳月をかけて安倍康季(泰季)が再興した。安倍氏は津軽に本拠を構え、下国家安東、上国家安倍の二姓に分れる北奥の名族で、南北朝期から室町初期に日本海交易で力を得たと考えられ、その関係から秋田安倍氏の協力を得て再建を達成したと推察される。「若狭守護代記」には安倍の安東太郎康季とあり、以後同家の祈願所となった。
永享12年に若狭守護となった武田氏の庇護も受け、永正2年(1514)には武田元信が堂舎大破の修造をし、被官人の粟屋・白井氏らも田地などを寄進している。七代信豊は天文9年(1540)に武田氏の祈願所と定め、寺領・諸堂社供僧職・別当職なども安堵し禁制を定めた。信豊は永禄元年(1558)子の義統と対立し、近江へ出国するが、羽賀寺僧院の池の坊に帰国祈願を命じ、目的を達すると、同4年同坊に多聞院の名称を与えている。武田氏滅亡後は、いったん織田信長により寺領が収公されたが、やはり信長の命で再び安堵された。
天正9年(1581)には後奈良天皇25回忌法要の綸旨が下るなど、青蓮院門跡を仲介として朝廷との関係もきわめて深かった。本浄山羽賀寺縁起によれば叡山の法流に属し、応永年中准三宮義円により京都青蓮院末となり、宝徳年中(1449-52)には京都東寺の末となった。しかし、依然青蓮院を本寺とし、室町時代を通して同門跡による本堂上葺などの勧進が行われている。
康季8代の子孫秋田実季は先祖の因縁により、尊朝法親王の請で文禄2年(1593)堂舎の修造に着手し、慶長6年(1601)に完成したが、材木は秋田から三国・小浜湊の船で運ばれている。実季は同7年、常陸宍戸5万石に転封され、正保2年(1645)には子の俊季が陸奥三春5万5千石に移封され、経済的に大きな打撃を受けた。羽賀寺への寄進は俊季より毎年送られたが、三春転封後は毎年金15両に減った。当寺蔵の実季の書状は羽賀寺修造に関するものや、伊勢朝熊へ追放後のものなど30余通あり、戦国武将の生々しい姿が知られる。一方、丹羽長秀以降、浅野氏・木下氏・京極氏・酒井氏と替わるが、歴代藩主は禁制状を発給し、京極氏は12石、酒井氏は9石2斗余の合力米を与えている。
当寺には後陽成天皇勅筆羽賀寺縁起(重要文化財)や青蓮院門跡書翰・正親町天皇綸旨・公卿らの書状など寺領や堂舎の修復に関する文書が数多く残る。重要文化財では、室町中期の檜皮葺入母屋造の本堂、元正天皇を写したと伝える彩色木造十一面観音立像(本尊)、長寛3年(1165)銘の木造千手観音立像、治承2年(1178)銘の木造毘沙門天立像がある。その他、戦国時代を知る資料として「羽賀寺年中行事」(県指定文化財)があり、民俗資料では正和5年(1316)から永禄8年まで100枚余の寄進札(県指定文化財)もある。墓地には実季の弟英季の墓塔(砂岩製宝篋印塔)がある。

羽賀寺開山堂。本堂は左ヘすすみ石段を登る。

安倍英季の宝篋印塔はどれだろう。興味ある人もあるだろうから、案内板くらいは建ててもらいたい。本堂の左に安倍家之墓とある墓地がある、たぶんこれであろうか。

『国富郷土誌』
羽賀寺
羽賀集落の奥深い山腹、羽賀第八〇号羽賀谷五番地にあり、本尊十一面観世音を祀る。霊亀二年(七一六)に、僧行基の開創と伝えられている。山号を鳳聚山といい、現在は高野山真言宗である。境内地は八三〇〇平方メートルで、木立にかこまれた山道を登りきったところに国の重要文化財本堂や、鐘楼堂などがある。縁起によれば、その昔鳳凰が飛来し、その羽根を落としていったという伝説から現在の山号をよぶようになったといわれている。開創当時は法相宗で始まったが、のち天台宗にかわり、現在では高野山真言宗に転じている。元正天皇の(七一五~七二三)年寺領を賜り、勅願所となったが(開創約三〇〇年後)六二代村上天皇天暦元年(九四七)、平成元年より約一〇四七年前、山つなみによって、伽藍ことごとく泥中に没したと伝えられている。時に道真公と並び称せられたといわれる、雲居寺の浄蔵貴所が村上帝の勅命により、三か年の国税をもって再建され、このころから天台宗に転じている。建久元年源頼朝が初めて上洛の際その年の秋この若狭路に足をはこび、当寺に三重塔を建てられたが、のち落雷のため八枚の扉のうち一枚の扉を残して炎
上したと伝えられる。現存する扉には十二天のうちの水天が描かれていて金岡の筆と言われている。
羽賀寺は、縁起によると霊亀二年勅願寺として草建以来、朝廷の保護のもとに、若狭国でも有数の古刹として存在し、本尊十一面観世音像は、平安時代初期の作として著名である。いま当寺には一六○点をこえる古文書が保存され、うち三分の一が中世のものである。勅願所であったところから、勅筆や綸旨・女房奉書あるいは青蓮院門跡の手跡や公卿の書状が遺っているのは、当寺文書の特色である。勧進帳は尊猷親王の筆跡である。陽光院誠仁親王の染筆にかかり、後陽成天皇の勅筆の奥書があることで著名な羽賀寺縁起も、また同親王の斡旋によって成ったものである。この縁起はつとに勅筆の縁起としてしられ、一覧を望んだ人が多く、元禄年中、住職が二度にわたって江戸へ携行し、水戸宰相吉孚・同夫人八重姫(将軍綱吉養女)輪王寺公辨法親王・護持院隆光らが、それぞれこれを繙いている。戦国時代に入ると、武田信豊は天文九年(一五四〇)当寺を祈願寺とし、寺領ならびに諸堂社供僧職等すべて安堵するとともに、禁制を定め、寺領の押領・濫妨等を禁じたのである。
羽賀寺縁起の記事をたどると、応永五年(一三九八)、永享七年(一四三五)と火災に遭い、伽藍堂塔ことごとく失われたが、本尊十一面観音立像は奇跡的に無事であった。現在の本堂は開基以来四度目の再建である。記録によると、永享八年に現在の本堂再建に着手しているが、この再建に当たっては後花園天皇の勅命とはいいながら、羽賀寺の再建に東北津軽の豪族安倍一族になぜ求められたかという謎もある。再建に当たって帝より侍従大納言に授かっているが、これは勅願寺であるための措置とともに、安東安倍氏への援護であったことも考えられよう。本堂再建にあたって安倍一族は文安四年(一四四七)に完成するまで満一二年の歳月を費しているが、非常に困難ななかで着工され、東北に隆盛をきわめた安倍一族も、南部家との戦いで非常に苦しい時期であった。康季は、あらゆる総力を結集して伽藍の復興にそそいだことが窺われる。今に残る両界大曼荼羅を始め十数点に及ぶ画像は、すべて本堂落慶時に康季公が寄進したと伝えられている。本堂右側山裾には、次の銘文を刻した康季公の三五〇年忌の供養石塔が建っている。
  秋田城介安倍実季公
ところが康季再建後約一五〇年の歳月を経て、伽藍再び荒廃の一途をたどったのである。文禄二年(一五九三)、青蓮院門跡尊朝法親王の要請によって康季八代の後胤、秋田城介安倍実季が、先祖の有縁をもって修造の工を起こすことになるのであるが、安倍一族の先祖は「人皇第八代孝元天皇第二皇子安倍将軍、これ安東安倍姓の祖なり」と安倍家系図にあり、特に実季の記録は細やかに記されている(「羽賀寺文書」)。彼は天正四年(一五七六)の生れであり、当初は下国安東太郎と称したが、若年で父愛季の後を継ぎ、衰退の安倍家建直しに懸命であった。天正十九年秀吉の奥州統一のとき弱冠一六歳ながら、檜山郡・秋田郡の内で五万二四〇四石を安堵され、さらに秀吉蔵入二万数千石の代官を兼ねるなど、ここにようやく安泰をみた。羽賀寺修造は文禄二年着工にかかり戦国の世相激動のさなかであった。慶長五年関ヶ原の戦には、家康の書状もあったが、出羽国へ進攻している。これは徳川家への忠誠のためとは認められず窮地にたたされるが、この時二五歳の青年武将であった。出羽国への進攻は、気骨のある野心家とみられ、徳川政権はそれを見抜いていたのであろう。秋田家にとっては危急存亡の時期であった。
このとき、羽賀寺にゆかりのある勧修寺晴豊(母は若狭武田氏被官粟屋元隆の女)を通じて勅筆縁起を請い、慶長五年五月後陽成天皇が実季の名を記して染筆、翌年三月ごろ井家摂津方へ預けられ羽賀寺へ下賜された。勅筆に名を記すことは大変なことであり、非常に大きな影響を与えたのではなかったか、しかし実季への幕府の不信感は消えず、寛永七年(一六三〇)ついに伊勢国朝熊へ蟄居を命ぜられ、以後約三〇年間同所で過ごすこととなる。彼は絵画和歌の道に長じ多趣多芸であったが、とくに薬草の採集に余念なく、初めて万金丹の腹ぐすりを開発したらしい。お伊勢詣りの人たちが、朝熊へ立寄って帰りの手みやげに買求めたといわれ、当寺にも彼は万金丹製法を伝え、これを格納したらしい当時の壺の、大小かずかずが今なお残っている。
寛永十二年三代将軍徳川家光の下命により、時の小浜藩主酒井忠勝が、山門の造立に着手、桃山建築の偉容を誇ったが、大正十三年七月十三日羽賀の大火にあい、惜しくも類焼を免れえなかったことは、まことに痛恨のきわみであった。鐘楼堂は桃山時代の建物で、実季の子俊季が寄進、寛永十二年梵鐘寄進の銘がある。実季墓塔の一段下方に高さ三・三八メートルの雄大な宝篋印塔がある。銘文に俗名秋田城介安倍玄蕃亮英季、寛永十二乙亥年七月五日とあって秋田実季の弟玄蕃亮英季の墓塔であることが知られる。英季は、大坂冬夏の陣にも兄実季の手に属して毛利軍と相対して奮戦するなどかずかずの功績をのこすが、実季没落後は甥の俊季の合力をうけ、二〇〇〇石を拝領していた。寛永十年江戸にあった酒井忠勝は英季の功名を聞き、若狭小浜へ移封と同時に、若狭へ移った英季に、一〇〇〇石を加増、都合三〇〇〇石の大身となった。小浜藩では敦賀奉行の要職をつとめている。さらに将軍家御目見得の家柄としての後胤は今日一八代目である。故陸軍中佐安倍連次郎は昭和十四年日華事変に出陣している。安倍玄蕃墓塔の向かって左に故連次郎の墓石がある。ちなみに法名は忠誠院殿連勝武岳大居士行年三一歳であった。
重要文化財羽賀寺本堂
昭和二十六年十一月一日付をもって文化財指定申請書を提出してより一三年目に指定された。昭和三十六年六月二十一日付をもって認可の報を受けた。長年の歳月にわたり、破損腐朽が甚だしく、国の重要文化財の認可を受けたことは、地元檀信徒の多年の念願であり、感激の念は一入深く心に感ずるのである。昭和の解体修理工事は、昭和三十九年四月一日より修理工事に着手、竣工は同四十一年九月三十日であった。この本堂は桁行五間(一三・七四メートル)、梁間六間(一四・六二メートル)、棟高一三・二一メートルの規模を有し、桧皮葺入母屋造りで、地方ではまれにみる優雅な室町時代初期の建造物とされ、国指定の文化財として今日に伝えられている。
現在の本堂は長年の歳月にわたり破損しているので、昭和三十九年四月一日より、四十一年九月三十日まで二か年半の工期により、解体修理が施行された。総工事費三四七〇万円(国庫八割地元二割のうち市および寺一割)の負担であった。ちなみに当時の大工賃は、宮大工二〇〇〇円、土地大工八〇〇円であった。工事監督は後藤柴三郎一等建築士であった。記録によると、最初に解体に近い修理が行われたのは、およそ三〇〇年前文禄二年より工事にかかり、ほとんど解体に近い修理で、元禄六年の完成まで一二年の歳月を費している。この修理の主役は安倍実季公であった。
羽賀寺由来記によれば、
  本堂  文安四年梁間七間桁行七間修理永正七年
  鐘楼堂 延宝元年四坪 九尺四方 仝 文禄四年 修理寛文十年
  護摩堂 延宝元年前口五間奥行十三間修理安永元年
  客殿及玄関 寛永二年前口十二間奥行六間五十五坪
       安永八年、明治五年
  山門 寛永十四年 前記二年前口四間奥二間
           三尺はあやまり五十五坪
     寛政十一年
  庫裏 宝永元年前口六間三尺奥六間三十二坪修理
     宝暦十一年・明治二十四年
  宝蔵(土蔵)文禄四年前二間奥三間六坪修理明治十
     年
  中門 天正三年一間一間半弐坪修理明治二十六年
  土蔵 享保十九年前口二間半奥行三間半修理宝暦十
     一年
  宝永七年(一七一〇)本堂内須弥檀新造
  文化七年(一八一〇)御拝葺替(檜皮葺)
  文政十一年(一八二八)屋根本堂の檜皮葺を桟瓦に
  変更
  明治二十四年庫裡客殿裏屋根破損修復
  大正十五年十二月降雪本堂裏破損修復
  昭和二年七月大修理完了
  昭和八年位牌堂建立棟梁石橋林蔵
  昭和三十年愛宕社再建請負人石橋林蔵
  昭和四十三年庫裡の台所茶の間改造請負人谷田部重
  田誠治
  昭和六十年寺族居間補修棟梁藤田善三
国宝制定以来、初めて本尊十一面観音像ならびに、勅筆の縁起が指定されたが、明治三十四年八月地方としての第一号であった。寺内に応仁二年銘の鉦、太鼓など打楽器の一部が残っている。これらは本堂落慶時の法会または勅使の送迎に用いられた。
羽賀寺では、明治六年学校制度が発足するまで寺子屋が開かれていた。改築前の古い板戸に学問所と書かれていた。
正徳四年、この年は行基の開基一千年記念に相当するので、時の住職再実上人は勅使を迎えて、開基より長らく秘仏とされていた本尊を開扉し、供養すること七五〇日間行われたという。これが奇縁となり、三三年ごと勅使を迎えての開扉法要が、明治二十四年まで行われた模様である。その後になって、地元の要望もあって、十七年毎に開扉するようになり現在に至っている。昭和二十五年および二十六年小浜市では国宝祭りが行われ、地元をあげての盛大な祭りであったが、何分戦後のこととて、道路関係バス運行面も思わしくなく、当分中止のやむなく、時期を待つこととなった。
今にして回顧すると、この二か年のおまつり行事は、将来のきずなをむすぶ、きっかけとなったことはたしかである。その後昭和四十七年国宝巡りが開始され、当寺は、一、二月を除き年中無休、JRバスは春の彼岸より十一月末まで無休、最近になって参詣者も増し、特に江古川橋の完成(平成二年)により、道路事情もよくなり、一段と増加した。特に県外客は六〇%と県内客よりはるかに多く、また外人客も二〇人ほどあり将来大いに期待される。
寺の機構について
この寺は寺院規則制度に従い総代四人、世話人四人を置く。昭和中期より選挙制で四年ごとに改選している。
現在の総代は四人である。
檀家は羽賀二五戸、次吉五戸、町部九戸である。年間の管理運営は従来、寺としての諸経費はすべて、山林を対象として総代が運営する寺の特別会計でまかなっていたが、観光発足以来、近年は本山への宗費、その他住職が分担するようになった。
年中行事
一月一日初祈祷、除夜の鐘 午後羽賀村内年始来寺
一月十八日観音講 観音菩薩の初縁日でお詣り、会食
一月二十一日大師講 羽賀村内の講員参詣、会食用意
一月十四日お日待講 戦前は一月、五月、九月の三回であったが、その後は一月、九月のみ、夜はお詣りあって、会食
二月三日 節分祈祷
二月十五日涅槃会 だんごをお供えして、大人および子どもたちのお詣り、花だんごの供養の日
五月八日 降誕会 甘茶のせったいを行う。
八月五日 村内総出 本堂および参道の除草、清掃奉仕の日、最近では適当な日曜にする。
八月八日 施食会供養 平成二年までは午前中に行ったが平成三年より午後三時より勤行
八月十七日観音様のおまつり、ご法楽の盆踊り 堂内では金剛流の御詠歌奉納
十二月下旬斎米よせ檀家よりの浄財を受け夕食を呈す。


『遠敷郡誌』
羽賀寺 眞言宗古義派金剛峰寺末なり、本尊は国賓十一面觀世音菩薩にして行基作と傳ふ、なほ国賓に陽成院天皇御宸筆後陽成院天皇御奥書羽賀寺縁起あり。
寺傳に曰く靈龜二年行基の草創なり、天暦元年洪水の爲め悉く埋没せしが、同二年淨藏貴所之を復興し眞言門茲に開くと、天暦三年寺田四町三反を賜ひ勅願所となる、其御綸旨目録今現存す、建久元年源頼朝三重の塔を建立し、國富庄に於て田地五町を寄附す、應永五年及び永享七年の兩度火災に罹り現存賓物の外悉く烏有に歸す、後花園天皇奥州安倍康季に再興を命じ給ひ、文安四年落成せし者即ち今の本堂と傳ふ、永正十一年尊傳法親王地頭武田元信等をして修覆せしめ給ひ、大永四年後柏原天皇先帝聖忌の爲めの御開帳に就き綸旨を賜ひ天文九年勅願所となり一國に重きをなし、武田信豊領国の時代に於て最勢力あり、天正六年寺領安堵の綸旨及び陽光院太上天皇(陽成天皇)勅筆の當山縁起を下し給ひしが爾来兵亂政變相次ぎ次第に荒廢せんとせしかば、文範四年後陽成天皇秋田城之介安倍實季に命じて堂宇を修造せしめ、慶長五年先帝勅筆の縁起に奥書を加へて一山の重きを加へ給ふ、京極氏酒井氏領國の間に於ても尊崇他に異る所あり、終始其格式を重んじ来れり。
 境内佛堂あり、本尊は十一面観世音なり。


羽賀寺住職とオバマ米大統領
2006年12月、「筑紫哲也のニュース23」の番組内の特集の中で、オバマ米大統領候補本人の口から「私が来日した際、成田の税関の職員が『私は福井の小浜市の出身だ』と言っていたO(そんなエピソードもあり、日本に親しみを持っている)」と語ったインタビューが流されていました。その放送を見た羽賀寺住職が、候補に手紙を出して御礼と交流を図ってはどうかと小浜市長にメールで提言し、それに答えた市長が手紙と若狭塗箸を贈り、「オバマ候補を応援している自治体がある」と話題になったのが2008年2月。あっという間に市民有志による「オバマ候補を勝手に応援する会」が立ち上がり、取材攻勢が始まりました。2009年の大統領就任式に際しては、羽賀寺本堂においてお祝いの会が行わ札「おばまガールズ」のフラダンスや小浜第九合唱団によるヘートーヴェン『第九交響曲』の演奏が披露され、小浜市内の10を超える寺社教会から、「平和の鐘」が打ち鳴らされました。



曹洞宗潜龍山玉泉寺

羽賀寺への参道の途中にある。
『国富郷土誌』
玉泉寺
羽賀寺参道左手の羽賀第七九号代谷口三五番地にあり、潜龍山と号し曹洞宗発心寺末で、本尊は十一面観世音菩薩を祀る。永正十六年(一五一九)「禅宗玉仙庵あり」と『若狭管内社寺由緒記』に出ているが、寺伝によると、享保三年(一七一八)発心七世放禅道光大和尚を請して、草庵を改築して開山と仰いだが、寛政七年(一七九五)類焼にかかり、中興恵勝大和尚が再建して、四一年間住した。『遠敷郡誌』によると、文政六年(一八二三)再建されたとある。
明治十七年五月二十八日真宗恵勇大和尚を請して、法地開山として法地格寺となって現在に至っている。なお庫裡を新築、平成三年春完成した。
境内地面積 五九五平方メートル
檀徒数 一七戸 (戦時中は一九戸であった)
年中行事 一月二十三日 御日待
     二月 十五日 涅槃会
     七月 十二日 秋葉講
     八月二十三日 地蔵講
     八月二十四日 百万遍(区民病除祈祷)
     十一月下旬  地蔵講


『遠敷郡誌』
玉泉寺 曹洞宗發心寺末にして本尊は十一面観世音なり、同村羽賀字谷口に在り、享保二年發心寺道光創立し文政六年再建す。


天ケ城(てんがじょう)跡

羽賀・奈胡・西津との境をなす天ヶ城山(266・3メ-トル)山頂にある。南・北・東三方から集まる稜線の頂点で眺望はよく、北は敦賀半島、西は大飯郡の海岸部が見渡せる。若狭守護武田氏の本城がある後瀬山も眼前にあり、南側先端丸山には当城の出城茶磨山城がある。
城跡は南北に延びる稜線上で総延長250メートル、最大幅37メートル、北・南の2郭で構成される。南郭は最高所に櫓台を置き、次郭の東側は土塁で囲む。中段には小郭があって、最下段が最も広い平場となる。北郭は櫓台から西北に下降する馬背状の尾根を50メ-トル進んでやや上った平坦地につくられ、北・南の間は2条の空堀で遮断される。北郭から尾根筋を西北に下降した標高169メートルの地点にも砦があり、阿納尻・甲ヶ崎などの集落が眼下にみえ、北側防備の重要な場所であった。
城主は守護武田氏の守護代内藤昌廉の子孫と伝え、代代筑前守を名乗ったという。弘治3年(1557)頃に守護武田信豊の奉行人として筑前守勝高がおり、粟屋光若・南部膳行・山県秀政らと加判に列している。勝高の子と思われる勝行が最後の城主で、元亀元年(1570)の織田信長越前進攻に際し熊川まで信長を出迎え、丹羽長秀のもとで各地を転戦、同3年には同じ武田氏被官白井氏と羽賀村周辺で合戦している。朝倉氏没落後の天正3年(1575)7月には争った白井氏ともども上洛して信長のもとに集まり、8月には水軍として、越前の浦々の反信長派を攻めている。内藤氏は天正10年明智光秀の乱にくみした元若狭守護武田元明に従っていたため、所領を没収され、没落したという。
「若狭郡県志」「若狭国志」ともに3代相伝を記しており、当城の築城年代を逆算すると大永年中(1521-28)の筑前守元廉に求められよう。城の廃棄は天正12年丹羽長秀による。
『国富郷土誌』
天ケ城址   小浜市羽賀 天ヶ城
西津福谷と羽賀・奈胡との境界山頂に天ヶ城址がある。「若狭郡県志」に「西北は西津郷に、東南は奈胡羽賀二村に属する峻嶮な高山で、頂上から越前の境を眺めることができる。伝えて言うに源義政が此の山を居城とする、後年に内藤筑前守が城を築き、天ヶ城と名づける今も此の山を天ヶ城と呼ぶ」と記録している。
西津福谷と羽賀・奈胡との境をなす、ほぼ南北に伸びる稜線上に突出した海抜二六六㍍の山頂に所在している。総延長二五〇㍍、最大幅三七㍍を測り北・南の二郭で構成されるかなり大規模な山城である(以下、小浜市教育委員会刊『若狭の中世城館』による)。
「若狭郡県志」の「源義政」に関する文献資料は何も残されていないが、鎌倉時代に天ヶ城がすでに「城」として使われていたと推定される。
「若狭国志」の記録として内藤重政の項に「筑前守、西津荘及び甲ヶ崎・阿納尻・羽賀・奈胡・熊野・次吉等数村を領す、重政は武田元光の孫なり、内藤氏の家を継ぐ、内藤重政の子政高あり、太閤の時に滅ぶ」と記している。
これらの記録から天ヶ城は若狭守護職武田元光の孫にあたる内藤筑前守重政が天文年間(一五三二~五四)に城を築いたと思われる。
また「若狭郡県志」の「天ヶ城跡」の項に「西津郷・福谷村の山頂に城跡あり、伝えて三位中将源義昌の拠る城なり、中世に内藤筑前守ここに城を築き天ヶ城と名ずく、山の名を今も天ヶ城と呼ぶ、頂上に七~八か所平地あり館跡なり、筑前守は武田元光の家臣で勇者なり、西津郷甲ヶ崎・阿納尻・羽賀・奈胡・熊野・次吉を領す。其の子勝行も筑前守を称する武田氏の家臣でこの城を守る。
上中郡加茂村の城主白井民部丞が勝行の領地を奪わんとして時々に攻め来りて戦う、ある日羽賀村の北で対戦の折り西川久助が戦場にて討死する、勝行は久助の子徳千代に忠誠を賞して感状を与えた」とある。「今度、白井の兵が羽賀村に攻め来た折り、西川久助は無類の働をして、鎗疵を受けて死去する、その忠節は過分である、よって名主職に加え久助の田畠山林や屋敷を徳千代に与える」とあり、感状は元亀三年(一五七二)十二月十九日の日付で発行されている。
内藤氏は、若狭守護職となった武田信栄に従って安芸の国(広島県)から若狭に入ったと思われ、守護代に名を連ね武田氏の家臣の中では大きな勢力を持っていた。天ヶ城主として文献に残るのは、重政・昌廉・政高・勝高・勝行であるが、単に同族で父子の血縁関係は明確にできない。
いずれにしても、戦国動乱のなかで若狭守護職武田氏の譜代の重臣として名を連ねており、武田氏の領国支配か弱体となる時期に天ヶ城に拠って若狭の支配に乗り出し、太良庄の城主山縣民部丞政秀と争い、山懸氏の滅亡の後は加茂城主の白井民部丞勝胤と戦うなど、勢力の拡大に活躍した。
天正三年(一五七五)七月に、織田信長の越前・朝倉義景の討伐に内藤筑前守勝行が参加したことが『信長公記』に記載されているが「本能寺の変」で明智光秀に味方したことで内藤勝行の所領は没収され豊臣秀吉の家臣・丹羽長秀によって天ヶ城は破却された。また伝承では、若狭の国主となった丹羽長秀と尾崎の円照寺で和睦の後、帰途西津の松原で暗殺された(赤見貞・天ヶ城址)ともされている。



《交通》


《産業》


《姓氏・人物》
考古学者 上田三平
氏は羽賀の生まれ。羽賀姫神社に案内板がある。
考古学者 上田三平
 1881年(明治14)羽賀で生まれた三平は、1904年(明治37)福井師範学校を卒業し、小浜高等小学校、福井師範付属小学校に勤務。さらに文検地理科に合格して福井師範学校の教諭となりました。1914年(大正3)県の委嘱によって内藤湖南博士の県内史跡調査に随行。1917年(大正6)には、福井県史跡勝地常任委員を命ぜられ、『越前及若狭地方の史蹟』を刊行しました。 1921年(大正10)には石川県、1924年(大正13)には奈良県の史跡調査に従事し、平城宮址の発掘調査や法隆寺の出土瓦の研究などを行いました。 1927年(昭和2)からは内務省の史蹟調査の嘱託員をされ、『日本薬園史の研究』を刊行、戦前の登呂遺跡発掘も指揮しました。小浜市内に国史跡の指定が多いのは氏の功績であります。1950(昭和25)69歳で横浜において亡くなりました。

青井の小浜公園にも碑がある。

上田三平先生を偲ぶ碑
 上田三平先生は、明治十四年三月十五日小浜市羽賀の里に生れた。苦学力行、福井師範を卒業後は約十三年間教鞭をとったが、大正六年五月から史蹟名勝天然記念物調査の新しい道に確乎たる歩みを進めることになった。
 先づ福井県、次に石川県、奈良県と基点を移動していったが、内務省に入るにおよんで足跡は全国に刻まれた。その輝かしい業蹟は若狭の史蹟調査、法隆寺出土古瓦の研究、静岡の登呂遺跡発掘、九州の神篭石の総括調査、薬園史の研究など枚挙に遑がない。
 戦後もそのこう大な研究圈を更に拡げ深められていたが、昭和二十五年十二月十九日横浜市で七十才の生涯をとじられた。
 しかし先生の孜々としてたゆまぬ研究は、今も燦として輝きなお私共の先頭に立って旗を振り続けている。
 同志相寄り先生の偉業を畏敬し、またその遺徳を慕ってここに碑を建てた。     
昭和四十七年春         上田三平先生顕彰会



羽賀の主な歴史記録


『国富郷土誌』
羽賀
一 羽賀の歴史
国富平野の北西に当たり、天ヶ城東南山裾に位置する。霊亀二年(七一六)天ヶ城山に鳳凰が飛来し、二枚の羽根を残したため朝廷に献上し、これを見た行基(高僧)が奇瑞のあらわれとして一寺を建立し、鳳聚山羽賀寺と命名したことによるという。霊鳥は国を富ますとの伝承から国富と称したとも伝えられる(「羽賀寺縁起」)。
天暦三年に勧請されたという、羽賀姫大明神もあり、羽賀寺の門前村としての要素が強く、地名も羽賀寺に由来する。羽賀姫神社は、祭神「下照姫命」旧村社で近世
までは、羽賀姫明神と称し『羽賀寺年中行事』に「羽賀村羽賀姫大明神宮、本地十一面観音也、天暦三酉己年中、羽賀寺時之院主勧請す」とあり、羽賀寺の鎮守とし
て勧請された。歴代の羽賀寺院主が別当職を兼ね、正月の朝拝、一月十一日には大般若経の転読もしている(「同書」)。
羽賀寺は、天暦元年(九四七)八月下旬の大洪水により、天ヶ城山に大山崩れがあり、本堂以下各寺坊すべて埋没した。翌年、雲居(うんご)寺(跡地は現京都市東山区)の僧浄藏が夢のお告げを受けて当地に来たり。現在の遠敷の検見坂(気見坂)まで来た時、羽賀の方角に御光が見え、埋れていた本尊を掘り出し、村上天皇の勅により再興して勅願所となり、同四年寺領四町三反が寄進されたという(「羽賀寺縁起」)。
「若狭守護代記」には、「源頼朝公若狭国遠敷郡国富荘羽賀寺ノ霊勝タルク聞召シテ、三重ノ塔ヲ建立シ玉ヒ国富荘ニ於テ田五町ヲ寄付シ玉フ」とある。元弘元年十月二十日(一三三一)羽賀寺に寄進された地のうち「湯屋山」は、村域南の小字湯ノ山に、また、北限の「文津原谷」も小字文殊原に比定される(「羽賀寺文書」)。
元弘の乱以後は、兵乱で大破したが修理も思うにまかせず、延文四年(一三五九)に沙弥朝仏が、細川清氏の助力で修造落慶した堂舎も、応永五年(一三九八)には再び焼失した。
永享七年(一四三五)三月二十七日には、観音堂が焼失し、仮草庵に尊像を安置したが、後陽成天皇勅筆「羽賀寺縁起」に永享八年四月奥州の名族安倍康季が、時の将軍の命を受け、莫大な費用と八年の歳月をかけて本堂を再興し、文安四年(一四四七)十一月十八日本尊を安置したとある。
中世末期、村民は西津を本拠とした武田氏被官、天ヶ城主内藤築前守勝行の与力として戦場に出たらしく、元亀三年十二月、羽賀村で加茂城主白井勝胤との合戦があり、戦死した西川久介の戦功を賞して、子の徳千代に名主職などを安堵した勝行の文書がある(「西川家文書」)。
「若狭守護代記」によれば、その後、若狭守護となった武田氏一族の庇護も受け、永正十一年(一五一四)には、武田元信が堂舎の大修造をしている。七代信豊は天文九年(一五四〇)武田氏の祈願所と定め寺領、諸堂舎僧職、別当職なども安堵し禁制を定めた(羽賀寺文書)。信豊は、永禄元年(一五五八)羽賀寺僧院の池ノ坊に祈願を命じ目的を達すると、同四年同坊に多聞院の名称を与えている(同年四月五日付「武田紹真書状」同文書)。武田氏滅亡後は、いったん織田信長により寺領が没収されたが、再び安堵された(天正六年(一五七八)丹羽長秀書状)。
安倍康季八代目の子孫、秋田実季は先祖の因縁により、尊猷法親王の請で文禄二年(一五九三)堂舎の修復に着手し、慶長六年(一六〇一)に完成したが、材木は秋田から三国(現坂井郡三国町)、小浜湊の船で運ばれている(同年八月一日付「秋田実季書状」同文書)。羽賀寺への寄進は、その子俊季より毎年送られたが、奥州三春に転封されてからは、毎年一五両に減った(羽賀寺文書)。当寺所蔵の実季の書状は、羽賀寺修復に関するものや、伊勢朝熊へ追放後のものなど三〇余通あり、戦国武将の生々しい姿が知られる。一方、丹羽長秀以降、浅野、木下、京極、酒井氏と替わるが、歴代藩主は禁制状を発給し、京極氏は一二石、酒井氏は九石二斗余の合力米を与えている。
〔羽賀寺山門〕
寛永十四年(一六三七)徳川三代将軍、家光公が武運長久と天下泰平を祈願するため、藩主酒井忠勝に命じ銭百貫文を下賜し、十三年の歳月をかけて建立された。形式は、京都嵯峨の天龍寺山門を模倣したといわれ、平面積二四坪二階建、総欅造りで北陸有数の建造物といわれた。また、左右に安置されていた仁王像は、背丈一〇尺余の立派な姿で、仏師運慶の作といわれていた。
〔大正十三年の大火〕
当時四十余日の旱天が続き井戸水まで不足するような時、七月十三日午後三時ごろ、民家より出火し、村内の消防組を始め、隣接町村の消防の人たちも消火につとめたが、何分水不足の上、小型の腕用ポンプよりない時代で消火も思うに任せず、一〇棟余りの民家を焼き、さらに、国宝級の羽賀寺山門も類焼した。損害額は、その当時、一五万円とも二〇万円ともいわれた(当時発行の新
聞記事による)。かつては、寺坊一八を数え、南北朝期には今富名竹原天満宮の供僧職所職の進退も手中にして、大勢力を保持していたと思われるが、今は本堂一宇を残すのみである。



羽賀の伝説


『越前若狭の伝説』
羽賀寺 (一)           (羽  賀)
 霊亀二年(七一六)春二月神鳥が来てこの山の頂にとまり、飛び上がったり、また下ったりした。羽毛は五色であり、鳴く声は音楽のようで、聞く者はこれに感じ、世の欲を忘れた。鳥は三日にして天に去った。人が山へ登ってみると、その羽毛か二枚残っていた。その色は煉紫金のようで、その赤さはたとえようかない。
 時の若狭国目代(もくだい)はこれを朝廷に献じた。天皇はこれを左右の官に示したか、だれもその名を知る者がなかった。よって行基菩薩(ぎょうきぼさつ)に勅問した。行基は、「これはほうおう(鳳凰)の翼の羽である。ほうおつが世に出るのは、めでたいことである。天下太平のしるしである。ほうおうの降りる所には必ず玉がある。」と答えた。行基はこの地に来たり、地下三尺を掘って、一つの玉を得、天皇に献じた。
 ここにおいて天皇は、羽毛を賀し、福を祈って、この地に寺を創立し、鳳聚(ほうしゅう)山羽賀寺と称した。行基は、天皇の身長と等身の十一面観音を刻んで安置した。また熊野証誠殿の五所の神を勧請(かんじょう)して、寺の鎮護とした。ほうおうの跡にこの神を祭るのは、むかし地神かマガダ国から来て霊鳥を賀したがらである。また十一面観音をあがめるのは、この観音の本誓は五所の神の内証に通ずるからである。
 寺院が完成し、勅語があった。「若狭国のほうおうの跡羽賀の地は、本迹(ほんじゃく、本仏の観音と地神の五所)を合せ祭り、まことに喜ばしい。富国を祈願して、今から荘(しょう)の名を国富(くにとみ)と名づける。」
 天暦元年(九四七)八月青竜が谷を出て海に入り、そのため大雨が降って、山がくずれ谷を埋め、寺院か泥の中に没した。時の下司はこれを朝廷に報告した。天皇は深く心配したが、復旧できなかった。しかるに翌二年、雲居寺の浄蔵(京都の著名な高僧)はある夜夢想のうちに、人かあってお告げを受けた。「若狭に羽賀という霊地がある。山がくずれ堂閣か没して、廃寺になって久しい。お前は行ってこれを興し、世のために福を勧めよ。」
 よって浄蔵はこの山を尋ねて旅に出た。遠敷に来たり、丘に昇って望見するに、瑞気(めでたい気)が立ち昇って糸を引くようである。浄蔵はその地に至り、地を掘って泥の中から尊像を得た。今気見(けみ)坂といっている所は浄蔵が気を見た所であり、瑞気(ずいき)越えといっている所は。瑞気の起った所である。
 浄蔵は、このことを天聞に達し、勅願の寺を復旧することを請うた。天皇は大いに感じられ、勅して工事を始められた。三年間の国税を寄付して工事費とし、寺田として一万六千五百歩の寺田を賜わった。これより浄蔵の教を受け、真言宗となった。  (羽賀寺縁起)

羽賀寺 (二)           (羽  賀)
 むかし秋田城主が病気になり、いろいろ看病したが、どうしても良くならなかった。そのとき夢のお告げがあり、若狭国羽賀の観音さまが土にうずもれているから、それを堀り出して、おまつりすれば病気はなおるといった。
 さっそく使いを出し、家来が羽賀近くの検見坂(けみざか)まできて、羽賀寺の方をながめると、羽賀の川下に光がさしているのでかけつけて堀って見ると、観音さんを掘りあてることかできた。このときあまり急いだので、左肩にくわの傷かついたという。  (福井県の伝説)

 いまも秋田城介(じようのすけ)の墓が羽賀寺にある。 (若狭郡県志)


コウノトリ             (羽 賀)
 小浜市羽賀(はが)山に、昔から大きな鳥が住んでいた。地元の人は、ツルともホウオウともいっていた。霊亀年間(七一六ごろ)のこと、空から落ちてきた珍しい鳥の羽を村人が見つけ、元正天皇に献上したところ、天皇はよろこんで僧行基(ぎようき)に命じて一寺を建てさせ、山の名もその鳥にちなんで鳳衆山(ほうしゅうざん)と号した。
 これからその鳥の生息か続いていたが、長い間にしだいに数がへり、昭和になり三つがいから二つがいを残すのみとなった。この大きな鳥が国の特別天然念物のコウノトリである。昭和四十一年一つかいだけとなり、一羽か農薬のため死んだあと、のこり一羽も国富の山から姿を消してしまった。   (わかさ小浜の文化財)

 羽賀寺に、ツルの墓といわれている石塔がある。これはおそらくコウノトリの墓であろう。      (小畑昭八郎)


天狗の爪           (羽 賀)
 むかし羽賀寺の住職と天狗(てんぐ)とか碁の勝負をして、負けた者か指しっぺいを受けることにした。天狗が勝ったので、住職は碁盤の上に手をのせ、天狗のしっぺいを受けろことになった。しかし住職は天狗の力を恐れて、急に手を引いたので、天狗は碁盤を強くたたき、その爪か深く碁盤にくいこんだ。天狗の爪跡のついた碁盤は、今も寺の宅物として保存されている。また、そのとき折れた三センチばかりの爪も、きり(桐)の箱に入れて宝物になっている。    (福井県の伝説)





羽賀の小字一覧


羽賀  北河原 小谷 聖谷 上聖谷 丸谷 谷口 谷 八ツ石 古河 殿田 上窪瀬 下窪瀬 先替 猿頭 硲古 金島 中ノ田 不処 向石山 中低 上石橋 上草木 木橋 下水坪 上水坪 色田 阿納田 丁一 栩鼻 下栩鼻 鉾立 下草木 持田 綾田 石高 上昇山+斥 下昇山+斥 七反坪 八幡田 無明田 水通 山腰 鳥越 隠谷 二ノ谷 一ノ谷 西福寺 碁石山 櫟谷 鼠鼻 瓜田 岩本 小井根 貞八反坪 口八反坪 塩堺 二ノ坪 三ノ坪 倉作 下り丁 小橋 石崎 杉置 犀ノ谷 湯ノ山 赤兀 石堂 南谷 文殊原 堂ノ奥 田中口 下ケ市 田中 弥宣山 瓜生谷奥 瓜生谷口 代谷 経ノ尾 代谷口 羽賀谷 水谷 門前 徳蔵坊 池ノ谷 内角 山崎 長宇佐 横道 八ノ坪 七ノ坪 五ノ坪 東坪 上東坪 針木本 平田 熊崎 三反田 柿本 千保ノ下 小野 小野山

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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