丹後の地名 若狭版

若狭

平野(ひらの)
福井県小浜市平野


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福井県小浜市平野

福井県遠敷郡松永村平野

平野の概要




《平野の概要》
小浜市の東の端で上中町に接する、南は伊曽畑山。北川左岸地域。稲作農業を営む兼業農家が多い。伊曽畑山すそを北西から南東に走る国道27号の北を東西に走る丹後街道沿いに集中する。中央部を東西に走るJR小浜線から北側は水田地帯、南側は集落地帯に分けられる。
平野村は、戦国期に見える村。文明6年(1474)10月7日の明通寺寄進札に「願主平野 藤大夫」と見え。弘治2年(1556)6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状には「弍百廿八文 平野村分」と見える。
近世の平野村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」によれば、家数55・人数246。松永谷の村民は背持稼もしたらしく、寛政六年(一七九四)の背持掛人連判証文には、三分一村10人・四分一村9人・太興寺村5人・上野村2人・東市場村4人・池河内村1人が記され、当村は11人と最も多い。
明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年松永村の大字となる。
平野は、明治22年~現在の大字名。はじめ松永村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西3町余・南北2町余、戸数51、人口は男128・女131。


《平野の人口・世帯数》 169・66


《平野の主な社寺など》

白髭神社古墳

JR小浜線「新平野駅」の駅前広場から見える。中央の木立がそれである。
旧丹後街道から白鬚神社への参道がある。


60メートルの前方後円墳。市指定史跡。若狭地方の前方後円墳では最も西に位置すると言われてきた。(近頃ではその西にいくつかの前方後円墳だというものも見られる、一番西は高浜町の小和田になるが、どこまで正確かはよくわからない)。後円部の墳頂に白髪神社が鎮座する。後円部が東で(写真の右側)で主軸をほぼ東西に築造され、全長約58メートル(寸法は書によっていろいろ)、後円部は直径約38メートル、高さ約6メートル、前方部は幅約42メートル、高さ約4メートル。2段構築、古墳の東と北に周濠が認められ、現在は水田となっている。発掘調査は実施されず、外部施設は葺石は認められないが円筒埴輪片は存在する。築造年代は5世紀後半と推定されている。伊曽畑山北麓一帯には円墳17基・横穴4基の平野古墳群がある。
当墳の東方約500メートルには、上中町日笠上船塚・下船塚の国指定史跡前方後円墳がある。

『小浜市史』(図も)
白鬚神社古墳は、北川の左岸JR新平野駅の東南に近接して所在する。平野部に築造されており、後円部墳頂の神社から古墳の名称がっけられた。この古墳から東へ約四〇〇メートルの地点に国指定の上船塚・下船塚古墳があって、基本的にはこれらと同一系類をなすのかも知れない。古墳の主軸は東西で前方部は西に向く。全長約六〇メートル、後円部径三二メートル、前方部幅二四メートルが計測される。墳丘の高さは後円部で五・五メートル、前方部で四・七五メートルと若干前方部が低くなり、墳丘は二段築成となる。古墳は幅一〇~一五メートルの周濠を持ち、盾形の形態を示している。現在、殆んど埋められたが、部分的に観察できる個所も残る。後円部墳頂も神社創祀以来大きく抉られかなり破壊されている。表面上の観察で古墳の造成年代の手がかりとなる円筒埴輪も小破片ながら採集しているが内部主体は判明していない。しかし、埴輪や古墳の外形から五世紀代後半に属する中期古墳と推定される。


白鬚神社

『遠敷郡誌』
白髪神社 同村平野字下堂なる瓢形塚の上にあり、祭神は猿田彦命にして伏見帝寄附田二反ありしと傳ふ。

新羅系の人達の村でなかろうか、平野ではなくシラノであったかも知れない。古墳もそうなのかも知れない。


桜神社

境内社として山ノ神神社・田ノ神神社・天照大御神遥拝所がある。桜神社では大蛇を矢で射殺した祟りを静めるため、毎年3月8日蛇の目の的を射抜く神事が行われているという。
『遠敷郡誌』
櫻神社 村社にして同村平野字宮ノ下にあり、祭神は木花咲耶姫命にして元櫻明神又は幤の宮と稱し産神にして遠敷上下宮の末社たり、元正天皇靈龜元年九月亥日鎮座すと謂ふ、境内神社に田ノ神社祭神不詳、山神社祭神不詳、天照大神宮の三社あり。


曹洞宗平照山長福寺

国道27号沿いの上中町との境にある。承応3年(1654)開山され、本尊は地蔵菩薩で明通寺が別当となっている。また観音堂には昭和29年県文化財に指定された鎌倉期の木造十一面観音菩薩立像があるが、この仏像は兵火によって廃寺になった真言宗平照山吉祥寺の本尊という。境内にコンクリート製の宝物庫があるが、あの中か。
『遠敷郡誌』
長福寺 右同寺末にして本尊は地蔵菩薩なり、同村平野字中條に在り、元眞言宗なりしが承應三年正明寺第二世惠?今の寺を開く。


《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


平野の主な歴史記録




平野の伝説


『越前若狭の伝説』
桜神社                  (平  野)
 桜神社はまたの名を幣の宮という。和銅七年(七二三)若狭姫神が、神宮寺に降臨したころ、多田が岳に神鈴かなりひゞくのが聞こえて、十七日間なりやまなかった。このとき神宮寺の滑元(かつげん)和尚は、鈴の音を聞いて怪しみ、いく日か天の神に祈って空を見あげると、数条の白幡(はた)が天より下かってきた。みるとその幡のすそに神鈴がある。滑元和尚は不思議に思い体をのばして、幡を取ろうとしたか、手にすることができず、神鈴だけを収った。
幡は再び空中にまい上がり、どこがへ消えてしまった。
 その後、平野の山の天徳の峰におりているのを、きこりか見つけて村人にみせた。村人は、とおといものと思い、宝殿を建てて、これを安置し、村の神さまとした。この幡の形が幣に似ていることから、幣の宮といい、平野とよぶようになった。   (松永村誌)

弓射の式         (平 野)
今は田地に変っているが、平野のさんまいのそばに大きなふちがあった。上野木から平野に嫁に来た女が、このふちに身を投げて蛇(じゃ)となった。その蛇(じゃ)は、矢で眼を射られた。  (野木村誌)

上野木の女が池河内によもぎ摘みに行き、帰りに平野を通って池に落ちた。女は大じゃと化し、頭に十二の角をはやして現われたので、村の人は弓で射殺した。しかしそのたたりを恐れて、毎年二月八日にじゃの目の的を作り、弓射の神事を行なう。  (松永村誌)

毎年二月十日に行なわれる小浜市平野桜神社の例祭に蛇の目弓矢の神事かある。むかし野木村上野木にお光という美しい娘がいて、平野村へよもぎをつみにきたところが、あやまって泥沼へ落ちた。その娘か大蛇になって岩上の方向へ逃げていくのを、村人が見つけて、弓矢を持ってこれを迫いかけ、山上で蛇の目を射止めたが、死んだ蛇はまた元のお光のむくろに変っていたので。驚いた村人たちはその霊を桜神社に祭った。
 この神事はそれから始まったといい、神社の境内に蛇の目の的を作ってそれを弓矢で射止めてその年の吉凶を占うことになっている。   (若狭の伝説)




平野の小字一覧


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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