小浜広峰(ひろみね)
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福井県小浜市小浜広峰 福井県遠敷郡小浜町小浜広峰 |
小浜広峰の概要《小浜広峰の概要》 いずみ町商店街からクッキングスクールのあるあたり。 旧城下の小浜24区の各町名はいずれも有名神社名から名付けたといわれ、広峰は兵庫県の広峰山にある広峰神社にちなんだものかという。 広峰町は、明治7~22年の町名。小浜町のうち。明治7年区割改定により和泉町と川縁町・松寺小路の各一部が合併して成立。合併時の戸数94。明治9年南川河口改修工事により、南川は当町の東から広峰神社の東に流れを変えた。同22年小浜町の大字となる。 広峰は、明治22年~現在の大字名。小浜を冠称。はじめ小浜町、昭和26年からは小浜市の大字。毎年9月14 ・ 15日に行われる八幡神社祭礼放生会には、隔年ごとに三韓征伐の練子を奉納していたが、第2次大戦後は大太鼓の奉納だけとなった。旧和泉町は現在も泉町の名で呼ばれている。 《小浜広峰の人口・世帯数》 153・56 《小浜広峰の主な社寺など》 真宗大谷派妙玄寺 妙玄寺境内には同寺住職で江戸末期の国文法学者東条義門の顕彰碑や案内板がたつ。 『遠敷郡誌』 妙玄寺 眞宗大谷派にして同所に在り、本尊は阿彌陀如来にして寛永二年酒井忠利公母明賢院武蔵川越に創立し、寛永十一年酒井家轉封の後今の所に移す、國學者東條義門は此寺の出にして其墓を存す。 『小浜町誌』 妙玄寺 小濱川縁ニ在リ。一向宗ニシテ東本願寺ノ流義ナリ。始メ武蔵國入間郡川越ニアリ。妙玄尼公大檀越タリ。尼公ハ石川右近正綱ノ女ニシテ、酒井雅楽助正親公ニ嫁ス。忠利公ノ母公忠勝公ノ祖母公ナリ。生前浄土真宗ニ帰依シ、剃髪シテ妙玄卜号シ、元和元年寺ヲ川越城中ニ創建ス。妙玄寺是レナリ。参河國東條良興寺三世教傳聘ニ應シテ第一世ノ住持タリ。尼公ハ寛永二年六月川越ニ於テ卒去、春秋九十有六、貞室妙玄大禅定尼ト号ス。同十一年忠勝公、若狭国主タルニ及ヒ同年十一月之ヲ小濱ニ移ス。 国語学者 東條義門 Tojyo Gimon the Japanese classical scholar who made the foundation of Japanese grammar 1786年(天明6)妙玄寺の5世伝瑞の末子として生まれた義門は、1799年(寛政11)願蔵寺の養子になり、義父の跡を受けて住職となりました。が、1807年(文化4)住職である兄の実伝が亡くなったため、この妙玄寺の住職となり霊伝と名を改めました。本居宣長や春庭の国語研究に関心をもち、詳細な文法の解明に努めました。著書『男信(まなしな)』では、漢字音の韻尾にn音・m音の区別があることを考証し、『山口栞』では動詞・形容詞・助動詞の活用語に大きな業績を残し、本居宣長らの研究を継承・発展させ、江戸時代随一の国語学者と言われました。1843年(天宝14)に亡くなりました。境内に顕彰碑があります。 『遠敷郡志』 東條義門 天明六年七月七日小濱に生る、父は東本願寺末妙玄寺五世の住持東條傳瑞にして母は名田庄光久寺惠元の女なり、九歳にして父を喪ひ幼にして丹後國田邊願藏寺に養子となり、名を悦淨と改む、少時より學を好み四方に良師を求めて切磋倦まず、特に本願寺の碩學靈曜師に學ぶ、寺を義子智道に讓り、文化四年七月實兄實傳歿して後妙玄寺の住職となり靈傳と號す、群籍を渉猟し殊に國學古典に通じ本居宣長の學風を祖述し春庭高尚其他多くの學者と交遊し、言葉の八衢疑問一巻、活語指南一巻、指出廼磯一巻、玉の緒繰分五巻、活語雑話三巻、山口栞三巻、奈萬之奈三巻、活語指南二巻、活語餘編三巻、尊號眞像銘文講説、御文講説、袖濡之日記等三十八部の著書あり。天保十四年藤井高尚の遺嘱に依り、園著古今集新釋を校訂せん爲め備中に到る歸途病に罹り、八月十五日小濱に歿す行年五十八、大正十年十一月十五日正五位を贈らる。 田辺願蔵寺は今はない。明28、宮崎県都城市に移転している。堀上にあったそうで、墓石などは隣の瑞光寺に移されたという。 『丹生の研究』 いまは私なりの説明を書いておく。諸国の地名を好字2字に改める風習は、もちろん奈良期のころから、或はもっと遡って慣用されていたようで、このことは本居宜長の「地名字音転用例」にも触れてある。宣長はその用例を検討し、3音の地名を漢字2字で表示する場合に、信濃・信太・信夫・因幡・讃岐・難波などのように,首字のもつ撥音がナ行の表示に転用されているという一定の法則を見出した。また宣長より半世紀後の東条義門(また妙玄寺義門)は「奈万之奈(男信)」(三木幸信篇「義門研究資料集成」上巻・昭和41年)を著わして、地名の首字のもつ撥音がnならばナ行の表示に、mならばマ行に用いられたことを明かにした。これは漢字表記による地名の読解にこのうえない重要な原則として承認されている。まして我国の地名には3音のものが多いから、この本居~東条(或は宣長~義門)方式き実に利用価値が多い。ここに問題となっている遠敷もまた“乎尓布”の3音を2字で表記したものであるから、当然この方式によって、遠宇の音尾のnが“に”に転用されたものとして首肯できよう。 しかし、よく調べてみると,宜長~義門方式はけっして全部あてはまる絶対のものとはいえない。わざわざ皮肉に近江・遠江、葛上・葛下、城上・城下、上毛・下毛、上野・下野、などの国郡名をとりあげなくても,但馬(多遅摩・田道間),播磨(針間),美作などは中間の1音が完全に脱落しているではないか。… 『小浜市史』 東條義門(法名霊伝)は、国語学に多くの業績を残した人物である。天明六年七月七日に浄土真宗妙玄寺の五世伝瑞の末子として生まれ、寛政十一年(一七九九)丹後田辺の願蔵寺に養子として入り、義父の跡を受けてその住職となるが、文化四年養子とした智道に職を譲り、みずからは尾張養念寺の霊曜の元に遊学した。しかしその年兄の実伝が死去したため妙玄寺に帰り住職となり、天保十四年(一八四三)八月十五日、五八歳で死去するまで小浜を居とした。 義門は早くから国語学ことに文法に関心をもっていたが、本格的に研究をはじめたのは小浜に戻ってからのようである。義門の最初の著作と思われる「揆韻仮字考」が成稿したのが、小浜に帰った翌年の文化五年のことである。文化八年には本居宣長の長男で国学者であった春庭の「詞八衢」を批判した「言葉の八衢疑問」を著し、それを春庭に贈っている。その後も多くの書を著すが、なかでも天保四年に成稿し、天保七年に刊行された動詞・形容詞・助動詞の活用形を論じた「山口栞」は今も名著とされているものである。こうした研究にょって義門が明らかにしたことのなかには、活用のあるなしで体言・用言に分けること、未然・連用・截断(現在は終止)・連帯・已然・希求(命令)などの活用形の名称、さらに形容詞にク活用とシク活用のあることなどがあり、それらは現代の文法の基礎となっている。 真宗大谷派証明寺 『遠敷郡誌』 證明寺 眞宗大谷派にして同所に在り、本尊は阿彌陀如来にして弘治二年越前證誠寺第九代善壽の長男淨善の創立と傳ふ。 『小浜町誌』 證明寺 願慶寺ノ西方ニ在リ。東本願寺ノ末流ナリ。相傳フ、古越前國横越證誠寺九代善寿長男浄善、弘治二年二月創立ス。本尊ハ無量壽佛ナリ。本寺掲クル所ノ鳧鐘ハ慶長十九年、京極高次ノ妾ノ寄附スル所ナリト云フ。 浄土真宗本願寺派願慶寺 『小浜町誌』 願慶寺 小濱川縁妙玄寺ノ西隣ニ在リ。西本願寺流義ノー向宗ナリ。文明年中本願寺連如上人ノ近臣下間安藝法眼ノ男、茲ニ來ッテー寺ヲ創建ス、號シテ願慶寺ト曰フ。本尊阿彌陀ノ號ハ蓮如ノ筆跡ナリ。其後賞如上人、阿彌陀ノ画像ヲ寄附シ、准如上人モ亦聖徳太子・親鷲上人及七高僧等ノ画影ヲ附與ス。開僧ヲ祐西ト曰フ。傳言フ昔時武田信豊ヨリ松寺小路ニ於テ、阿彌陀屋敷ヲ給シ後来今ノ所ニ移レリ いずみ町商店街 鯖街道の起点となった地。再開発ですっかり様変わりのいずみ町商店街。 カラータイルの通りが昔の商店街通りで、この両側にビッシリと各種商店が建ち並んでいて、上にはアーケードがあった。それらはみなきれいに消えてしまった。 一気に5倍くらい拡幅するようである。浜焼き鯖とか海産物を扱う商店が軒を連ねていた昔の商店は奥ヘ引っ込めて一部再開店をしている様子。祈繁昌。 鯖街道Museum 一角にMuseumがある。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 小浜広峰の主な歴史記録小浜広峰の伝説小浜広峰の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『小浜市史』各巻 その他たくさん |
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