本保(ほんぼ)
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福井県小浜市本保 福井県遠敷郡宮川村本保 |
本保の概要《本保の概要》 宮川の一番西の奥で、北から奥本保、中本保、口本保に分かれる。中央部を本保川が南東流する。地名の由来は、中世宮川保の本保であったことにちなむ。 本保は、戦国期に見える地名で、遠敷郡宮河保のうち。年月日未詳宮川保神田堂田段別書上に「壱反 本保八幡田九月十五日御供 分米六斗」とあり。また「宮河保本保大谷神仏田日記」ともある。天正15年10月20日付で浅野長吉条々が「〈宮川之内〉本保村」に宛てられている。 近世の本保村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」に、家数53・人数265。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年宮川村の大字となる。 近代の本保は、明治22年~現在の大字名。はじめ宮川村、昭和30年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西4町余・南北10町、戸数55,人口は男124 ・ 女127、学校1。 《本保の人口・世帯数》 150・43 《本保の主な社寺など》 大月神社 右に観音堂がある。 『みやがわの歴史』 大月神社 本保字堂本に鎮座。祭神は月読命(旧村社)。永延二年(九八八)源頼光が勧請したと伝えられます。堂ノ本の地は源頼光観月の地といわれ大月谷ともいいますが、頼光とのかかわりは考えられず何故頼光伝説が存在するのか明らかではありません。現在の本殿は昭和三年に改築されたものです。行事は氏子世帯主の会合を参会といい、年長順に二ヶ年宛祢宜をつとめます。氏子総代でもあり、神職を助け祭典の準備をし、神事その他一切を司ります。 神は汚れを嫌うところから祢宜家に死者が出た場合はただちに後人に引継ぐ習慣になっていましたが、近年では忌中期間だけ前任者が代行するように改められました。祢宜は他家の葬儀に行っても出棺前には帰えるなどの習慣は現在も守られています。年中行事を若干記しますと。 一月一日には氏子全員が神社へ参詣し直会を行い、そののち賽銭開きをします。三月七日は例祭。氏子のうち厄年にあたる者全員が厄被いを祈念し直会も盛大におこなわれます。農地改革以前には神田が三畝あって祢宜が耕作し、それを報酬にあてていました(中世では「壱反大月大明神御供田有次名之内分米五斗代泉岡」とある)。祢宜は例祭には赤飯二斗を蒸して奉納し、又酒四升を神前にお供えしましたが現在は途絶えています。 例祭・大祓・神送り・神迎へなどには順番に神事当番を勤め、参詣者は御飯だけ持参して直会に参加しました。昔から氏子の長男・次男は一五歳で元服しましたが(婿養子も同じ)長男は米一俵、次男は酒二升を供えることになっていました。このとき、烏帽子着の儀をおこない、さらに戸主となって宮座に列する大夫成(たゆうなり)の儀には米一俵と酒二升を供えたましたが、明治一五年頃からは烏帽子着の儀のみとなり、昭和四年には米一依も廃され酒のみとなりました。以上のような行事を完了して始めて参会の一員となることができ、神事に参列する資格が生じるのです。 『遠敷郡誌』 大月神社 村社にして同村本保字堂ノ本にあり、祭神は月讀命にして永延二年源頼光勧請すと傳ふ、近世大月大明神又は大月明神社と稱せり。 八幡神社 保中寺の左側に鎮座。 『みやがわの歴史』 八幡神社 本保区谷田に鎮座。祭神は応神天皇・毘売神・神后皇后(旧村社)。貞観六年(八六四)八月の勧請と伝えるが「延喜式」神名帳には載っていません。また、享禄五年(一五三二)の「神名帳写」(小野寺文書)にも記録はありません。「若狭国志」には源三位頼政が当社を敬信し、所持の弓箭を祠中に納めたとあります。このことについて伴信友は「文化四卯年七月、小浜において御城の御武器御覧の時、予お供にありて見るに、いとも古く雁俣の鏃あり、わたり一寸三分斗り、其の筥宮川八幡に所納、源頼政之鏃也、同所百姓之を上るとしるしたり」と補稿しており、矢は藩主に献上されたことが伺えます。中世末期には「壱反 本保八幡田九月十五日御供 分米六斗、小 同宮放生会田三十年巳来不作分米三斗、壱反 燈明田御修理田共 分米八斗、已上 又部次郎三良」と記され、九月一五日の祭礼、放生会などがおこなわれたことを知ることができます。現在の祭礼は八月一四日。 この外、山ノ口講・庚申講・行者講などの行事もおこなわれましたが、近年簡素化されひとまとめにして神事のあと社務所でおこなうようになりました。 『遠敷郡誌』 八幡神社 村社にして同村本保字谷田にあり、祭神は應神天皇、毘賣神、神功皇后にして貞觀六年八月勧請と傳ふ、近世八幡宮又は八幡社と稱せり。 曹洞宗長建山良継寺 県道ぶちにある。 『みやがわの歴史』 良継寺 本保の西側山裾に所在する曹洞宗の寺院。長建山と号し、本尊は釈迦如来。伝えによると天正一四年(一五八六)清水伊賀守良継(清水家文書)の創建といわれています。開山は龍泉寺三世大融寒徹となっていますが、同和尚は龍泉寺過去帳に宝永元年(一七〇四)の入寂とあって年代は合いません。一考を要します。(現住は名田庄村檀溪寺住職小堂宏道が兼務)。 『遠敷郡誌』 良繼寺 右同寺(曹洞宗龍泉寺)末にして本尊は釋迦如來なり、同村本保字寺町に在り、天正十四年源良繼建立す。 保中寺 中を清掃されていた人に「ここは保中寺ですか」と問うと「ここはお寺とちゃうで、お堂やで」とのこと「中寺とか言いませんか」と問うても「お堂や」と言うことであった。 地図でもナビでも「保中寺」とあるし、鐘楼があるし、十一面観音堂のようだし、『みやがわの歴史』中の写真と同じなので、ここが保中寺であろう。 もとは天台宗らしいという。明通寺が別当として所管した。宮川保の中心に所在するため保中寺と称したものであろうかという。かつては七堂伽藍を具備したと伝え、関係した地名も残るが、現在は無住で、地元民が観音堂と鐘楼を管理している。本尊の木造十一面観音立像(県指定文化財)は藤原前期の作と伝えるが、盗難にあい現在はないそう。 『みやがわの歴史』 保中寺(ほちゅうじ) 本保集落の南側山裾に所在しますが現宗派は不明です。明暦二年(一六五七)の棟札に「宮川保本保村普門山保中寺者、天台之明師天治元申辰歳来斯処開闢、十一面薩?之霊居也」とあって、かつては天台宗であった可能性を示唆しています。宮川保の中心的な寺院として存在したらしく、明通寺文書の左衛門尉宗信奉田地寄進状に「奉寄進 中寺 若狭国宮川保内免田事 合伍段大 右為末代興隆所令寄附也。早任先例之旨、恒例之勤一切不可有懈怠之儀。仍天長地久御祈祷等、可被致精減之由、依仰状如件。康暦元年(一三七五)八月日)とあり南北朝期には中寺といわれていました。しかし、室町時代の文明一六年(一四八四)頃には保中寺と呼ばれており(政藤宮川保中寺別当職安堵判物『明通寺文書』)、明通寺が別当として当寺を所管したことが伺えます。室町期を通して明通寺とかかわりを持ち「二反 中寺明通寺籠米 参石」の記録も残ります(宮川保神田堂段別書上「清水家文書」)。かつては七堂伽藍を具備したらしく、大門・堂ノ下・堂谷・堂谷脇などの地名が残ります。いつ衰退したのかわかりませんが現在は無住で区民が観音堂を管理しています。本尊十一面観音は平安後期の作(県指定)でしたが盗難に合っていまはありません。 賀羅岳に守護被官山県氏の山城跡 東谷城 奥本保東谷に山本鹿介の拠ったという東谷城跡がある。 『みやがわの歴史』 東谷城(とうやじょう)(本保城) 宮川谷の北西最奥に位置する奥本保小字東谷に主嶺から南に仲びる枝峰があり、やや突出した海抜一〇四、七mの山頂に一郭をつくり、それより尾根筋を北へ約二〇〇m上った二三、四mの主嶺上にも一郭を配している。下段の城に対しての詰城ともいうべきものか。ここでは便宜上、下の城、上の城として記述をします。 下の城は令長約五〇m、最大幅二〇mの長方形となっており、四方は鋭角に調整されています。左の図でみられる通り、中心部より後方に土盛りをした方形の区城かあって櫓台の存在を伺わせています。 この郭の四面先端には小規模ながら空堀をもうけて防備を固めており、西南の両先端には空堀の先に小郭を付属させています。後方を除く三面は急傾斜面を形成しますが、ここからの視界はさほど良好とはいえません。 上の城はきわめて小さく果して詰の城かどうか疑問は残りますが、むしろ見張台と考えた方がよいかも知れません。ここからは宮川谷を望むことができ眺望はよい。城郭は三段つくられていますが、四囲ははっきりしません。ただ、北側には幅広い空堀を設けており、山城の遺構であることに相違ありません。地元では城跡と仏承され、所有者の東谷氏が先端郭の櫓台に小祠をまつっています。城主については明らかでないが「若狭郡県志」に山本氏城址として「上中郡本保村に城址あり、伝えにいう山本鹿介の居る所なり」とあります。 山本鹿介は『若狭郡県志』以外に出典はないが、山本中務なる人物の存在したことは天正一一年(一五八三)~慶長四年(一五九九)にいたる間におこなわれた「丹後細川能番組」(仮称)によって知ることができます。この人物は明らかに若狭の人で「能口伝之聞書」に「若狭衆、観世小次郎弟子、山本中務」さらに「妙庵手沢謡木」の識語いにも「若狭山本中務少輔重忠」「若狭住人山本中務入道宗覚」と記されています(中嶋利雄・松岡心平『丹後細川能番組』能学研究第八号所収)。 能番組の中で細川忠興のワキを勤めるなど能楽達者の人物であったらしい。細川家は宮川武田氏の縁故により旧武田氏被官をかなり抱えており、山本中務も天正元年(一五七三)頃若狭を没落、細川家へ仕官したと考えられます。若狭で山本を名乗る人物は本保にしか見当らず、おそらく山本鹿介或いはその子が細川家に仕官したと推測されるのです。本保東谷城主がこの山本氏に関連あるとしてもけっして矛盾しないでしょう。 《交通》 《産業》 《姓氏・人物》 本保の主な歴史記録本保の伝説『みやがわの歴史』 しょうぶの前 清水又六兼光(またろくかねみつ)は、江州(滋賀県)のある國主に仕えていた。又六の娘があまり美くしかったので、宮中に召し出され、菖蒲(しょうぶ)の前と呼ばれた。天皇が菖蒲の前ばかりをかわいがったので、ほかの女がねたみ、菖蒲の前はとうとう災いをうけ、矢代(やしろ)浦に流され、ついに殺されて、矢代観音にまつられた。 父の又六兼光は、娘の行方をたずねて、矢代浦のとなり村宮川へきて住んだ。この子孫の浦水洽良左衛門(じろざえもん)を笠(かさ)着ずの治良友衛門といった。むかし治良左衛門の栄えた時、村人は、治良左衛門の家の前にくると、着ていた笠を取って通りすぎたので、この名がついた。治良左衛門が死んだ時、国富村からも、葬式を見ようと、人びとが集まってきた。宮川と国富の境の所に、葬礼越えという所がある。この時についた名であるという。 また浦山と呼ぶところに、周囲六タートルばかりのヤブエッケイの大木があり、清水又六の首塚といわれている。 (平家物語) 本保の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『遠敷郡誌』 『小浜市史』各巻 その他たくさん |
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