丹後の地名 若狭版

若狭

深谷(ふかたに)
福井県小浜市深谷


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福井県小浜市深谷

福井県遠敷郡中名田村深谷

深谷の概要




《深谷の概要》
南川の右岸側の集落。国道162号が中央部を走る。地域の中心集落は谷口で北部に田茂谷、東は深谷の小集落がある。田茂谷のあたりは南川の先行谷だろうか、今は国道が通るが、深い谷合で、陸上交通の難所、昔は苦労したと思われる。口名田と中名田の境になる。深谷は南川に合流する深谷川沿いの山村集落。

深谷は、南北朝期から見える地名で、若狭国遠敷郡名田荘のうち。延文5年4月13日下村・田村および両村別納は花山院兼信から徳禅寺の徹翁義亨に「徹翁和尚塔頭料所」として寄進されたが、その田村内別納の地として和多田政所・河手とともに「深谷名」とあるのが初見。室町期に入って応永17年10月には泉涌寺領として見え諸公事・臨時課役・段銭・守護役が免除され、守護使の入部も停止されていたことが知られる。戦国期には弘治2年6月22日の明通寺鐘鋳勧進算用状に「百文 ふか谷」と見える。
近世の深谷村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。「雲浜鑑」によると家数66・人数401。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。同22年中名田村の大字となる。
深谷は、明治22年~現在の大字名。はじめ中名田村、昭和26年からは小浜市の大字。明治24年の幅員は東西4町余・南北9町余、戸数68、人口は男194 ・女191。

《深谷の人口・世帯数》 267・53


《深谷の主な社寺など》

日枝神社

リサイクルプラザの方へ少し入った道縁に鎮座。天台宗の寺院があったのであろうか。熊野神社とする地図もある、当社に合祀されているという。
『中名田誌』
日枝神社(深谷区)
祭神 大山咋神 祭日 三月五日、十月七日
 日枝神社の主神は大山咋神である。神代から比叡山に鎮座した地主神で、古代山岳信仰にその源を発する。
 本神社の総本社は、滋賀県大津市坂本町にある日吉大社(俗称山王権現)で、平安遷都後最澄が入山し、延暦寺を創建(弘化十四年(八二三))した際、比叡山の地主神大山咋神を移して、同寺の守護神としたのに始まる。
 ところで、谷田部村田谷寺(当時天台宗)の記録によれば承元三年(一二〇九)、重純阿闍梨という僧が、谷田部から教化にみえ、当地にあった西方寺(当時天台宗)の守護神として、大山咋神はじめ山王七神を勧請し山王宮(現日枝神社)を創建したという。天台宗の護法神として、神仏習合の形をとって発展した神社として極めて由緒ある神社である。
田谷寺の別当所 当神社は古くから、和多田村地蔵とともに田谷寺の別当所であった。そのことは延宝三乙卯歳(一六七五)十月二日の『谷田寺文書』に、「深谷村氏神山王、同村阿弥陀堂 号西方寺……右従往古当別当所ニ而、神事祭礼再興之開眼供養已下相勤申候。以上 谷田寺 頼運」と記され、宝暦九己卯歳(一七五九)の文書では、「元禄二年(一六八九)上下遷宮相勤、棟札之写御座候」と記されている。
山王宮(現日枝神社)再興 元禄二己巳年(一六八九)九月十日 『田谷寺文書』次のとおり。
 深谷村山王神躰再興ニ付キ内陣江納ル札ノ写
(略)
 右の文書は、当神社のご神体の由来と、当神社の態様を知る上に極めて貴重な資料といえる。すなわち僧重純が承元三年(一二〇九)、本神社を勧請し祭祀した山王七神がここで明らかにされているからである。地主神といわれる大山咋神と併せて一薬師如来、五観世音菩薩の七社が祭られたといえる。別当の谷田寺は中世において天台宗より真言宗に改宗したのであるが、それら密教の影響を受けて、本神社は明治に至るまで神仏習合の山王権現として崇拝されたのである。
境内末社
春日神社 祭神は武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神の四柱を祭っている。本社は、奈良市春日野町にある春日大社で藤原氏の氏神である。平安時代神仏習合思想とともに春日大明神の霊験や縁起が説かれ、都に近く、藤原氏にゆかりの深い当地に招致された。
広峰神社 祭神は素盞嗚命・奇稲田姫命・八王子であり、俗に山王といい、山城国祇園牛頭天王社が起源である。
山神神社 祭神は大山祇神である。山に対する自然崇拝から、古事記にある大山祗神を地の神として祭ったのである。この神礼も重純阿闍梨によって創建された古い神社である。
老杉の神木 神灯七七〇余年をかかぐる所、渓流深谷川の流れを前に、幾歳の光陰を重ねたことか一本の老杉あり、若狭一の巨木ともいう。神木として崇められている。
棟札は次のとおり。
(略)
(略)
(略)


『中名田村誌』
村社日枝神社(深谷区字深谷)
  祭神 大山咋神 祭日 九月七日
 由緒 伝承によると、承元三己巳年、元天台宗西方寺の鎮守として住僧重純阿闍梨が近江国から日吉山王大神を迎え祭って、鎮護国宗の祈願謹修をするようになってから幾多の変遷を経て、ついに格を村社に列し、深谷区の産土とあがめて祭日その他の神事を最もおごそかに勤めつつある。
境内末社
 春日神社  祭神 武甕槌尊、天児屋根命、外二神
  由緒 不詳
 広峯神社  祭神 素戔嗚命、奇稲田姫命、八王子
  由緒 不詳
境外末社
 山神神社  祭神 大山祗神  祭日 一月九日 十一月九日
  由緒
 奉勧請山神一座者承元三己巳年別当谷田寺重純敬白


『遠敷郡誌』
日枝神社 村社にして同村深谷字谷ノ下にあり、元山王又は山王宮社と稱し祭神は大山咋命なり、境内神社に春日神社・廣峰神社あり、何れも祭神不詳なり、熊野神社は明治四十二年字道より合祀す、祭神不詳なり。


曹洞宗深谷山法泉寺

『中名田誌』
法泉寺(曹洞宗興禅寺末)
本尊 十一面観世音菩薩
脇立 不動明王・毘沙門天
 本尊の十一面観世音菩薩は、奈良時代の末期、本寺院が華言律宗の西方寺として奥深谷の堂谷にあったころから祭られている。ところが享保二十年(一七三五)卯の洪水のために傷めつけられたため、新しい十一面観音菩薩を奉安し、古い仏像は大切に保管されるところとなった。
 脇立の不動明王は、大日如来の使者となり、真言行者を守護するものといわれる。一切の悪魔を降伏させるため化身して忿怒の身となったもの。毘沙門天は四天王の一人、北方の守護神で福徳富貴の神として祭られ、これまた忿怒の容姿である。
 本寺院はこのように本尊のほか不動明王・毘沙門天など、我が国最古形式の仏像を安置している。
 奈良末期から華言的律宗、平安中期から天台宗、室町時代(永禄二年一五五八)から真言宗、江戸時代(寛文八年一六六八)からは曹洞宗へと改宗。いわば当地域の仏教発展史の跡を色濃く残している。
 天台・真言の密教の修験道場として、渓谷幽遠の奥深谷を霊地として寺院が建立され、堂谷(現観音堂の地)から中平山(中央の台地)・火の谷(党谷の川向こう)・堂谷(故地)と、改宗あるいは災害ごとに移転しながらも、長年この深い谷奥にあったことも大きな特色といえる。
 本寺院の堂宇は大正八年十一月、谷口地籍に移転、現在に至っている。
住職(略)


『中名田村誌』
法泉寺(曹洞宗興禅寺末)
本尊 十一面観世音菩薩
脇立 不動明王、毘沙門天
開基 長忍有厳法師(華巌律宗)
   重純阿闍梨(天台宗)
   重怡法印(真言宗)
   天翔円至和尚(曹洞宗)
開山 黠外愚中和尚
鎮守 竜天護法善神菩薩
由緒 その昔、和州西方寺有厳法師が修行と教化にみえた折、人々は師に請い摂州中山寺の観世音菩薩をおがみ頂きたいとたのむと、師自ら十一面大士の尊像を彫り、孝安の堂宇を構え、西方寺と命名した。後にここを堂谷と呼ぶようになった。式により熊野大神を勧請して鎮守とした。これがすなわち華厳律宗である。年代は分かりにくいので、参考として有巌法師の系譜を載せる。

元久建永のころ、重純阿闍梨谷田部の里から修行、教化の際、西方寺の宗派を改め、承元三年護法神をその宗例にのっとり、山王七社を勧請し、護国の道場とした。この時天台宗となった。次いで永禄二年、谷円寺の重怡法印、西方寺を中平山に移したが雪に倒れた。そこでさらに火の谷に移した。ここは甘泉がわき出るとあって、寺号を法泉と改め、以後代々真言宗に属した。寛文八年、幕府の定めにより法泉寺は、深谷村の宗判を領した。この時興禅寺天瑞円至和尚が経営したことによってその門葉に加わり、曹洞宗に列した。そして享保二十乙卯年六月二十三日の大洪水で伽藍が流失したため、堂谷口の故地に再建、本尊は前のそれにならって京師の仏工山本茂助彫刻のものを奉安した。
 近年、寺格昇進の許可を得興禅寺前住職黠外愚中禅師を

開山始祖として伝法相続地の基礎を固めた。開山の法系は前掲の通りである。
境内仏宇
阿弥陀堂
 本尊 阿弥陀如来
 脇立 観音大士、毘沙門天
由緒 元徳二庚午年創立、谷田寺の主管で寛文八年以降は山王別当とす。宝暦五乙亥年九月九日再建入仏火があり、近年築造して今法泉寺に属す。


『遠敷郡誌』
法泉寺 曹洞宗興禪寺来にして本尊は薬師如来なり、中名田村田村深谷字堂谷口に在り、寛文八年興禪寺圓至和尚建立す。


薬師堂

国道162号沿い。
『中名田誌』
田茂谷の薬師堂
本尊 薬師瑠璃光如来
 延暦年間(七八二~八〇五)、大和の名僧延鎮上人がご巡行の際露宿された所を記念して、当薬師如来を勧請し建立したと伝える。
 以前は深谷第二号「堂の上」一四番、一五番の一の地籍に南川に向かって建てられていた。
 昭和二十八年九月二十五日の台風一三号による大洪水で、流失寸前まで浸水し、土砂が入り、堂は傾き大きな被害を受けた。しかし、本尊の薬師瑠璃光如来は信仰の厚かった森下種治の機転により辛うじて危機を逃れ、昭和二十九年三月、柳本勲の土地無傚提供をいただいて現在地に移転修築する。昭和五十七年十月、堂宇新築竣工、現在に至る。主管は法泉寺である。
 かつては、お盆がくると上下各地から若者が集まり、境内も狭しとばかり踊りが行われてにぎわった。太平洋戦争中は、戦地へ出征して行く幾多の将兵を、村長はじめ村人こぞって見送る場所でもあった。
 御詠歌 ありがたや 諸病をいやするりのつぼ
        ふしぎの恵み 頼もしきかな

『中名田村誌』
田茂谷薬師堂
本尊 薬師如来
祭日 彼岸の中日
由緒 不詳
伝説 当所は、千有余年の昔、名僧延鎮上人御通行の際、野宿されたところで、その後記念のため、薬師如来を勧請して祭ることになったといわれている。またいうことに、木尊薬師如来は僧空海の自刻仏だと。




《交通》


《産業》


《姓氏・人物》


深谷の主な歴史記録




深谷の伝説


『越前若狭の伝説』
怪力シイ       (深 谷)
 むかし奥深谷(ふかだん)に強力(ごうりき)の男かいた。年代も名前もわからないが、享保のころ(一七二〇ころ)の人と思われる。体は小さいが、筋肉か強くて堅くて、爪をたてても傷もつかなかった。だれいうとなく、この男をシイ(椎)とよび、本人もシイとよばれるのを喜んでいた。シイの実のように小さくて、堅い体をしていたので、この名がついた。
 むかし谷田部の道が急な坂道だったので、通る人は難儀していた。ふもとにある大きな石を運びあげて、頂上に休み場を作るとよいといいながら、その石が重くて、だれも動かす人かなかった。シイは、この話を聞いて、その石を背おい、いっ気に頂上まで運びあげて、休み場を作った。谷田部坂には、今もこの石があり、シイの力をしのぶことかできる。
 シイは、そま(杣)を職業としていた。山へ弁当を持って行くのをきらって、一度に多くの飯を食べて腹ごしらえをして、数日間山に入り、立ち働き、その間に仕上げたものを、ひとからげにして、背おって帰るので、その姿は小山が動いているようだった。
 当時、小浜八幡宮に例年奉納すもうがあり、方々からすもうの取り手が集まり、みなこの日の大関になろうとしていた。シイもそのひとりだった。シイが土俵にあがり、しこ(四股)をふみ始めると、ほかの者どもは、シイの力におそれて、取り組もうとせず、取り組まずして、勝ち名のりを受けた。
 ある時、牛に荷物をのせて、小浜へ行く途中、五十谷(いかだん)橋のまん中まできて、たまたまかごに乗った検見(けみ)の代官と出会ってしまった。シイは、橋の中間で代官にしかられたが、どうすることもできず、やむなく牛の四本の足をかかえて、橋のらんかんの外にさし出して代官を通した。代官は、その力に驚き、名前をたずねたので、シイと答えた。
 このことが、侍頭(がしら)の大森という人の耳にはいり、シイはまねかれて、その人の屋敷に出入した。一年間この屋敷で働いたが。ある時主人か、「もちをごちそうしてやろうと思うが、どれほど食べられるか。」とシイにたずねた。「一斗のもちを食べます。」とシイは答えた。
 それから日をあらためて、もちをよばれることになった。シイはまねかれて行く時、あらかじめ大根を雪道のところどころに埋めておいた。シイは主人の用意したもちを食いつくして、平気な顔をしていた。
 それからシイは、雪の中に隠しておいた大根を食べなから帰ったが、途中その大根かだれのしわざか、無くなっていた。シイは、このため体をこわして死んでしまった。     (中名田村誌)







深谷の小字一覧


深谷 平林 堂ノ上 奥ノ谷 面畑 堺谷 小左近 足河原下 足河原上 森ノ本 森ノ上 柳本 田口野 柳ノ上 由里詰 出口 下窪瀬 土井ノ内 新田端 上窪瀬 上ノ山 宮ノ下 石塔 二反田 堂谷口 森ノ下夕 曽根 湯田 風呂本 大左近 棚畑 田ノ上 糀谷 黒峯 面畑 堺谷 広道 保木 笠松 イヤノ谷 赤谷 道ノ木 火ノ谷 六畝谷 棚畑ケ 松尾 悪谷 山苅 歳越 芝橋 真谷 終歳 丈ケ谷 仏道 当谷 魚谷 小谷 水神谷 大左近 船ケ谷 殿奥 大将軍谷 山神谷 墓谷 宮谷 井根上 新田山 大瀬谷

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『福井県の地名』(平凡社)
『遠敷郡誌』
『小浜市史』各巻
その他たくさん



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